【番外編8】立花礼香と巡り来た春 6
「『礼香』と『礼香さん』と、どっちがいい?」
わざわざそう聞いてくれる誠実な彼にまたキュンとしつつも「『礼香』で」と答えた。
「えらそうじゃない? 俺様みたいじゃない?」
おどおどするその向こうに私に嫌われたくないという気持ちが見えてまたキュンとした。
「そんなことないですよ」
「私のほうが歳下ですし」
重ねて言えば「そう?」とようやく納得してくれた。
「私は『雄介さん』て呼ばせてもらっていいですか?」
「おれも『雄介』って呼び捨てでいいよ?」
「でも歳上ですし」
「関係ないよ」
きっぱりと断言し、彼はまっすぐに私の目を見つめた。誠実な目だと思った。
「『名』を呼び合う相手とは対等でいたい」
「そんな相手いなかったけど、―――憧れだけは、あったんだ。ずっと」
照れ笑いのあと「キモいよね」と自虐に嗤う彼。そんなことないと思いを込めて首を振った。
そんな私に息を飲んだ彼は、やわらかく微笑んだ。愛おしいものを見るように。
「だから『雄介』って呼んで」
「あとタメ口でいいよ」
「おれもタメ口でしゃべらせてもらうから」
「―――わかったわ」
同意すると彼はうれしそうに笑った。ほにゃりとしたしあわせそうな笑顔にキュンとして、ふと、昔読んだマンガの登場人物を思い出した。読んだ当時のあこがれも。
思い出したらなんだかあこがれを叶えたくなって、彼にならできそうな気がして、思い切って口にした。
「タメ口は、わかった。けど………できれば、『雄介さん』って、呼ばせて?」
「―――なにか理由がある?」
ちゃんと聞いてくれるのうれしい。こういうところがこのひとの良いところだと思う。
「……………『子供っぽい』って、笑われるかもしれないけど……………」
『笑わないよ?』と目で示されて、少しの期待とともに口にした。
「……………昔読んだマンガで、旦那様――結婚相手のことを『さん』付けで呼んでて……………実は、あこがれてたの」
ボソボソと打ち明けたら、黙って話を聞いていた雄介さんがみるみる赤くなっていった。ついには両手で顔をおおい、膝に埋めた。
「……………結 婚 相 手……………っ!」
感極まったように漏れた言葉に、自分から言い出したことなのに顔から火が出そうになった。
そこピックアップしないで! 別に結婚したいとか結婚考えてるとかじゃなくて、ホントにマンガのラブラブ穏やか夫婦にあこがれてたってだけだったんだけど。『結婚したい』って思われちゃったかしら。『結婚相手に考えてる』って思われたかしら。まだそこまでは考えてないんだけど。ああ、ついさっき『お付き合い』が始まったばかりなのに結婚なんて持ち出したら『重い』って思われちゃうかしら。ホントに考えてないんだけど!『おれは結婚なんてまだ考えてない』って引かれちゃうかしら。三十女ががっついてるって嫌がられちゃうかしら。
浮かんだそんな考えは、けれど目の前で丸くなって震えている男性の姿にどこかにいった。こんなに喜んでくれるなんて。うれしい。恥ずかしい。照れ臭い。しあわせ。
昔読んだマンガのしあわせな夫婦が頭に浮かんだ。浮かんだふたりはそのまま私と雄介さんの姿を取った。ああ。あんなふうになれたら。このひととあんなふうに暮らせたら。
なんだかふわふわする。ぽやぽやする。顔が熱い。熱出たかしら。
少しでも冷えないかと両手で頬を押さえていたら、ガバリと雄介さんが起き上がった。まだ赤い顔で、それでも真剣な表情でまっすぐに私を見つめる。
「『雄介さん』でおねがいします」
そのまなざしの奥に私と同じ未来をみている。なんでかわかった。
そのことがうれしくてしあわせで、勝手にゆるむ顔と口で、どうにか答えた。
「―――はい。雄介さん」
男性でも花が咲くように笑うのだと、初めて知った。
ふたりでニマニマ照れ照れ笑っていたら、突然彼がハッとして言った。
「そうだ」
「白露様には報告しよう」
確かに『お付き合い報告』はいるかもしれない。こうなれたのも白露さんのおかげといえばおかげだし。
そう思っていたら、雄介さんは意外なことを口にした。
「礼香以外の女性に『雄介』と呼ばれるのは、たとえ白露様でも、他意はないってわかってても、やっぱり嫌だから」
真摯な表情に、言葉の内容に、またもキュンとしてしまった。
「私も」
「他の女性が『雄介』って呼ぶの、聞きたくない」
考えていたことが口から出ていたらしい。雄介さんは目をまんまるに見開いたあと真っ赤になり、両手で顔を隠してベンチに倒れ込んだ。
「―――破壊力―――っ!」
「―――おれ、死ぬかも―――」
なんかぶつぶつ言ってたけれどよく聞こえなかった。
『今話せますか』とメッセージを送ったら『すぐ行くわ!』と即レスが返ってきた。どういうことかとスマホをのぞいていたら「お待たせ!」と白露さんが姿を現した。どうも私達のことが気になって別れたあともこの辺りで待機していたらしい。
「『名』を呼び交わすことになりました」と雄介さんが報告すれば「おめでとう!!」と白露さんは大喜びした。なんですかやっぱり意味を知ってたんじゃないですか。それなのに私に『名』を呼ばせたんですか。
「気にしない気にしない」と白露さんは平気な顔。このひとだから許されるいい加減さに「もう」と言うしかできない。
「じゃあ私が『雄介』って呼ぶわけにはいかないわね。『雄介呼び』は撤回するわ。姫にはまだ言ってないから大丈夫よ!」
あっけらかんとした白露さんに、やっぱり他意はなかったとわかる。『坂本多すぎ問題』はいいのかしら。まあ私が気にすることじゃないか。
「また今度個別に話聞かせてね!」「これからはふたりでごはん行ったらいいわよ」「でもたまには私も混ぜてね!」喜んでくれる白露さんに「もちろんです!」と答えた。
「姫にもふたりが付き合い始めたこと言っていい?」
白露さんに指摘され「おれはべつに構いません」と雄介さんが答える。
「一護衛のプライベートをわざわざご報告するなんて、ご迷惑じゃないですか?」
そう聞いたけれど白露さんは平気な顔。
「アラ! おめでたい話聞いたらうれしくなるじゃない! きっと喜んでくれるわよ!」
「そうですかね」そうならうれしいですけど。
「そうに決まってるわ! ね! 坂本!」
もう『坂本』呼びに戻っている。なんだかこのひとに振り回されたカンジ。だけどそのおかげでこうして気持ちに気付けたんだから、いいとしましょう。
『恋』を自覚して気が付いたけれど、私は多分初対面から『いいな』と思っていた。誠実で丁寧な仕事ぶり。やわらかい表情。姿勢のいい歩き方。
あれから偶然何度も会って、食事を同席したり話をしたりして人となりを少しずつ知って、少しずつ『いいな』が積み重なっていた。
それが即『好き』にならなかったのは多分、私がこれまでに『異性を好きになる』経験がなかったから。
『非能力者』の私でも護衛職が勤まるようにと、物心つく前から修行修行の毎日だった。体力づくりからはじまり、柔軟、型の習得、組手と、それこそ積み木を積み上げるように毎日毎日鍛えられた。『誰かを好き』とか考える暇も余裕もなかった。そもそも同世代の男子は私のこと女の子扱いしてなかったし。
高校卒業してすぐに菊様の専属護衛に配属され、十四年間ただ必死で職務に邁進してきた。途中結婚話が持ち上がったこともあるけれどすぐに消えた。二十台の中頃には合コンとか見合いとか話だけはあったけれど、専属護衛の私は家庭を持つとか無理だったし、異性とお付き合いする時間も余裕もなかった。
菊様専属護衛に『能力者』でありものすごく強い白露さんという頼れるひとが増えたおかげで私にココロの余裕と休日が生まれた。多分そのおかげで雄介さんを『いいな』と感じることができた。以前の私だったらきっとなにも感じない。
だから、雄介さんを『いいな』と思うココロの余裕が生まれたのも、強引に同席させて話をして彼の人となりを知れたのも、今日こうして気持ちに気付くことができたのも、全部白露さんのおかげ。
「ありがとうございました」
だから白露さんに言った。たくさんの感謝を込めて。
「白露さんのおかげです」
「ありがとうございました」
頭を下げれば隣の雄介さんも一緒に頭を下げていた。
そんな私達に慈愛に満ちた笑みを浮かべていた白露さんだったけど、ニンマリと、まるでチェシャ猫のように口角を上げた。
「お礼なんていいわよ~!」
手をひらひらと振り、いつもの明るいテンションで白露さんは笑った。
「それより、おしあわせにね!」
「ただし!」
「仕事はしっかりしてよ!」
もっともなご意見にふたりで「はい」と答えた。
◇ ◇ ◇
それからほぼ毎日彼と会っている。
どうにか時間をすり合わせ、逢える場所を探し、顔を合わせている。
ほんの十分でも構わない。顔を見て話したかった。
自宅で電話で話したほうが長く話せるのはわかっているけれど、電話では表情がわからない。雄介さんはわりとよく口に出してくれるほうだけど、それでも言いにくいことを飲み込んだり、ちょっとしたニュアンスで言葉だけだと誤解するようなこともあるから、顔を見て話をしたかった。
それに、照れまくって悶絶する雄介さんを見たい。真っ赤になって顔を両手で隠して喜びに震えているのを目にすると「ああ、私、愛されてる!」ってすごく満たされる。「私も好き!」ってすごく思う。
時間を合わせるのは大変な面もあるけれど、それでもそれだけの価値はあると思っている。
ありがたいことに高校二年生になられた菊様は受験対策と週一度の陶芸教室に一生懸命で、パーティや会合への出席がグッと減った。その分陶芸展や美術館博物館へのおでかけが増えたのだけど、そういうお出かけには弘明さんが必ず同行される。デートのはずなのにちっともそう見えない不思議。弘明さんが控えめすぎるんですかね?
ともかく、比較的決まった時間――それもわりと早い時間に仕事をあがれるようになった。とはいえいつ緊急呼出があるかわからないから常に仕事用の端末を携帯し、アルコールは口にしないのは変わらない。
不規則な勤務実態の私だけれど、それでも比較的自由にできる時間が増えていた。
雄介さんも勤務時間は不規則。現場によっては朝早くとか夜遅くまでかかるとか普通にあるし、私と同じく緊急呼出もある。安倍家の任務で数日拘束されるとかもある。
多分私よりも雄介さんのほうが時間をつくるのが大変だと思うけれど、そんなこと全然感じさせない。そんなところも「大人だな」と思う。
◇ ◇ ◇
『お付き合い』にあたって、ふたりでいくつか約束事を決めた。
言いたいこと、考えていること、気持ちはなるべく口に出す。
仕事優先。
無理はしない。
無理なときはちゃんと言う。
嫌なこと、ムカつくことはすぐに言う。
好きなこと、うれしいこと、よかったことも言う。
気になることはすぐに聞く。
どんなことでも話し合う。
けれど、仕事内容は絶対に話さないし聞かない。
私達は大人で、だからこそ十代の学生のように『恋』に浮わついて夢中になることはなかった。現実を見て、地に足つけていないといけないと知っていた。
だからこそ『仕事優先』『無理はしない』を挙げた。
提案してきたのは雄介さんだったけれど、私も同じ考えだったから提案してくれたことがありがたかった。
ありがたいことに私達は価値観が似ていた。仕事に対する考え方。恋愛に対する考え方。優先すべきもの。なにが正義でなにが悪か。お金の価値観。身の回りのものについて。人生観。死生観。将来の夢。あこがれていたあれこれ。
好みもわりと似ていた。好きな食べ物。好きな味。好きな歌。好きなマンガ。
たくさん話をした。自分をさらけ出すように。お互いを理解しあうために。
ちいさな頃のことから学生時代の黒歴史、おいしかったおかずから宇宙の真理についてまで。
多岐にわたる会話でも、仕事の話は一切しなかった。
「あなたは『専属護衛』だから」雄介さんは言った。
「あなたのちょっとした話から、主家の動向が読める」
「たとえば『今日どこどこへ行った』それだけで菊様がどこへ行ったかわかる。そうして誰と誰が会ったか読める。それは時に経済を左右する話だ。
『明日はどこどこへ行く』そんなつぶやきが菊様を危険にする。――もちろんあなたも」
護衛職が定期的に受講する『ハニートラップ対策講座』がすぐに浮かんだ。
「もちろんおれは絶対に他言しない。『名』にかけて誓ってもいい。けれど、もしもおれ達の会話を聞いているやつがいたら。一応遮音結界はかけているけれど、おれ程度にかけられるのはたいした効力ないから、高レベルの能力者相手だと意味を成さないかもしれない。読唇術が使えるやつにはそもそも意味がないし」
雄介さんは私と話をするとき、必ず『結界』というのを展開している。らしい。それは私達の姿が認識しづらくなる効果と音が外に洩れない効果があるという。それは名家の専属護衛である私に配慮してのことだった。
「もし万が一あなたの勤務先で情報漏洩問題が起きたとき。あなたがおれに仕事の話をしていたら『もしかして自分が洩らしたんじゃないか』って気に病むことになる。おれを疑うことになる。
そんなこと、させたくない」
雄介さんは思慮深いひとだった。私みたいな脳筋とは違う。いくつもの最悪を常に想定していた。
「おれの仕事の話を聞いた場合、あなたが巻き込まれる可能性がないわけじゃない。―――詳しく言えないけど、『安倍家の仕事』っていうのは、普通の社会で生きているひとにはちょっと考えられない事態が起こり得るんだ」
「お互いのために、己の誇りを守るために、仕事の話はしないようにしよう」
そこで『誇り』を持ち出すところに、このひとがどれだけ仕事に誇りを持っているかわかる。私が仕事に誇りを持っていることを知ってくれているとわかる。そういうことに気が回るところも、『誇り』を大切にしてくれているところも尊敬できるところだと思う。
仕事の話を一切しなくても雄介さんとは話題が尽きなかった。
他愛もない話から彼の人柄が伝わる。彼の信念が伝わる。人間性が、心根の善さが伝わる。一時の楽しさ、その瞬間の喜び。それだけでなく、生涯を共にできるか、共に歩めるか、そんなことを無意識に視野に入れていた。
時間を合わせて会っておしゃべりして解散。そんな中学生みたいなお付き合いだったけれど、そうは言っても私達はいい大人だった。三十代半ばにして初恋で、手を重ねることすらなかったけれど、どうしても『結婚』が意識のどこかにあった。
以前菊様に言われた私の任期は「高校卒業まで」。あと一年強。その日が来たら、それから私はどうなるんだろう。どうすればいいんだろう。
そんな事情も頭の隅にあって、健全なお付き合いを続けながら、彼が私の結婚相手としてふさわしいか、私が彼の結婚相手にふさわしいか、見極めるためにも私達の会話はあった。
「初めて逢ったときから綺麗なひとだと思ってたんだ」
『お付き合い』が決まった日の翌日。彼はそんなことを言った。
「あんまり綺麗なひとだから『住む世界が違う』って思ってた」
「そんなこと」反射的に言葉が出たけれど、すぐに「無自覚かあ」ととろけた笑顔を向けられて何も言えなくなった。
「あのとき、近寄るおれにすぐ警戒態勢取ったでしょ?『あ。護衛のひとだ』ってすぐにわかった。
仕事がデキるのも、真剣に取り組んでるのも、あれでわかった」
「そのあと安倍家の話になりそうになったのを止めてくれたでしょ? ちゃんと配慮ができるひとだなあって、あと主人にもちゃんと苦言が言えるひとなんだなって思った」
べた褒めなんですけど。なんですか新手のいやがらせですか。もう顔が熱いんですけど。
でも仕事を認められるのは素直にうれしい。
「ありがとう」ちいさな声になったけれどお礼を言えば「事実しか言ってないよ?」とやわらかな笑みが返ってきた。うう。好き。
「素敵なひとだったなあってしばらく思い出してたから、また逢えたときは――うれしかった」
「えへへ」と照れ笑いする彼がかわいくて、恥ずかしかったけれど思い切って打ち明けた。
「私こそ」
「仕事が丁寧なひとだと思ったの。誠実な、真面目なひとなんだろうな、って」
たどたどしい言葉にも雄介さんは「えへへ」と喜んでくれた。
「仕事褒められるの、うれしいね」
その笑顔がかわいくて、またも胸がキュンとなった。
子供の頃の話もした。
私は護衛職の家に生まれて物心つく前から修行三昧だったことを話した。
高校卒業してすぐ就職してすぐに菊様専属護衛となったことも。
彼は安倍家のご当主様唯一のお子様である晴臣様に「ずいぶんと助けられた」と話してくれた。
彼は幼い頃から十二歳歳上の晴臣様の苦闘を見ていた。一族すべてから馬鹿にされないがしろにされても歯を食いしばって努力をする姿を。だから自分に霊力が少なくても「あのひとよりはマシだ」と思っていた。「どんだけ傲慢で物知らずなんだって話だけどね」と苦笑する。
あこがれの実働部隊に霊力不足で入れないことが決まったときには「泣いてるひまなんてないぞ」と発破をかけてもらった。「今の自分にできることをやれ」「重ねた努力は決してきみを裏切らない」「努力の先にしか望む未来はない」「道はひとつじゃない」そんな言葉をもらったと。
「ちょっとやってやめる程度は『努力』って言わないんだよ」「苦しくてもつらくても何度血反吐吐いてでもやり続けるから『努力』って言うんだよ」そう言った笑顔の裏に壮絶な積み重ねが見えた。それだけのものを重ねなければいけないのだと戦慄した。
それから晴臣様に言われたとおり努力を重ねた。「実働部隊に入れなかった」とくさるヒマはなかった。その頃は明子様と結ばれていた晴臣様は、同じく千明様と結ばれていた弘明さんのお父様の隆弘様と一緒に安倍家の指導を受けていた。そこに加えてもらいふたりと一緒に鍛えてもらった。大の大人に対して自分は少年ということを置いてもふたりついていくのは大変だった。「『努力』というのはここまでして初めて口にしていいことなんだと思った」という雄介さんは心なしか笑顔が青ざめていた。それ絶対ウチの訓練よりキツイでしょう。
ふたりと近しく接する間に色々と話をすることもあった。安倍家の狭い世界しか知らなかった少年にとって、ふたりの話す世界は広々としていた。多角的に物事を見ることを教わった。バラバラに散らばる物事から真実や未来を知る方法を教わった。実働部隊がすべてではないことを教わった。
進路の相談に乗ってもらい、勉強を教わり、最難関の国立大学に入学した。たくさんの選択肢を教えてもらい、その中から後方支援部隊と工務店勤務を選択し、大学は工学部に決めた。卒業して叔父の経営する工務店に入ったあともふたりとは親しくしていて、工務店の仕事のこと、安倍家のこと、色々と相談したり愚痴を聞いてもらったりしているとまとめた。
そうして今の、思慮深く、細やかな気配りのできる雄介さんになった。
「あのふたり、めちゃめちゃスパルタなんだよ」
「だから女の子のこと考える暇なんてなかったし、大人になってもこき使われてた。毎日『ベッドに倒れたら気が付いたら朝』って生活で、気が付いたら三十すぎてた」
「だから本当にあなたが『初恋』」ぽつりと落ちたつぶやきは私を赤く染めるのに十分な破壊力を持っていた。
赤くなって固まる私に気付いた雄介さんは同じく固まった。
「……………出てた?」
震える声でそんなことを言う。なんてかわいいひとだろう。
黙ってうなずけば真っ赤になる。バチンと口を両手で押さえ、涙目で首を振る。ああもう歳上なのに三十代なのになんでそんなにかわいいの!?
「大丈夫! 私も雄介さんが初恋だから!」
あまりのかわいさに動転して余計なことが口からこぼれた。
「あ」
拳にした両手を開き、バッと口を押さえるけれどもう遅い。
ふたりして赤い顔で見つめあって―――。
「「―――ぷっ」」
同時に吹き出し、赤い顔のまま大笑いした。
初恋同士の私達を案じてか、単なる興味本位かはたまた何も考えていないのか、白露さんが誘ってくれてお茶をしたりご飯を食べに行ったりした。
「こういうこと言うのは野暮かもしれないけど」「まだそんなこと考えられないかもしれないけど」そんなふうに前置きをして、白露さんは色んな話をしてくれた。
「坂本とは一時のつきあいでいいのか、それとも生涯つきあいたいのか、ゆっくり考えるのよ」
「仮に結婚するとしたら、今の仕事はどうしたい?」
「坂本はかなり収入あるからレーカは働かなくても大丈夫だと思うけど、レーカはどうしたい?」
「将来どうしたいとか、具体的な話とか、そういう話、ふたりでしてる?」
白露さんは子育て経験者なだけあって、いろんなことに気が付いて教えてくれた。結婚したいかしたくないか。結婚したら今の仕事はどうするか。結婚したらどこで暮らすか。子供は欲しいか欲しくないか。
「そういうのちゃんと話し合っておかないと『思ってたのと違う』とか『こんなはずじゃなかった』って言うことになるわよ」
経験を重ねたひとにしか出せない深い色の瞳で、白露さんはまっすぐに忠告してくれる。
「ただ一緒にいるだけでうれしかったり楽しかったり。それはそれでいいのよ? むしろ必要なことよ?
けれど、レーカも坂本ももう三十代だから。『お付き合い』イコール結婚だと周囲は見ると思うの」
「仕事だって責任ある立場でしょ? それを浮ついた恋心でミスしたり、一時の感情で軽々しく投げ捨てるようなことはしてほしくないの」
「レーカも、坂本も、よ」
白露さんの指摘はどれも「おっしゃる通りです」としか言えないものばかり。だから自分なりのそのときの気持ちを白露さんに聞いてもらう。アドバイスをもらってまた考える。
「『好き』だから『お付き合い』になったけれど、だからって結婚しなきゃいけないわけじゃないのよ?」
「結婚しないままお付き合いを続けることや、お別れすることがお互いの『しあわせ』のためになることだってあるわ」
「なにが自分にとって大切なのか、自分はどうしたいのか、しっかりと考えなさい」
「『合わない』『無理』って思うことは合わせなくていいし無理しなくていいの」
「『自分』を守れるのは自分だけなの」
「相手が『好き』だからって自分を変えることはないわ」
「もちろん相手を変えようとするもダメよ」
「自分を押し付けるなんてしちゃいけない。相手を押し付けられて苦しむなんて論外」
「自分を大切に。同じくらい、相手を大切に」
「どうしても女性は出産が関わってくるから。年齢的な面で見たら、レーカのほうが結婚を急ぐ立場だと思う」
「だけど、そんな理由であせって結論を出してほしくないの」
「子供はかわいいわよ? でもこればっかりは授かりものだし。子育てが終わってからだって人生は続くんだし」
「長い人生を、紆余曲折ある人生を、一緒に歩けるか。よく見極めないといけないわよ」
「大事なひととのことだからこそ、ちゃんと考えなさい」
白露さんはいつもそう言ってくれる。決して結論を急がせることはしない。私自身にしっかりと考えさせて、私自身が納得できるまで待ってくれる。
だからだろう。雄介さんと三人でごはんに行ったときにはひたすらに盛り上げ役に徹してくれている。私達を冷やかしからかい「もっとイチャイチャしなさいよ!」と煽る。
そんな配慮のできる白露さんに感謝しかない。本当に素敵な女性だと思う。
大人の『恋』って、めんどくさい。
そう思うこともある。
けれど、これまで『恋』に無縁だった私からしたらこの出会いは奇跡のよう。
めんどくさくても。『好き』だけじゃどうにもならない、しがらみだらけ、大人の事情からみまくりでも。
それでも会いたいと思えるひとに出逢えた。
顔を見たい。声を聴きたい。そばにいたい。笑顔を見たい。そう思えるひとに出逢えた。共に歩きたいと望むひとに出逢えた。
それはすごく『しあわせ』なこと。
会いたい。そばにいたい。一緒に歩き続けたい。
好き。ただ一緒にいたい。声を聴きたい。話をしたい。
三十歳過ぎてからようやく巡り来た春。まるで奇跡のようだと思う。うれしくてしあわせで、毎日胸がポカポカしている。
『恋』に溺れてる自覚はある。『初めての恋』に浮かれてる自覚もある。
けれど大人だからしっかり見極めないと。「思ってたのと違った」「裏切られた」なんてお互いに言わないために。
お互いの『誇り』のために。