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【番外編8】立花礼香と巡り来た春 5

 夜道を歩きビルの谷間の公園に着いた。

 自動販売機で坂本さんが「なにがいいですか」と聞いてくれた。

「いえ自分で」と言ったのだけれど「付き合ってほしいとお願いしたのはおれなので」と引いてくれなかった。仕方なくお言葉に甘えてミルクティーをお願いした。

 坂本さんはコーヒーを選び、二人で並んでベンチに腰掛けた。


 初対面の初詣からもう十ヶ月が過ぎた。あれから菊様は陶芸にドハマりされ、毎週一乗寺の『目黒』の陶芸教室に通っておられる。進学も「陶芸の勉強ができる学校に行きたい」と希望され、二年生になった春から実技対策として放課後はデッサンに励んでおられる。

 そのためにお稽古はまた減らされ、私達護衛の仕事はずいぶんと減った。

 学校の登下校のみの日は白露さんと交代で勤務。おかげでなんと今の私は週休三日だ。土日はおでかけの予定が多いのでふたりでつくことが多い。けれどそれも「自宅にこもってデッサンと勉強する」とおでかけされない日は私達はお休み。こんなに休みばかりでいいんだろうかと心配になる。休みの数日は訓練にあててるけれど、どこかに油断が生まれそうでこわい。


 休みが増えた最近では料理をすることもある。今まではそんな余裕はなくて、自宅に帰ったら簡単なものを流し込んでベッドにバタンキューだった。とても材料を買って下処理をしてなんて不可能だった。それが休日が増えたことで一日を料理にあてることができ、一週間分を作り置きするという知恵を得て自炊ができている。


 それでも時々白露さんが「ごはん行くわよ!」と誘ってくれる。白露さんとゆっくりおしゃべりするのは私も楽しいのでホイホイついていく。愚痴を聞いてもらったり他愛のないおしゃべりをしたり仕事のアドバイスをもらったりと、解散するときにはスッキリして元気になっている。


 白露さんは不思議なひと。多分ものすごくえらいひとなのに全然偉そうじゃない。フレンドリーで包容力があって姉御肌でそのくせお茶目でかわいいわがままを見せて、女性から見てもすごく魅力的。「白露さんの旦那さんてどんなひとなんですか」って聞いたら「すごく強くていい男よ」とのろけられた。お子さんの話には「いつか会わせたいわ!」と言ってくれて、それだけ親しく思ってくれてることにうれしくなった。


 白露さんによると、白露さんはいわゆる『生え抜き』ではなくて、今回菊様の護衛が必要となって安倍家に入ったひとらしい。

 それまでも安倍家と付き合いはあってお仕事を受けたりしていたんだけど、子育てもあったりで専属ではなかった。

 お子さんが手が離れて「やれやれ」って言ってるときにたまたま菊様の話が出て「子育て経験のある女性なら菊様の護衛にぴったりだ」ってことで依頼が来て、安倍家から出向って形で菊様の護衛についてくれている。

 だから安倍家内部のことは「あまりよく知らない」のだと。息子さんが主座様直属なので弘明さんや安倍家の皆様と親しいだけで、細かい内部の仕事内容や人員についてなんかは「今教わってるところ」らしい。


 だからだろう。坂本さんと話をしていて、時々白露さんと坂本さんとで会話にズレがあった。

 今日の名前問題もきっとそんな『ズレ』から起こったことだろう。白露さん的には「なーんの問題もない」ことだけど、坂本さん的には「大問題!」で「ご当主様にお伺いを立てないといけないレベル」なんだろう。


 何故か坂本さんがあの場で説明してくれず、しかも白露さんを帰らせてしまったので白露さんの言い分は聞けないけど、ひとまずは坂本さんの話を聞いてみよう。その上でマズいことだったなら改めて謝罪をしよう。


 そう覚悟をして坂本さんが口を開くのを待っていた。

 坂本さんはベンチに座るなりガックリと頭を落とし、なにか葛藤している。


 十月なので夜でもまだそこまで寒くはない。けれど日中の熱が段々と引いていって、じっとしていると少しずつ身体が冷えてくる。坂本さんも私もいつもお酒は飲まないので居酒屋ごはんでもアルコールは入っていない。

 買ってもらったミルクティーで暖を取っていたけれど、身体に入れたほうが温まりそう。


「………お先にいただきます」

 一言ことわればハッと飛び起きて「どうぞ!」と勧めてくれる坂本さん。お言葉に甘えてキャップをひねり、一口飲んだ。ぬくい。あたたまる。

 坂本さんもコーヒーのプルタブを開けて口に運ぶ。ゴキュ、ゴキュ、と音を立て「ふうぅぅぅ……」と大きく息を吐き出した。


「……………ええと……………なにから説明したらいいものか……………」


 手の中の缶に向けてぶつぶつ言っていた坂本さんだったけど、意を決したようにコーヒーを一気に飲み干し、缶をベンチに置いてこちらに身体を向けた。

 公園の照明が半分だけ照らす顔でもまっすぐに見つめてくれているとわかる眼差しに、こちらも覚悟を決めてしっかりと目を見つめた。


「『能力者』にとって――というか、もしかしたら安倍家だけの話かもしれないんですけど………」


 迷いながらも言葉を探し、真剣に説明しようとしてくれる。それがわかったから言葉が出てくるのをじっと待った。


「『名』――名前ですね。『名』というのは、そのひとの『魂』に近いモノなんです」


「たましい」

「はい」

 真剣にうなずく坂本さんに、冗談やマンガの設定の話ではないと、本当の本当の話なんだと理解させられた。


「強力な術者ならば『名』を呼ぶだけで相手を制することができます。――支配下に置くことも」

「場合によっては、『名』を知られることは、それこそ『生命を握られる』ことと同義です」


 そういえば白露さんが最初に言っていた。『能力者ゆえに本名はご勘弁を』と。それはそういうことがあるからなのか。


「ですので、余程の親しい者以外は『名』を呼びません。おれだったら『後方支援の坂本』と呼ばれています」


 そうなんだと納得しながら次の疑問が浮かぶ。


「名字なら――『坂本』とならば呼ばれても大丈夫なんですか?」

「大丈夫な場合とそうでない場合があります」


 ハテナマークをつけているであろう私に、坂本さんは丁寧に説明してくれる。


「要は『自分の名前はこれ』と認識している名前が、今問題にしている『名』です」


「ですので、たとえば名字を『自分の名』だと思っているひとにとっては名字が『名』ですし、下の名前が『自分の名』だと思っているひとにとってはそちらが『名』になります」


「おれは下の名前が自分の『名』だと思っているので、名字で呼ばれる分にはなんともないです」


「………なるほど………」

 なんかマンガの設定にしか聞こえないけれど、このひとがここまで真剣に言うならば真実なんだろう。そう信じられるくらいにはこのひとを信頼している。

 聞いた話を頭の中で箇条書きにし、理解に努める。と、また疑問が浮かんだ。


「だから白露さんに『名』を呼ばれるのを嫌がられたんですか?」

「………それはまた別の事情がありまして………」


 口をへの字にして坂本さんが顔をそむける。なんか言いにくそう?

 なんか葛藤していたけど、またまっすぐ視線をくれ、坂本さんは話し始めた。


「自分より上の立場の方から『名』を呼ばれるのは、物騒な言い方をすれば『生殺与奪権を握られている』といえます」

「けど今の時代は、なんていうか……『働きを認めて直属の部下にする』みたいなかんじでしょうか」


 つまり安倍家所属の坂本さんが白露さんに『名』を呼ばれるのは、神代家(ウチ)でいうところの平社員がご当主様に引き立てられる、みたいなこと? もしくは若旦那様直属をご当主様が引き抜こうとするみたいなこと?


「だから『主座様かご当主の確認が必要』だと……」

 そう確認すれば坂本さんは「ええ」とうなずいた。


「一応おれは『安倍家所属』なので。白露様がお相手なら主座様もご当主様もなにもおっしゃらないとは思いますが、一応『名呼びを希望しておられる』と報告はあげる必要があります」


「白露様のことなんで、ご自身でおっしゃった理由以外はないとは思いますが、他の者が耳にしたらやはりいい気分はしないでしょうから」


「というと?」

 重ねて問えば坂本さんは眉を寄せて渋柿でも食べたような顔になった。

「……………詳しくは言えませんが……………」

 そうしてポツリポツリと説明してくれた。


「白露様は………ええと………、―――とにかくすごい方なんです」

「すごいだけじゃなくて、お強くて尊敬できて、とにかく憧れの存在なんです。お声をかけていただけるだけでも『光栄だ』って自慢できるレベルで」

「そんなすごい方に気安く『名』を呼ばれるというのは『特別に気にかけてもらっている』『直属の配下になった』というようなもので……」

「………早い話が、間違いなく嫉妬の嵐にさらされます」


 嫉妬。なるほどそれは大変だ。納得したとうなずいていて、ふと気になった。


「あれ?」

「じゃあ、弘明さんとかはどうなるんですか?」

「坂本さん、確か『ヒロさん』って呼ばれてましたよね?」


「ああ」と肩の力を抜き、坂本さんは軽く語った。


「下の者が『名』を呼ぶのは、そこまでうるさくないんです」

「『名』で相手を縛れるだけのチカラがないんで」


 チカラ。縛れるだけの。つまり。


「………要するに、『名』を呼ばれても関係ないくらい強い、ってことですか?『相手にしない』ってこと……?」


 おそるおそる問えば「そうです」と返ってきた。つまり弘明さんはそれだけお強いということ。あんな王子様みたいなのに。


「『能力者』関係は『チカラこそすべて』みたいなところがあるんです。『強いヤツが偉い!』みたいな」


「脳筋集団ですか」

「否定はできません」


 思わずツッコめば即答が返ってきた。そのへん護衛職とも似てるかも。戦闘がからむとそうなるのかしら?


「とはいえ、そんな『強いひと』や『偉い方』を『名呼び』するのは『馴れ馴れしい』『無礼』な行為にあたるので、あまり下の者は呼びませんね」

「ヒロさんでしたら『主座様のはとこ様』とか『主座様直属の方』とか呼ばれます」

「おれは、一応後方支援のまとめ役のひとりなんで、晴臣さんもヒロさんも『名呼び』を許されてます」


「……………なんか、大変そうですね」思わずつぶやけば「そうでもないですよ」と笑みが返る。

「ご当主のことをお名前呼びせずに『ご当主様』とお呼びするでしょう? そういう対象が多いだけです」


 なんとなくわかったような。


「友達なんかはどうしてるんですか? 家族や親戚は?」

 次の疑問にも坂本さんは答えてくれた。


「一応家族や親戚といった『身内』は『名』を呼んでもいいことになってます」

「『身内』なんで」

「友達も『身内』扱いですね。幼馴染なんかはガキの頃の延長で『名』を呼び合うことがありますし、大きくなってからできた友達なんかは、本当に気を許した相手にだけ『名』呼びを許します」


 わかったような、よくわかんないような。

 まあいいや。次の質問。


「じゃあ私がお名前を呼んで『問題あり』とおっしゃったのは、どういう判断からですか?」


「え! ええ、と、ええと、その……………」


 さっきまでは考えながらでも答えてくれていたのに、途端に顔を赤くしてうろたえる坂本さん。目があちこちに泳いでる。そのうろたえ方は居酒屋で見たのと同じもので、『私またやらかした?』と私に思わせるのに十分だった。


 私は『非能力者』だからさっき坂本さんが挙げたような『支配下に置く』とかは関係ない。白露さんみたいに偉いわけでもないし、そもそも安倍家の人間じゃないから嫉妬がどうのも関係ない。だから『なんでダメなの?』と疑問に思ったんだけど、もしかして『非能力者』が『能力者』の『名』を呼ぶのはいけないことだった? それを聞くこと自体失礼なことだった!?


「……………すみません。聞いてはいけないことでしたか………」

「いえ! そういうんじゃなくて!」


 ガバっと顔を上げ背筋を伸ばす坂本さん。思わずジト目でにらみつければ、坂本さんは逃げるように視線を逸らす。けれど覚悟を決めたのか、膝の上の手をグッと拳にして、私としっかり目を合わせた。


「……………さっき、『身内』は『名』を呼んでもいい、と説明しましたよね……?」

「? はい」


 じっと視線を受け止めていたのに、坂本さんは息を飲み目を伏せた。


「……………」

「坂本さん?」


 右へ、左へと視線をさまよわせ、結局坂本さんはうつむいた。つむじしか見えない状態で、自分の拳に向かって坂本さんはボソボソと話を続けた。


「……………家族や親戚でない同年代の異性に『名』を許すというのは、……………その……………」


 照明の当たっている面の耳が赤くなっている。


「……………『身内扱いしている』―――すなわち、『お付き合いをしている』、ということに、なりまして……………」


「……………は?」


『おつきあい』

 それって、あれ? 男女交際?

 考えてもなかった話にポカンとする私に、うつむいたままの坂本さんは気付かない。


「……………しかも、家族や親戚でない同年代の異性に『名』を呼ぶ、というのは、……………その……………」


「……………その、あの……………」


 モゴモゴしていた坂本さん。さらに深くうつむいて、言った。


「……………『身内扱いしたい』―――つまり、その……………」

「……………『異性として好き』、という、告白にも、なりまして……………」


「―――はあ!?」


 完全に予想外の話に、思わず大きな声が出た。呆れの色の強い大声に坂本さんはガバっと顔を上げ、突き出した両手を振った。


「い、いえ! 大丈夫です! わかってます! 立花さんには他意はないって! 白露様に言わされただけだって!」


 真っ赤な顔で、ブンブンと手を振る坂本さん。すぐに片手を膝に戻し、片手を突き出した『ストップ』のポーズになった。


「大丈夫です! わかってます! ただちょっと、あの、びっくりしたっていうか、おれが勝手に、勘違いしたっていうか、その、告白なんて、これまでの人生で一回もされたことなくて、うれしくて、ていうか、お付き合いとかもおれ、したことなくて、だからその、免疫なくて、だから、あの、びっくりして、」


 言いながら今度は下を向き頭を抱える。


「その、立花さんみたいな綺麗なひとに『名』を呼ばわれて、おれ、ちょっと、浮かれちゃって、はは。すみません。なに言ってんだろおれ。忘れてください! すみません!」


 ひとりバタバタとうろたえる坂本さん。ちょっと気になるワードがいくつも聞こえた気がします。そのせいで私までのぼせたみたいなんですが。ちょっと待ってください。心拍が速くなってます。ドコドコ連打してます。


 免疫がない? 綺麗? 浮かれてる?

 

 ちょっと待ってくださいよあなた三十三歳って言ってましたよね。あ。この前誕生日って言ってましたね三十四歳ですねなのになんですかそのピュアさ中学生ですか。お付き合いしたことないんですか奇遇ですね私もです。そもそも私ゴツくて強くて男子から恐れられていたんでそんな甘酸っぱい経験なんて皆無ですよなのになんでこんな三十歳すぎてドギマギするんですか中学生ですか。


 うろたえる坂本さんに固まりつつも内心パニックになっている。

 告白されたのが『うれしかった』んですか? それとも『私が』告白したのが『うれしかった』んですか? それってそういうことですか? いやいや待て待て『免疫ない』ってご自分で言ってた。だから言われたことが『うれしかった』だけで『私』は関係ない。そうだ。これまで散々言われてきたじゃない。『ゴリラ女』とか『男女』とか『恋愛対象に考えることすらキモい』とか。このひとがいいひとだからって、そんな、浮かれちゃいけない。


 傷つくのは自分だから。

 期待しても裏切られる。わかってる。大人だから。


 すう、はあ、と意識して呼吸を繰り返してようやくのぼせたのが落ち着いてきた。

 と、気になることを思い出し、質問した。


「―――さっき言われてた『問題』ていうのは」


「―――同年代の男女が『名』を呼びあってるのを他の『能力者』に見られると……………その、多分、『お付き合い』してると、思われます」


 うつむいたまま、拳を握りしめたまま、坂本さんは答えた。


「少なくとも、おれの家族は、そう、判断、します」

「なので、白露様になにを言われても『名』を呼ばないようにしていただけると……」


 どう答えたらいいのかわからなくて黙っていたら、うつむいたままの坂本さんが突然両手で顔をゴシゴシこすった。そのままパン! と一度強く顔を叩き、そうしてようやく顔を向けてきた。


 にっこり笑顔。いつもの坂本さんの顔に戻っていた。


「またおれから白露様にお話しておきます!『立花さんに迷惑かけるな』って! ―――聞いてくださるかは、ちょっと、わかんないですけど………」


「ハハハ」と力なく(わら)い、坂本さんは目を細めた。

 諦めたような、かなしそうな笑顔だった。


「……………立花さんは、若くて綺麗な女性です。万が一誰かに『名』を呼びあってるのを聞かれて勘違いされて、不名誉な噂が流れてはいけません」


「おれなんかではあなたに『名』を呼んでもらう資格はありません」

「どうぞ今までどおり『坂本』と呼んでください」


 その笑顔に、なんでか突き放されたように感じた。


 坂本さんはなにもひどいこと言っていないのに。ごく当たり前のことを当たり前に言っただけなのに。

 なんでこんなに胸が痛くなるの? なんでこんなにかなしくなるの?なんでこんなに―――泣きたくなるの?


 自分で自分がわからない。それでもポツリとこぼした。


「……………私、若くないですよ?」

「おれから見たら若いです」

「綺麗でもないです」

「おれから見たらお綺麗です」


 坂本さんはどこまでも穏やかに答えてくれる。慈愛に満ちた笑顔は年長の大人としての態度。やさしさと包容力に満ちた言葉。さっきの少年のような坂本さんが見られないことがなんだかかなしくなった。距離を置かれたとわかった。褒めてくれてもうれしくない。距離があるならうれしくない。そんなのどうせお世辞でしょう? 真摯に聞こえるけど、信じちゃいけないんでしょう?


 穏やかな笑顔はどこにでもある顔。特別ハンサムでもアイドルみたいな美形でもない。

 それでも私にとっては落ち着く顔。どんな美形よりもココロを惹かれる。顔かたちじゃない。その内面が作る表情に。目の色に。やさしさと誠実さのわかる態度に。


 今もまっすぐに見つめてくれる。私のことを心の底から褒めてくれているとわかる。そのやさしさが、今は、―――痛い。


 なんで?


 自分で自分がわからない。わからないまま、口を開いた。


「だって私、護衛職の家に生まれて、ずっと護衛になるために修行してきて、全然女らしくないし、身体つきだって筋肉ついてゴツいし、手だって節くれ立って豆だらけで」


 愚痴のような言い訳のようなわけのわからない言葉。誠実なひとの目を見ていられなくて、逸らしてバタバタと口にした。あとなんだっけ。なにか言わなきゃ。ええと、ええと。


 ぎゅ、と握った手が目に入った。強そうな手。ひとを殴るための手。こんな手では、誠実なひとにふさわしくない。


 と、視界に手が入ってきた。

 大きな手。おそるおそるその手をたどると、穏やかに細められた男性の目があった。


「………見せてください」


 なんのことかわからなくて視線で問いかけた。


「手を」

 そう言われてようやく『手を見せて』と言われていると思い至った。そろりと右手を差し出すと、うやうやしいといわれそうなくらいそっと下から重ねられた。


 大きな手。あたたかい。

 この手になら預けても大丈夫だと感じて、チカラを抜いた。

 私の女性にしては大きな手を難なく受け止め、彼は私の手の甲をじっと見つめた。それからそっと左手を乗せて手を返し、今度は手のひらをじっと見つめた。ゴツゴツの、ちっとも女性らしくない手を。


「―――あなたの努力の染み付いた手ですね」

「がんばりやさんの手です」


 やさしい、やさしい声が、胸に、沁みる。


 ゆっくりと頭が上がり、声と同じくらいやさしい目が、やわらかく細められた。


「おれは綺麗だと思います」

「努力家の手です」



 その言葉に。その笑顔に。



 ―――堕ちた。



   ◇ ◇ ◇



 どのくらいその目に見惚れていたのだろう。

 突然彼がハッとした。と同時にザッと顔色を変えた。


「―――すみません! 手、を、」

 重ねていた手をバッと離された。と思ったらワタワタとポケットからタオルを出し私の手を拭く坂本さん。


「汚してしまいました。すみません」

「そんなこと」

「すみません勝手に触れて! ――どうでしょう?」


 心配そうに私の手を見つめ、うかがうように顔をのぞく。ああ駄目だ。なにをされてもかわいい。年上の男のひとなのに。イケメンでもなんでもないフツメンなのに。


「元々汚れていませんでしたよ?」

「その、おれ、の、手汗が、ついた、かも」

「ついても構いませんよ?」


 あんまりあわてふためくからおかしくなる。女性慣れしていない様子になんだかうれしくなってしまう。


「こんなゴツい手にそこまで気を遣っていただく必要はないですよ?」


「『ゴツい手』じゃないです」

 強い言葉が私の言葉を止める。


「『努力を重ねた手』です」


 冗談めかした私の言葉に真剣な目と言葉が返ってきた。その誠実な様子に、ああ好きだと思わず胸を押さえた。


「おれも同じだからわかります」

 そう言って坂本さんは自分の右手を差し出した。半分しか照らさない公園の照明でもその手のひらに無数の努力の跡が見えた。

 何度も豆が潰れた手。タコのできた、皮の厚そうな手。


「ここまでになるのにどれだけ努力を重ねたか、おれは知っています」

「だからあなたの手の美しさもわかります」

「あなたの手は、あなたのこれまでの努力でできた手です」

「あなたがこれまで努力してきたひとだと示している手です」

「おれは好きです」


 穏やかに、それでもキッパリと言い切った彼に、なんだか鼻の奥がツンとした。胸を押さえて固まる私にハッとして、坂本さんはワタワタと口を開いた。


「―――! そ、その! 手! 手が、です!」


 あわてる様子がおかしくて、でもなんだか愛おしくて、ついホロリと言葉がこぼれた。


「―――私、護衛職の家に生まれて」


 突然始まった自分語りなのに坂本さんは真面目に聞いてくれる。


「物心つく前から『護衛になれ』って育てられて。でも『非能力者』だから物理戦闘しかできないから、必死に戦闘訓練して」


「―――がんばってきたんですね」

 やさしい相槌に黙ってうなずいた。


「でもそのせいで周りからは『ゴリラ』とか『男女』とか言われて。男子からも女子からも遠巻きにされてました」

「『非能力者』だからとにかく訓練訓練で遊ぶ暇なんてなくて友達もいなくて、高校卒業してすぐ就職して菊様専属になって毎日毎日休む暇もなくて」


 黙ってうなずいてくれる坂本さん。その目が『大変だったね』『がんばったね』と言ってくれる。ああ。なんて。


「だから」

「こんな気持ちになったのも、じつは初めてで」


 なんのことかと無言になる彼に、胸を押さえたままにっこりと微笑んだ。少しでも綺麗に見えていますように。


「―――さっき、『名』のこと、教えてくれましたよね」


 家族や親戚でない同年代の異性に『名』を許すというのは『お付き合いをしている』ということ。

 家族や親戚でない同年代の異性に『名』を呼ぶというのは『異性として好き』という告白になること。


 理解していると視線で訴える私に彼はなにも言わない。ただあわてたように口を開けたり閉めたりしていた。

 恥ずかしい。苦しい。けど、言いたい!

 意を決して、言った。


「―――『礼香』と、呼んで、もらえませんか?」


「あなたを、『名』で、呼ばせてもらえませんか?」


 多分私は真っ赤になっている。胸を押さえている両手が震えているのが自分でもわかる。それでも想いを込めて彼をじっと見つめた。


 彼は目をまんまるに見開き、大きく口を開き、固まった。暗い照明でもその顔も耳も真っ赤になっていくのが見えた。


 やがて彼がバクンと口を閉じた。そのまま口を一文字に引き結び、拳を握りしめプルプルと震えていた。


「―――意味、わかって、ます、か?」

「わかってます」


 はっきりと言い切る私に彼はまた目を大きくした。なにか葛藤していたけれど、震える口をどうにか開いた。


「―――いいん、です、か?」


 情けない、自信なさそうな表情に、精一杯の勇気を込めてうなずいた。


「呼びたいんです。あなたを」

「呼ばれたいんです。―――あなたに」


 必死につむいだ言葉に、彼は息を飲んだ。

 そのまま固まって動かなくなった。

 その様子に不安になった。


「―――ご迷惑、でしたか……?」


 坂本さんはハッとして、ブルブルと首を振った。

 そうしてじっと私に目を合わせた。


「―――本当に、いいんですか?」

「―――はい」

「おれで、いいんですか?」

「―――あなたが、いいんです」

「―――!!!」


 喜んでくれているとわかる反応に、胸に『しあわせ』が広がっていく。こんな気持ちがあるなんて。こんな気持ちになれるなんて。

 もっともっと『しあわせ』になりたくて、彼の『名』を呼びたくて、おねだりをした。


「―――いいですか?」

「待って」


 なのに手を突き出した『待て』のゼスチャーに止められた。

 なんで? と思っていたら、真剣な顔で彼が言った。


「おれに先に言わせてください」


 それって。それって。


 彼は深呼吸のあと、やさしい笑顔をくれた。


「―――どうか、『雄介』と呼んでください。―――れいかさん」

「―――!」


 全身が震える。これは―――歓喜? 感動? それとも『しあわせ』?

 わからない。わからないけれど―――うれしい!


 ああ。本当だ。『名』は『魂』に近いんだ。だからこんなに震えるんだ。『魂』が喜んでるんだ!

 涙がこぼれた。うれしくても涙が落ちるなんて初めて経験した。

 勝手に口角が上がる。ただうれしくて、自然に笑顔になってしまう。


 万感を込めて、返事をした。


「―――はい。呼ばせてください! ―――ゆうすけさん!」


 私が彼の『名』を呼んだ途端、彼もまた胸を押さえて倒れそうになった。驚いて支えようとしたら距離が近くって、それにお互い驚いてしまってバッと離れた。さっきまで見つめ合ってたのになんだか顔を合わせられなくて背中を向けて座った。ドキドキが少し落ち着いたところで彼の様子をうかがえば、同じタイミングで彼もこちらに顔を向けているところで、なんだかおかしくなってふたりで笑った。



 ひとしきり笑ったところで落ち着いた。


「『ゆうすけ』さんて、どんな字を書くんですか?」


 落ち着いたところでふと浮かんだ疑問をぶつけると、彼はスマホを取り出した。

「これ」と見せてくれたプロフィールには『坂本雄介』とあった。


『雄介』さん。『坂本雄介』さん。

 漢字で知るとより『名』を知った気になった。


 私もスマホで名前を見せた。

「『礼香』さんなのか」と彼は驚いた。


「『麗しい華』の『麗華』かと思ってた」

「そうなんですか?」と言えば「だってすごく華やかで綺麗なひとだから」と照れもせず言い切った。


「私を『綺麗』なんて言うのは雄介さんだけですよ!」

 うれしいけど照れくさくて怒ったみたいな言い方になった。


「そうかなあ」「みんな礼香さんのこと綺麗だと思ってると思うけどなあ」

「『みんな』とか、別にどうでもいいです」


 彼のぼやきだか褒め言葉だかわからない意見をバッサリと切り捨て、言った。


「………あなたが『綺麗』って思ってくれるなら、それだけで十分です」


 恥ずかしくて拗ねたみたいな言い方になった。私もう三十一歳なのに。こんなの中学生の小娘じゃない。情けない。恋愛経験ゼロなんだから仕方ないじゃない。

 雄介さんの反応が気になってチラリとうかがえば、何故か両手で顔を隠していた。耳が真っ赤なのが見えてこっちまで赤くなった。

 赤い顔を見られたくなくて顔を伏せたら、彼の声が降ってきた。


「綺麗だよ」

「あなたは綺麗だ」


 言葉が胸に沁みる。

 おそるおそる顔を上げたら、真っ赤な顔で、それでもやさしく細めた目をまっすぐに向けてくるひとがいた。

 今度は私が両手で顔を隠す番だった。



 彼は私を「『橘 麗華』だと思っていた」と言う。

「本当の『名』を知れて、うれしい」

 そういう彼が本当にうれしそうで、胸を押さえて倒れそうになった。


 スマホを見せ合った勢いで、お互いに連絡先を交換した。メッセージアプリと電話。「プライベートのほうの連絡先だから」と彼が言った。

 彼も私と同じく仕事用とプライベート用の二台持ちだった。いつ何時(なんどき)緊急呼出がかかるかわからない、と。「私も」と言ったら「お互い大変だね」と苦笑した。ハの字眉がかわいくて胸がキュンとなった。




「じゃあまた」と別れてもいい時間だけど離れがたくて「もう少しおしゃべりしても大丈夫ですか」とおねだりしてしまった。「もちろん」と答えてくれた彼は「立花さんは大丈夫?」と聞いてきた。


「『礼香』です」

 ちょっとムッとして注意すれば、彼は「あ」と口を押さえた。けれど口の端がニヨニヨと上がったのを私は見た。喜んでくれているのがわかってなんだか急に恥ずかしくなった。

 手を膝に戻した彼は、とろけるようなやさしい目をして、私を呼んだ。


「………礼香」


 ……………破壊力に倒れるかと思った。

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