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【番外編8】立花礼香と巡り来た春 3

 九月の三連休。菊様は婚約者である弘明さんのご両親が経営する会社のお手伝いに行かれることとなった。

『会社のお手伝い』と言っても実態は『親戚友人知人の集まり』で、皆様に婚約者となった菊様を紹介するのが一番の目的だと説明された。


 スケジュール調整の結果、三連休の一日を確保。当然私も同行。目黒家から当日の服と靴まで贈られてきた。なんと私の分も。


「私はいつまで『専属護衛』なんでしょうか?」

 ついぽろりとこぼした。


 だってもう白露さんがいるのに。婚約者だって決まって式神っていうのがついてるのに。どういうわけか『解任』の通達がない。こんな服まで贈られて。いつになるか、いつまでやればいいのか、先行きが不安になる。


「なによ。不満?」一緒に服の確認をしていた菊様がどこか楽しそうにおっしゃる。


「不満というか……。強いていうなら『不思議』でしょうか」

「不満がないならいいわ。もうしばらく頼むわ」

「『しばらく』とは?」

「高校卒業するまでかしら」


 なるほど。なんだか納得できる期限。


「白露はまだ社交界には知られてないでしょ? アンタとセットで売り出して周知するほうが簡単なのよ」

 なるほど納得です。


「とはいえ、これまでみたいに始終アンタにお願いすることはないと思うわ。普段の登下校とお稽古だけだったら白露とシフト組んでの勤務になるように言っといたから」

「どなたに?」

「北林」

 護衛が在籍する会社の社長にもう話は通っているらしい。いつの間に。


「これまで休みがほとんどなかったでしょ。その分も含めて休み多めにしてって頼んでるから」

「なんなら連休取って旅行でも行きなさい」

 いたわってくださっているのが伝わって、素直に「ありがとうございます」と言えた。



   ◇ ◇ ◇



 目黒家訪問当日。


 安倍家の晴臣様が弘明さんと白露さんをともなってお迎えに来られた。皆様私達と同じようなカジュアルな服装。

「どうぞ〜」と案内されワンボックスカーに乗り込む。あれ? 運転手がいませんよ?

 と、晴臣様が当然のお顔で運転席へ。まさか安倍家のご当主のご子息自ら運転手されるんですか!?


「そんな『ご子息』なんて大したもんじゃないですよ〜」「僕『後継になれない役立たず』なんで。なんでもやりますよ〜」


「アハハ〜」なんて笑っておられますが、そんなことないですよね!?『安倍家主座様直属の側近』てこの前紹介されてましたよね!?


 先日のあの威厳はどこに忘れてこられたのかと問い詰めたくなるくらい、今日の晴臣様は穏やかな表情。イケメンが過ぎるのでオジサンと言えないけれど、雰囲気だけは犬の散歩するオジサン味がある。

 先日の顔合わせであれほどの威圧を見せ冷徹に全体を制圧しておられたのに、一転して今日のこののんきなご様子。底の知れない方だと思った。




 街を抜け山を進み、ようやく車が停まった。

「菊様、どうぞ」すぐに弘明さんが助手席から飛び降りて後部座席の扉を開け、菊様に手を差し出して降車のお手伝いをされる。この弘明さん、菊様が乗車されるときもお手伝いされ、シートベルトも締めて差し上げた。至れり尽くせりとはまさにこのこと。王子様もかくやといわんばかりにキラキラを振りまき菊様をエスコートする。

「足元悪いのでお気をつけて」なんて、紳士ですね。ずっと手を重ねておられるのはエスコートですか手繋ぎですか? 仲良しなご様子なのにどうしてイチャイチャして見えないんでしょう不思議です。


 とにもかくにも弘明さんの案内でたくさんのひとが集まっている場所に着いた。

「菊様!」すぐに目黒千明様が飛んでこられた。

「ようこそ『目黒』へ! さあさあこちらへ!」


 婚約者の弘明さんの母親ということは将来の義母になられるわけで、菊様も大人しくついて行かれた。護衛を、と同行しようとしたけれど「今日はヒロがついているから護衛はいらないですよ」と言われたのを思い出してグッと我慢した。

 なのに「立花さんもこちらへどうぞ!」と呼ばれた。私の葛藤は無駄でした。



「皆さーん! 今年も元気で集まってくれてありがとー!」

 お立ち台に立った千明様の声に「わーっ!」と歓声と拍手が鳴る。

 簡単な挨拶のあと「それでは今年のニュースとニューフェイスの紹介でーす!」と千明様は菊様と弘明さんをお立ち台に立たせた。


「なんとヒロが婚約しましたー!」

「えええええー!!」


 驚きの叫びの中に一部から悲鳴じみた声が混じる。そんな中弘明さんは顔色ひとつ変えずただニコニコとしていた。

「王子が婚約!?」「おめでとー!」驚愕の声と同じくらい祝福の声があがる。ていうか、今『王子』って呼んでる方おられましたよね? 弘明さんてば『王子』なんですか? ピッタリですね。

 そんな『王子』は『姫』の横に立って「先日婚約しました!」「大学卒業したら結婚する予定です」とうれしそうに挨拶をされた。


「そしてこちらがヒロの婚約者! 菊ちゃんでーす!」

 馴れ馴れしい紹介にぎょっとしたけれど、当の菊様は「菊と申します」「よろしくお願いします」と卒なく挨拶しておられた。


「綺麗ー!」「美人!」「おめでとー!」「よろしくー!」「おしあわせにー!」口々に声があがり、拍手に包まれた。


 しあわせそうな弘明さんの横で菊様もしあわせそうに微笑んでおられる。あんな素直なお顔はめずらしいと思っていたら「立花さん、来て来て!」と千明様に引っ張られお立ち台の上に立たされた。


「菊ちゃんの引率の立花さんでーす!」

 は? 引率!?


「そういうことにしといてください」コソッと弘明さんが耳打ちしてくる。

「ここでは本当の身分はナイショで。知ってるひとは知ってるし、わかるひとにはわかるけど、まあ、一種の無礼講でというのがここでの暗黙の了解なんです」


 説明に、ふと思い出した。こちらの創業メンバーでもある千明様のご両親の元の役職。同じく創業メンバーの安倍家の明子様のご両親の元の役職。きっと今でも出るところに出たら顔が効くはず。そして、安倍家の皆様。チラリと見れば『主座様直属の側近』と紹介された方が揃っておられる。なのに周囲はごく普通に接している。なるほど無礼講かと納得した。

「引率の立花です。よろしくお願いします」と挨拶すれば「わーっ」と拍手で歓迎された。


「では次ー!」の声に弘明さんが一礼しお立ち台を降りた。すぐさま菊様の手を取ってお立ち台から降りるサポートをする弘明さんに「リアル王子とお姫様!」とあちこちで歓声があがっていた。私? 私はひとりで降りましたよ。これでも護衛職ですので。


「この場をお借りして御礼を言いたいふたりの挨拶です!」


 千明様のアナウンスに隅にいた長い髪の女の子がピッと背筋を伸ばした。緊張した面持ちの女の子に隣の背の高い男性がなにかをささやき、ふたりはやさしく微笑み合った。そうして手をつないで並んでお立ち台に立った。

 ふたりがお立ち台に向かったときから「キャー!!」とか「おおー!」との歓声があがり、拍手が鳴り響いた。一体なにがと驚いていたら、お立ち台のふたりが綺麗なお辞儀をした。


「西村(とも)です」

「神宮寺竹です」

「「皆様、本当にありがとうございました」」


 そう言って揃って深く頭を下げるふたり。「わーっ!!!」と万雷の拍手が鳴る。なんでしょう。意味がわかりませんがとりあえず拍手しときます。


「ここで事情を知らない皆さんに紹介します」

 弘明さんのお父様の隆弘様が男女に並んでお立ち台に立ち、説明してくれた。


「こちらの西村智くんはウチの息子のヒロの友達。毎年この大作業に顔を出してるから知ってるひとも多いかな?」

「こっちの竹ちゃんは数年前に病魔に(おか)され、アキちゃんのところで療養生活を送っていました。といっても治る見込みのない病気で、竹ちゃんはただ死を待ってるだけでした」


「手術すれば助かる可能性はある。けれど手術しても生きられるかわからない。なら余計なお金を使うことはない。そう言ってただ死を待っていた竹ちゃんに、今年の春、このトモが一目惚れしました!」


「あのトモくんが!?」「一目惚れ!?」あちこちから驚きの声があがる。


「たまたまヒロのところに来たトモが竹ちゃんを一目見てココロを奪われた。猛アタックをはじめたトモだけど、竹ちゃんは「もう生きられない」と断った。「それでもいい」「少しでもそばにいたい」とトモはがんばってがんばって、どうにか両想いになったんです。

 そして竹ちゃんはトモのために手術を受けることを決心した。死ぬかもしれないけど、助かるかもしれない。一日でも長くトモといたい。そのために手術を受けると」

「そんなふたりのために、我らがちーちゃんは思った。『結婚写真を撮ってあげたい』と!」


「おおおおおー!」なんて、皆さんノリがいいですね。


「そうして先日、急遽結婚式をここで執り行いました。参加してくれた皆さん、その節はありがとうございました」

「「ありがとうございました!!」」


 頭を下げる隆弘様に隣の男女も頭を下げる。礼儀正しい方たちだなと好感を持った。そんなおふたりに皆さんはまた拍手を送っておられる。


「その後竹ちゃんの手術は無事成功! 術後も順調に回復し、現在リハビリ中です」

「そしてなんと! 先月結納を交わし、ふたりは正式に婚約者となりましたー!!!」


「えええー!!」「婚約!?」「早い!」あちこちから声があがるけれど「おめでとう!」「よかった!」の祝福が多い。照れ照れしている娘さんのうれしそうなこと。そして隣の男性はもうデレデレ。二人顔を合わせてにっこりするのには『はいはいごちそうさまです』と思わず言いたくなる。


「もうご覧の通りラブラブです。トモがベタ惚れです! しあわせいっぱいのふたりに拍手〜!」


「わーっ」と拍手が鳴り響く中「ベタ惚れ!?」「ウソ!」と驚愕の声も聞こえる。そんな声をもろともせず、お立ち台の上のふたりは穏やかな笑顔で周囲に頭を下げ、またふたり見つめ合って笑顔になった。手はずっとつながれたまま。

 なんていうか、おなかいっぱいです。しあわせオーラ満開で、関係ない私までしあわせのお裾分けもらった気分です。


 しかしこちらのおふたりは『ラブラブ』『イチャイチャ』って感じるのに、どうして我が(あるじ)様と婚約者様はそう見えないんでしょうね。『女王と配下』『女王と下僕』にしか見えないんですが。菊様の気品がありすぎるのが問題でしょうか。



 それから他の報告事項と初参加者の紹介があり、仕事のチーム分けが発表された。他の方は到着したときに名簿でチェックされチーム分けの名札をもらっていた。私達は弘明さんが引率してくれて、現場に移動するタイミングで名札を渡されてつけた。


「今日はぼく、ずっと菊様のおそばに付かせていただきます。ご安心ください」

 にっこり微笑む弘明さんに菊様も安心されたように見受けられた。



   ◇ ◇ ◇



「めぐろさちでしゅ! にしゃいでしゅ!」

「めぐろゆきたかでしゅ! にしゃいでしゅ!」

「「よろちくおねあいちましゅ!!」」


 天使がペコリと頭を下げる。大人達は拍手喝采。もちろん私も手が痛くなっても拍手した。


「………『サチユキ』ですよね?」

 コソリと弘明さんに質問すれば「ご存じでしたか」とくすぐったそうな笑顔で肯定された。


 人気子供服モデル『サチユキ』。

 赤ちゃんの頃から特定のブランドのモデルとして活躍している男女の双子。あまりの愛らしさにファンが多い。同年代の保護者から広がって今では全世代にファンがいるという話も聞く。

 独身子なしの私がどこから子供服モデルの話を聞くかと問われれば、兄嫁と姉と実母。

 兄のところは『サチユキ』と同い年の、姉のところは一歳下の子供がいる。実母の孫で私の甥姪なわけだが、そんなわけで子供服雑誌を見る機会のあった三人が双子の天使の写真にガッツリ心を(つか)まれた。今では子供服を見たいのか『サチユキ』を見たいのかわからなくなっている。

『サチユキ』の着た服は即買いの三人。まあ甥姪に似合ってるから私は口出ししない。


 それにしてもまさか弘明さんの実の弟妹とは。何歳離れてるんですか。

 そして現物は写真よりも天使。動くとか最高。

「この前の両家の顔合わせにふたりもいましたよ?」と弘明さんに言われるけど、いました!?

「うしろのほうでいい子で大人しくしてたからわからなかったのかも?」


 あの長時間をずっと大人しくしてたんですか。幼児なのにすごいですね。

 そう褒めたらふたりは揃って「えっへん!」と胸を張った。天使。ついでに弘明さんもデレデレになった。そのお顔菊様関係で見せてあげてくださいな。


 このグループに割り当てられた仕事は素材の仕分けと下処理と説明される。作業小屋と説明された建物の外、広い庭のような場所で幼児と保護者が集められた。

 他の参加者も自己紹介。私も白露さんも名乗った。高校生は菊様だけだったけれど、幼児に囲まれても菊様は不満を出すことなくいつもどおりの『理想のお嬢様』だった。


 ここからさらにチーム分けをされる。菊様は『サチユキ』と他の数人と一緒に『陶芸用の土作り』チームに配属された。


「はーい。子供達おいでー。説明するよー」

 ほっそりとした年配男性がにこにこと声をかけ全員を集める。

 さっき自己紹介された。「みやののじいちゃん」。―――安倍家主座様の実の母親、明子様の実父。若くして地元大手銀行の頭取に登り詰めた人物。このひとが頭取時代、地銀は大きく業績を伸ばしている。まだまだ活躍を期待されていたのに突然早期退職をし、姪の起業したこの会社に転職――。

 神代家の調査書の内容を思い出し、ゴクリと喉が鳴った。目の前の穏やかな様子からはとてもそんな辣腕(らつわん)家には見えない。けれど記されていた彼の二つ名『京都の錬金術師』『京都の金庫番』。その『名』はいまだにどこの頭取も得ていないという。


 さっき弘明さんに言われた。『本当の身分はナイショ』『一種の無礼講』。晴臣様も神代家で見せたものとはお顔が違った。なるほどここは一種の『異世界』。俗世とは離れた仙人達の『世界』なんだろう。

 だから京都経済を取り仕切り、兆単位のお金を右から左へ動かしていたひとがバケツを右から左へ動かしていても当然なんだろう。ちょっと脳がパンクしそうですが。


「宮野のおじいちゃんのこともご存知ですか」こそりと弘明さんが耳打ちしてこられた。黙ってうなずくと困ったように微笑まれた。

「気にしたら負けです。ここではみんな『ただのおじいちゃん』と『ただのおばあちゃん』です」「頭の中のデータを一回消したら楽ですよ」


「………今『みんな』っておっしゃいましたか………?」

 思わずツッコむと「あ」と弘明さんは口を押さえられた。

「―――こういうところがぼく『まだまだ甘い』って言われるんだよなあ……」

 ぼやきなにやら反省したご様子。けれどすぐに表情を整え、唇に人差し指を当てられた。


「ナイショで」

「……かしこまりました」


 そんなやりとりの間に『みやののじいちゃん』こと宮野進様の説明は進んでいた。事前におじいさん達が集めていた土に水を混ぜてこね、見本のような塊を作ってほしい、と。この土が「ねんどになる」と聞いた子供達は俄然やる気になった。


 鉄パイプとブルーシートで作られた子供用プールのような場所の中央に土の山がある。幼い子供は水着に着替え、大人は腕をまくしあげズボンの裾をまくり、みんなで土に突っ込んだ。なんと菊様も。

「水入れるぞー」進様の合図でバケツの水が放たれる。きゃあきゃあと幼児特有の高い声が青い空に響く。「ほらこねてこねて!」「足でしっかり踏んで!」他の年配の男女も子供達をけしかける。保護者の大人も「あんたもやりな!」と言われ参加していた。


 菊様はどこか驚いたような表情をしておられた。泥に触るのなんて生まれて初めてでしょうからね。それでも嫌がることなく、むしろ楽しそうに手を動かしておられた。その両横には『サチユキ』がくっついてしきりに話しかけていた。意外なことに菊様は普通にふたりに対応しておられた。


「きくしゃまきくしゃま」

「なに?」

「いちゅけっこんちきしゅるの?」

「さっきヒロが言ってたでしょ? 早くても六年後ね」

「ろくねん」

「なんかいねたらけっこんちきしゅるの?」

「ヒロ。計算」

「二千回以上――ううんと――ふたりがもっとおにいさんおねえさんになってからだよ」

「まださき?」

「まだまだ先だねえ」

「そっかー」


「もう『ほんとうのおねえしゃん』になったの?」

「正式にはまだだけど、まあ、ほぼそうなったと言ってもいいんじゃないかしら?」

「なった!」

「きくしゃま、『ほんとうのおねえしゃん』!」

「わあぁい!」「わあぁい!」

「『おねえしゃん』ふえた!」「『ほんとうのおねえしゃん』できた!」


 泥をまき散らし大喜びする天使たち。かわいい。けど菊様の御髪(おぐし)に泥が。泥が!

 オロオロする私を気にすることなく、髪や顔に泥がつくのも構わず、菊様は楽しそう。


「『本当のお姉さん』なんて長いでしょ。『菊お姉さん』でいいわよ」

「「『きくおねえしゃん』!!!」」


『おねえさん』呼びの許可に天使たちはさらに大喜び。「きくおねえしゃん」「きくおねえしゃん」と連呼している。まとわりつく幼児なんて初めてのはずなのに菊様はただ楽しそう。


「きくおねえしゃん、みて!」「見てるわよ」

「こんなになったよ!」「ほんとね。すごいわね」

 見事にあしらっておられる。そんな才能まであったんですか。すごいですね。


 泥まみれ水びたしになりながら幼児がきゃっきゃと大喜び。そんな幼児に大人達も目を細めている。そして菊様は意外にも真剣に泥と格闘しておられた。


「水分量で触感が変わるのね」

「そうですね。こね具合によっても変わりますよ。土の中の空気を抜いていきますんで」

「この作業のあとしばらく発酵させます。そしたらまた触感が変わりますよ」

「そうなの」


「知らなかったわ」とつぶやくその頬が上気して見える。


「これ、無心になれるわね」

「ですね。ぼくも初めてやりました」

「土相手だと『先見』も発動しないし」

「さようでございますか」


 よく聞こえないけれど、天使たちが泥山の中央でタップを踏み出したところですかさず菊様の横を取った弘明さんと仲良くおしゃべりをしておられる菊様。なごやかな雰囲気。これはこの山の空気感でないと得られなかったでしょうね。


 土と水が馴染み、ある程度の固さになったところで作業は終了した。

 土の塊はおじいさん達が回収。子供達も手伝ってビニール袋のかかった大きなポリバケツに入れた。

 そのあとが大騒ぎだった。「ブルーシート洗うぞー」とあちこちからシャワーがかかり、子供達は大喜び。「きゃあー!!」と歓声を上げながら、逃げ回ったりシャワーに向かって行ったり大騒ぎ。なんと強力水鉄砲を持ってきている大人もいて、子供達だけでなく大人もテンション高くなっていた。

 菊様もブルーシートプールの外側に避難しつつも大きなお口を開けて声を立てて笑っておられた。この方のこんな様子は十三年で初めてで、驚きすぎて「このひとこんなに大きく口を開けられるんだ」と見当違いな感想を抱いた。

 白露さんが涙ぐんでいたのには気付かなかった。



   ◇ ◇ ◇



 騒ぎながらもブルーシートを洗い、干場に干して改めて子供達にシャワーをかけ泥を落とす。大人も手足を洗う。けれど菊様の御髪(おぐし)についた泥はどうしましょう。

「帰る直前に整えますね」「私が浄化かけてもいいわよ」弘明さんと白露さんが声をかけてくれた。


 着替えて髪も乾かした子供達を連れ、向かった場所には机と椅子がたくさん並んでいた。

「みんなお疲れ様! さ! たくさん食べてね!」

 明子様が出迎えてくださり、ひとり一枚の木のお皿とお箸を渡される。


「バイキング形式です。お好きなものをお好きなだけ取ってください」

 弘明さんに説明され、大皿が並ぶテーブルに連れて行かれる。

「菊様。なにをお取りしましょうか」

 さっき『取れ』って言ってた舌の根の乾かぬ内に弘明さんは菊様のプレートを持ちサーブの体制を取っている。菊様は「あれ」「これ」と指さすだけでどんどんとプレートが埋まっていく。

「レーカ! 早く取らないと後ろ詰まってるわよ!」白露さんに指摘されあわてて色々いただく。


 開会式でお立ち台で挨拶をした髪の長い女の子も給仕の中にいた。弘明さんとも親しいらしく「これ私が作りました!」と話をしている。楽しそうな女の子に菊様も「じゃあこれももらうわ」と応じておられた。


「今日のお野菜、竹さんのご実家からいただいたものをかなり使ってます」

「あら。それは楽しみね」

「いっぱい召し上がってください!」


 ニコニコの女の子と別れ、テーブルを囲んだ。白露さんが意外に量を食べるのはまあ護衛職なら当然かなと思えたけれど、弘明さんは一体どこに入るんでしょうか。私や白露さんの五倍は食べましたよね?

「どれも美味しいんで、いっぱい食べちゃいますね!」

 そういう問題?


「菊様デザートいかがですか」

「いただくわ」

「ちょっと待っててくださいね」

 そうして甲斐甲斐しくお世話をする。山盛りのフルーツとデザートを持って戻って来た。

「余ったらぼく食べますんで。お好きなのをお好きなだけどうぞ!」


 そうしていつもの菊様からは考えられないくらいの量を召し上がった。午前の作業で体力使ったのもあるけれど、この山の雰囲気と隣で爆食いする青年の影響が大きいだろうと思われる。


 午前のメンバーが集められ、午後の作業が始まった。

 午後は陶芸体験だった。子供だけでなく大人も参加させてもらい、昨年作った土を使って好きなものを手びねりで作った。

 これに菊様が驚くほど真剣に取り組まれた。

「あら? おかしいわね」「もっと、こう……」「ああ! 穴が開いちゃったわ!」

「なんでこんなに思い通りにならないの!?」と叫ぶその声に喜色が乗っている。お顔は満面の笑顔。楽しそうな菊様に周囲も笑顔になっている。もちろん私も。


 思えばこの十三年間、菊様はいつも取り澄ましておられた。『名家のお嬢様』としての立場をよくわきまえておられ、わがままを言うことも、子供らしい遊びに興じることもなかった。お勉強とお稽古だけで毎日が終わり、特別楽しいことも好きなこともなく淡々と過ごしておられた。

 その菊様が、こんなに表情豊かに感情を表されるなんて!


「きくおねえしゃん! さち、こんなのできたよ!」

「ゆきもゆきも!」

 天使たちは引き続き菊様にまとわりつく。

「ちょっと待ってなさい。私も今………ああ!」

「「あははははは!!」」

 笑う天使たちに菊様も笑っておられる。形が崩れたのに「おもしろいわね!」とゴキゲンだ。こんな菊様が見られるなんて。


 初めてお会いしたとき菊様は二歳。正式採用された三歳からはずっとお側についていた。それこそほぼ毎日顔を合わせ、行動を共にしてきた。歳を重ねるごとに美しく賢くなっていく少女。子供らしさをかけらも見せることなく『理想の名家のお嬢様』を体現したようだった。

 その菊様が。

 子供に混じって、子供のようなお顔で笑っておられる。

 ああ。この方はずっとがんばってこられたのね。何故かそんなことを思った。


 楽しそうな無邪気な菊様になんでか目頭が熱くなった。ただただ見守っていたら「スン」と鼻をすする音が聞こえた。

 顔を向けると、白露さんが鼻と目を真っ赤にして菊様を見つめておられた。まるで母親のような慈愛に満ちた表情に、思わず見つめてしまった。

 私の視線に気付いた白露さん。「アラ」ととりつくろうように口元を両手で隠した。

「いやあね。涙ぐんじゃって。いえね。姫があんまりにも楽しそうだから、なんだか感極まっちゃって―――」

 言いながら目元もぬぐう白露さん。


「歳をとるとダメね。子供のちいさいときのこととか勝手に思い出して、よその子を見てたら勝手に重ねちゃって涙がこぼれちゃう」

「ああ、わかるわかる。あるよねそういうの」話が聞こえたらしい年配のスタッフの方が同調される。

「でもあんたそんなに言うほど歳じゃないだろう」

「まだまだわしらの域に達するには早いぞ」

「アラ。実年齢は関係ないわ。子育て年齢ならそれなりだもの」

「なるほど!」


「アハハハハ!」と笑いになった。ちいさな違和感があった気がするけれど、そんな笑いでどこかにいってしまった。




 帰りの車でも菊様はどこか興奮したご様子だった。

「こんなに楽しかったのははじめて!」「一日だけなんてもったいない」「来年は絶対三日ぜんぶ参加するわ!」やる気に満ちた菊様なんて初めて見た。今日は菊様の『初めて』をたくさん見せていただくことができた。


 泥が取り切れなかった菊様の指に奥様と若奥様は卒倒しそうだった。けれど私からの報告にご家族はひどく驚かれ「そんなに喜んだのか」とどこか呆然とされた。

「写真は撮らなかったのか」と言われ、初めて写真を撮ることを思いついた。

「申し訳ありません」「護衛なので」と言い添えたら「それもそうか」みたいな空気になってお叱りは受けなかった。

 お送りくださった弘明さんが数枚見せてくださっていたから「また弘明殿に聞いてみよう」ということで落ち着いた。



   ◇ ◇ ◇



 翌日以降の菊様はこれまでとは様子が変わられた。

 陶器を目にするとそわそわと落ち着かなくなる。気になって仕方ないご様子。「ご覧になりますか」とお声がけすると「そうね」といかにも『興味ありませんけど?』みたいな顔をして近寄り、目をキラキラさせて観察される。

 無意識らしいけれど手がわきわきと動いておられる。きっとどういう手の動かし方をすればその形になるのか考えておられる。そんな菊様がおかしくもあり可愛らしくもあり、敢えて指摘せず見守っていた。


 白露さんが護衛に加わったおかげで私は休日が増えた。これまでは週に二日休みが取れたら上等で、月によっては休日なしなんてときもあった。菊様からのお口添えもあったらしく、有給休暇なんてものも使わせてもらい、連休なんてものも初めて経験した。

 けれどこれまでろくに休日なんてなかったから『休日の過ごし方』がわからなかった。とりあえず家事をして、のんびりしようとぼーっとしてみた。これが案外よかったらしく、長年つきあいのあった頭痛が減ってきた。体調も良くなった気がする。いかにこれまで緊張感のある激務にさらされていたのかをようやく理解した。


 そのうち菊様は『目黒』の陶芸教室に通うことを決められた。最初は「お試し」と月に一回の体験教室にお邪魔していたけれど、ご自分でお稽古事を取捨選択され時間を作り、ついには毎週陶芸教室に通うようになられた。

 もちろん私も同行。「ここでは護衛は必要ないよ」陶芸教室の先生でもあられる進様がそう言ってくださり、私も菊様と一緒に土とたわむれた。菊様のように才能の発芽はなかったけれど、素人の手慰みで楽しい時間を過ごさせていただいている。


 これまでと同じようで、これまでとは明らかに違う。

 そんな時間を、私達は歩いていた。

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