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【番外編7】杉浦咲良の後悔 2

 神代家の優秀な皆様の手腕により、あっという間に私の転校の手筈は整った。

 とある離島にある、中高一貫校。この国の将来を担う人材を育てるための、エリートが集まる学校だった。


 授業はすべて英語。内容もハイレベル。国内だけでなく海外にも姉妹提携校を持ち、オンラインでの交流も多い。希望者には長期短期の留学も斡旋。世界レベルでの活躍を望まれているから国際交流のための自国文化の学習も必須とされている。


 学生は日本全国から集まっていて、全員が寮生活。学園都市みたいになっていて、この島には学校以外に目立った施設は無い。コンビニも校内にはあるけれど校外にはない。あるのは地元の商店だけと説明された。

 必要なものがあればネット通販で取り寄せ可能。家族からの仕送りもある。だから特に不便はない。

 学校の理念に賛同し、希望と期待を胸に受験して入ってきた生徒ばかりだからみんな優秀。自分のやりたいことや夢をしっかりと持っていて「遊ぶ時間なんてない」らしい。だからカフェも映画館もお店もなくても「問題ない」と聞いた。


 本来ならば中学入学試験でしか入学できないけれど、帰国子女のための特別枠というのが毎年九月にあって、幸いというかなんというか、それに私はまぎれこめた。『まぎれこめた』というよりは『ねじこんだ』というほうが正しい気がする。

 帰国子女枠とはいえ高校一年生で編入する生徒はめずらしいらしく、寮に入るときから私は注目の的だった。


 入寮には両親が付き添ってくれた。

 日本全国に『全寮制の学校』は意外とあって、なかには問題を起こした生徒が集められている学校や行き場のない生徒の駆け込み寺みたいな学校もあった。そんな中でこの学校を選んでくださったのは菊様だと父が教えてくれた。


「これまでの十五年、咲良ががんばってきたのは事実」「がんばって身につけたものは咲良の財産」「せっかく身につけた財産を生かせる学校に行ったほうがいい」そう言ってくださったと。

 私のがんばりを知ってくださっていたことに涙が落ちた。


 ずっと菊様にお仕えしたかった。ずっとお側にいたかった。だから努力した。側仕えからはずされないように。一緒にお稽古を受けられるように。同じクラスになれるように。

 けれど菊様から解雇されたならば、お側にいられないならば、もう努力する意味がない。

 これからなんのために生きればいいのだろう。なにをして生きたらいいのだろう。


「それを見つけるためにこの学校を選んでくださったのだよ」

「菊様のご期待に添えるよう、これからがんばりなさい」


 でも私は菊様から捨てられたのに。

 菊様からだけじゃない。神代家からも、家族からも捨てられたのに。


「『捨てた』んじゃないよ」父が言う。

「あなたのためなのよ」母が言う。

「ここで新しい人生を見つけるんだ」「神代家も、菊様も関係ない。『ただのひとりの人間』としての自分を見つめ直しなさい」


 そんな言葉を残して両親は去った。

 入れ替わるように寮監というひとが来て寮の説明をしてくれた。言われるがままについて歩き、言われるがままに寮生に挨拶をした。ふたりの女子が私の世話係として紹介された。同じクラスになるひと達だと。

 翌日からは彼女達について歩いた。学校の説明、生活について、授業について、クラブ活動について、やるべき当番について。様々なルールや知っておくべき情報を彼女達は惜しげもなく与えてくれた。これまでの生活とは全く違う。目に入るものなにもかもが違う。流されるように日々を過ごし、少しずつ覚えていった。


 意外なことに勉強にはついていけた。私の通っていた学校は上流社会の子女が集まる学校だった。海外の方と交流する機会も多いからと英語学習には力を入れられていた。おかげでオールイングリッシュの授業も問題なかった。

 時折専門用語などわからない単語や言い回しがあるけれど、メモしておいてあとで教えてもらうことができた。クラスメイトも先生方もとても親切な方ばかりだった。


 自国文化理解の授業では茶道や和楽器、着物の着付けや日舞、武道などがあった。茶道も日舞もお免状をいただいていた。流派の違いが多少あったけれど、先生方もそこは理解してくださり、適切なご指導をくださった。おかげですぐに学年一番と言われるようになった。着物は当然着れた。和楽器はお琴と三味線で「教えることはない」と言われた。

「スーパーレディ」というあだ名をつけられた。


 私なんかが『スーパーレディ』なわけがない。本当の『スーパーレディ』を私は知っている。本物の『スーパーレディ』を私はお側で見てきた。


 お勉強でもお稽古でもなんでもできて。美しくて。気品があって。

 あの方が世界の中心だった。あの方のために世界はあると思っていた。あの方をお支えできることが喜びだった。あの方のお側にいられるだけでしあわせだった。あの方のお役に立てることが私の存在意義だった。


 そのあの方から『不要』と言われた。

 私は捨てられた。

 あの方に必要とされない私は生きている意味がない。あの方のお側にいられない人生なんて意味がない。


 けれど死ぬこともできない。どうやったら死ねるのかもわからない。


 生きている意味もなく。

 死ぬ方法もわからず。


 ただ、生きている。

 ただ、流されている。


 あの波と同じ。ただ寄せて、ただかえる。

 呼吸のように。心臓の鼓動のように。


 寄せて、かえし。

 吸って、吐いて。

 ドクン、ドクンと刻むだけ。


 なんの意味もない。

 ただ存在するだけ。


 喜びも、かなしみも、やりがいも、希望も。

 なにもない。ただ在るだけ。


 ザザン。ザザン。

 波が寄せる。

 ドクン。ドクン。

 脈が打つ。


 ここに来てすぐの頃、あるひとが「街のひとにはめずらしいだろう」と自慢げに見せてくれたものがある。

 蝉の抜け殻だった。

「綺麗な形でしょう」「こんなに細い脚の先まで残るんですよ」嬉々としていかにその抜け殻が素晴らしいか語る様子は、なるほど中学生とはいえ研究者だと、この学校にはこんなひとばかりなのかと思わせるのに十分だった。


「あげます!」と押しつけられた蝉の抜け殻は自室の机の上にある。

 背中が割れ、空洞のそれは、今の私を体現しているように思えた。


 外側だけの、中身はカラッポの存在。


 最近になってようやく少しずつ思い知ってきたことがある。

 私の『中身』は、あの方だった。

 あの方のために生きること。あのかたのそばにいること。あの方のお役に立つこと。それがすべてで、他にはなにもなかった。


『依存している』あのときそう言われた。

 そのときは意味がわからなかったけれど、最近少しだけ『そうかも』と思うようになってきた。


 なにかしようにもなにがしたいのかわからない。「好きにしたらいいよ」と言われてもなにが『好き』なのかわからない。なにをすべきなのかわからない。

 あの方がなさりたいことならわかる。あの方がお好きなものならわかる。あの方のためにすべきことならわかる。

 そんな私には「『自己』がない」そう指摘された。

「なんのために生きているの」そう聞かれたから「あの方のため」と答えた。

「洗脳されてんの?」あまりの言い分に怒ったら「心配してんだよ」と言われた。

「あなたの思考回路はあぶないよ」「『自己』がない」「それは『妄信』というんだよ」頭のいいひとはすぐに分析をして結論を出す。難しい単語を並べてくる。

「宗教にどっぷりつかってるひとと同じ」「教祖様に言われたら人を殺すひとと同じ」その言い分にあのときあの方に言われた言葉を思い出した。


『あなたにとって私は「信仰の対象」なんでしょう』

『あなたは「あなたの理想の私」を見ていただけ』

『一度でも「本当の私」を見たことがある?』


 あのときは意味がわからなかった。二歳のあの日から私の世界の中心はあの方で。あの方のことを毎日毎日考えて生きてきた。あの方のために。あの方にふさわしい自分であるように。あの方のお役に立てるように日々努力してきた。

 あのときはただ悲しみしかなかった。私の想いは伝わってなかったのかと。こんなにお尽くししているのに。こんなに尊敬しているのに。ずっと見てきたのに。


 あのとき言葉にできなかったそんな気持ちを、私の世話係としてつけられたふたりは言語化させてくれた。「言わなくてもいいけどさ」と言いながら、ぐちゃぐちゃに固まったものをすこしずつほぐし、ひとつづつ名前をつけていってくれた。

「メンヘラか」「ヤンデレか」「執着系か」ズバリズバリと名前を付け、ズバリズバリと斬り捨てていく。意味のわからない単語の説明もしてくれる。

「ちょっと客観的に見たほうがいい」と数冊の小説とマンガを貸してくれた。「読め」と言われたので読んだ。マンガなんて初めて読んだ。そう言ったら「箱入りか」「お嬢様か」とまた一刀両断された。

「このキャラが昔のあんたでしょ」そう指摘された。「私こんなんじゃないわ!」そのときはそう思って怒ったけれど、最近になって『そうかも』と思うこともある。


「もっと知見を広めなよ」そう言ってふたりは次から次へと小説やマンガを持ってくる。「読んで感想聞かせて」と言われるから読む。

 色々な世界があると知った。色々な価値観があると知った。そうしてようやく、私の世界はあの方しかいなかったのだと理解した。


 理解しても変わらない。私の世界の中心はあの方。けれどあの方に『不要』と言われた私は生きている意味がない。

 けれど死ぬ方法もわからないから生きている。

 幸いやることはあった。授業に出てノートをとる。学習する。課題をする。

 命じられたことを命じられたようにやっていた。他にやることがないから勉強していただけだけど、そのおかげか優秀な人材の集まるクラスでも落ちこぼれることなくついていけていた。むしろ自国文化の授業では一目置かれることが多く、褒めてくれたり敬意を向けてくれることもあった。


 これまでの私は褒められることも敬意を向けられることもなかった。私より素晴らしい方が常に目の前におられたから。称賛も尊敬もすべてはあの方のもの。私はあの方の引き立て役で、あの方をお支えする者。だから称賛も尊敬もいらなかった。

 なのにここでは誰もが簡単に私を褒める。敬意を持って接してくれる。あの方のおまけでなく、あの方の影でなく、『私』を見てくれる。そのことに最初は意味が分からなくておびえていた。戸惑う私にすぐに気付いた世話係のふたりがそんな戸惑いを言語化させ「やべーヤツだな」と一刀両断した。


「『自己』皆無」「依存度高すぎ」「金持ちの世界ってそうなんだ」「こえーな」「洗脳されてないか」「自己暗示かも」「どっちにしても自己肯定感育てないと」「視野が狭いのもどうにかしないと」


 ふたりは教育とか心理学とかに興味をもっていて、それもあって新入生のケアを任されているひとだった。学校側には神代家からある程度の事情は伝わっているはずで、私が「問題を起こして京都を追放された問題児」で「ケアが必要」であることは理解されていたのだろう。だからこそこのふたりを世話係につけてくれたのだろうと今なら理解できる。


 そうして彼女達は私を構い倒した。授業のグループに入れてくれ、一緒に食事を取り、小説やマンガを読ませた。感想を言わせ、どこがいいか、どこがよくないかを教えてくれた。

「『自分』は『育てるもの』なんだよ」「『自分』を大切にできるのは自分なのよ」そんなことを言い、私も知らなかった『私』を探す手伝いをしてくれている。


 波に翻弄される木の葉のようにしているだけでも月日は経った。

 九月に転校してきて、あっという間に冬になった。家族が国外にいる生徒がわりといて、そんな生徒のために長期休みでも寮は稼働していた。京都に帰れない私も寮に残った。クリスマスパーティー、カウントダウンパーティーに誘ってもらい参加した。グローバルな環境を体験させるためか、京都にいたときには考えられない賑やかなパーティーだった。おせちを作り年越しそばを食べた。よく考えたら料理はこれまで調理実習以外したことがなかった。「スーパーレディにもできないことがあったのね」と笑われた。笑われても嫌な気分にはならなかった。京都にいた時には新年ともなるとあちこちにご挨拶に行かなければならず忙しかったけれど、ここではみんなで初日の出を見たあとは昼寝をしてボードゲームをするくらい。こんなにのんびりとした三が日は生まれて初めてで落ち着かなかった。


 家族からは時々連絡が入る。クリスマスも新年も「おめでとう」のメッセージが来た。こちらからも返事を返す。京都がどうなっているか、菊様がどうされているかは一切書かれない。だからあの方がどうされているかわからない。

 学校の同級生からもお稽古の同門の皆様からも一切連絡はない。挨拶もなく急に姿を消した私に文句のひとつでも連絡があるかと思っていたけれど、年を越しても誰一人としてメッセージはない。きっと私が問題を起こしたと知って関わらないようにしておられるのだろう。私が逆の立場だったら同じようにしたと思うから別に怒りも悲しみもない。ただ、あの街に私の『友達』はいなかったんだなと思っただけだった。


 もちろん菊様からの連絡もない。もともと連絡をくださる方ではなかった。私達はいつも顔を合わせていたからメッセージで連絡を取り合う必要がなかった。だからメッセージがないのは当たり前かもしれない。けれど、ココロのどこかで『もしかしたら』と思ってしまう。


 もしかしたら、私がいなくなってさみしく思われているのではないか。

 もしかしたら、私がいなくなってご不便を感じておられるのではないか。


 時折入る家族からのメッセージ以外は鳴ることもないスマホを、わかっていてもつい確認してしまう。

 そんな私に「校内ではスマホ禁止だよ」と世話係のふたりは注意する。寮に戻ってからこれでもかとメッセージをくれる。きっと私がさみしがっていると思って。やさしさなのか嫌がらせなのか判断に迷うメッセージ量に、それでもどこかが軽くなる気がしている。



 年末におせちを作りながら、それぞれの地元ではどんな風習があるか、どんなおせちでどんなお雑煮かを話し合った。意外と楽しかったその話をきっかけに、京都ではどんなことをするのかと行事のたびに聞かれるようになった。初釜、小豆粥、節分、ひな飾り、あちこちの神社仏閣の話、求められるままに知っていることを話した。


 お仕えしていた神代家は旧い家なので、旧い伝統が残っている。神仏への参拝や鉾町ならではの風習もたくさん残っていて、私達側仕えも主家のフォローをするためにそれらの知識を学んでいた。

 必要な道具、ふさわしい衣装、段取り、手順。私達には当然のことをここのひとたちは驚愕をもって聞く。驚く皆様に驚いてしまう。

 何故か段飾りのひな飾りを寮のロビーに設置する計画が持ち上がり、何故か雛人形を手作りすることになった。私は衣装と小物の監修をやらされた。学生の手慰みだから京都で見ていたものと比べたら雲泥の差だけれど、完成した人形はどれもどこか愛おしいものだった。


 先日までひな飾りに奔走していたけれど、それが完成してロビーに鎮座した今、ぽかりと時間ができてしまった。

 今日は世話係のふたりもそれぞれに忙しく、久しぶりにひとりで過ごしている。

 けれど本は読んでしまったし、課題は終わったし。そうなると私にはなにもなくて、ただ海に目を向けていた。



   ◇ ◇ ◇



「さーくらさーん」

 ノックとともに明るい声が響く。

「いませんかー? いますよねー。こんにちはー。モモでーす」

 コンコンコンコンと止まないノックとともに賑やかな声が続く。面倒になって「どうぞ」と答えれば、どこに遠慮を忘れたのかと問いたくなるような乱雑さで扉が開く。

「こんにちはー! ちょっと教えてほしいことがありましてー」


 中学一年生の佐倉(さくら) 百美(ももみ)。初対面の私に蝉の抜け殻を押しつけた人物。

 どういうわけかなつかれ、なんだかんだとこうして押しかけてくるようになった。


 今日もまた数学の問題を聞かれ、京都の風習について聞かれる。

 そうしながらふと彼女との初対面を思い出した。




 中高一貫校だからか、学年の枠を越えた交流も多い。彼女は私の世話係にとつけられたふたりが面倒を見ていた新入生だった。

 そのせいか、入寮した翌日、ふたりにあちこちを案内してもらっているところに突撃してきた。

「杉浦咲良です」と名乗った私に「同じ名前です!」と彼女は喜んだ。

「私、佐倉百美です! おんなじ『サクラ』ですね!」

「……………」

 どう反応していいのかわからず黙って笑顔を作っていた。そんな私に気付いていないのか、彼女はさらに能天気に「あ!」と叫んだ。

「あと、名前もおそろいですね!」

 意味がわからず黙る私に、彼女は構わずにぱっと笑った。

「『サクラ』と『モモ』で、おんなじお花の名前です!」


『同じお花の名前ね。よろしくね』


 幼いあの方の笑顔が浮かんだ。

 もうお側にいられないのを思い出し、目の奥が熱くなった。

 なにも言わない私をどう思ったのか、彼女はさらに続けた。


「て言っても、私の『モモ』はお花の『桃』じゃないんですけどね」

「『モモミ』は『数字の(ひゃく)に美しい』って書くんです」

「『(ひゃく)』は『たくさん』ていう意味なんです」

「『たくさんの美しいものを得られますように』『たくさんの美しいものに出逢えますように』っていう『願い』を込めたって聞きました」

「『願い』叶って、さくらさんみたいな美しいひとに会えました!」

「さくらさんはどんな字ですか?」


 答えない私の代わりに世話係のひとりが「『花が咲く』の『咲く』に『善良』の『良』よ」と答えた。個人情報保護の観念はここには存在しないらしい。


『善良』の『良』なんて初めて言われた。これまで他人に説明するときは「『良い悪い』の『良』」と言っていた。頭のいいひとは言葉選びもうまいのだと思った。


「善良なさくらさんですね!」と目の前の女の子は笑う。その笑顔は刃のように私のどこかを傷つけた。


 なにをのんきに笑うの。なんで私に笑うの。私を憐れんでるの? 嫌味なの? 私は『善良』なんかじゃない。『善良』だったらあの方の側仕えを解任されることはなかった。なにが悪かったんだろう。どこで間違ったんだろう。私はただあの方のお役に立ちたかっただけなのに。


「さくらさんのお名前は、満開の桜の木のようですね」

 不意に彼女はそんなことを口にした。


「『良いこと』が『咲く』なんて、花束みたい」

「たくさんの花が咲いて集まった、満開の桜の木のイメージです」


『勝手なことを言わないで』そう怒鳴りつけたかった。

『なにも知らないくせに』そう叫びたかった。

 怒りと悲しみが打ちつける波のように私を揺さぶる。能天気に笑う目の前の女の子に視界が赤く染まる。

 けれど彼女の言葉のイメージがあまりにも美しくて、同時に幼いあの日のあの方が思い出されて、なにも言い返せなかった。


 黙ったままの私をどう思ったのか、彼女は「さくらさんて呼んでいいですか?」「私は『モモ』って呼んでください!」と勝手に宣言し、「これ見てください!」と蝉の抜け殻を私に見せて熱く語り、「プレゼントです!」と押しつけて去っていった。



   ◇ ◇ ◇



「―――なるほどです! わかりました!」

 一を聞けば十どころか二十も三十も理解する彼女に、本当に『頭がいい』というのはこういうひとのことを言うんだと毎回思う。

 話も済んだし、もういいかと思っていたら、ノートや筆記具をまとめながら彼女は笑った。


「さくらさんは本当にすごいですね! なんでも知ってて、仕草も言葉も綺麗で。お姫様みたいです!」


 単純に向けられる好意に―――イラッときた。


 何もしらないくせに。勝手に『私』を判断して勝手に『私』を評価して。

 それはあなたの勝手な思い込みでしょう? あなたの『理想の私』でしょう?

 私に『理想』を押し付けないで。私はそんな人間じゃない。私は―――


『あなたは私に「理想の主」を見ているでしょう?』


 ふ、と。

 あのときのあの方の声が思い出された。


 ―――ああ、こういうことか―――


 突然腑に落ちた。

 こういうことだ。あの方のおっしゃる通りだった。私はあの方に『理想』を見ていた。

 私が『理想』を見ていたからあの方は理想どおりに振る舞わなければならなくなった。私が『理想』を追いかけたからあの方は常に走り続けなければならなかった。

 それはどれほどのご負担だっただろうか。


『自分』を見ない側仕え。

『好意』というプレッシャーを常にかける側仕え。

 ああ。今理解した。私は側仕え失格だ。


 なにが『菊様のため』だ。その言葉さえあの方を追い詰めたに違いない。

 あの方はきっと全部わかっていらした。わかった上で『理想のお嬢様』で居続けてくださった。

 わかっていなかったのは私。あの方が寛大で有能なことをいいことにいい気になっていた。得意になっていた。『素晴らしい方の側仕えである自分』に酔っていた。今ようやくわかった。


『あなたは「あなたの理想の私」を見ていただけ』

『一度でも「本当の私」を見たことがある?』


 あのときのあの方の言葉が突き刺さる。ようやく意味がわかった。おっしゃる通りだった。私はきっと『本当のあの方』を見ていなかった。


 そんな人間が長年側に居続けて、あの方にどれほどのプレッシャーだっただろうか。どれだけご不快だっただろうか。

 今私が感じたような苛立ちだってきっと飲み込んでこられた。無邪気なこの子の笑顔が私にとって刃だったように、私の存在があの方にとって刃だったことだってあったかもしれない。


 ようやくわかった。

 自分が似た立場になって、似たような笑顔を向けられて、ようやく理解した。


 私は側仕え失格だ。

 自分のことばかり考えていた。自分の思うようにしようとしていた。

 そんなつもりじゃなかった。けど、無意識にそうしていた。


『私を「理由」にしないで』


 あの方の声が響く。


『私を言い訳に使わないで』

『私を口実にするのはやめて』

『私の気持ちを勝手に決めつけないで』


 つまりそれは、私がそれまであの方に行ってきたこと。

 あの方がご不快に思いながらも飲み込んでくださっていたこと。


『私の気持ちを勝手に決めつけないで』

 ああ。私もこの子に対してそう言いたい。これまでにこの子に対して言いたくても言語化できなかったモヤモヤとしたものはそれだ。つまりあの方もずっとこんなイライラモヤモヤしたものを私に対して感じておられたんだ。


 恥ずかしい。情けない。


 過去の自分が頭に浮かぶ。得意げに自慢を振りまき、主の隣でえらそうに振る舞う小娘。なんて自分勝手な。なんて矮小な。なんて醜い。


「―――さくらさん?」

 あの子の声が聞こえる。それでも返事もできない。

「どうしました? おなかいたいですか?」

 見当はずれな言葉にまた腹が立つ。ああ。案外的外れでもないのか。痛くはないけれど腹が立っているのだから。おなかではなく別のところが痛むから。


 ポタリと拳に雫が落ちた。

 ポタリポタリと雫は落ちる。


「―――ごめんなさい。私、何か悪いこと言いましたか?」

 言ったわよ。あなたのせいよ。あなたのせいで私は見たくなかった私に気がついてしまったのよ。

 そう言いたくても声が出ない。ただ雫が落ちるだけ。


 そっとなにかが肩にかかった。

 引き寄せられ、背中を撫でられた。

 何も言わず、ただ抱きしめて撫でてくれる。『触らないで』『歳下のくせに』『生意気』頭のどこかでそんな言葉が浮かぶのに口から出て行かない。何も言えず、何もできず。目が熱い。喉が痛苦しい。かきむしりたくても腕も動かない。ただただ撫でられ抱きしめられていた。


「―――私、大好きなひとが、いたの」


 どうにか声が出た。

 しゃくりあげながら、ただ吐き出した。


「大好きだったの」

「ただ大好きだっただけなの」

「だけど、そのことであの方を傷つけた」

「今、やっと、わかった」


「私はあの方を見ていなかった」

「『私の理想のあの方』を見ていたにすぎなかった」


「あの方のおそばにいたかった」

「それだけだった」

「でも、おそばにいたせいで、あの方を傷つけていた」

「そんなつもりなかったのに」

「ただ大好きなだけだったのに」

「おそばにいたかっただけなのに」


 私のほうが歳上なのに。歳下の子に撫でてもらうなんて。こんな泣き言言うなんて。情けない。ふがいない。

 そう思うのに気が付いたらすがりついて泣いていた。彼女は黙って私を抱きしめ背中を撫でてくれた。


「―――そんなに好きだったんですかぁ」

 間の抜けた声に黙ってうなずく。


「そんなに好きなひとがいるなんて、素敵ですね」

「うらやましいです」


 ―――言われた言葉の意味がわからなくて、思わず固まった。


「私にはまだそんなふうに強く想える相手はいないので」

「そんなひとに出逢えたさくらさんがうらやましいです」


 意味がわからなくて身体を起こそうとした。それがわかったのだろう。彼女は腕をゆるめ、私の顔を正面から見つめた。

 穏やかな笑顔だった。気負いも侮蔑もなにもない、いつもどおりの彼女に、不思議なことに肩のチカラが抜けた。


 ポケットからハンカチを取り出した彼女は私の顔を拭いてくれた。そのままハンカチを持たせてくれたので受け取り、口を隠すように押さえた。


「『本当のそのひと』なんて、わかるわけないじゃないですか」

「『本当の自分』だってわからないのに」


 そう言われたらそうかもと思った。

「さくらさんは自分がどんな人間か、わかってるんですか?」

 指摘されて首を振った。今ようやく昔の自分がいかに駄目だったか知ったくらいだもの。


「でしょ?」

「自分のことだってわからないんです。いわんや他人をや、ですよ」


 茶化すようにそう言って、彼女は笑った。


「私もヨリさんに言われました」

「理解するために言葉があるんだ、って」


「だから、おはなししましょ?」

「本当はどんな自分なのか。本当はどう思っているのか。相手はどんな人間なのか。どんなことを思っているのか」

「おはなししているうちにみつかるものもあるんです」

「私はそれをこの学校で教えてもらいました」


「私も同じです」

「私も『私』がわからなくて、他のひとから勝手なイメージ押し付けられて、どうしていいかわからなくて、でも私だって他のひとに勝手なイメージ押し付けてたって知ったんです」

「ヨリさんとアカリさんのおかげで、私は『今の私』になれたんです」

「だから」

「さくらさんも大丈夫ですよ」

「ヨリさんとアカリさんがついてますから」

「きっといい方向に向かいますよ」

「いつかまた『大好きなひと』に逢えますよ」

「次に逢えたときに『大好きだったよ』って言ったらいいですよ」

「言葉にしないと伝わりません」


 そうだ。ホントだ。私はあの方に一度も『好き』と伝えたことがなかった。そんなことも知らなかった。

 敬意だと思っていた。尊敬だと。主従関係から来る敬愛だと。

 けど、違う。もっと単純なこと。

 あの方が『好き』だった。

 美しいお姿が。凛とした雰囲気が。気品あふれる仕草が。見本のようななにもかもが。

 大輪の大菊のような、女王にふさわしい風格を持ったあの方に、ただあこがれた。『好き』だった。


「―――ありがとう―――」


 どういうわけか言葉が勝手にこぼれ出た。涙も勝手にこぼれ出る。


「今会えなくても『好き』でいたらいいと思います」

「想うだけなら勝手です」

「まあ、ストーカーとか迷惑行為とかはマズいと思いますけど……、でも、『推し活は生命の糧』ってウチの母親が言ってますから。『大好きなひとのためにがんばる』のはいいんじゃないでしょうか」


 彼女なりに私を励まそうとしてくれているのが伝わって、なんだかくすぐったく、胸にあたたかいものが広がった。彼女の言葉もなんだか納得できるもので、どこかが少し軽くなる気がした。


 ぐずぐずと鼻をすすっている間、彼女がスマホをいじっていた。間を置かず世話係の二人が飛んできた。ノックもなしに部屋に入り、飲み物やお菓子を広げるふたり。びっくりして無断侵入を怒るタイミングを逃してしまった。


 三人がかりであの方について聞かれた。「写真はないの」と聞かれたからスマホの写真を見せた。高等部に進学したときにご一緒させていただいた宝物の一枚。「『あの方』って女の子だったの!?」と何故か驚かれた。

「なにこの美人」「お姫様だ」「これで文武両道お稽古完璧お金持ちで性格よし?」「そりゃ心酔するのも納得だ」あんまりにも三人が感心して褒めてくれるのがうれしくて、調子に乗ってあの方の写真を見せた。久しぶりに写真を見た。写真でもあの方のお姿を拝見できるだけでうれしかった。

 聞かれるままにあの方の話もした。幼い頃からの色々を聞いてもらっているうちに新たな気付きがあったり大切にしたい思い出を思い出したりできた。


「ええと………女の子が好きなひと?」質問の意味がわからなくて色々聞いた。誤解があることに気がついた。「違うわ! 敬愛よ!」「そんな感情を(いだ)くなんて、あの方に失礼よ!」「私、結婚相手は男の(かた)がいいわ!」驚いてかなり余計なことまで口走った気がするけれどどうにか誤解は解けた。


 自分がなにをしたかも白状した。妬みから下級生をイジメたこと。勝手に思い込んで暴走し名家に反抗したこと。あの方に私の理想を押し付けていたこと。

 あのとき九条の娘は中学一年生だった。話を聞いてくれているこの子と同じ。この子が他の誰かにイジメられたらと考えたとき、自分はなんて非道いことをしたのかと恐ろしくなった。

「やっちゃったことは『なかったこと』にできない」「これから反省して、もう二度としないようにするしかないよ」ふたりがそう諭してくれる。

「名家に反抗したら追い出されるの」「京都こえー」そんな反応に「安倍家は特別なの」と言った。詳しい説明を求められ「ああで」「こうで」と安倍家の噂話を語ったら「マンガの話?」と言われた。


 知られたくなかったあれこれを全部暴露しても平気な顔をしている三人に「軽蔑したでしょ」とついこぼした。


「べつに」

 あっけらかんと、彼女達は答えた。


「人間誰だってなんかかんかやらかしてんでしょ」

「やらかしの程度の違いがあるだけ」

「やらかしたら挽回すればいいのよ」

「人生まだまだ長いんだから」


 これまでと変わらずのんきに笑う三人に、また涙が勝手に落ちた。

「私も『ヨリ』って呼んでいい?『アカリ』って、『モモ』って、呼んでいい?」

 恥を忍んでそう聞いたら大袈裟なくらいに喜んでくれた。



   ◇ ◇ ◇



 その後も忙しくも有意義な学校生活を送った。

 彼女達だけでなく学年の境を越えてたくさんのひとと関わり、友人と呼べるひとが何人もできた。


 自国文化の授業で特出した成績を出していたことから異文化交流会とか交換留学とかに呼ばれるようになった。招かれるままに応じ、求められるままに学んだことを披露していたら「是非ウチに!」と言ってくださる方が何人も現れた。


 イギリスの日本文化研究者の教授の招きに応じ、受験をしてその方の在籍される大学へと進学した。

 イギリスで日本がどのように教えられているのか、日本のことをどう伝えているのか、実際に目にしなければ知らなかったことを学んだ。意外と日本のマンガやアニメが広まっていて、寮にいたときに読まされ見せられたあれこれが非常に役に立った。

 京都で学んできたこと、覚えた知識を皆様が重宝してくださる。逆に私はイギリスの文化や歴史、服飾について教えていただいた。互いの類似点や相違点を見つけ、歴史的考察ができ、案外面白いものとなった。


 論文が認められ博士号をいただき、大学を卒業しても教授のもとにいる。教授は私を正式に助手とし、皆で日本文化の研究をし、広める活動をしている。


 もういいお年齢(とし)のおばあさまなのに教授は若々しくお元気。何度も日本とイギリスを行き来しておられる。

「サクラも一緒に京都に行きましょうよ」と何度も誘ってくださるけれど、私はいまだに京都に足を踏み入れていない。


 両親から菊様は弘明さんとご結婚され、お子様もお産まれになったと聞いた。「もう京都に帰ってきてもいい」とも言われた。けれどまだ帰れない。


 昔の私の世界の中心は菊様だった。菊様が世界のすべてで、菊様のために世界があった。だからこそ依存して信奉した。他に目を向けることができなかった。

 あれからヨリやアカリ達と色々話をし、自分なりに色々考えた。

 私は視野が狭かった。世界が狭かった。それならば、広い世界を見ればいい。広い世界を見ることで広い視野を得ればいい。そうして『確固とした私』を築き上げればいい。


 あの方に依存するのではなく。後ろから追従するのではなく。

 あの方に並び立つ自分になれ。


 それが私の出した結論。私の新たな目標。


 そのためにはなにが必要か。

「これが私です!」と言えるための知識と経験。

「私はこれをがんばりました!」と胸を張って言えるだけの時間と自信。


 それを得るために私は渡英した。広い世界に飛び出した。

 ありがたいことにこれまでに積み上げてきた色々なものが役立った。茶道も日舞も、着付けもお琴も、神代家で学んだ様々なことも。

 無駄なものはひとつもなかったと知った。努力は私の血肉になっていたと知った。

 今はその血肉を活かし『私』を再構成しているところ。『確固とした私』を作り、あの方に並び立つために。


 何年かかるかわからない。

 成し得るのかもわからない。

 けれど。いつか。




 今でも時折思い出す。

 二歳のあの日。初めてあの方に出逢ったあの日。


「こんにちは」「わたし、さくら。あなたは?」

「菊よ」

「同じお花の名前ね。よろしくね」

「うん! よろしく!」


 肩書も。主従関係も。信奉も崇拝もなにもなかったあの頃。

 ただあの方に惹かれ、ただ大好きになった。


 いつかあの日のように笑いたい。単純な気持ちだけで、他愛もない話をしたい。



 幼いあの日、私はあの方と『ともだち』だった。

 いつの間にか『ともだち』でなくなっていた。『ともだち』だったことを忘れていた。

 今私はあの方の『ともだち』になりたくてがんばっている。


 あの方に並び立つ自分になりたい。

 胸を張って「大好き」と言いたい。

 そうしていつか必ず言うんだ。


「おともだちになってください」って。



 後悔は散々した。反省も検証もした。

 そうして残ったのは単純な「好き」という気持ち。

 仲良くしたい。今さらだけど。今だから作れる関係がきっとある。


 いつかお互いの子供や孫を連れて「あのときああでしたね」なんて言い合えたら。

「あのときはごめんなさい」「若かったの」なんて言えたら。


 あの方は許してくださるかしら。仲良くしてくださるかしら。もう一度一緒に青春を味わうことができるかしら。


 そう思いながら、いつの日かそんな日が来ると信じている。

 その日を楽しみに、今日も私は生きている。潮風を浴びながら。




 今日も海風が私の髪を揺らす。

咲良は悪い子じゃありません。真面目で一生懸命な努力家です。前世の記憶と経験がある菊についていける有能な子です。ただちょっと頭が固くて菊に心酔しすぎでるだけです。

若さゆえに「自分の正義以外認めない」というころが菊に「ウザい」と思われたし、自滅へとつながりました。

明日からの菊の専属護衛視点でそのあたりにも触れます。

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