【番外編7】杉浦咲良の後悔 1
菊の側仕え兼学友のおはなしをお送りします
全2話です
かなり長いですが、話数を増やしたくなかったのと重いのを翌日に引っ張りたくなかったので一気にお届けします
今日も海風が私の髪を揺らす。
ザザン、ザザン。波音が響く。
顔に当たる風は潮の香が濃い。むせかえるほどの強い潮の香に最初は気分が悪くなったけれど、それにもすっかりと慣れてきた。
目の前には青い海。白い線のような波が移動するのを見るともなく見ていた。
ここは、離島の全寮制高校の一室。
窓から見えるのは海だけ。
ほかにすることもなく、見るものもない。だから目を向けているだけ。
ただ、それだけ。
なんでこんなことになったんだろう。なにが悪かったんだろう。どこで間違ったんだろう。
答えの出ない自問を今日も繰り返す。
後悔は尽きない。嘆きはおさまらない。
どうして私はここにいるんだろう。なんであの方のおそばにいられないんだろう。私の居場所はあの方の隣のはずなのに。
あの方。
私の唯一の主。
敬愛する私のお姫様。
神代 菊様。
◇ ◇ ◇
あれはなんの集まりだったのだろうか。
二歳だったと思う。「お出かけするよ」とかわいい服を着せられかわいい靴をはかせてもらった。鏡の中の自分はとてもかわいくて「おひめさまみたい!」と喜んだ。
そうして連れて行かれた先には子供がたくさんいた。
どの子もかわいかったけど、それでも「わたしがいちばんかわいい!」と思った。
今にして思えば随分と自己評価の高いことだと思うけれど、まだちいさくて自分の世界しか知らなかったから『かわいい自分』は『おひめさま』だと思っていた。家族から愛情を注がれ、私は『世界の中心』にいた。
そんな私の自尊心は、すぐに砕けて散った。
『ホンモノのおひめさま』が、そこにいた。
ひとり椅子に座って子供達が遊ぶ様子を見守っていたのは黒髪の女の子。私と同じくらいの年齢に見えるのに、ひどく落ち着いた子で、それでいて光り輝いて見えた。
これが『気品』だと、知った。
これが『ホンモノ』だと、思い知らされた。
大きな目。ふっくらした頬は健康的に赤く、ちいさな唇も赤くてお人形さんみたい。絹糸のように艶のある真っ黒なストレートヘアを肩の下でまっすぐに切りそろえて、白いドレスを着ていた。
あまりにも綺麗で、人間と思えなくて、『おはなししてみたい』と思った。他の子もおはなししているのを見て、私も思い切って話しかけた。
「こんにちは」「わたし、さくら。あなたは?」
「菊よ」
にっこりと微笑む表情も、答える声も綺麗で、綺麗なひとは声も綺麗なんだと感心した。
「同じお花の名前ね。よろしくね」
そのときはまだ漢字を知らなくて、私は『咲良』で『桜』ではないと、厳密には『同じ』ではないと知らなくて、こんな綺麗な子と『同じ』と言われたことがとにかくうれしくて、「うん! よろしく!」と答えた。
そのままきくちゃんのそばにくっついて一方的に色々話しかけた。
きくちゃんは嫌がることなく、むしろ楽しそうにしてくれて、私はきくちゃんが大好きになった。
幼稚園に入るにあたって、また綺麗な服を着せてもらってお出かけした。両親と祖父母も一緒のお出かけで、行った先にはきくちゃんがいた。
そこで言われたこと。
きくちゃんはすごいおうちの子。「おともだちとしてそばにいてやって」きくちゃんのおかあさんに言われた。
すぐに「もちろん!」と答えた。
そうして幼稚園入園のその日から私は菊様の『御学友』としておそばにはべることになった。
「菊様の御学友となるからにはそれなりの実力がなければならぬ」と、お稽古をたくさん命じられた。お茶。お花。日舞。護身術。外国語。ピアノ。お琴。大変だったけど、どのお稽古も菊様が一緒だったからがんばれた。
菊様はなんでもできた。どんどん身につけていかれる菊様についていけなくなったらおそばにいられなくなるということは子供でも理解できた。だから必死にお稽古に取り組んだ。自宅に帰ってからも練習を重ねた。努力して努力して、菊様の隣を死守していた。
小学校にあがる頃には『主従関係』とか『家と家の関係』とかがうっすらとではあったけど理解できるようになった。
我が家は菊様の神代家に代々お仕えしている家。父も母も祖父母も、それぞれに神代に関係する仕事に就いていた。母が神代の若奥様――菊様のお母様と子供の頃からの友人で、若奥様がお嫁に入られるときに側付きとして神代家に就職した。そうして同じく若旦那様の側近だった父と結婚した。
だから私も当然のように考えていた。
菊様の結婚される方の側近の方と結婚すると。
◇ ◇ ◇
美しくて気品のある菊様は、当然おもてになる。パーティーや会合に菊様が姿をお見せになるだけで男性がわっと群がってくる。そんな男性達から菊様をお守りするのも私の役目。たくさんの男性に圧をかけられるのはこわい。けど、そんなこわい思いから菊様をお守りしているという自負があるからがんばれる。とはいえ身の危険を感じるようなときは専属護衛の立花さんが出てくれるんだけど。
菊様はどんな場面でもどんな方がお相手でも平然と穏やかに対応しておられる。素晴らしい方だ。ときには大人な男性が迫ってくることもあるけれど、軽くいなしてちょっと釘を刺してひらりと立ち去る。まさに淑女の鑑。
菊様に言い寄って来た男性はすべて菊様のご家族へ報告する。当然迷惑行為をされたときにはその旨も。まだ幼かったときには報告にもれがあった私のフォローを菊様がしてくださった。恥ずかしくて情けなかったけれど「私が覚えていない方を咲良が先に報告してくれていました」「咲良は良くやってくれていますよ」とお声をいただき、ますます菊様に心酔するようになった。
その菊様が唯一親しくされているのが、安倍家の晴明様。
他の方はご挨拶だけで済まされるのに、晴明様とだけは「少しお話しましょうか」と場所を変えて座ってお話される。いつも五分とか長くても十分程度だけれど、毎回毎回となれば「菊様は晴明様のことがお好きなのでは」と思うのは当然のこと。
晴明様は男性なのにとても美しい方。艷やかな黒髪。ぬけるような白い肌。いつでも礼儀正しくて気品があって、菊様と並ぶと人形のよう。妖精の王子様とお姫様だと言われても納得の美しさで「お似合い」だと思っていた。
安倍家は古くから続く名家。晴明様はその跡取り。美しさも、ご身分も、年齢も、菊様にふさわしい。
それに。
菊様に私がついているように、晴明様にも御学友の男性がついていた。
晴明様の母方の再従兄だというその方も素敵な男性。晴明様が「ヒロ」とお呼びになるその方は弘明さんとおっしゃる。
やわらかそうな茶色い髪に二重の垂れ目。やさしい内面を示すようにいつも穏やかにほほ笑んでおられる。
菊様と晴明様が合流したときに私と立花さんにそっと目礼してくださる。私達側仕えを無視される男性も多いのに、弘明さんはいつも丁寧に接してくださる。
弘明さんはきっと晴明様が成人したのちは側近になられるんだろう。それなら。
晴明様に菊様が嫁がれたら、私が弘明さんに嫁ぐのは当然のこと。
私は弘明さんを『将来の旦那様』だとずっと思っていた。
会話したことはないけれど、おふたりの結婚が決まったらきっともっと交流が増えるはず。そうしたら親しく言葉をかわして、一緒におふたりをお支えして……。
弘明さんはやさしい方のようだから私達はきっとうまくやっていける。私の両親のように。
菊様にふさわしい私になるようにがんばっていたけれど、同じくらい弘明さんの妻にふさわしく在れるように私はがんばっていた。
なのに、そんな未来が消えた。
晴明様は菊様を選ばなかった。
晴明様が選んだのは、二学年下の九条家の娘だった。九条家は晴明様のお祖母様のご実家。つまりは父方の再従妹。お祖母様の古希祝いに家族で出席された彼女とはその場が初めての顔合わせで、晴明様が「是非に」と望まれたという。
「裏切られた」そう思った。
「なんで菊様を選ばないの」そう思った。
菊様を選ばなかった晴明様も、晴明様に選ばれた九条の娘も憎かった。
当時私達は中等部の三年、九条の娘は同じ学校の一年生だった。
初等部でも同じ学校だったらしいけれど接点がなかったから全然知らない。だから婚約の話を聞き、どんな娘なのか見に行った。
菊様と比べ、美しさも気品も劣る娘だった。「この程度で」「なんでこんな娘が」腹が立って腹が立ってただ憎らしかった。
晴明様の隣は菊様のための場所なのに。菊様と晴明様が結ばれたら私は弘明さんの妻になるのに。
想い描いていた未来を壊した九条の娘が憎かった。だから呼び出して婚約を辞退するよう話をした。でも九条の娘は婚約を継続する。だから思い知らせてやった。
こんな気品も足りない小娘が安倍家の嫁など勤まるわけがない。こんな美しさの足りない小娘が菊様に成り変われるなどおこがましい。
菊様のために。神代家のために。安倍家のために。私が思い知らせてやらなければ。そうして婚約など破棄させなければ。
そう思っていたある日。菊様に言われた。
「これ以上九条家の莉華さんに構うなら、あなたを側付きからはずします」
一緒に制裁を加えていた皆様も集められた。
「守るべき後輩を傷つけるような方とは一緒にいたくない」「これ以上品位のない行動をするならば、私とは距離を置いてほしい」
「なんで」思わずすがった。
「私達は菊様のためにやっているのに」
「私は頼んでおりません」きっぱりと言い切られた。
「私を言い訳に使わないで」はっきりと拒絶された。
だって。だって。あの子では晴明様にふさわしくないのに。
「それを決めるのはあなたではないでしょう」「晴明様が選ばれた方をどうしてあなたが勝手に『ふさわしくない』などと言うの」「晴明様に対しても安倍家に対しても無礼な行いだということがわからないのですか」
だって。晴明様には菊様のほうがふさわしいのに。
「私はこれまで一度もあの方を『恋愛対象』だと思ったことはありません」「あの方も私を『恋愛対象』だと見たことはありません」「他の方々が勝手に私を手に入れようと迫ってくるなかであの方だけはそういう対象として見てこない。だから一緒にいて楽なのです」
『好きだからそばにいた』のではなく『好きじゃないからそばにいた』『ただの異性避け』だったと言われた。頭を殴られた気になった。
「晴明様も同じ。私を『異性避け』にしておられただけ。お互い恋愛感情はまったくない」「これからもそれは変わらない」「あの方を『夫』とする気は、私には一切ない」
そこまで言われても諦められなかった。菊様ほどの素晴らしい方こそ名家の嫁はふさわしい。あんな娘ではふさわしくない。
「私を口実にするのはやめて」
「私の気持ちを勝手に決めつけないで」
初めて見る厳しい表情。初めて接するお怒り。
「自分達で過ちに気付ければ黙っているつもりだったけれど、あなたたちは結局変わらなかった」
知られていた? なにを? どこから?
「あなたたちが淑女にふさわしくない言動をしていたと、私だけでなく先生方もご存知です」
「当然でしょう?」とおっしゃる菊様。私達は震えることしかできない。
「これ以上九条家の莉華さんに手出しはしないで」
「勝手に私の『名』を使わないで」
「私の言葉を守れないならば、相応の対処を取らせてもらいます」
「これは『忠告』ではありません。『警告』です」
「申し訳ありません」謝罪したけれど「何に対する謝罪なのか」と問い詰められた。
「謝るならば九条さんにでしょう」とも。
そのまま菊様は一年生のフロアに自ら足をお運びになり、九条家の娘に頭を下げられた。「抑えられなかった自分に責がある」と。
菊様に頭を下げさせてしまったことが情けなくて悔しくて申し訳なくて、あわてて菊様の後ろから謝罪した。けれど菊様は私達を一切見ることなく九条家の娘と親しげに会話を重ねられた。
「私は『菊』でいいわ。あなたのことは『リカ』と呼ばせてもらってもいい?」と、お名前呼びまで許可された。
◇ ◇ ◇
こんなはずじゃなかったのに。
菊様の一番の側仕えは私のはずだったのに。
菊様が晴明様と結婚され、私は弘明さんと結婚して、ずっと菊様を支えていくはずだったのに。
「あなたが安倍家の弘明さんが『好き』なら、好きに行動すればいい」「私を理由にしないで」菊様に言われた。
「どうして私があなたの都合で動かなければいけないの?」「あなたは私を操りたいの? 利用したいの?」
そんなこと考えていない。ただおそばにいたいだけ。お支えしたいだけ。それだけなのに。
「ならどうして私の気持ちを勝手に決めつけるの?」「それも見当はずれな決めつけを」
「そもそも下級生をいじめるような人間とは一緒にいたくない」「いじめの理由にされて私がどんな立場になるか、考えることもできない人間はそばに置きたくない」
そうして私は側仕えからはずされた。再教育を受けることになった。
「主の品位をおとしめた」「『神代』の『名』をけがした」とあちこちから叱られた。なにが悪いのか、どこが間違ったのか、滔々と教えられた。
半年間、菊様のおそばに近寄ることを禁じられた。菊様は私が『菊様を口実にしたこと』『菊様の「名」を出したこと』をひどくお怒りで、今回の件をご家族に報告された。「これ以上九条家の莉華さんに構うなら」「側付きからはずす」といわれたけれど、事情聴取と話し合いの末、私は菊様の側付きに「ふさわしくない」となった。
登下校は別になった。登校して謝罪したくても『近寄るな』と命じられているから近寄れない。クラスメイトとしては普通に接してくださるけれど、会話らしい会話はない。会合にもお稽古にも同行できなくなった。
「弘明さんに好意を伝えたらいい」と菊様に言われたけれど、どうも弘明さんは高校に入られてから変わってしまったらしい。「あちらこちらの舞妓芸妓に手を出しては捨てている」と噂になっていた。「身分が低いくせに生意気」「いい気になってる」「女の敵」兄やその友人達から、お稽古で、出席したパーティーで、そんな話を何度も耳にした。「今度はあそこの芸妓と付き合っているらしい」「それは先週の話だろう。今はあそこの舞妓らしいぞ」
あんな誠実そうな見た目で実は女たらしだった弘明さんにがっかりした。幻滅した。そもそも菊様が晴明さんと結婚しないならば私が弘明さんと結婚する意味がない。そう思って、パーティーで弘明さんを見かけても接触しなかった。
◇ ◇ ◇
四月に菊様から側仕えを外された私だけど、クラスメイトとしては普通に接してくださった。私と一緒に九条家の娘に制裁を加えていた皆様も菊様に近付くことを禁じられていたから私達は固まって様子をうかがっていた。
私達がおそばにいなくても菊様は平気そうだった。
同じ班になったりペアになったりすれば普通に接してくださる。休憩時間はおひとりで読書をして過ごしておられた。他の子達は私達に遠慮して菊様に近寄ろうとしなかった。それを菊様は許容しておられるように見受けられた。
おひとりでも菊様は凛として誇り高く、私達はますます菊様に心酔した。
お稽古も一緒だから当然顔を合わせる。けれど菊様は必要以上に嫌悪を向けられることはなかった。近付くことはお許しくださらなかったけれど、適度な距離を保って同門として接することはお許しくださった。
そんな私達の関係の変化は師範方や先輩方にはすぐに知れ、菊様のおられないところで色々言われた。なにが悪かったのか。これからどうすればいいのか。菊様に恥じぬ淑女になるよう諭された。
私は悪くないのに。悪いのは九条のあの娘なのに。そう思ったけれどそれを出したらますます怒られることはわかっていたから大人しく話を聞いていた。菊様に近寄らないようにしていたけれど、陰ながらお守りすべく隠れて見守っていた。
家族にも、神代の奥様若奥様にも折に触れて菊様のおそばに戻りたいと訴えた。
もう菊様がご不快にならないようがんばると。菊様のご希望に添えるようになると。菊様をこれからもお支えしたいと訴えた。
与えられた課題をこなし、命じられた講習を受け、学業もお稽古もがんばった。
すべては再び菊様のおそばにつくため。
私の主はこの方以外にない。完璧な淑女。誰よりも美しく気品がある、女王のような方。優しく公平。頭もいい。気配りもできる。下の者にもご配慮くださる。完璧な主。この方と共に生きることが私の人生。私のすべて。私の喜び。だからこそ再びおそばにお仕えしたい。
折に触れ訴え続けた。命じられた課題に必死で取り組んだ。菊様には近づけないけれど少しでもおそばにいたくて遠巻きにした。
そうして半年が経ち、高等部に進級するタイミングでようやく側仕えに復帰できた。
うれしくて、すぐに菊様にご挨拶にうかがった。
「わかっているわね」
菊様は厳しいお顔でおっしゃった。
「私を口実にしないで」
「私の気持ちを勝手に決めつけないで」
「それが守れないならば、貴女は不要です」
「承知致しました」
深く深く頭を下げた。
「心を入れ替えてお仕え致します」
「どうぞお側に置いてください」
そうして新学期から菊様とともに登校できるようになった。あの一件で遠ざけられていた方々もお側につくことを許され、私達は再び菊様を中心とした学校生活を送った。
◇ ◇ ◇
祇園祭の山鉾巡行の日。菊様は熱を出し学校をお休みされた。菊様が体調を崩されるのはめずらしいことだけれど、ここ数日の暑さは「例年にない」とニュースでも言っていたくらい尋常でないものだったから「暑気中り」「一日エアコンの効いた部屋でゆっくり休めば大丈夫」と聞き安心した。
その診断どおり翌日にはお顔を見せてくださった。
「暑さに負けるなんて。情けないわ」そうおっしゃるお顔の色は疲労がにじんでいて「ご無理なさいませんよう」と注進し、お荷物もなるべくお持ちして過ごした。
その頃から菊様のお祖父様であらせられるご当主様を中心に『菊様の婚約者探し』が活発化した。
それまでもあちこちからお話があったと聞いている。けれど毎回菊様が「不要」とお断りになっておられた。菊様がかわいくて仕方ないご当主様は菊様に嫌われたくないからと引いておられたけれど、何故か今回はやたらとやる気になっておられる。お茶会で、出先で、ご当主様は若い男性を連れて来られ、強制的に菊様と顔合わせをされた。
どなたも立派な方ばかり。まだ学生の方からすでに社会人として独り立ちされている方まで幅広くご紹介しておられた。年齢の離れた方もおられたけれど『オジサン』というよりは『大人の魅力あるイケメン』な方ばかりで、菊様にふさわしい方ばかりだった。
それでも菊様はうなずかれない。「不要です」と一刀両断される。私もご当主様や両親から「誰でもいいから菊様におすすめしろ」と言われていたから「いい方ではないですか」と言っていた。
そんな私に菊様は「咲良も私がいなくなったほうがいいのね」とおっしゃる。
「そんなことございません!」「菊様が嫁がれるところに私もついていきます!」そう申し上げたけれど「それこそ不要よ」とおっしゃるだけ。
どうにもできず、ただお側に付き従うことしかできなかった。
◇ ◇ ◇
お盆明けの月曜日。
「内々の話だが」神代家に仕える側近達が集められた。私と立花さんも菊様付きとして出席した。
「公表は次の土曜日の集まり」「現段階では決して口外してはならぬ」と念押しされ、公表されるまで口外しないこと全員が誓約してから、ご当主様が発表された。
「菊の婚約が内定した」
「!」
そんな。いつの間に。お相手は!?
前のめりになる私を気にかけることなくご当主様は続けられた。
「お相手は目黒弘明殿」
「安倍家の次期当主の補佐役殿だ」
「結婚は目黒殿が大学を卒業予定の六年後。結婚後、菊は安倍家に入る」
「「「―――!!!」」」
そんな。まさか。まさか!
頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。うれしいのか悔しいのか悲しいのかわからない。
あの安倍家と縁付くなんてさすが菊様。菊様が認められてうれしい。けどなんで晴明様ではないの? 弘明さんは晴明様の従者でしょう? 菊様にはふさわしくない。でも『次期当主補佐』とおっしゃった。もしかして弘明さんはすごい方なの? けれど弘明さんは女性にだらしない方じゃない。舞妓芸妓に手当たり次第に手を出したって。そんな方に菊様を差し出すなんて。
「質問よろしいでしょうか」菊様の弟の仙輔様の守り役の男性が挙手された。
「安倍家の目黒弘明といえば、一時『舞妓芸妓に次々と手を出した』と噂がありました。たとえ安倍家の方とはいえ、そのような人物に菊様をというのは、いささか神代の名を汚す行為ではないかと愚行致しますが、いかがでしょうか」
「それについては先方から説明があった」
「あれは舞妓の置屋からの依頼だったらしい」
「ある舞妓がたちの悪いストーカーにつきまとわれていた。縁のあった目黒の父親が置屋から相談を受け、息子を護衛兼囮としてつけた。恋人に見えるよう振る舞い、ストーカーを釣り上げ警察に突き出した。『それで終わり』になるはずだったのだが、ただの護衛だったはずの目黒の息子に、護衛対象の舞妓が本気で惚れた。目黒の息子はあくまでも護衛対象としてしか見ていなかったのでお断りした」
「その話が花街に広がり、やはりストーカーに困っていた舞妓芸妓を抱える置屋から次々と依頼が入った。断れない縁故があったとかで受け、毎回犯人を捕まえると同時に護衛対象から惚れられるということを繰り返した結果、あのような噂になったとのことだ」
「「「……………」」」
………じゃあ、弘明さんは『女にだらしがない男性』じゃない、ということ? 次々に惚れられる、魅力的な男性ということ!?
「………ストーカー被害に遭う女性の護衛ができるほどの手練、実際犯人を捕まえているということは荒事にも対応可ということ、度胸も胆力もあると。そして護衛対象すべてに惚れられるだけの男性的魅力がある、ということですか……」
質問した男性のまとめに「然り」とうなずかれるご当主様。
「そして、現在でも安倍家次期当主の側近中の側近――補佐役として活躍しているそうだ」
「納得致しました」「差し出がましいことを申しました。お許しください」頭を下げ守り役の男性は着席された。
「明日火曜日に両家の顔合わせがある」「これから呼ぶ者は同席するように」ご当主様からのご指示により側近の男性が次々と名前を読み上げられる。私も立花さんも同席することとなった。
それからご当主様は安倍家の次期当主である晴明様の婚約者である九条家のことをご説明された。婚約が発表された途端に九条家に降りかかった様々なトラブルについて。
「九条家の娘本人だけでなく親や祖父母、兄にも害があったことから、もしも菊が安倍家と縁付くことになれば他の孫達にも被害がかかる可能性がある。当然私を含めた大人にも。警備態勢、スケジュール管理など、考えねばならない」
ご当主様がそうおっしゃる。それからは神代のご家族のスケジュール、会社の事業について、様々なことを議題に出して警備体制や法律的対応策などが話し合われた。私はただそれを呆然と聞くしかできない。
『失敗した』一番に浮かんだのはその言葉。
「弘明さんに好意を伝えたらいい」菊様に言われたときに告白しておけばよかった。まさか『女たらし』はウソだったなんて。たくさんの男性と接している舞妓芸妓からも惚れられるほどの素敵な男性だったなんて。
『もったいなかった』次に浮かんだのはその言葉。
ただの晴明様の従者なのだと思っていた。皆言っていた。「田舎者」「コバンザメ」「血縁だけでついている」それがまさか本当に能力のある男性で、しかも『次期当主補佐役』だったなんて。
菊様に言われたときに告白しておけば。
だって私昔から弘明さんと結婚するつもりだったもの。噂で誤解してしまったから距離を取ったけれど、その噂がウソだったならお付き合いしてもいいもの。
そこまで考えて、ふと気がついた。
菊様は弘明さんのことをどう思っていらっしゃるのだろう。
正直、菊様には弘明さんでは釣り合わない。菊様ほどの方ならば晴明様クラスでないと。たとえ安倍家のとはいえ『当主』と『当主補佐』では明確な身分の差がある。菊様に『補佐の妻』などふさわしくない。菊様ほどの方ならば『王家の妻』『名家の当主の妻』でなければ。
………もしかして『安倍家』の『名』にご当主様はじめ皆様が食いつかれて、菊様を生贄に差し出されたのではないかしら。そうよ。きっとそうに違いないわ!
そりゃあ安倍家にとっては菊様が欲しいでしょう。菊様ですもの。どこの家だって欲しがるわ。晴明様にすでに婚約者がいるからと弘明さんをあてがったのではないかしら。
弘明さんは菊様をどう思っておられるのかしら。主家に命じられたから婚約の話を受けただけではないかしら。だっていつもお会いしたときには目を合わせてお辞儀してくださった。いつもやさしく微笑みかけてくださった。それって、弘明さんも私が好きということではないかしら!?
菊様も弘明さんも、ご当主様に、主家に命じられたから婚約を結ばれるんだわ。だって菊様はこれまでに弘明さんに対して好意を見せたことはない。いつも晴明様とだけお話されて弘明さんには見向きもされなかった。私に「好意を伝えたらいい」なんておっしゃるくらいだもの。菊様に弘明さんへの好意はないはずだわ。
ああ。お可哀想な菊様。
好きでもない方のもとに嫁がなければならないなんて。
それが『名家の娘』として生まれた方の宿命なのだろう。それでもお可哀想だと思った。代われるものなら代わって差し上げたい、と。
けれどもう私が口出しできる状況ではなくなっている。目の前では大人達がどんどんと話し合いを進めていて、私達孫の同年代の側仕えは黙って拝聴するしかできない。
あのとき言わなかった後悔を噛み締めながら、ただ黙って話を見守っていた。
◇ ◇ ◇
そうして翌日。
安倍家の皆様だけでなく弘明さんのご家族も揃った顔合わせの場の末席に私は座っていた。菊様の弟様妹様も、若奥様のご両親も出席されている。
たくさんの関係者立会のもと、次々と話が進んでいった。
信じられない話を次々と聞いた。晴明様は『主座様』と呼ばれる伝説の『安倍晴明様の生まれ変わり』。晴明様と弘明さんの保護者の皆様が『主座様直属の側近』。『役立たず』だと、『身分が低い』と馬鹿にされていたひと達が実は高い立場だったことを知り動揺が抑えられない。
弘明さんも『主座様直属の側近』だと。それも『無二の右腕』だと。そんな立派な方だったとは。ますますあのとき告白しなかったことを後悔した。
そうして改めて弘明さんが紹介され、ご本人も自己紹介をされた。
そうして弘明さんは菊様をまっすぐに見つめ、おっしゃった。
「幼い頃よりお慕いしておりました」
「ぼくは主座様の補佐役となる身の上です。どうかぼくと共に安倍家に入ってください」
やさしい眼差し。真摯な態度。ああ。なんて素敵な方。
菊様は目を伏せ「承知致しました」とお答えになられた。
これで両者同意となり、おふたりが婚約を結ぶことが決まってしまった。安倍家の面々がうれしそうに拍手をするものだから仕方なく拍手をする。
「では改めまして確認させていただきます」
晴明様のお父様が説明をはじめられた。
「結婚後は菊様におかれましては安倍家に入っていただきます」「結婚後は北山に住むことになります」「外部とはほぼ没交渉になります」
北山? 左京区の北山ではなくて、北山杉の北山? そんな田舎に菊様を閉じ込める? 外部と没交渉?
そんな。そんな。そんな!
「そんな!」
気がついたら立ち上がり叫んでいた。
「菊様をそんな田舎に閉じ込めるなんて!」
「控えなさい!」母がなにか言っているけれど気にしていられなかった。だって菊様を田舎になんて。止めなければ。ご家族が了承しておられるならば止められるのは私だけ!
そう。菊様は家の都合で無理矢理婚姻を結ばされるのだもの。田舎に閉じ込められるなんてお可哀想。ならば、どうすればいい? どうすれば菊様をお救いできる?
―――私が身代わりになれば。
そうだ。私が身代わりになればいい!
私が弘明さんの妻になればいい!
天啓に、自信を持って叫んだ。
「それなら私が代わりに嫁ぎます!」
「菊様は素晴らしいお方です! その菊様を田舎に閉じ込め、私達から引き離すなど、言語道断!」
「菊様を家の犠牲になどできません! 誰か必要ならば、私が代わりとなります!」
ご当主様に、ご家族に、安倍家の皆様に訴えた。私なら菊様の代わりになれる。私なら弘明さんの妻になれる。私なら。
「杉浦さん」
なのに、弘明さんはただ穏やかに微笑んだ。
「大変申し訳ないのですが、ぼくが望むのは菊様です。貴女ではありません」
「―――!」
「菊様は素晴らしい方です。ぼくも、当家の者も十分それを承知しております。だからこそ当家にと望んだのです」
「それに」
「ぼくも『菊様だから』『お相手に』と名乗りを挙げたのです」
「不遜ではないか、身の程知らずではないかと何度も自問しました。それでも『菊様にお願いしたい』と、『並び立つのは自分でありたい』と、思ってしまったんです」
「貴女方が菊様を大切に思っておられるのは承知しております。ですが、どうか、貴女方の大切なお姫様を、ぼくにお預けいただけませんでしょうか」
「微力ではありますが、生涯かけてお守りすると、快適にお過ごしいただけるよう努力すると誓います」
―――弘明さんは、菊様をお好きだったの―――?
―――弘明さんが、菊様をお望みになったの―――?
さっき菊様に向けていた熱は無い。ただ穏やかな、凪いだ水面のような瞳。
ああ。私は興味を持たれていない。嫌でもそう突きつけられた。
それでも認められなくて、菊様を田舎に閉じ込めるなんて許せなくて「ですが!」と反論しようとした。
「これは両家の当主が決めた婚約です」
冷たい声が場を凍らせる。
晴明様のお父様が私を見つめておられた。
ただ見つめられているだけだというのに、ドス黒いナニカが迫ってくるよう。ただただ恐ろしい。逃げたい。逃げられない。死ぬ? 殺される?
身体が勝手にガタガタと震える。涙がにじむ。
そんな私に晴明様のお父様はにっこりと笑顔を向けられた。
「当主の決定に口を挟むなど―――どのようなお立場でいらっしゃるのでしょうか?」
「―――!」
大きな狐が牙の並んだ口を開けているイメージが浮かんだ! 食べられる!? 殺される!!
「当家でこのような無作法をする者は表には出しませんが……。こちらは随分と寛容でいらっしゃるようですね」
「さすが名家はおおらかでいらっしゃる」
「しかし―――。彼女の教育を担当された方には一度お話をうかがいたいものですね。どのような指導をされたのか、と」
「申し訳ございません!」両親が床に土下座し叫ぶ。ああ。私も謝罪しなければ。
けれど身体が動かない。ガタガタ震えるしかできない。『蛇に睨まれた蛙』『捕食者の前の被捕食者』そんな言葉が浮かんだ。
「当家でも各人に様々な教育がされております。が、菊様におかれましては『当主の妻』ではなく『当主補佐の妻』となられますので、表立ってなにかしていただく必要はございません。ゆえに当家からの教育は必要ないと我々は判断しております」
「もちろん菊様御本人からのご希望がありましたら、どんなことでもお教え致しますよ」
「主座様の婚約者である九条家の莉華様については『当主の妻』となりますので、それなりの教育を現在進行系で受けていただいております」
「そうそう。当主夫人教育の一環として『降りかかる悪意や害意にどう対応するか実践させる』というものがございまして――そのために敢えて悪意を防がず、本人に経験を積ませているのですが――その節は教育にご協力いただきありがとうございました」
バレている。バレていた!
あのときの私はどうしてわからなかったんだろう。安倍家の婚約者に手を出すことがどれほど無謀なことか。どれほど危険なことなのか。
後悔してももう遅い。どうにもならない。
「ですので、今後『御学友』は必ずしも必要ではないかと」
晴明様のお父様に最後通告を突きつけられ、私は護衛の大人達に引きずられ退室させらた。
◇ ◇ ◇
そのまま別の部屋に連れて行かれた。
一緒に退室した護衛の方や側近の方たちに散々に怒られた。「なんであんなことを言い出したのか」「自分の立場がわかっていない」「安倍家に喧嘩を売ってどうするつもりだったんだ」誰にも反論できず、ただ先程の恐怖に震えていた。
やがて会談が終わったと連絡が入った。「全員再び集まれ」との指示に皆様と元の部屋に戻った。『叱られる』そう思い、入室してすぐに平伏した。
けれどどなたも私を叱ることはなかった。
私の存在などなかったかのように淡々と話し合うべきを話し合い指示を出し決めるべきを決めていかれた。
「咲良は側仕えからはずしてください」菊様のお声にビクリと肩が跳ねた。ようやく私の話題になった。ずっと平伏していたけどさらに頭を下げた。
「申し訳ございませんでした!」母の声が聞こえる。
「娘の不手際は私の責任です。どうぞこの首を持ってお許しくださいませ」父の声がする。ああ。私は両親にも迷惑をかけてしまった。
自分がなにをしでかしたのか改めて突きつけられた。菊様のご不興を買ってしまった。もうお側につけない。両親に迷惑をかけた。「責任を取って職を辞し、家族で京都を去ります」そこまでのことを私はしてしまった。
なにが悪かった? 安倍家に楯突いたのが悪かった? 菊様の身代わりになろうとしたのがいけなかった? それとも九条の娘をイジメたこと?
わからない。なにがいけなかったのか。どこが悪かったのか。
ただ今できることは頭を下げるだけ。お怒りを、裁きを受けるだけ。
父と母も床に頭をつけているのが視界の端に見えた。申し訳ない。私のせいで。でも私は菊様を守ろうとしただけ。田舎に閉じ込められるなんて許せなかっただけ。主を守るのが側仕えの役目でしょう? 私は側仕えとしての勤めを果たしただけ。それだけなのに。
「――お父様。杉浦が抜けて業務に支障はないですか?」
菊様のお声。若旦那様が「大ありだよ」とお答えになる。
「お母様。優香里が抜けて日常に支障はないですか?」
「優香里がいなくなっては私とても困ってしまうわ」若奥様の困ったお声が聞こえる。
「お祖父様。今回安倍家のご不興を買ったのは咲良のみです。咲良の両親は不問でよいかと私は判断致します」
「しかし」
「安倍家には私から話を致します。これから問題が多発するのがわかっていて、杉浦と優香里と雄太郎が抜けるのは痛いです。―――違いますか?」
「確かに」「そうです」若旦那様と若奥様も同意される。
「杉浦。優香里」
「「はっ」」
「『責任を取る』と言うならば、今後の働きをもって取りなさい。寝る暇もないくらいこき使うわよ。―――いいでしょう。お祖父様」
厳しく、けれど最後は笑みを含めて菊様が命じられる。やはり素晴らしいお方だ。尊敬すべき主だ。
ご当主様の残留の許可に両親は「ありがとうございます」「誠心誠意尽くす所存でございます」と感謝を述べた。
「咲良は」
菊様のお声にビクリと震える。側仕えははずされるのだろう。仕方ない。また昨年のように再教育を受け再び菊様のもとに戻れるようにがんばるしかない。
そう思っていたのに。
「京都から出してください」
―――言われた言葉が理解できなかった。
許可を得ていないのに下げていた頭を上げた。
菊様は淡々とご当主様とお話をしておられた。私に一瞥もくれず。
「他府県に全寮制の高校がありませんか?」「咲良の学力と身に着けたものがあればある程度のレベルの学校への編入も可能だと思うのですけれど」「今からならギリギリ夏休み明けから転校できると思います」
「そんな!」
思わず叫んだ私に誰もが憎々し気な視線を投げつけてきた。両親さえも。
それなのに菊様はやはり私に目を向けられることはなかった。
「どうしてですか菊様!」「側仕えからはずされることは了承致します。ですが、京都を出るとは、転校とは、なんで!」「咲良!」
父の雷のような叫びに首をすくめた。
「何故わからない! お前はそれだけのことをしでかしたんだ!」
「本来ならば私達も京都を出なければならないの。安倍家に歯向かったのだから」「神代家に迷惑をかけないためにも、あなたは京都にいてはいけないの」母が諭すように、幼い子供に言い聞かせるように言葉を重ねる。けど、けど!
「けれど、私は菊様を守ろうとしたんです!」「側仕えは主を守ることが第一だと、そう教えてくれたのは母さんじゃない!」「側仕えとして、菊様が田舎に閉じ込められるのを防ごうと「それが余計なことなんだ!!」
父の叫びに息を飲んだ。心底痛そうな、憎々しげな目で私をにらみつける父に言葉が出なかった。
「当主の決定に意を唱える側仕えなど、言語道断!」
そう言われたらそうかもしれないけど。でも。
「―――私の主は菊様だもの!」「菊様をお守りするためならば、ご当主様にも逆らいます!」
私の覚悟を、私の忠誠心を見せるつもりではっきりと言った。
そんな私に周囲の反応は様々だった。
怒りをあらわにするひと。かなしげにするひと。呆れるひと。称賛のまなざしをくれるひと。
そんな中、菊様がにっこりと微笑まれた。
「咲良」
「―――! はい!」
お褒めくださると思った。感謝してくださると思った。
なのに。
「前に言ったことを忘れたの?」
「『私を言い訳に使わないで』」
「『私を口実にするのはやめて』」
「『私の気持ちを勝手に決めつけないで』」
ピシャリと。
冷水を浴びせられた気持ちになった。
菊様は笑顔のまま。いつもの美しい笑顔。なのに、どういうわけか作り物めいて見えた。
「『それが守れないならば貴女は不要』―――私は、そう言ったわよね?」
「覚えていないの?」と聞かれたけれど、答えられない。
たった今思い出した。そう言われたことを。すっかり忘れていた。取り戻した日常に埋もれていた。けれど、そんなつもりじゃなかった。決して『菊様を言い訳にした』わけじゃない。ただ菊様を守りたいと思って。良かれと思って。
言葉は口から出て行かない。ただ菊様の笑顔を見つめることしかできない。
そんな私に菊様は笑顔のまま。
「弘明さんとの婚約は、私が選んだの」
「お祖父様から押し付けられたのでも、命じられたのでもないの」
「見合い写真の山の中から、私が選んだの」
ということは、菊様は弘明さんがお好きだったの――?
そのお言葉が信じられなくてご当主様を、若旦那様を見た。おふたりとも私の視線にうなずかれた。ということは、本当に菊様が弘明さんを選んだの―――?
「田舎で暮らすことも、没交渉になることも、承知の上よ」
「当然でしょう?」
「弘明さんは晴明さんの腹心だもの。当然婚姻すれば安倍家に入ることはわかりきったこと」
「『安倍家に入る』ということがどういうことか、九条の莉華さんのときに色々広まったじゃない」
そう言われても私は知らない。あの娘が晴明様の婚約者になったことが気に入らなくて噂を聞かないようにしていたから。
けれど、すべて承知の上で菊様は弘明さんを選んだというの―――? それなら、私のしたことは―――。
青くなる私に菊様は微笑みを浮かべたまま、そっと言葉をつむがれた。
「あの方は私に『理想』を押し付けることはしない」
「あなたは私に『理想の主』を見ているでしょう?」
「あの方はちがう」
「あの方は『私』を見てくれている」
菊様のおっしゃる『あの方』が弘明さんのことだとわかった。いつの間にそんなふうに思えるほどの交流をしておられたのだろう。私はずっとおそばについていたのに。気付かなかった。
気付かなかったことに衝撃を受けていたら、菊様が諭すようにおっしゃった。
「たとえば、もしも私がおかしな着ぐるみを着て街中で妙な踊りを踊り出したら、あなたは『気が狂った』と止めるでしょ? それか頭ごなしに怒るでしょう?『淑女らしくない』『ふさわしくない』と言って」
「けどあの方ならきっと『何故そうしているのか』を聞いてくれる。そうして納得すれば応援してくれたり一緒に踊ってくれたりする。納得できなければ代替案を提案して私の納得がいく形を作り上げてくれる」
「そう信じられる」
「だからこのお話、受けたのよ」
「他の男性達は私の『表面』しか見ていない」
「『見栄えがいいから連れて歩けば華やかになる』『飾っておきたい』『美しい淑女を妻にしたい』そんなひとばかり。
私が少しでも彼らの理想と違う言動を取れば『思ってたのと違う』と手のひらを返して罵倒してくるでしょうよ」
「あなたもそうでしょう?」
そんなことありません。そう言いたいのに言葉が出ない。どこかで菊様のおっしゃることに納得している。腑に落ちている。けれど頭のどこかがそれを否定する。
そんな仮定は意味がない。だって菊様は素晴らしい方だもの。そんなことなさらないもの。私の理想どおりの方だもの。理想と違う菊様なんて―――
―――そんな菊様を目にしたら、私はどうするだろう―――
ふと芽生えた疑問が答えになる前に菊様は続けられた。
「山奥で大人しくしている私が主なんて恥ずかしいから、このお話に反対したんでしょう?」
「弘明さんが身分も立場もある方だとわかったから『自分が妻に』と名乗り出たのでしょう?」
息を、飲んだ。
『そんなことありません!』そう言いたいのに声にならない。
菊様の大きな瞳がまっすぐに私をとらえている。
まるで鏡のよう。私の気付かなかった深層心理を映し出しているよう。
離れているのに、どういうわけか菊様の瞳に映る自分の姿が見えた。
菊様の黒い大きな瞳に映った私は菊様のおっしゃったとおりのことを叫んでいた。
《菊様は私の理想》《美しく教養があり気高いお姫様》《私が仕えるにふさわしい方》
《私の主なのだから都会で美しくいてもらわなくては》《私の主が田舎でひきこもりなんて許せない》
《やさしい弘明さんは私のほうがふさわしい》《私が弘明さんと結婚したい》
《私が》
《私は》
《私の》
菊様の瞳に映る私は自分のことばかりを叫んでいた。『菊様のため』と言いながら『自分のため』に動いていた。菊様を操り人形のように扱っていた。
そんなことない。そんなことしない。私は菊様のために動いてきた!
そう言いたいのに声が出ない。見たくないのに、否定したいのに、菊様の瞳に映る私は傲慢に振る舞う。私こそが女王だと言わんばかりに。
違う。違う。違う!
叫びは声にならない。頭をかきむしりたくても指一本動かない。
ただ震えて冷や汗を流す私を菊様はじっとみつめておられた。
ふ、とその目を伏せられた。瞳が隠れたことでようやくこわばりが解けた。
重力がドッとのしかかる。手をついて浅く呼吸をする。息をつめていたことにようやく思い至った。
どうにか菊様に目を向けると、菊様は違うどこかを向いてつぶやかれた。
「私は『私』で在りたいの」
「『誰かの理想』なんて、うんざり」
「弘明さんも、弘明さんのご家族も、『そのままの私』を受け入れてくれる。だから婚約することにしたの」
そうして再び私にお顔を向けられ、おっしゃった。
「あなたにとって私は『信仰の対象』なんでしょう」
「あなたは『あなたの理想の私』を見ていただけ」
「一度でも『本当の私』を見たことがある?」
笑顔で指摘され―――答えられなかった。
さっき見た『菊様の瞳に映った私』はまさにご指摘どおりの人間だった。
「『誰かの理想』にも、『手駒』にも、私はなる気はないわ」
「あなたはあなたの人生を生きればいい」
「私に依存することなく。執着することなく。あなたの正義をかかげてあなたの人生を進めばいい」
「私を『理由』にしないで」
そこまでおっしゃり、菊様ははっきりと言われた。
「これまでの忠心と献身には感謝します」
「けれど、これからはあなたは不要」
「杉浦咲良。本日このときをもって、あなたを私の側付きから解任します」




