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【番外編5】神代仙蔵の誤算 4

 姫様ご一行が目の前から消え失せられても誰一人動けなかった。

 その御威光に()てられて手が震える。冷や汗がおさまらない。

 そんな中安倍の息子がテキパキと場を取り仕切り、気が付いたら安倍家の面々は退室していた。「このあとまた」とか言われた気がするがよくわからない。


 安倍家の面々もいなくなったと気付き、ようやく息が()けた。まだ他家の当主がいるというのに、もう外面(そとづら)を作る余裕もない。ただ「はあああぁ」と息をつき汗をぬぐった。


「神代さん」「どういうことですか」あちこちから声をかけられ応対する。どうにかこうにか話をし、次の会場へと移動した。


 家族と合流し、指定された席へ着く。開会してすぐに安倍家から一連の発表があった。主座様のこと、側近達のこと、菊との婚約が明かされ、あちこちで動揺が走る。反対や不満の色も見えたが、それぞれの当主が(とど)め抑えた。


 会食が終わると自由交流になる。すぐに安倍家の発表されたばかりの側近達が取り囲まれた。目黒の息子も若い娘に取り囲まれたがスルリと抜け、当家の席までやってきた。

「菊様。お時間を頂戴してもよろしいでしょうか」

 微笑み、丁寧に孫娘を誘う男。菊が差し出した手をとりエスコートし、どこかへと移動した。庭にでも行くのだろう。

 いつもは主座様の影に隠れていた男が表に出た。主座様はどうしておられるのかとうかがうと、両親とともに当主クラスと次から次へと話をしておられた。


「惜しいことをした」あちこちから声が聞こえる。「目黒のあの男があんな重要人物だったとは」「神代はうまくやったな」「まさかあんな形で安倍家と縁付くとは」

「安倍の息子は『役立たず』ではなかったのか」「目黒がまさか安倍家と関係していたとは」「これまでのことを恨みにおもわれていたらどうする」「今後どう対応する」あちこちで話し合いがされている。どの声も動揺が隠せない。

「神代さん、なにかご存知ではないですか」そう聞かれるが答えることができない。「……実は主座様から『制約』を課せられておりまして……」そう告げ喉を押さえるだけで察して離れてくれるので助かっている。


 菊に見合いを申し込んできていた家の者も参加していたので謝罪をする。

 先日の会談のあと「他の者との見合いが決まった」と断りを入れていた。が、「誰」とは明かしていなかった。

 菊の相手が安倍家の次期当主補佐と今回明かされ、ほとんどは納得してくれた。


 謝罪をしながら、話をしながら、笑顔の陰で地団駄を踏んだ。

 こんなはずじゃなかった。かわいいかわいい菊はずっと手元に置いておくつもりだった。嫁にやるとしても近場もしくは同居してもいいという男を選ぶつもりだったのに。安倍家と縁付くだけの価値があるとは思っていたが、たとえ縁付いたとしても菊は近場に住まいすればいいと思っていたのに。


 誤算だ。

 大誤算だ。


 なにが悪かったのか。どうすればよかったのか。

 考えても考えても答えなど出ない。今更どうしようもない。

 せめて結婚するまでは当家で大切に育てよう。できる限り共に時間を過ごそう。

 まだまだ時間はあるのだから。



   ◇ ◇ ◇



 その会が終わってからもあちこちから声をかけられた。問い合わせや探りを入れられるのはまだまとも。中には言いがかりと言える勝手な不満をぶつけられたり、意味の分からない理屈で「利益を寄越せ」と押しかけて来たり、本業に差し支えが出るレベルでの来客や電話に対応に苦慮した。あのとき安倍家に言われたとおりの事態に、事前に対応策を練っておいて助かったと息をついた。



 そんな中で目黒の弘明(ひろあき)殿はまめに菊に面会していた。ときには習い事のあとの数十分に。ときには時間を合わせて待ち合わせて。ときには当家にやって来て、菊だけでなく菊の弟妹や我々とも交流をした。穏やかで気持ちのいい青年に、話せば話すほど好感度が上がっていく。これは良い拾い物だったと全員一致で喜んだ。


 彼をどう呼ぼうかと苦慮した。最初は「目黒殿」と呼びかけた。「『ヒロ』で結構ですよ」「まだまだ若輩ですので」と言われ、かと言って安倍家の次期当主補佐にそんな気安く呼んでいいのかわからず「弘明殿」と呼んでいた。が、当家に顔を出すたびに丁寧に挨拶をしてくれ気持ちよく話を聞いてくれる彼に次第に心を許し、気がついたら「ヒロくん」と呼んでいた。彼も「おじいさま」と呼んでくれるようになり、ますます気を許した。『人たらし』と呼ばれる父親の才能を彼も受け継いでいるようだ。


 菊の専属護衛として目に見えないモノがついている。らしい。それ以外に、出かけるときにはあの白露という美女が付くようになった。幼少時からの専属護衛の立花とも仲良くやっている。その立花からの報告によると白露殿は包容力がある上に恐ろしく強いらしく、菊はこころなしかのびのびした表情をするようになった。


 学校が始まると送迎は白露殿と立花が交代で行うようになった。パーティーなどのひとが集まる場所にはふたりともがつく。これまでは側仕えの小娘と立花のふたりがついていたが、強い上に美しい護衛ふたりがついて菊の護りは目に見える形でも万全になった。

 おまけにそんな場所には必ずヒロくんが同行し菊をエスコートした。美しい菊のそばについても見劣りすることのないヒロくんに、菊に近寄ろうとする男は二の足を踏んでいる。逆にヒロくん狙いの娘が集まるようになったが、ヒロくんがうまくあしらい菊を場の中心に置いて全体をまとめている。恐ろしいほどの手際と社交性に舌を巻いた。


 正直、誤算だった。

 これほどの人物だったとは。


「安倍家の当主補佐でなく当家の当主補佐になる気はないかい?」

 ヒロくんに直接聞いてみた。そうすれば菊も手元に置いておける。有能な人材を取り込むこともできる。

 しかし当然のようにヒロくんはうなずかなかった。

「ぼくではこちらの家のお役に立てません」「こちらの家業についてはぼくは素人ですから」

「これから勉強すればいい」「きみならすぐに習得するだろう」そう言っても「買いかぶりですよ」と微笑むだけ。

「ぼくは安倍家の人間なので」「きょうだい同然で育ったハルを支えるのがぼくの夢なんです」「ご理解ください」そう笑顔で言い切った。


 これほどの人材を離反させないだけのものが安倍家にはあるのだろう。もしくは主座様のお人柄か。あるいはここまでの人材に育てあげてきたあの側近達の手柄か。

 どちらにしてもヒロくんを当家には入れられないらしい。がっかりする私にヒロくんは「ぼくを高く評価してくださりありがとうございます」と微笑んだ。穏やかな様子に『やはり惜しい』と残念に思った。



   ◇ ◇ ◇



「九月の連休に『目黒』でスタッフ総出のお手伝いがあるんです」ある日弘明殿――この頃はまだ『弘明殿』と呼んでいた――が「ご相談が」と言ってきた。

「『スタッフ』と言っていますが、実態は親戚か祖父母の友人か母の友人でして」「この場でみんなに菊様を紹介したいのです」「三日のうちの一日でも、半日でも構いません。お時間を頂戴できないでしょうか」


 スケジュールを調整し、どうにか菊の一日を空けた。

「ぼくも行きたい」「わたしも」菊の弟妹である仙輔(せんすけ)と百合もこのころには弘明殿にすっかりなついていて「一緒にいたい」と懇願した。が「ごめんね」「今回は菊様のご紹介がメインだから」と断られた。「来年なら大丈夫だと思うから」と提案され「絶対だよ!」と約束していた。


 ただの『身内へのお披露目会』だと思っていた。

「この服装でご準備ください」弘明殿から送られてきた一式は、どう見ても野外で活動する服。靴まで軍靴のよう。なんと同行する護衛の立花のぶんもあった。

 我が家では絶対に扱わない種類の服だったが、着用した菊は不思議なくらい馴染んでいた。むしろ菊の可憐さを野趣あふれる装いが引き立てている。なるほどこういうこともあるのかと感心した。


 安倍の息子――晴臣殿が弘明殿と白露殿をともなって迎えに来た。全員菊や立花が着ているような服装で驚いた。

「行ってまいります」と出て行った菊は予定通りの時間に送り届けられた。


 すぐに気が付いた。菊の雰囲気が違う。

 どこか高揚しているような、楽しくて仕方ないというような。

 目の輝きが違う。いつもどこか引いているような、達観した様子の菊が、まるで幼い子供のようにキラキラとした目をしている。

 我々と晴臣殿弘明殿が挨拶を交わすのを黙って控えているのはいつものことなのだが、その微笑みの口角がいつもより上がっている。


「では菊様。本日の作品が焼きあがりましたらご連絡差し上げますね」

 晴臣殿にそう言われた菊はパッと笑顔になった。

「楽しみにしています」と答える声もはずんでいる。


 菊は生まれた時から大人しい子供だった。『手がかからない』『落ち着いた』子供だった。『大人びている子』『躾の行き届いた子』とも言われていたが、自分の子供達や菊以外の孫達と比べると考えられないくらいによくできた子供だった。

 子供らしい遊びやコンテンツには興味を示さない。与えられた課題を黙々とこなすだけ。なにが楽しいのか、なにが好きなのか、誰も知らない。ただ『上品な名家の娘』の役割をこなしているだけのような娘だった。

 あまりの落ち着きように一部で「『転生者』なのでは」と言われている。

 京都には『前世の記憶』を持っている者が一定数いて、彼らは『転生者』と呼ばれている。私の知人にもふたりほどいる。

『転生者』は総じて精神的に自立しており、子供らしくない子供時代を過ごすという。菊にもその定義は該当する。

 ただ『転生者』というものはあくまで自己申告。他人から見て『そう』とわかるものではない。かといって本人に「『転生者』か?」と聞くのもはばかられ、これまでに一度も菊にそのことについて聞いたことはない。


 わがままを言うこともなく。我を通すようなこともなく。高慢に振る舞うこともなく。常に笑顔で上品に。

『理想的なお嬢様』を演じているような、どこかつまらなそうな、それでもそれを隠して微笑んでいるようなところが菊にはあった。


 その菊が。

 ほんのり頬を上気させ、うれしいのを必死で隠しているような雰囲気。


「『作品』とは?」

 菊の母親も娘の変化に気付いたらしい。晴臣殿に問いかけた。

 晴臣殿が説明してくださった。

 本日は菊にも作業に加わってもらったこと。弘明殿の弟妹達と一緒に土をこねて粘土にし、陶芸に挑戦。その『作品』だと。数日乾燥させてから焼くので時間がかかるのだと。


「土?」「陶芸?」

 これまでに縁のなかった単語に虚を突かれた。そう言われたら菊の服は出発時にはついていなかった泥汚れがあちこちについている。

「むこうでがんばって落としたのですが、爪の中の泥が落とし切れていないので。お風呂でしっかり落としてください」

 弘明殿の言葉に菊の手を見れば、美しい白魚のような指の先、桜貝の爪の間が汚れている!

「な、な、な」

 妻は菊の手をとり卒倒しそうだ。菊の母親まで青くなっている。なのに孫息子は「いいなあ!」と言い、孫娘とともに弘明殿と菊にまとわりついた。


「おねえさまが泥遊びをなさったの!?」

「『泥遊び』ではないわ。『陶芸』よ」しれっと菊が答える横で弘明殿がスマホを操作する。見せてくれた画面には、泥だらけで満面の笑みを浮かべた菊そっくりの娘がいた。

「わあ! 楽しそう!」孫達はのんきに言う。が―――これが、菊?


 表情が全く違う。別人と言われたほうが納得できる。そのくらい写真の娘は長年見てきた孫娘とは違っていた。

「ヒロくん! 来年は絶対に連れて行ってよ!」「約束だよ!」「忘れないでね!」孫達にまとわりつかれ弘明殿が「わかっています」と微笑んだ。


「土作りは毎年この三連休でしかやりませんが、陶芸教室は毎週ひらいています。もしよかったらそちらにご参加ください」

 晴臣殿の言葉に菊が反応したのがわかった。興味があるのを隠そうとしているのも。こんな菊の反応は初めてで、戸惑いばかりでかける言葉が見つからなかった。



   ◇ ◇ ◇



 それからの菊は変わった。

 普段はこれまでの菊と変わらないが、陶芸に対して興味を抱くようになった。

 当家の皿や花器などを出しては手に取ったり観察したり。陶芸展があるといえば観覧に行ったり。陶器を扱う店に頻繁に出入りしたり。

 自らスケジュールを調整して時間を作り、目黒で行われている陶芸教室に参加するようになった。最初は月に一度だったのが月に二度になり、あっという間に毎週参加するようになった。美しく形作られていた爪は「邪魔になる」と短く切られ、爪の間は泥で汚れた。服装も陶芸教室に行くときは「どうせ泥だらけになるから」とヨレヨレの泥染みのついた服装で向かった。

 妻と息子の嫁はそんな菊に悲嘆したが、それでも陶芸を、陶芸教室に行くことを止めることはなかった。なぜなら菊の表情がどんどんと明るく輝いていったから。


 これまでの大人びた、達観した菊には考えられない明るさ。女王然とした高貴さをまとっていた菊にはありえない無邪気さ。陶芸に関わるとき、菊はそんな一面を見せた。

 ほかのお稽古事や社交の場ではこれまでどおりの菊なのに、陶芸が関わると途端にひとが変わる。「楽しい!」と全身で表現している。


 祖父として、家族として、これは喜ばしいこと。

 妻も息子夫婦も同じ考えだった。


「菊はヒロくんと結婚して安倍家に入ることは決まっているのだから」

「ならば好きなことを好きなようにさせよう」


 婚家となる目黒家も、その主家となる安倍家も「菊は北山から出さない」「北山では好きに過ごせばいい」と言ってくれている。

 これまでは当家の名にふさわしい娘であるように、当家の益になるように、良い家に嫁げるようにと淑女たることを求めていたが、結婚相手が決まり、婚家の意向も明らかな現在、菊には多くを求める必要はないと判断された。

 当家の娘である以上、適切な品位は保ってもらわなくてはならないが、そのあたりは菊も理解していてうまく立ち振る舞っている。ならば我々が制限をかけることはないだろうと、菊の陶芸を認めることとなった。


 進学も「陶芸が学べる学校に行きたい」という。そのためには実技がいるので「無理ではないか」と言われたらしいが、なんと本人の努力で見事合格を決めた。まさか菊にこんな才能があったとは知らず驚いた。


 実際菊は才能の塊だった。

 あの目黒家の最初の訪問のときに作った作品は「幼稚園児が作ったのか?」というようなものだったのに、経験を重ねていくにつれどんどんとレベルが上がっていき、あっという間に我が家や会社に飾れる作品を作り出すまでになった。

 菊の作品を目にした者がそれと知らず「どこの作家のものですか」と聞いてきたり「当社にご紹介ください」「扱わせてください」と言ってくるようになった。


 学生の身でありながらその作品が取引されるようになった。ヒロくんの母親である華道家の目黒千明の作品展に花器を提供し名を上げた。まさかまさかの短大から大学への編入も果たした。


 菊にこれほどの陶芸の才能があるとは。誤算だった。

 なんと「大学院まで行きたい」と言い出した。「婚期が遅れる!」と慌てたが、安倍家から「北山のいい場所に自宅兼工房を建てる」「そちらで陶芸三昧の生活をするのはいかがですか?」と提案が来た。菊本人もあれこれと注文をつけ、満足のいく工房ができる目処がついたらしい。大学院進学は撤回した。



   ◇ ◇ ◇



「まさか菊がこんなわがままを言い出すとは」

 進学問題に片がつき、ヒロくんをまじえて我が家で打ち合わせという名の慰労会を開き酒を酌み交わした。


「昔の菊には考えられない」そうぼやけば息子も「本当に」とうなずく。

「ヒロくんにも迷惑をかけるね」


 本来ならば来年結婚の予定だった。菊が四年制大学に編入したために結婚が一年延びた。

「まだ式場を押さえていませんでしたから。大丈夫ですよ」

 いつでも穏やかな青年はこんなときでも穏やかに微笑む。

「菊様がのびのび過ごされるのが一番です」「菊様が楽しいならぼくは十分満足です」

 どこまでも孫娘を優先し慈しんでくれる。こんな婿がどこにいる。菊はいい婿を手に入れた。


「菊が変わったのはきみのおかげだな」息子が言う。

「きみがそうやって甘やかすから、きっと菊はわがままになったんだ」

『きみのおかげ』と言いながら文句を言う息子にヒロくんは楽しそうに笑う。

「そうならうれしいですね」とノロケのようなことを口にする。


「ぼくでは菊様に釣り合わないとは自覚してるんです。それでもぼくがいることで少しでも菊様が楽しく過ごせるなら、少しでも気楽に思ってくださるなら、ぼくがお側にいてもいいって思えて、うれしいんです」


 酒のせいか、ほにゃりと油断した様子でそんなことを言う。

「なにを言うんだ。きみほどの男はいないぞ」そう言っても「ありがとうございますー」と笑うだけ。


「学歴良し。顔良し。スタイル良し。性格良し。おまけにあの安倍家の主座様の補佐役。ということは社会的地位もあり高収入だろう。そんなの引く手あまたじゃないか」

 息子も言うが「そうですかねー」とニコニコするだけ。自己評価が低いのか、周囲からの評価を知らないのか。

「でも菊様のほうがすごいじゃないですかー」などと言う。


「あんなにお綺麗で。才能があって。堂々として。もう『女王』ですよねー」

「それはまさに」


 菊は先日二十歳を迎えた。これまでも美しい娘だったが、二十歳を迎えてより一層輝くような艶を身につけた。


「『女王』にぼくでは不釣り合いだとは思うんです。思うんですけど、わかってるんですけど、それでも菊様のお側に立ちたいと、思っちゃったんです」

「菊様に並び立つ権利を、夫の立場を、他の誰にも譲りたくないって、思っちゃったんです」


「ワガママですよねー」「傲慢ですよねー」「あははー」とヒロくんは笑う。自嘲に聞こえるその言葉に孫娘への愛情を感じ、感謝が広がった。


「きみは本当に菊を好きでいてくれるんだな……」

 思わずそうつぶやいた。が、当の青年は「どうなんですかねー?」と首をかしげる。


「ぼく、『好き』って、よくわからないんですよ」


 彼はいつもそう言う。『「好き」がわからない』と。

 改めて問われれば『どう』と示せるものでもない。が、彼の孫娘への想いは十分『好き』と言えると思う。毎回そう告げているにもかかわらず彼はいまだにそんなことを言う。


「この気持ちが『好き』なのかどうかはわからないんですけど。菊様が楽しそうにしていらしたらぼくも楽しいし、菊様がうれしそうだとぼくもうれしいんです」

「お側にいられて、そんな菊様をみられて、うれしいなーって、思うんです」


 それは十分『好き』だろう。

 それでも彼は『わからない』と言う。

 きっと自分がどんな顔をしてその言葉を発しているのか自分では見えないからだ。鏡を用意しておかなければならないな。それかカメラでもいいか。この、やさしい、とろけた顔を本人に見せればきっと納得するに違いない。


「これからも菊様の横に並び立てるように、ぼくもがんばらないとですー」

「がんばるのはいいが、あまり甘やかさないでくれよ?」

 息子の苦言に「えー」とヒロくんは笑う。


「そんなに甘やかしてないですよー?」

「なに言ってんだ。出かけるときには必ずエスコート。菊がなにか言う前に欲しいものを用意して。いつでも『綺麗』『かわいい』って口説いて。作品制作で疲れたときにはマッサージもしてるんだろ? これのどこが『甘やかし』じゃないって言うんだ」

「それは普通じゃないですかー?」


 なんでもヒロくんの父親の、妻である目黒千明に対するものは「もっとひどい」らしい。完璧なスケジュール管理。興味を持ったことはすぐに資料をそろえる。美味しいものを食べさせ、基本隣にべったりくっついていると。


「もうねー。あの父親達は阿呆ですから。五十過ぎてまだ奥さん膝に乗せて愛でてますからね。それも子供の前で」


 ………聞いてはならないことを聞いた気がするが………ウン。聞かなかったことにしよう。


「『オミさーん。今月の予算なくなりそうなのー』って言われたらすぐに追加出すんですよ。自分の個人資産からだからいいけど、予算の意味ないじゃん! そういうのが『甘やかし』ですよ」


「「……………」」


 ………それは………あの『安倍の黒狐』の話なのでは………? そういえば『父親()』と言っていたな………。


「「……………」」


「ぼくの友達なんか、奥さんが移動するときは常にお姫様抱っこしてますからね」

「「……………」」

「奥さんがちょっとため息ついただけで大騒ぎするし。『美味しそう』ってつぶやいただけでその日のうちに用意するし。

 そういうのが『甘やかし』ですよ。ぼくはまだまだです」

「「……………」」


 ……………どうやらヒロくんの周囲は過保護な溺愛男ばかりのようだ。そのせいで彼は基準がおかしいと。


「『奥さんのワガママ聞くのは男の甲斐性』らしいんで。ぼくももっとワガママ言ってもらえるようにがんばります」


 思わず「あまりがんばらなくていいよ」と言っていた。息子も黙ってうなずいた。



 どうやら安倍家は愛情深い者が多いらしいとヒロくんの話からうかがえた。これは誤算だった。

 最初『北山から出られない生活』と聞き、田舎で監禁同然の生活となるのかと、肩身の狭い、つらい暮らしになるのではと案じたが、愛情深い者達がかわいがってくれるならば菊は心安らかに楽しく暮らせるだろう。それだけでもこちらも安心できた。

 あまり甘やかしすぎないで欲しいと思うのは余計なことだろうか。それもまた余計な心配だろうか。


 かわいい孫娘と気に入った婿予定の青年の未来に思いを馳せ、まだまだ元気でいなくてはと気合いを入れた。



  ◇ ◇ ◇



 菊の大学卒業を待ってふたりは結婚した。名家にふさわしい厳かな挙式。大々的で華やかな披露宴。参加者全員格式の高い着物での挙式の場でも、数百人の招待客の前でも、ふたりは笑顔で堂々としていた。

 当家の家業の威信にかけて菊には最高級の衣装を用意した。白無垢、色打掛、振袖、ウエディングドレス、カラードレス、どれも登場した途端誰もが息を飲む美しさだった。花嫁の横に並ぶ新郎は存在が薄くなるのが常だがヒロくんはそんなことにはならなかった。花嫁である菊を引き立てつつ並び立っていた。美男美女の盛装にカメラのシャッター音が鳴りやまなかった。


 外見の美しさは予想していたが、この日の菊は表情も美しかった。

『うれしくて仕方ない』と『ヒロくんが愛おしい』とその表情が語っていた。

 内面から喜びがあふれているような輝きに、つつましやかにしていてもこぼれる笑顔に、時折見つめあうふたりの視線に、相思相愛なことがうかがえ、菊は今『しあわせ』なのだと言葉にされずとも伝わった。


 あの時我々が選んだ婿候補相手では決して見られなかったであろう表情に「これは誤算だった」とつぶやきがもれる。

「こんなにしあわせそうな菊が見れるとは」

「本当に」妻はハンカチで目頭を押さえていた。妻も自然な笑顔のまま。きっと私も似たような顔になっていることだろう。


 キャンドルサービスで私達のテーブルに来たヒロくんが「お嬢様を大切にします」「ご安心ください」と請け負ってくれた。握手を求めたら快く応じてくれた。そのせいで次から次へと握手を求められ「早くしなさいよ」と菊に怒られた。怒られてもニコニコとうれしそうな新郎に全員で笑った。



 結婚式を終えホテルに一泊したふたりはそのまま新婚旅行に行き、戻って来た挨拶に我が家に寄ってくれたあとそのまま北山の新居に入った。

 それ以来菊に会うことはほとんどない。まれに陶芸作家として受賞した表彰式や個展を開催したときの開会挨拶に出てくるときに合わせてこちらから会いにいくくらい。そのときもほんの数分立ち話をするのがせいぜい。日によってはひとに囲まれて目を合わせるしかできないときもある。

 それでも菊が元気で活躍していることがわかり安心する。その表情が生き生きしているのがわかる。しあわせなのだと伝わってくる。


 表に出てくるときには変わらず白露殿が護衛についている。彼女も我々に気付くと『ご安心ください』とばかりにうなずいてくれる。それで余計に安心できる。


 ヒロくんとは名家の集まりで会える。当主を継いだ主座様の補佐として常に共に参加している。当主補佐として立ち回りながら時間を作って我々と交流してくれる。何年たっても穏やかで爽やかで、菊のことを大切にしてくれる青年に、孫娘に会えなくても心配することは一切なかった。



 やがてふたりは子宝に恵まれた。数人の護衛付きで当家にやってきて、ちいさなちいさなひい孫を抱かせてくれた。涙が勝手に出てきて困った。


 この腕のなかにあるのは『しあわせ』の結晶。

 ふたりの『しあわせ』。家族の『しあわせ』。

 なんと『しあわせ』なことか。


 かわいいかわいい孫娘は昔には考えられないほどのやわらかな表情をしている。その横には頼もしい孫婿。ふたり寄り添い、穏やかに微笑み合っている。


 昔私は、菊の結婚相手は当家の近所の名家か当家に婿に入ってくれるものを考えていた。かわいい菊を手元に置いておこうと。有能で身分も収入もある男に嫁がせ何不自由ない生活をさせることが菊の『しあわせ』だと信じていた。

 けれどそれでは菊はこんな表情を浮かべることはなかっただろう。それまでと同じく『名家のお嬢様』の仮面をかぶったまま、息苦しく暮らすこととなったのだろう。


 そのときにはわからなかった。菊は生まれたときから見本のような『お嬢様』だったから。上品で、気品があり、穏やかな微笑みを絶やさない、自慢の孫娘だったから。

 だがヒロくんと婚約してから菊は変わった。表情が豊かになった。明るくなった。「これが『本当の菊』だったのか」と何度も思った。

 ヒロくんのそばにいるときはその変化が顕著だった。表情が違う。ヒロくんにゆだねているような、甘えているような表情と態度を取るようになった。そんな菊をヒロくんは『愛おしくてたまらない』と言うような目で微笑み受け止めていた。


 そんなふたりに、我らも次第に考えを変えていった。

 たとえ『没交渉』でも。『二度と会えない』としても。菊本人も『北山から出られない生活』を送るとしても。

 ヒロくんのそばにいるほうが菊は『しあわせ』なのではないか、と。

『名家のお嬢様』の皮を脱ぎ捨て『ただの菊』として居られるヒロくんのそばにいることこそが、菊にとっての『何不自由ない生活』であり『しあわせ』なのではないか、と。


 ヒロくんの人柄に惚れたこともある。安倍家の内情を教えられ菊の生活への不安がなくなっていったこともある。

 だが一番はやはり、菊の変化。

 こんなにやわらかな微笑みを、こんなにしあわせに満ちた目を、こんなに楽しそうな態度をする娘だとは知らなかった。


 認めよう。誤算だった。

 菊の『しあわせ』のため、あのとき我らは快く菊を新居に送り出したのだった。



 結婚後は『没交渉』と言われていたが、「ぼくは『当主』ではありませんので」「神代家ならば有象無象を跳ね返せるでしょう」とヒロくんが言い、会合などで時たまヒロくんに会うことができている。ヒロくんが細やかに気を配り、表向きは我が家の者に関わらないように見せてくれているおかげで成立していると知っている。菊とは陶芸作家と名家の者という立場以外で会うことはできない。それでも会えるだけでも特別に配慮されてのことだと知っていたからそれで十分だと思っていた。


 そんな状況なのに、このたびわざわざ当家を訪問してくれた。生まれたばかりの曽孫を見せたい、ただそれだけのために。

 今回の訪問は『隠形』という術を使って姿が見えないようにして気配も消してさらに認識阻害のナニヤラというのをして来てくれていると護衛の白露殿が教えてくれた。そこまでして当家に、菊に気を配ってくれている。配慮して、少しでも喜ばせようとしてくれる。

 なんと良い婿か。ありがたい。


『しあわせ』そうな孫娘。その隣にはうれしそうな孫婿。ふたりともが私達に敬愛を向けてくれている。様々な配慮をしてくれ、こうして宝物を抱かせてくれた。

 きっと他の男ではこうはならなかった。ヒロくんだからこそこんな未来になった。今の私にはそれが理解できる。できるからこそ感謝が絶えない。


 昔の自分が考えてもいなかった『しあわせ』を抱き、ただただ笑みを向けた。

「私の人生でこんな『しあわせ』を得ることができるとは」

「大誤算だな」


 私の照れ隠しを、孫娘は呆れたようにため息をつき、孫婿は楽しそうに笑ってくれた。

菊の祖父視点でした

明日からは菊視点でお送りします

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