【番外編4】恋とはどんなものだろう 9
神宮寺さんご夫婦といつものように別れ、ハルに帰還報告に行く。トモと竹さんの結納の話を確認。ぼくは「同行しなくていい」となった。
「そっちはアキに任せておけばいい。それよりも菊様のほうが問題だ」
どうも昨日一日でさらに話が大きくなったらしい。
一昨日の夜のハルの命令を受けて、オミさんが昨日の朝一番に神代のご当主――菊様のお祖父様の秘書の方に連絡を取った。「安倍家から話がある」というのを、どこがどう曲解されたのか「安倍家が神代の秘蔵の孫娘を狙っている」って話になって、その話があっという間に漏れて、「安倍家から正式申込が入る前に!」ってあっちこっちから見合い話が持ち込まれていると。
安倍家のせいでそんなことになったと言えなくもない状況に、菊様はご立腹らしい。守り役様が苦笑しておられたとハルが言う。
「婚約破棄をしそうなところには『不誠実な者のもとに不幸が降り掛かる』という『先見』が『安倍家主座から出た』と噂を流せば」という策はまだ実行されていない。白露様緋炎様による『婚約破棄する寸前の家へのイタズラ』も。
どちらも神代のご当主との面談で「こんな『先見』が出ましたけどなんか心当たりありますか?」って話をしてから広めるつもりだった。それが完全に裏をかかれた状況で。
「とりあえず、『内密の話』を漏らした関係者は菊様がご当主をさりげなく誘導して罰するそうだ」
ぼくが神宮寺家に行ってる間に菊様の式神が来て愚痴を吐きまくったらしい。ハルがげっそりしてる。
多分ご当主からだけじゃ済まないだろうな。菊様も直々にオシオキされるだろうな。
「神代家内部のことは菊様に一任しておくとして」
そうだね。ヘタに口や手を出したらこっちにまで火の粉が飛んできそうだからね。
「差し当たり今後の対応について話し合う必要がある」
式神経由でなく、直接ひなさんと保護者達――ハルの側近に相談がしたいと菊様が希望しておられるとハルが言う。
「今夜菊様が来られる。姫宮が同席してはまた気に病まれるだろうから。今日は早目に休むようにトモに伝えておいてくれ」
「それとひなさんにも連絡を。もちろん保護者達も」
主座様の命令に「了解しました」と答え、あちこちに連絡を取った。
◇ ◇ ◇
夜。
ハルとひなさんと晃、保護者達、守り役の皆様と一緒に離れのリビングで話をしていたら、時間ピッタリに菊様が転移してこられた。
突然美少女が現れても全員が平気な顔。慣れってコワイ。一斉に立ち上がり頭を下げた。
「お待ちしておりました菊様。どうぞこちらに」ハルの言葉に「ん」と答え、菊様が着席される。それに合わせて全員が再び席についた。
菊様はいつもの高間原の略礼装。これならアイテムボックスから直接衣装チェンジできるからだろう。寝間着でおられただろうし。
この時間を指定してこられたのは菊様。「私の姿をした式神をベッドに置いてくる」とおっしゃっていたそうなので、普通の外出着に着替えるより高間原の略礼装のほうが楽だったんだろう。
「―――で?」
短い言葉でこれまでの報告を命じられる。代表してひなさんが報告をあげる。京都の現状。官公庁の様子。デジタルプラネットの状況。守り役様やハルが調べた神様方のご様子。ヒトならざるモノの状態。
そして最後に、昨日神代家にご当主との面談申込をしたこと、その後の京都各家の動きなどをご報告した。
その報告の最初の時点で菊様にお茶をお出しした。いつものように無造作にコップを取り、ゴクゴクとお飲みになった。
偉そうな態度。けど、ごく自然な態度。
ふと、思った。
このひとにずっとこうしていてほしい、と。
無理することなく。猫をかぶることなく。好き放題して自由奔放に暮らしてほしい。
もう責務は果たしたのだから。『呪い』はなくなったのだから。
背負っておられるものを肩代わりなんて、ぼくではできない。どれほど重いものを背負っておられるのか、察することさえぼくにはできない。
それでも。
凛と立つこの方を支える、支柱の一本になれたら。
常に女王たらんとされるこの方の、気を抜ける場所になれたら。
それは『恋』とはちがうかもしれない。
『愛』ではないのかもしれない。
それでも。
このひとのおそばにいたい。
おそばでこのひとを支えたい。
せめてぼくといるときくらいはこんなふうに楽にしてもらいたい。
今朝みた夢が胸を突く。
『言えばよかった』
『「守りたい」「支えたい」「そばにいたい」そう思ったのはあの方だ』
『他の方ではないんだ』
『追い詰められて、ようやく理解した』
『追い詰められないと理解できないなんて』
『ぼくは、心惹かれていた――あの方に』
それはきっとただの夢。
それでも、消えかけた夢を『絶対記憶』が修復してぼくの『記憶』になり、今では『実際経験したこと』と思うようになった。
あの後悔。あのやるせなさ。
追い詰められて感じた焦燥。
もうあんな思い、繰り返したくない。
そう思ったとき、胸によぎった。
ぼくが『おそばにいたい』と思うのは。
ぼくが『支えたい』と思うのは。
―――それは『恋』とはちがうかもしれない。『愛』ではないのかもしれない。
それでも。
それでも。
『恋』がどんなものなのか、いまだにぼくにはわからない。
それでも、あんなふうに後悔したくない。
『不敬じゃないか』『ぼくでは役不足じゃないか』そんな思いはぬぐえない。それでも、あの後悔と焦燥がぼくを突き動かす。『引くな』『進め』と背中を押す。
『もしもヒロちゃんが菊様を望むのならば、それは「許されないこと」ではなくなっている』アキさんは言った。『状況が変わった』と。
それは確かにそうだ。姫様達にかけられていた『呪い』は解けた。『責務』も果たせた。実際竹さんはトモと結ばれて結納を控えている。それなら菊様だって『誰か』と結ばれてもいい。はずだ。
その『誰か』がぼくでもいい。―――理論上では。
もちろん菊様のご意見が一番だ。菊様がぼくのことが「生理的に無理」とおっしゃるなら仕方ない。でも。もしも。
ぼくと結婚することは菊様にとっては「魅力的すぎる」と先日ご本人がおっしゃった。
ぼくがお相手でも我慢できるなら、結婚相手がぼくというマイナスを抱えてもいいとおっしゃるなら、希望通りの暮らしのためにぼくを選んでくださる可能性は高い。
それなら。
それなら。
「ジジイめ……わざと漏らしやがったのよ」
菊様が今回の顛末を明かされる。
ただの面会申込をわざと曲解し、それをあちこちで言いふらしていたのはご当主ご本人だった。
「安倍家からも求められる孫娘」「早い者勝ち」みたいにアピールして、少しでも好条件の家、好条件の婿を引き出そうとしていたと。
「お祖父様はそんなに菊をこの家から追い出したいのですね」「お祖父様のお気持ちはよーくわかりました」
そう捨て台詞を吐いて、慌てふためくご当主を無視し、フォローしようとする家人もオール無視して寝室にこもったと菊様が教えてくださった。それは菊様がかわいくて仕方ない神代のご当主には痛いだろうなあ。
「クソジジイめ……」つぶやく菊様に「夜が明けたらどうするんですか」と守り役様が問いかける。
「完全無視よ。徹底抗戦よ。ジジイがあきらめて見合い話を『なかったこと』にするまで無視するわよ」
座った目で宣言する菊様に、声をかけたのは蒼真様だった。
「菊様は『結婚』がイヤなんですか? 『見合い』がイヤなんですか?」
「どっちもイヤよ」
「なんで?」
「前も言ったでしょ? ずっと猫かぶって暮らすのはイヤなのよ」
「どうせ表面だけ見て判断して、勝手な理想押し付けてくるような男ばっかりなんだから!」とご立腹の菊様に、他の面々がぼくに目を向けてきた。
―――言いたいこと、わかるよ。ぼく、精神系能力者じゃないけど。
『じゃあヒロならいいんじゃない?』『ならヒロにしとけば?』『ヒロと結婚したら問題解決じゃん』
みんなそう思ってるよね。
ぼくもそう思う。
ぼくを選べば菊様は理想どおりの暮らしができる。霊力も能力も隠すことなく、好き放題振る舞って、白露様をおそばにおいて、梅さん達とも好きに会える。
菊様ならばそれをぼくに命じることもできた。ハルに命じてぼくを従えることもできた。
なのに『ぼくの気持ち』を尊重してくださった。
今だってきっと理解しておられる。『ぼくに命じれば問題は解決する』って。なのにそのことを一言もおっしゃらない。
それは、ぼくでは菊様のお相手として不足だから? 菊様はぼくのことを『恋愛対象』『結婚相手』として見ることができないから?『生理的に無理』だから?
それとも―――ぼくのことを、大切に思ってくださっているから―――?
うぬぼれかもしれない。ううん。うぬぼれだと思う。ただ単にこの方が素晴らしい方で、結婚を強要するような命令ができないだけだと思う。それでも。
あの後悔。あのやるせなさ。
追い詰められて感じた焦燥。
もうあんな思い、繰り返したくない。
これは『恋』とはちがうかもしれない。
『愛』ではないのかもしれない。
それでも。
それでも。
後悔は、もう、したくない。
「―――少し、よろしいでしょうか」
立ち上がり、菊様の正面に移動して声をおかけする。菊様はめんどくさそうに「なに?」とおっしゃった。
「おうかがいしたいことがございます」
無言で『言ってみろ』という表情をされたので、思い切って、言った。
「菊様は、ぼくのことをどう思っていらっしゃいますか?」
―――言ったー!
言っちゃったー!!
うわあ。すごい顔が熱い。手が震える。心臓バクバクする。居心地悪い。別に告白とかそんなんじゃないんだから緊張する必要だってないのに、なんでか恥ずかしくてソワソワして――照れる!
ああ。これが本にあった気持ち。読者として追体験するのとは全然ちがう。やっぱり実体験にまさるものはない。いつもハルが言ってるとおりだ。
そらしたくなる視線を意志の力で菊様に固定する。逃げたい。いや逃げちゃダメだ。
「ぼくでは、貴女様の『お相手』には、なれないでしょうか」
菊様の正面に立ち、自分の胸に手を当ててはっきりと問いかけた。
うう。顔熱い。隠れたい。少しでも凛々しく見えていたらいいんだけど。
そんなぼくに菊様は大きな目をさらに大きく丸くされた。
けど、すぐにフッと悟りきったような自嘲するような笑みを浮かべられた。
「―――一時の同情に人生賭けんじゃないわよ」
「『同情』ではありません」
「じゃあなによ? 晴明の命令?」
「誰にも命じられてはおりません」
「ああ。忖度か。アンタそんな気を遣って生きてたらハゲるわよ」
「忖度じゃありません」
菊様のお言葉を端から反論していく。
そうして、黙った菊様にもう一度問いかけた。
「聞かせてください」
「菊様は、ぼくのことをどう思っていらっしゃいますか?」
「ぼくが『お相手』では、ご不快ですか?」
周りでみんなが《良く言った!》《がんばれ!》って応援してくれるのが伝わってくる。それに励まされてさらに言葉を重ねた。
「ぼく、『生理的に無理』ですか?」
「……………」
「おそばにいるのは、ご不快ですか?」
「………そんなこと、ないわよ」
ボソリとしたお答えに、自分でもびっくりするくらい肩の力が抜けた。よかった。第一関門クリアだ。
「では、もうひとつ」
そう告げ、菊様のそばに移動した。なにをするのかといぶかしげな菊様はわざわざ座る向きを変えてくださったのでその正面に片膝をつき、右手を差し出した。
「触れても、よろしいですか?」
ひなさんに借りた本のなかに『触れられた途端に不快感が湧き上がった』というのがあった。好きでもない男に触れられるのは女性にとって『気持ち悪い』しかないと。
だから、もしも菊様がぼくのことをご不快でなかったとしても、もしかしたら触れた途端に「ムリ!」ってなる可能性もあると思う。竹さんは触れた途端に「『半身』とわかった」らしいし。
そう思ってテストのつもりで手を差し出したんだけど、菊様はムッツリとしてぼくを睨み付けておられる。
なんだろうと思っていたら。
「………菊様。ヒロさんに他意はありません」
ひなさんにから声がかかった。
「あくまでもテストのつもりです。菊様がヒロさんに触れてもご不快でないかの」
そのとおりだからうなずいたら菊様はますますお口をへの字にされた。
「………そういうアンタは平気なの?」
「え?」
おっしゃる意味がわからなくてその目を見つめたら、憮然としておられた菊様はニヤリと口角を上げられた。
「私、これでも『見通す』ことができるのよ?」
「アンタの隠しておきたい秘密とか、内心とか、全部暴露するかもしれないのよ?」
意地悪げに嗤う、悪の女王然としたそのご様子も『菊様らしいなあ』としか思わない。その表情の裏にある思いやりやご配慮がうかがえて『めんどくさいひとだなあ』と思ってしまう。
そして。
そんな悪ぶるところもかわいらしい方だと、思う。
「貴女様に見られて困るようなものはございません」
だから堂々とお答えした。
「貴女様がぼくをご不快でないならば。触れても問題ないのであれば」
「ぼくを、貴女様の『お相手』にしていただけませんか?」
まっすぐに見つめ、手を差し出すぼくに、菊様はなぜかグッと詰まられた。あ。『お相手』の了承を求めてるみたいに受け止められたのかな?
「まずはぼくに触れてもご不快に感じられないか、テストをしてみていただけませんでしょうか」
重ねて言えば菊様は不承不承という感じでぼくの手にその手を乗せられた。
ほっそりとしたその指が触れ、そうして手のひらが重なった。
―――途端。
感じたのは言いしれない感動。これまで無意識に『触れることは許されない』と思っていた方に触れている。こんなに近くにその指先を見ることができている。なんだろう。胸が。胸が。
息が苦しい。ドキドキする。圧迫されているような、締めつけられているような苦しさと息苦しさが同時に襲ってきた。
これは、アレだ。恋愛モノを見てるときの『キュン』の強いヤツだ。
ぼく、菊様に『胸キュン』してるんだ。
握ってしまいたくなるのをどうにかこらえ、手を重ねたまま言葉をつむいだ。
「先日お話をうかがってから、ぼくなりに色々考えてきました」
じっと菊様のお顔を見上げるぼくに、菊様はムッとしたまま。それでも『黙れ』と言われないことをいいことに話を続けた。
「ぼくには『恋』がどんなものか、わかりません。『愛』がどんなものかもわかりません。
貴女様へのこの気持ちは『恋』や『愛』ではないかもしれません。それでも」
「貴女様を支える支柱の一本になりたいと、ずっと思っていました」
「ぼくでは力不足だと承知しております。『お支えするなどおこがましい』とも承知しております」
「それでも」
「叶うならば、貴女様が自由に生きる手助けとなりたいと思っております」
「自由に生きる貴女様を近くで拝見したいと、そう、思っております」
胸の内を全部さらけ出すつもりで一生懸命に言葉をつむいだ。うまく説明できてるといいんだけど。
『恋』がどんなものか、いまだにわからない。
『愛』がどんなものか、はっきり言語化できない。
そんなぼくには菊様の『お相手』は役不足かもしれない。それでも、ぼくと結婚することでこの方が自由になれるなら。楽に生きられるなら。
おそばにいたい。お支えしたい。
奔放に振る舞う女王を間近で見守りたい。
真剣に見つめるぼくを、菊様はムッとしたままじっと見つめておられた。大きな目と視線が合う。
綺麗な目だなあ。こんなに近くでこの目を見たのは初めてじゃないかな。まつげ長い。綺麗な二重。黒い瞳に金色が砂子みたいにきらめいている。光の加減かな。吸い込まれそうなくらい綺麗。ずっと見つめていたいなあ。
そんなことを考えていたら、菊様がムッとしたまま口を開かれた。
「………さっき、『自分のことをどう思っているか』と聞いたわね」
「はい」
「アンタはどう思ってんのよ」
「は?」
「アンタは私のことをどう思ってんのって聞いてんの!」
怒ったように怒鳴られる菊様。けど、なんでだろう。全然こわくない。猫が『シャーッ』て毛を逆立ててるみたいでかわいい。
そんなムッツリ顔でもお綺麗だなあと思ったから、そのまま口に出した。
「お綺麗な女性だと思っております」
「そんなお世辞いらないわよ」
「いえお世辞ではないです」
「いいから。正直に本音で言いなさい」
「『不敬』なんて言わないから」と言われ、「では」とお答えした。
「『強い』方だと思っています」
この前トモに同じ質問されてたから即答できた。けど、サラッと答えたのがお気に召さなかったのか、菊様は不満げな態度で重ねていた手を引っ込められた。
「………他には?」
「かわいらしい方だと」
「『かわいらしい』!?」
「どこがよ!」と叫ばれたので「そうですねぇ……」と少し例を探してみた。
「お菓子をムシャムシャ召し上がるところとか」
「………は?」
「言いたいことポンポンおっしゃるところとか」
「……………」
「好き勝手怒鳴り散らされるところとか」
「馬鹿なの?」
真顔でツッコまれた。
「それとも趣味が悪いの?」
本気で心配してくださっているご様子におかしくなって「どうなんでしょう?」とお返ししたら菊様の眉間のシワがさらに深くなった。
だからあわてて言葉を重ねた。
「ぼく、恋愛的な意味で女性を『好き』と思ったことがないので、よくわかりません」
「じゃあ私も『恋愛的な意味で好き』なわけじゃないってこと?」
即座に返ってきたツッコミに「わかりません」と正直に答えた。
「先程申し上げましたとおり、ぼく、『恋』とか『愛』とか、よくわからないんです」
「どんな女性を見ても『かわいい』と思います。けど、『どうしてもこのひとでなければ』とは思わないんです」
「ですが、貴女様は違います」
「貴女様に対しては『お支えしたい』と思っていました」
「ぼくでは力不足だと承知しております。このような申し出をすること自体不敬だとも承知しております。ですが」
「もし貴女様の一助になれるならば、ぼくを利用してもらえたらと、思います」
「ご不快でなければ、おそばにいさせていただきたいと、思います」
じっとみつめるぼくを、菊様はただ黙ってにらみつけておられた。なにを言われるのかと待っていたら、菊様が視線を外された。
ふい、とうつむかれた菊様は「はあぁぁぁ……」と深く深くため息を落とされた。
え? 呆れられた? それとも、やっぱり嫌だった!?
思わず息を飲んだぼくを菊様はじろりとにらみつけられた。
「………お人好しね」
……………それは、どういう、意味でしょう………?
意味がわからず黙っていた。菊様はうつむきその長い髪をかき上げ、そのまま頭を押さえてなにか思案しておられた。けどすぐにその手で自分の髪を漉き、顔を上げられた。
『不遜』と表現したくなるようなお顔に、皮肉げな笑みを浮かべておられた。
「で? 私に『貸し』を作るつもり?」
言われた言葉の意味がわからなくて「は?」としか反応できなかった。
そんなぼくに菊様は、それはそれは綺麗な笑みを見せた。
「そうしておいて、安倍家で私を利用するんでしょ?」
―――きっとこれまでそんなことがあったんだ。
そう、察した。
ぼく、突発的な出来事に弱いけど、だから突然そんなこと言われたらびっくりしちゃったけど、それでも、わかる。
これまでの五千年、そんなことがあったんだ。
利用されたり、勝手に『貸し』を作られたり、この方の意思や尊厳をふみにじるようなことが、きっとあったんだ。
そりゃそうだよね。こんな高霊力保持者で、『先見』ができて、リーダーシップがあって、美人で、気品があって、知性も兼ね備えてて。誰だって、どんな立場の人間だって『彼女が欲しい』と思うだろう。祀り上げられたことも、自由を奪われたことも、きっとあったんだろう。
そっと守り役様をうかがうと、特に表情を変えておられなかった。けれどその目がわずかに伏せられていて、『ああ、なんかあったんだろうな』って察することができた。
―――きっと、いっぱい傷ついてこられたんだ。
だからこうして警戒しておられるんだ。
そんな思い、させたくない。
警戒することなく、身構えることなく、自由に楽に過ごしてほしい。
もう『責務』は果たせたのだから。『呪い』は解けたのだから。
じっと美しい方を見つめる。菊様は笑顔だけど、ニセモノの笑顔だと思った。
名家の集まりでいろんなひとに囲まれているときに浮かべておられる笑顔。
ぼくらの前で見せる笑顔とは全然違う。
そんな菊様は、怪我をした野生動物のようだと感じた。
警戒して、これ以上傷つけられないように威嚇して、虚勢を張って。
『「支え」になりたかった』
『「休める場所」になりたかった』
『あのひとが、素をさらけ出せる場所になりたかった』
『なんの不安も心配もなくゆっくりと休める場所になりたかった』
『あのひとが「あのひと」のままで、羽根を伸ばせる場所になりたかった』
ああ。アキさんの言葉が染みる。ぼくも同じ。この方の支えになりたい。この方が気楽に過ごせるようにしたい。傷ついたり、苦しんだりすることのないよう、お守りしたい。
ぐ、と眉間に力を入れた。気合! この方を、守る!
ココロに決め、グッと拳を握った。
そっと呼吸を整えて、綺麗な笑顔で警戒しておられる美しい方に向け、にっこりと笑みを向けた。
「そのようなことはいたしません」
そう言ったけど、信じてもらえないみたい。ニコニコ外向きのお顔でさらにおっしゃった。
「アンタはしないつもりでも、晴明や他の上層部が『やれ』って言ったらやらざるを得ないでしょうが」
「『ヒロを差し出したんだから』って言われたら、私だって言うこときかないといけなくなるわ」
「そんな縛られるなんて、イヤよ」
「ハルもウチの保護者達も、そんな人間ではありません」
「ね」とハルに水を向けたら、ハルは得たりとうなずいてくれた。
「菊様になにかお願いする必要があれば、これまでどおり対価を提示します。ご納得いただけなければ諦めます」
「そもそも現状から推察するに、菊様にお出まし願うような事態はまず起こらないと思われます」
ハルの説明に菊様は「む」と笑顔を消された。
まとっていた鎧がはげたようなお顔に、ムッツリ顔なのにちょっとホッとした。
と、菊様はそのムッツリ顔をまたぼくに戻された。
「アンタ自身はどうなのよ」
責めるように言われ「どう?」と思わず繰り返せば、菊様はニヤリと口角を上げられた。
「言っとくけど、私、有能よ?『先見姫』の名は伊達じゃないわよ」
えらそうにふんぞり返って腕を組み足も組む。いつもの女王然とした態度におかしくなって、つい、笑ってしまった。
「そうですね」と言ったけど、バカにしたと思われたのか本気ととらえていないと思われたのか、余計にムッとされた。
「ぼくが個人的に貴女様のお力添えをお願いすることはないと思います」
「ぼくは晴明の配下ですので」「個人的になにかすることはまずないと思われます」と説明したら納得なさったのかちょっと真顔になられた。
けどすぐにまたニヤリと意地の悪いお顔になられ、挑発されるように指差してこられた。
「うまいこと私を言いくるめて利用したらいいんじゃない? うまい汁を吸えるわよ」
「不要です」
ご提案を一刀両断するぼくに、菊様は黙ってしまわれた。
「ぼくの望みは『ハルの右腕となること』です。ぼく自身が『うまい汁を吸う』ことに興味はありません」
そう申し上げて、気が付いた。
そうだ。ハルのこと、ちゃんと申し上げておかないと。
ぼくにとってなにが『一番』かを。
「これだけはご承知おきいただきたいのですが」
そう前置きすると、菊様は黙って視線で先をうながされた。なので、はっきり申し上げた。
「ぼくにとって『一番』は、ハルです」
また表情が『無』になられた菊様に構わず、言いたいことをぶちまけた。
あとで『聞いてない!』とか言われたら困るもんね。ちゃんと全部さらけ出すのは最低限の礼儀だろう。
「ぼくにとってハルは、ずっと一緒に育ってきた兄弟で友達で、ずっと助け導き育ててくれた恩人で、直属の上司です」
「そのハルを支えることが、ぼくの生きる意味だと思っています」
「もちろん貴女様も『お支えしたい』と思っています。その気持ちに偽りはありません。
ですが、貴女様とハルと『どちらかを選べ』と言われたら、ぼくはハルを選びます」
「貴女様には白露様がおられますから」
はっきりきっぱり、ぼくの立ち位置と考えと信念をお伝えした。
菊様は表情が『無』のまま。白露様は「ぶっちゃけすぎよヒロ……」と頭を抱えておられる。緋炎様はなんかニヤニヤしておられる。蒼真様と黒陽様はポカンとしておられる。
ハルは『仕方ないな』みたいな顔で腕を組んで黙っている。保護者達はみんな『よく言った!』みたいな顔でニコニコしてたりうなずいたりしている。晃とひなさんは苦笑してるけど、菊様のご様子をうかがっているのがわかる。
しばらく『無』のまま黙っておられた菊様が、腕を組んだままうつむかれた。―――ご不快になられた?
どうしよう。ぶっちゃけすぎたかな? でもちゃんと言っておかないと後々『話がちがう!』ってなっちゃうだろうし。話の流れ的に今言わないと言う機会なさそうだったし。
ああ。これで『お相手』の話は終わったかな。もしそうでも仕方ないよね。意見が合わないのに無理してもいつか破綻しちゃう。
そんなことを考えて、でも表面上は何事もなかったかのようにじっと菊様を見つめていた。
と、うつむいた菊様の肩が震えていることに気が付いた。
―――泣いておられる!? それとも、怒りに震えておられる?
どうしよう何か言うべき? でも前言撤回するのはちがうし謝るのもちがうし、なに言えばいいの!?
表面はがんばって冷静な顔を作り、内心オタオタしていたら。
「―――ぷーーーっ!」
こらえきれないというように菊様が吹き出された。
唖然としていたら菊様は顔を上げ、爆笑しはじめた。
「ぷはははは! この私を!『白蓮』の女王を!『二番手』扱いするなんて!」
「いい度胸してんじゃない! ぷははははは!」
そう言われたらたしかに。めっちゃ不敬じゃん。
あわてふためくぼくに構わず、笑いをおさめた菊様はハルに顔を向けられた。
「アンタはいいの? 晴明」
「私が安倍家に入ったら、アンタ、やりにくくなるんじゃないの?」
「私は構いませんよ」
ハルはケロリと答えた。
「以前も申し上げましたが、ヒロは私の右腕となることは決まっています。その結婚相手となると、家柄も霊力量も個人の資質も求められます」
「菊様ならばなんの文句はありません」
「こちらからお願いしてヒロに嫁いでいただきたいところです」
堂々と言い切って、ハルはその目をやさしく細めた。
「もちろん菊様とヒロと、互いに『気持ち』があればの話ですが」
「ヒロもこう申しておりますし。よかったらこのヒロも安倍家もご利用ください」
ニコニコ笑うハルに菊様は「フン」と鼻で笑い、父さんと母さんに目をやられた。
「アンタ達はどうなのよ?」
「私が『ヒロの嫁』なんて、嫌じゃないの?」
「正直に言いなさいよ」とえらそうに命じられる菊様に父さんも母さんもニコニコ。
「私は別に平気ですよ?」
「オレも。
ヒロと結婚する娘は『ヒロの妻』であって『目黒家の嫁』ではないと以前から思ってましたから。
ただ、サチとユキには『ヒロの結婚相手』は『ほんとうのお姉さん』になると説明してますので、双子が突撃したら相手をしていただけると助かります」
ちょっと前にそんな話をしていたこともあってか、サラリと答える母さんと父さんに菊様は黙ってしまわれた。あ。もしかしたら『双子の相手』がお嫌かな?
そう心配していたら菊様はひとつため息を落とし、今度はオミさんとアキさんに目を向けられた。
「アンタ達は?」
問われたオミさんもアキさんもあっさり答えた。
「僕も問題ありません。むしろこちらからお願いしたいくらいです」
「私も。菊様でしたらみんな大歓迎ですわ」
完全ウェルカムな保護者達に菊様は黙ってしまわれた。どうしようと困っていたら、ひなさんから声がかかった。
「『姫様』がそのへんの男に嫁ぐよりは『安倍家で保護している』としたほうが神々にも受け入れられるのではないかと推察致しますが、いかがでしょうか」
説得力しかないその言葉に、菊様は大きくため息を吐き出された。
そうして片膝をついたまま待機状態のぼくにムッツリ顔を向けられた。
「私、勝手よ?」
「存じております」
「大人しくなんかないわよ?」
「それも存じております」
「家事しないわよ?」
「ぼくができます」
ひとつひとつお答えしていたら、ハルが助け舟を出してくれた。
「どのように生活するかは追々話し合っていきましょう。白露様はご一緒でよろしいのですよね?」
「もちろんよ! 私がついてないと姫はなにをしでかすかわかったもんじゃないから」
「人聞きの悪いこと言うんじゃないわよ」
「アラ姫。本当のことでしょう?」
じゃれだした主従をほっこりと見守っていたら、そんなぼくに気付かれたらしい菊様がムッとされた。
けれど「はあぁ」とため息を落としたあと、向けられたお顔はさっぱりとしたものだった。
「いいわ。アンタも安倍家も利用させてもらう」
女王然とした、自信に満ちあふれた態度。ごく自然に「はっ」と頭を下げた。
「まず、ジジイをどうにかしなさい」
「話はそれからよ」
「承知致しました」
そうお答えすれば、菊様はニヤリと口角を上げられた。
悪の女王のような、とても菊様らしい笑顔だった。