【番外編2】神宮寺桐仁の奮闘 1
本日より竹の下の弟 桐仁視点でお送りします
全七話です
物心つく前からお姉ちゃんは『特別』だった。
絵本を読んでくれた。あやしてくれた。歌を歌ってくれた。褒めてくれた。
ぼくにとってお姉ちゃんは『特別』だった。
三歳歳上の兄ちゃんは乱暴で「かわいがり」がイコール暴力だった。兄ちゃんもまだ子供で加減がわからなかったんだろうと今ならなんとなく理解できなくもないけれど、まだちいさなぼくにとっては十分理不尽で痛くてかなしいことだった。
父さんも母さんもおじいちゃんもおばあちゃんも畑が忙しくてなかなかぼくらにまで目が行き届かない。兄ちゃんのぼくに対する暴力は、本人に全く悪気がない上に「弟の世話を焼いてやっている」と言っていたこともあり、大人達は「手加減しないと」とたしなめるしかしてくれなかった。
そんなぼくが逃げるところはお姉ちゃんのところだった。
お姉ちゃんは物静かでいつも本を読んでいた。
まだ幼稚園に入る前からお姉ちゃんにくっついて「えほんよんで」とおねだりすれば、いつでも「いいよ」と言ってくれた。
お姉ちゃんがやさしく本を読んでくれるからすぐにひらがなを覚えた。カタカナも漢字もすぐに覚えた。
「きりちゃんはかしこいねえ」ってお姉ちゃんが褒めてくれるからうれしくてもっと勉強をがんばった。
ぼくが幼稚園に入ったのと同時に兄ちゃんは小学一年生になり、たし算ひき算をやるようになった。
リビングで宿題をする兄ちゃんを見ているだけで算数は理解した。「きりちゃんすごい」お姉ちゃんがまた褒めてくれた。
かけ算も割り算も兄ちゃんがウンウン言ってる横で先に覚えた。お姉ちゃんが褒めてくれるから勉強が楽しかった。
字も読めるようになったし計算もできる幼稚園児だったけど、やっぱりお姉ちゃんに本を読んでもらっていた。
お姉ちゃんに読んでもらうとその物語がやさしく生き生きとする。お姉ちゃんの隣はとてもおだやかで気持ちが楽になる。だからいつも「本を読んで」とおねだりをしてお姉ちゃんにくっついていた。
兄ちゃんはちいさい頃「おれは長男だから」「おれがこの農園を継ぐ」と言って畑の手伝いをしていた。けれど四年生になって一年生から入ってた地元の野球チームで試合に出れるようになったら野球優先になって手伝いをしなくなった。
「どうせ大人になったらやらないといけないんだから」「今のうちにやりたいことをやる」そう言って野球に打ち込んでいた。
そんな兄ちゃんはお姉ちゃんのことをバカにしていた。父さんがお姉ちゃんをめちゃくちゃ大事にしてるから面と向かって口に出したことはないけど、態度がバカにしていた。
「畑の手伝いもしない役立たず」「どうせお嫁にいっていなくなる人間」そんなことを言っているのを聞いた。
兄ちゃんにとってお姉ちゃんは「いてもいなくても同じ人間」らしいけど、ぼくにとっては大好きなお姉ちゃんだ。
大人が忙しくて構ってくれないぼくをお姉ちゃんだけが気にかけてくれた。幼稚園であったことを聞いてくれた。ぼくが間違ったことや悪いことをしたときには教えてくれた。相手の気持ちを教えてくれて、どうしたらよかったか、どうしたらいいか教えてくれた。いいことをしたときには褒めてくれた。うれしいことがあったときには一緒に喜んでくれた。
おだやかでやさしくていつもニコニコしているお姉ちゃんは、ぼくの自慢のお姉ちゃんだ。
◇ ◇ ◇
そのお姉ちゃんが六年生の夏頃からなんだか具合悪そうにしている。
「いつもの夏バテかしら」って母さんはお姉ちゃんの部屋にエアコンをつけて寝させていた。
兄ちゃんは「弱っちい」「なまけてる」って言ってたけど、お姉ちゃんがそんなひとじゃないってぼくらはわかってるから「涼しくして休んどきな」って部屋に押し込めた。
お姉ちゃんがひとりでエアコン使うのを遠慮するのがわかっていたから、ぼくもお姉ちゃんの部屋で本を読んだりお絵かきをしたりした。「きりちゃんが暑いといけないから」って母さんに言われて、お姉ちゃんはようやくエアコンを使うことを受け入れた。
大人の前では元気なフリをしているお姉ちゃんがムリをしていることをぼくは知っていた。だから少しでも寝させようと「一緒にお昼寝しよう」と誘った。少しでもごはんが食べられるように「分けっこしよう」と誘った。「きりちゃんがそう言うなら」ってお姉ちゃんは困ったみたいに笑って言うことを聞いてくれた。
そのお姉ちゃんはどんどん具合が悪くなっていった。
お姉ちゃんが中学校に入ったとき、ぼくも小学校に入学した。
国語も算数も生活もお姉ちゃんと勉強していたから楽勝だった。問題はお姉ちゃんだった。
ごはんが食べられなくなっていく。家に帰ってすぐベッドに倒れる。起こしても起きないときもある。いつでも苦しそうにしているくせに、ぼくや家族が声をかけたらにっこり笑って「大丈夫」って言い張る。
父さん母さんがあちこちの病院に連れて行ったけど、どこも病気を見つけることができなかった。
「病気じゃないよ」「ちょっと疲れやすくなってるだけ」「中学校は大変なんだよ」そう言って笑うけれど、兄ちゃんなんかは「なまけ病だ」なんて言うけど、絶対に違うってぼくは思っていた。
学校から帰ってベッドにもぐったお姉ちゃんを起こしに行ったとき。お姉ちゃんは本当に苦しそうに顔をしかめていた。痛いのを我慢してるってそれだけでわかった。
ときには「ごめんなさい」「ごめんなさい」って泣きながら言ってた。起きてからどうしたのか聞いたけど「こわい夢見ちゃった」って笑うだけ。
父さんが「学校休め」って休ませようとする日も増えた。「学校まで車で送る」「迎えに行く」っていつも言ってた。それでもお姉ちゃんは「お仕事の邪魔になる」「大丈夫だから」って歩いて学校に行った。
兄ちゃんは「甘やかしすぎ」って腹を立ててたけど、ぼくは父さんがもっと強引に動かないといけないと思っていた。
お姉ちゃんはいつでもまわりに気を遣っている。迷惑にならないように。役に立つように。だからなんか理由をつけて無理矢理言うことを聞かさないとお姉ちゃんは聞かない。
父さんにもそう言ったけど、実際父さんは朝忙しいからなかなかお姉ちゃんに構えなかった。
そうして二年生になり、三年生になった。
お姉ちゃんはほとんどごはんを食べない。スープを少しとか、パンを少しとかしか食べない。
「ケーキなら食べるんじゃないか」「ゼリーなら」って父さん母さんは手を変え品を変えお姉ちゃんの好きそうなものを買ってきては食べさせようとした。
それでもお姉ちゃんは手を伸ばさない。だからぼくは考えた。
「お姉ちゃん。ぼく、これもこれも食べたい。でもふたつは多いから、手伝って?」
お姉ちゃんはおねだりに弱い。押し問答の末「きりちゃんがそう言うなら」っていつも負けてくれる。そうして一口二口と食べ物を口にする。
大人はぼくの作戦をちゃんとわかってくれて、こっそりと「ありがとう」って言ってくれた。「これからも頼む」なんて言われた。でも馬鹿な兄はぼくのことを「ワガママ」って言って、そのくせお姉ちゃんのためにいろんな種類をたくさん買ったのに、何個も何個も食べていった。お姉ちゃんのなのに。
「私はいいよ」「もう十分いただいたよ」「きりちゃんもいっぱい食べてね」
お姉ちゃんはいつでもやさしい。だからそのやさしさを逆に利用して、お姉ちゃんに一口でも食べ物を食べさせようとした。
ぼくは『歳のはなれた弟』で『末っ子』だから、お姉ちゃんも比較的ワガママを聞いてくれる。父さん母さんには「大丈夫」と押し切るところも「きりちゃんがそう言うなら」ってゆずってくれることがある。
だからぼくはわざと甘えん坊のワガママな末っ子の顔をしてお姉ちゃんに甘えた。
「お姉ちゃん。ぼく暑い。エアコンつけよ」
「……きりちゃんがそう言うなら……」
「お姉ちゃん。このジュース美味しいよ。飲んで!」
「……きりちゃんがそう言うなら……」
「お姉ちゃん。起きて。一緒にごはん食べよ!」
「……きりちゃんがそう言うなら……」
そうやってぼくなりにがんばっていたんだけど、三年生の冬、お姉ちゃんはついに目を覚まさなくなった。
「お姉ちゃん」「お姉ちゃん起きて」どれだけ声をかけてもゆすっても起きない。ただただ人形みたいに眠ってる。
「絶対夜中とかに起きてるって」馬鹿な兄はそう言ってお姉ちゃんのことをバカにしてたけど、父さんも母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも必死になってお姉ちゃんを助けようとしていた。
「ぼくにできることはない?」ぼくも聞いた。ぼくもお姉ちゃんを助けたかった。
でも父さんも母さんも「大丈夫」としか言ってくれなかった。
◇ ◇ ◇
ある日、お姉ちゃんはいなくなった。
おばあちゃんの実家の神野のおうちの関係のところに預かってもらうことになって、ぼくが学校に行っている間に連れて行ったと聞かされた。
父さんと母さんは二日に一回そのおうちに行ってお姉ちゃんを見舞っているっていう。けど桜が咲いてもゴールデンウイークが過ぎてもお姉ちゃんは目を覚まさない。
「ぼくもお見舞いに行きたい」って何度か言ったけど「お父さんとお母さんしか許されてない」って連れて行ってくれなかった。
「お姉ちゃんが早く目を覚ましますように」
ぼくにできることは近所のお地蔵様に手を合わせることだけ。
「お姉ちゃんをお守りください」
学校に行くとき。帰るとき。手を合わせてお願いする。
「お姉ちゃんが元気になりますように」
なにもできないぼくだけど。なにもできないから。せめて。
「お姉ちゃんが帰ってきますように」
毎日お願いをした。
◇ ◇ ◇
そんなお願いの甲斐があったのか。
「お姉ちゃん、目が覚めたよ」
朝ごはんのとき、突然お父さんが言った。
「ホント!?」
「本当」
ここ数日わかりやすく顔色が悪かった父さんと母さんがニコニコしているからウソじゃないってわかった。わかったらうれしくなった。
お姉ちゃんが目を覚ました! 元気になった! お地蔵様、ありがとう!
「いつ帰ってくるの!?」
うれしくて聞いたら「まだ具合が悪いからすぐには帰ってこられない」って言う。
がっかりしたけど、それでもお姉ちゃんが目を覚ましたならよかったと安心した。
「それより聞かせておきたいことがある」
急に真面目な顔をして父さんがそう言う。他にもなにかあるのかと緊張したら、父さんは言った。
「お姉ちゃんのことを好きになった男がいて、近々婚約することになった」
「「はあぁぁぁ!?」」
男!? お姉ちゃんに!?
「やっぱり『寝てた』なんてウソだったんじゃないか!」
黙れバカ兄。お姉ちゃんがウソつくわけないだろう。
「誰!?」
「目黒くんの友達」
「はあぁぁ!?」
お姉ちゃんを預かってくれている『神野のおうちの関係のところ』の関係者が最近手伝いに来てくれる目黒くん。すごくイケメンでおだやかでやさしいおにいさんで、ぼくにもよく声をかけてくれる。
父さん母さんにも「竹さんは大丈夫ですよ」って声をかけてるのを見た。だからお姉ちゃんのことに詳しいんだと思ってぼくも何度かお姉ちゃんのことを聞いた。
「大丈夫だよ」って言ってたけど、そんな、男のことは言ってなかったよ!?
「どこの男!? 名前は!?」
「鳴滝の西村トモって男」
「背の高いイケメンさんよ」
「しっかりした男だ。あいつなら竹をまかせられる」
「お姉ちゃんにベタ惚れよ」
母さんはともかくお姉ちゃん大好きな父さんがそこまで言うなんて!
どこまでが本当なのか、大急ぎでごはんを終わらせて農場に走った。
「目黒くん!」
「あ。桐仁くん。おはよー」
「おはよ……。それより! 今父さんから聞いたんだけど!! お姉ちゃんが……」
「ウン。目を覚ましたんだよ。よかったねぇ」
「うん! 良かった! ……じゃなくて!『男ができた』って……」
「そうなんだよー。もー、トモが猛アタックかけてさー」
「まるっきり別人だよ」「ベッタベタにベタ惚れなの」そう笑う目黒くんは『うれしい』って身体中で表現してる。
どんなひとなのか聞いたら色々教えてくれた。とってもとっても優秀なひとらしい。それよりなにより「お姉ちゃんをすごくすごく大事にしている」ことと「お姉ちゃんもそいつが大好き」なことを聞いて、「それなら」って思った。
「お姉ちゃんに会えないの?」目黒くんに聞いたら「まだ具合悪いからねえ」って言われた。
「そのうちトモがご挨拶に来るから。そのときには一緒に来ると思うよ」
そう言われて、お姉ちゃんが帰ってくる日を今か今かと待っていた。
◇ ◇ ◇
それからしばらくして。
ウチで「『結納』をする」お父さんが言った。ぼくらも「出席しろ」って。
兄は「その日は部活休め」って言われてブーブー文句言ってた。けどお父さんがさっさと部活の顧問に連絡して休ませた。
そのせいで『お姉ちゃんが目を覚ました』ことと『婚約する』ことが中学校に広まった。
春に卒業したお姉ちゃんのことを知ってる先生がまだ中学校にいて、問い合わせが来て父さんと母さんはあわてて中学校に挨拶に行った。
夏休み中だけど野球部から広まって、在校生の弟妹から聞いたっていうお姉ちゃんの同級生やその保護者からも連絡が来た。そのたびに父さん母さんは「ご連絡が遅くなってすみません」ってあやまってた。
「療養先で惚れられて」「相手の男が尽力してくれてようやく目を覚ました」「娘はまだ体調は戻っていない」「とにかく男が娘にベタ惚れで」「すぐにでも結婚したがってるんですが年齢が足りてないので『せめて婚約だけでも』となりまして」
そう説明する父さんも母さんもとにかくうれしそう。お姉ちゃんが目を覚ましてうれしいだけじゃなくて、相手の男を気に入っていることもわかる。
「どこの誰?」「何歳」って聞かれた父さんと母さんは「鳴滝の西村という男」「娘の一歳上で、今は高校二年生」ということもバラした。
『鳴滝の西村智』というひとは有名人らしい。「まさか、あの?」みたいに言うひとが何人もいた。中には面と向かって「ウソでしょ?」というひともいた。
勉強がものすごくできる。スポーツ万能。ものすごく強い。女子にモテモテ。そんな話をしてるのを聞いた。
そんな中で驚いたのは「女嫌いで有名なのに、なんで!?」という意見。
どうも『トモ』というひとはかなりの女嫌いらしい。一時は同性愛者疑惑も出たらしい。そんな男が『お姉ちゃんにベタ惚れ』というのが誰も彼もが「信じられない」らしい。
「こう言っちゃあ悪いけど、神宮寺さんは普通の子だし……」
あんたにお姉ちゃんの良さがわからないだけだ。ウチのお姉ちゃんは素敵だぞ!
「とてもあんな優秀な男を惹きつけるようには……」
なに言ってんだ。その男に見る目があっただけだ。
ウチのお姉ちゃんは、確かに見た目は地味だけど、お姉ちゃんの良さは外見じゃない。
あのおだやかでやさしい雰囲気。清らかで純粋な人柄。他人の悪口を言わない。不平不満も言わない。お姉ちゃんが言うのは褒め言葉と感謝だけ。
こんな素晴らしい人間、そうはいない。
だから、そんなお姉ちゃんを選んだ『トモ』さんは、すごく見る目があると思う。
それにお姉ちゃんも『トモ』さんのことが「好き」だって目黒くんが言ってた。
お姉ちゃんが選んだひとならいいひとだろう。
どんなひとなのか、会えるのが楽しみだった。