第二百二十七話 愛しいひと
なんだかんだと話し合っていたからもう日付が変わってしまった。残り三十分程度しかない。
さっきしっかり寝たから睡眠は十分だ。足りてないのは竹さんだ。顔が見たい。声が聞きたい。抱き締めたい。キスしたい。イチャイチャしたい。
早く愛しい妻の顔がみたくて大急ぎで彼女の部屋へとむかう。寝てるかな? 寝ててもいい。逢いたい。ただ逢いたい。
「おかえりなさい」
扉を開けるなり愛しい妻から声がかかる。
ベッドの上で身体を起こして本を読んでいた彼女が俺を出迎えてくれた。
その姿を目に入れた途端、声を聞いた途端、胸が締め付けられた。
―――ああ、竹さんだ。
やさしい微笑み。穏やかな霊力。変わらない。あの頃のまま。愛おしい。俺の妻。やっと逢えた。まためぐり逢えた。
歓喜に震える。全身が痺れ鳥肌が立つ。これまでのあれこれが走馬燈のように浮かぶ。愛しくて、愛おしくて、涙がにじんだ。
そんな俺の内心に気付かない彼女は本を閉じ、もたもたとベッドから降りようとする。あわててそばに寄り押し止める。
「ただいま」
ささやき唇にキスを落とす。彼女はくすぐったそうに微笑んだ。
「起きて待っててくれたの?」
「本読んでたら止まらなくなっちゃって……」
えへへ。と照れ臭そうに笑うのかわいい。いつものように胡坐の中に座らせ抱きしめる。と、彼女もうれしそうに抱きついてくれる。
ああ。竹さんだ。竹さんを抱いている! 竹さんが抱きついてくれてる! 俺、愛されてる! しあわせ!
しあわせを噛み締めていてふと気になった。
さっきあれだけ騒いでたのによく気付かずに本読んでたな。ひなさんは起きだしてきたのに。それだけ集中して読書してたのか? それとも黒陽がこの部屋に防音結界張ってたのか?
まあいいやと気を取り直し、彼女の体調をうかがう。
「熱、どう?」
「ほとんどないよ」
「どれどれ?」
冷却シートがなくなった額に手を当てる。首筋にも触れる。問題なさそう。とはいえ念には念を入れて計ってみよう。
体温計で計測すると彼女の平熱よりわずかに高いだけだった。このくらいならまあ誤差の範囲だろう。
「――うん。ほぼ平熱になったね」
そう告げるとうれしそうに、得意そうに微笑む彼女。かわいすぎる。
「でも油断しちゃダメだよ? もう数日寝ててね?」
わざと厳しい顔を作って注意すれば「うん」「わかった」と素直に応じる愛しい妻。かわいい。
――不意に『智明』だった時の記憶が思い出された。
あの頃もいつもこうして熱の確認をしていた。いつ彼女を喪うかと恐ろしくて、それでもそばにいられることがうれしくて、一日でも長くこうしていられるようにと祈っていた。
記憶がよみがえったばかりだからか感情の制御ができない。頭ではあれは過去のことだと理解してもあの時の気持ちが真に迫ってくる。
失いたくない。ずっと一緒にいたい。このまま元気にならなければずっと一緒にいられる。このまま元気にならなければいつか彼女はいなくなってしまう。
うれしい。こわい。しあわせ。つらい。
ぐちゃぐちゃになっていく感情を落ち着かせるために彼女を抱き締める。あたたかい。生きてる。そばにいる。抱いている。愛してる。愛してる。ずっとそばに。もう離れない。もう離さない。
ぎゅうぎゅうとただ抱き締めた。霊力が循環する。ひとつに溶ける。彼女がいる。抱いている。生きている。生きている。
『青羽』のときの感情も湧き上がってきた。甘い甘い蜜のような夫婦生活。愛しくてしあわせで満たされていた毎日。それが突然、永遠に失われた。苦しい。悲しい。さみしい。会いたい。つらくてつらくて狂いそうな日々を彼女の形代と成った童地蔵に支えられて過ごしていた。
いつも童地蔵を抱き締めていた。彼女のかわりに。でも今は違う。本物の彼女を抱き締めている。戻ってきた。俺のもとに。俺の妻。俺の『半身』。俺の唯一。もう離れない。もう離さない。愛してる。愛してる。
そんな昔の感情に『異界』で感じた彼女を喪う恐怖も引きずり出された。こわかった。ただこわかった。でももう大丈夫。彼女は生きている。俺の腕の中にいる。もう離さない。ずっと一緒だ。俺が守る。俺がしあわせにする。俺の妻だ。俺の唯一だ。絶対に離さない。
「―――トモさん?」
ためらうような妻の声に、乱れる思考が彼女に向けられた。
そしてハッと気付いた。俺、力任せに抱いてた!?
「ご、ごめん! 痛かった!?」
あわてて腕をゆるめると愛しい妻は「ううん」と答え、顔を上げた。目が合った瞬間、彼女はなにかに驚き、そっと俺の頬に触れた。
「―――どうしたの―――?」
「え?」
「―――なにか、あった?」
心配をその目に浮かべ、眉を下げて彼女が俺を見つめる。
俺の頬を撫でる彼女。なんでそんなことしてくれているのか理解できないが、撫でられるのが心地よくてされるがままになっておく。
「なにもないよ」
「でも、」
さらに眉を寄せ、どこか怒ったように、それでも心配そうに彼女が俺の頬を撫でる。
と、彼女が膝立ちになり俺の頭を抱え込んだ! なに!? しあわせなんだけど!!
さらに頭を撫でてくれる! 気持ちいい! 俺、愛されてる!!
反射的に彼女の腰を抱く。彼女の肩に顔を埋め、首筋の香りを嗅ぐ。いいニオイ。とろけそう。ああ。竹さんだ。生きてる。生きてる。
ぎゅうっと抱き締め、彼女の存在を実感する。ひとつになる感覚に脳髄がしびれる。魂が震える。また逢えた。めぐり逢えた。俺の『半身』。俺の唯一。
やさしく、やさしく撫でられる感触に乱れていたどこかが落ち着いていく。ココロが穏やかになっていく。喉の渇きが癒えるように、飢えが満たされるように、少しずつ、少しずつ癒されて満たされていく。
飢えるような衝動が彼女のぬくもりと霊力に癒やされていく。その感覚がまた俺を満たす。
少しずつ、少しずつ身体からチカラが抜けていった。
瞼を閉じて彼女にもたれる。彼女に包まれている。しあわせ。
『俺が守りたいのになあ』とか『甘えさせてもらうのもたまにはいいなあ』なんてぼんやりと浮かんだけれど、そんな思考もまたぼんやりとどこかに溶けていった。
「―――いつもありがとう」
不意に聞こえた彼女の声に意識が覚醒していく。――あ、俺、――うたたねしてた?
ちゅ、と耳にやわらかなナニカが触れた。キスしてくれたのか。うれしい。しあわせ。
彼女の首筋にスリスリと顔を擦り寄せ、キスをする。ビクリと跳ねる彼女がかわいくて愛しくて顔を上げた。
ちゅ。
軽く触れるだけの口付けに彼女は申し訳なさそうな顔をする。
「……ごめんなさい」
「なにが?」
「……余計なことして、起こしちゃった……」
シュンとしてまた「ごめんなさい」と謝る彼女。そんなに俺のこと気遣ってくれるの。俺、愛されてる!
「キスしてくれたこと?」とたずねればしょげかえったままうなずく彼女。
「うれしかったよ?」と言ったが情けなく見つめてくる。かわいい。
「……トモさんお疲れなのに……。せっかく寝られそうだったのに、起こしちゃって……」
「ごめんなさい」とまた謝るから「謝らないで」と止めた。
「すごく気持ちよかったから」
正直に暴露すれば彼女はおそるおそるというように伏せていた目を合わせてきた。
「頭撫でてくれたのも、耳にキスしてくれたのも、すごく嬉しかった。気持ちよかった。甘えさせてもらって癒された。ありがとう」
そう言って笑えば、ようやく彼女もホッとしたように微笑んだ。
「できればここにもキスして?」
調子に乗って自分の唇を指し示すと、彼女は「もう」と言いながらもキスしてくれた。うれしい! しあわせ! 俺、愛されてる!!
「―――なにか、あったの?」
また俺の頭を撫でてくれながら彼女が問いかけてくる。
「なにもないよ?」と答えたが「だって」と彼女は真剣な顔で俺を見つめた。
「泣いてた」
「―――え?」
泣いてた? 俺が? ――あ。さっきのは頬を撫でてくれてたんじゃなくて涙をぬぐってくれてたのか!
うわあ情けない! 彼女にカッコ悪いところ見せるなんて!!
あわててゴシゴシと目をこすった。確かに濡れてる。ぐわぁ! 大の男が泣くとか! 情けない!!
ゴシゴシこすっていたら彼女の手に止められた。
そっと両腕を取られおろされ手を握られた。
そのまま彼女が顔を寄せてくるから瞼を閉じた。
唇にキスしてくれるのかと思っていたら瞼にキスしてくれた。
やさしいキス。左の瞼に、右の瞼に唇で触れ、唇にも同じように触れてくれた。
慈愛に満ちたその口付けに、またもナニカが満たされて涙が勝手に落ちた。
その涙の筋に触れるように頬にもキスしてくれる彼女。
まるで静かな湖面のように静謐なキスに、彼女を喪いもがき苦しんだ数十年がなぐさめられていくように感じた。
そっと瞼を開け、彼女の瞳を見つめる。
外見は変わってもその瞳は変わらない。その奥にある魂は俺の愛する唯一。
愛しくて愛おしくて、そっと唇を重ねた。
静かで、どこか厳かなキス。
「好きだ」
呼吸と一緒に言葉がこぼれた。
「愛してる」
ココロが言葉になって出ていった。
「うん」
「私も」
彼女はやさしい微笑みで俺のココロを受け取ってくれた。
彼女が俺の手を離し、抱き締めてくれた。なにも考えることなく俺も彼女を抱き締めた。
「トモさん」
「だいすき」
「いつもありがとう」
やさしい言葉が俺のココロを癒す。俺の魂を満たす。うれしくてしあわせで、また涙が落ちた。
「竹さん」
「好き」
「好きだ」
これまで言いたくても伝えられなかった分を伝えるように「好き」が口から勝手に出ていく。どれだけ伝えても足りない。何十年分だからな。
壊れたレコーダーのようにただ「好き」を繰り返す俺をどう思ったのか、彼女はただただ受け入れてくれた。
「うん」「ありがとう」「私も」「好き」そんな反応があることがうれしくて、それがまたしあわせに感じて「好き」とさらにこぼしてしまう。
「………ホントに、なにがあったの?」
俺の涙をぬぐいながら彼女が心配そうに言う。
「もしかして………お父さんが、なにか、言った?」
思ってもみなかった意見に思考が止まった。ついでに涙も止まった。
じっと俺を見つめる彼女はただただ俺の心配をしてくれている。申し訳なさそうに、それでもどこか怒っているような彼女に、どれだけ俺が好きなのかが理解できて一気にテンションあがった。ブワッと風が吹き出しそうになるのを必死に抑えたが感動でプルプルと震えるのは抑えられない。愛おしいが過ぎる。心臓保たない。最愛の妻が俺を殺しにかかっている。
そんな俺の反応に「やっぱり!」と彼女は顔色を変えた。
「なに言われたの!? なにされたの!?」
信用ないな父親。普段の行いというやつか? これだけでどんな人間か理解できたぞ?
「なにも言われてないしなにもされてないよ」
そう言えばじっと俺を見つめる彼女。嘘がないかと見ようとしてくれているらしいが、これでも退魔師だからね。内心読ませないように訓練してるよ。
「……じゃあなんで泣いてたの?」
おっとそうきたか。ううむ。成人男性としては泣いてたのを指摘されるのはかなり恥ずかしいな。泣いてた自覚なかったしな。
『前世と前前世の記憶が戻ったから』なんて馬鹿正直に言うわけにはいかないな。彼女の『記憶の封印』に影響するかもしれないし。
「……………ちょっと……………」
「うん」
「……………竹さんが、足りなくて……………」
どう言おうか悩んで結局本質的な理由を告げたら「は?」と彼女は目を丸くした。
「……………会いたくて会いたくてたまらなくて、やっと逢えたから、なんかこう、感情が爆発して」
「………へ!?」
「だからその……………」
ポカンとする愛しいひとに顔を見られないよう抱き締めてからその耳にささやく。
「ずっと会いたかった貴女に逢えたから、うれしくて涙が落ちた」
「びっくりさせたよね。ゴメン」
自分でも顔が赤くなっているとわかる。こんな顔を愛しい妻に見られるわけにはいかない。彼女の後頭部をがっちりと押さえ俺の胸に顔を押し付ける。
そんな彼女の耳が赤くなっていく。かわいい。
愛おしさに赤くなった耳にキスすれば「んみゃっ!?」とくぐもったおかしな悲鳴が聞こえた。
ジタバタと暴れる彼女を両手両足でがっちりと抑え込めば彼女はやがて諦めたように脱力した。
「好きだよ」
「大好き」
ちゅ、と頭にキスを落とす。後頭部を押さえていた手をゆるめて額にもキスをする。かわいい。愛おしい。大好き。愛してる。
ちゅ、ちゅ、とキスを降らせる間、彼女は黙って大人しくしていた。好きにさせてくれるのがまたうれしくてさらに調子に乗ってキスを降らせる。
つ、と彼女が顔を上げてくれた。目を閉じたわかりやすいおねだりにすぐさま応え唇を重ね合わせる。何度も何度も唇をついばみ、角度を変えて重ね合わせた。
『青羽』のときの夫婦生活のようなキス。まるであの日々の続きのようで、あの苦しい数十年が夢だったような気になってきた。
頭の中で千明さんが『プロポーズ!』『プロポーズ!』と囃し立てる。ああそうだ。指輪渡さないと。で、また言うんだ。『俺の妻でいてください』って。
『智明』のとき、死に別れてからずっとそれだけを願って生きた。いつかまた必ず出逢うと。また必ず恋をすると。
その『願い』が叶って『智也』として出逢い『青羽』になり、夫婦になれた。『智明』のときの記憶はなかったけれど「俺の妻でいてください」と言えた。
今生もまた伝えたい。プロポーズして指輪を渡したい。今渡すか? ベッドでパジャマで?
それでもいい気もするけれど、どうせなら思い出に残るようなロマンチックなプロポーズがしたい。でもすぐに言いたい。もうこの勢いのまま伝えたい。でも。
ちゅ。
わざとリップ音を立てて彼女を解放すると、クタリと俺にもたれかかってきた。
「た、竹さん!?」
真っ赤に染まり陶酔しているかのようにトロンとしているその顔を目にした途端、出てはならない邪なオスの本能がザワリとうごめいた。
クソかわいい。愛おしい。全部欲しい。―――いや、ダメだ!!
落ち着け。落ち着け。ここでやらかしたら殺される。それに彼女の負担になる。まだ病み上がりだ。無理させられない。
どうにか理性を総動員して邪念を封じ込める。
もたれさせた彼女の背をやさしくやさしく撫でる。
「………ゴメンね。無理させた」
そう謝罪すれば彼女は俺の首元に顔を隠したままふるふると首を振った。
「……………」
「ん? なに?」
「……………た?」
彼女がなにを言ったのかわからなくて「なに?」と再び問いかける。彼女は俺に抱きつき、顔を隠したままもう一度言った。
「……………足りた?」
さっき俺が泣いたのが『竹さんが足りないから』と説明した。それで生真面目に俺に応えてくれていたと、そういうことか?
―――!!!!
ぎゃあぁぁぁ!!!!
くっっっっそかわいいぃぃぃぃぃ!!!!!
なんだよそれ! そんなに俺のこと気遣ってくれんのかよ! 自分だって病み上がりのくせに! 俺のこと優先してくれんのかよ! どんだけ俺のこと好きでいてくれてんだ! 俺も大好きだ!!!
ああ。果てしない。『好き』に果てがない。
何生繰り返しても愛が尽きない。むしろ深まるばかり。俺の最愛。俺の唯一。好き。好き。
ぎゅ、と抱き締め頭頂部にキスをする。
「足りない」
「!」
「好きで好きで、キスすればするほどもっと欲しくなる」
正直に告白したらガバリと俺から顔を上げた愛しいひとが涙目でぷるぷると震えていた。
そんな真っ赤な顔でそんな目を向けられたら俺、俺、もう―――!!
ぐわあぁぁ! 駄目だ! このままだと理性が限界を迎えてしまう! 間違いなくあの守り役に殺される!!
バッと顔をそむけると窓の外が目に入った。黒々とした木々の上に見えるのは満天の星空。京都市の郊外も郊外のこの場所からは星空がよく見える。
ふと、智明だったときの最後の夜を思い出した。
あの日もこんな夜だった。星が空にいっぱいに広がっていて、彼女を抱いて夜空の下を歩いて―――。
―――そうだ。
思いついた。満天の星空の下でプロポーズならロマンチックじゃないか? あの日のやり直しにもなる。あの別れの夜の記憶を変えるんだ。ふたりの再出発の夜に。
考えれば考えるほどいい案に思えてきた。夜風に当たればこの邪念も落ち着くだろうし。あ、でも彼女の負担になるかな?
とりあえずちょっと提案してみよう。
「―――あのさ」
ぷるぷる震えながら俺から目をそらしている彼女にそっと声をかける。
「竹さんが大丈夫だったら、ちょっと外に出てみない?」
「おそと?」
突然出てきた提案にキョトンとした顔を向けてくる彼女。クソかわいい。
「ちょっと散歩でもどうかな」
「夜風に当たれば少しは落ち着くかもしれない」
そう言えばまた赤くなる彼女。さっきのキスじゃ「足りない」と言ったのが余程衝撃だったらしい。
「歩くのムリだったら俺が抱いていくから」
「どうかな?」
「星見に行こ」
どうにか邪念を押し込めて笑顔を見せる。彼女は赤い顔で逡巡していたが、やがて諦めたようにうなずいた。