第二百二十四話 彼女の希望と恩人の話
話し合いから開放されたら結局いつもの時間だった。だがまあ仕方ない。彼女に関する必要な話し合いだった。
大急ぎで風呂を済ませるとリビングダイニングには黒陽しかいなかった。他の面々はすでに解散したと。
「戻ったか」
顔を見せるなり黒陽が電子レンジへ向かった。黒陽も成人男性の姿に戻り、家電が使えるようになっていた。
「せっかく早く戻れたのに、結局いつもの時間になったな」
アキさんが用意してくれたという飯を温めてくれながらそんなことを言う黒陽。同じことを考えていたことがおかしくて笑った。
「仕方ないさ。必要なことだった」
「まあな」
チン。
軽快な音にレンジの扉を開く黒陽。手慣れたもんだな。俺のせいか。
「ほら食え」
「いただきます」
飯を食う俺の前に黒陽も湯呑みを用意して座る。
「竹さん今日はどうだった?」
「熱は下がった。が、まだ微熱が残っている」
「飯は?」
「ゆるーい粥になった」
「おお」
「ゆるーい粥を茶碗に半分、それと桃を食べた。朝昼晩三食キチンと食べたんだ!」
喜色を浮かべる守り役にどれだけ心配していたかがわかる。「よかったな」と言えば「お前のおかげだ」とまた感謝された。
「昨夜なにか話して聞かせてくれたのだろう?」
「ん? んー、まあ」
「姫が前向きになっていた」
「そりゃよかった」
「何を言ったんだ?」
「大したことは言ってないよ」
「『竹さんの帰るところは俺のところだ』って念押ししただけ」
「なるほどな」
「あのひとうっかりだから。まめに言い聞かせないとすぐにうっかり忘れる」
「……………」
無言を貫く守り役にふと気になった。
「あんたは?」
「む?」
「あんたは『どうしたい』とか、ないのか?」
竹さんのことばかりでこの守り役の意見はこれまで聞いていなかった。いい機会だからと聞いてみたら黒陽はどこか誇らしげに答えた。
「私は姫の守り役だ」
「姫が心安らかに暮らせるならば、私のことは構わない」
「なるほど」
職務に忠実というか、忠誠心あふれるというか。
黒陽は竹さん次第ということだな。
「まあ三人だったらこの離れでも問題ないし。鳴滝の俺ん家も部屋はあるし。新築するにしてもそんな大きな家でなくてもいいだろうし。どこでも暮らせるだろ」
軽く言ったら何故か黒陽が固まった。
「? どうした?」
「―――いや―――」
どこか呆然としながらも黒陽が答えた。
「てっきりお前は姫とふたりで暮らすつもりでいると思っていた」
「なに言ってんだ」
こちらも呆れてツッコミを入れる。
「以前も話したじゃないか。ホラ。『夫婦ごっこ』の話したとき。『三人で暮らそう』って」
「あのときと今では状況が違うだろう」
すぐさま返してくる黒陽。
「あのときは亀だった」
まあそうだったが。
「亀でもオッサンでも、あんたはあんただろ」
「竹さんの守り役だろ?」
「なら竹さんのそばにいるもんだろ」
ごく当然のことを言っただけのつもりなのに黒陽は吊り目を丸くして黙ってしまった。
「まあ時々はふたりきりにしてもらえると助かるが」と笑うと黒陽は口を開けた。が言葉になる前に閉じた。
そうしてしばらく逡巡していた黒陽。気にせず飯を食っていたらようやく黒陽が口を開いた。
「―――いいのか?」
「いいもなにも」
「あんたは彼女の『守り役』だろ?」
「なら、ずっとそばにいて守らないとだろ?」
ニヤリと笑ってそう言えば、やっぱり吊り目を丸くするオッサン。
が、すぐになにか納得したようにやさしく微笑みうなずいた。
「―――ああ」
「そうだ」
「私は姫の『守り役』だから」
「だよな」と笑うと黒陽も楽しそうに笑った。
彼女の部屋に入る。いつも通り暗い部屋に寝息が聞こえる。
そっと近寄ると愛しい妻が眠っていた。
「―――ただいま」
ちいさく声をかけ、頬に手を添える。そっと唇を重ねる。
愛しいひとはしあわせそうに微笑んだ。
ああ。愛おしい。俺の『半身』。俺の妻。
ゆっくりとベッドに上がりこみ彼女の隣に横になる。そっと頭を持ち上げ首の下に腕を差し込み、そのまま抱き締める。
ぎゅう、と抱くとひとつに溶ける感覚になる。
ほう、とため息が落ちる。
落ち着く。安らぐ。大好き。愛おしい。
彼女に触れている部分からじんわりと温かくなっていく。霊力が循環する。癒される。満たされる。好き。しあわせ。
額には冷却シートがあるから頬を重ねる。まだ少し熱い。早く熱下がればいいのにな。
そう考えながら頬にキスをする。耳にも首筋にもキスをする。ああ。竹さんだ。好き。好き。愛してる。
キスしまくり、頭やら背中やら撫でまくる。いかがわしいコトをシたいという欲望よりもただくっついていたいという想いが強くて、ついつい撫で回したりキスしまくったりしてしまう。
胸やら尻やらは触らない。そんなところに少しでも触れたら過保護な守り役に殺される。間違いない。黙っていてもあの守り役にはバレる。間違いない。
俺はまだ死にたくない。この愛しい妻と一分でも一秒でも一緒にいたい。だから紳士な対応を心がけている。でないと殺される。あの亀はやる。いやもう亀じゃなかったオッサンだった。あのオッサンはやる。『殺る』のほうが正しいか。
許されている範囲内でベタべタイチャイチャできるだけでもしあわせだ。最初はキスすらダメだったんだから。そう思ったらずいぶん進歩したもんだ。
そうやって愛しい妻を満喫していると「んん」と彼女が顔をしかめた。
マズい。起こした。せっかくよく寝てたのに。
また寝たらいいと念じながらいつものように背中をポンポンと叩いてみたが、彼女は甘えて俺に抱きついてきた!
そんな可愛いことされたら俺、我慢できなくなるよ!
愛おしさに叫びだしたくなったがどうにかこらえて彼女の頭を撫でる。やさしく、やさしく。
そのうちに俺の胸からクスクスと笑い声が聞こえてきた。
「―――ゴメン。起こした」
情けない声でちいさくもらせば「ううん」と可愛い声が返ってきた。
寝ぼけた顔を上げ俺と目を合わせた妻はうれしそうに微笑んだ。
「………おかえりなさい」
「ただいま」
ちゅ。と唇を重ねる。すぐに離れると彼女はしあわせそうに笑みを浮かべていた。
あまりの可愛さにもう一度唇を合わせる。かわいい。愛おしい。俺の妻、天使。
「具合、どう?」
「だいぶいい」
「そっか」
「お粥になったんだって?」
「うん」
「美味かった?」
「うん」
そんな話をしながらもあちこち撫で回す。彼女はうれしそうに目を細めて甘えてくれる。クソかわいい。愛おしい。
「今日もよく寝た?」
その質問に彼女はわかりやすく黙り込んだ。
―――さてはなんかあったな。
「―――竹さん?」
『言って』と言外ににじませたら愛しい妻は苦いものでも飲み込んだような顔をしていた。が、すぐに俺の胸に顔を埋めぎゅうっとしがみついてきた!
なんだそのかわいい行動! 追求できなくなるじゃないか!!
仕方なく追求を一旦おさめ彼女を抱き締める。よしよしと頭や背中を撫でているうちに彼女は少し落ち着いたらしくボソボソと言葉をつむいだ。
「―――今日ね」
「うん」
「寝てたらね」
「うん」
「―――お父さんとお母さんが、来たの」
「―――うん」
黒陽から話を聞いた。彼女の今生の両親が彼女の見舞いに来ていると。式神に会わせるはずだったのに晃がやらかして本物の彼女に面会したと。昨日は彼女本人に「連れて帰る」と宣言したと。今日もなんか言われたか? 会議では高校の話しか聞いてないが。
話しにくそうな彼女の背をゆっくりと撫でる。頬にキスする。そうしているうちにようやく彼女が口を開いた。
「――枕元で話してた声で目が覚めたんだけど」
「昨日『連れて帰る』って言われたから、どうしたらいいかわからなくて」
「それで私………寝たフリ、してたの」
礼儀正しくて生真面目なこのひとが珍しいな。それだけ生家に帰りたくないということか?
「そしたらね」
「うん」
「………お父さんが、『高校受験に間に合うように帰らせたい』って、アキさんに言ってて―――」
……………やっぱりそれか。
「―――それで、アキさんなんて?」
とりあえず聞いてみると彼女はまた俺に抱きついた。顔を俺の胸に埋めてるのは隠れてるつもりかな? かわいいだけだが?
「―――『まずは私が元気にならないと』って」
「『元気になって、もう大丈夫ってなってから今後のことはお話しましょう』って言ってくれてた」
「そっか」
そう言って話を先延ばしにしてくれたということか。さすがアキさん。
うーむ。ここはさっきの話をこのひとにもしておくべきか………。
気に病んで気鬱になりそうな彼女になんとか前向きになってもらわないと。
このひと気が弱くて優柔不断だから選択肢を与えて選ばせようとしたら迷いに迷って疲弊してしまう。それよりも『こうしろ!』って決めてあげたほうが気が楽になる。
俺は決めつけられたら反感抱くけどな。そういう点でも俺達相性いいんだろうな。
ズレた思考にニマニマしつつ、どこまで情報開示するかどう話すか考える。
「――さっきみんなが集まって会議してたんだよ」
そう言うと彼女はようやく顔を上げた。
「『みんな』?」
きょとんと首をかしげるのかわいい。
「姫三人と守り役四人、ハルとヒロと保護者四人、で、ひなさんと晃」
説明すると途端に顔色を悪くする愛しいひと。どうせ『自分も出ないといけなかったんじゃないか』とか考えてるぞ。生真面目だなあ。
「俺も竹さんも呼ばれてなかったから大丈夫だよ」と言うとわかりやすくホッとした。かわいい。
「俺、今日は早く帰れたから、結論だけ教えてもらった」
「そうなんだ」
「なんのおはなしだったの?」と聞くから横になって腕枕のまま説明をする。
「竹さんは『生家に帰せない』って言ってたよ」
俺の言葉に彼女はわかりやすくホッとした。
「そうなんだ」とつぶやく彼女にさらに告げる。
「『俺と一緒に暮らさせよう』って」
「ホント!?」
パッと笑顔になる彼女。そんなに俺と暮らしたいの。うれしい。しあわせ!
腕を突っ張って俺の顔をのぞきこんでくるかわいいひと。なにその満面の笑顔。かわいすぎるんだけど。
身体を起こし、いつものように胡坐の中に彼女を収める。彼女の負担になるかな? テンション上がってるから大丈夫か?
「一緒に暮らしてもいいの?」
すがるように、それでも嬉しくてたまらないというようにキラキラした目で言ってくれるから嬉しくてヘラヘラと答えた。
「もちろん」
「これからも黒陽と三人で暮らそう」
「――うん!」
花が咲いたような笑顔を見せた彼女はまたも俺に抱きついてきた。クソかわいい。そんなに俺と暮らせるのがうれしいの。俺、愛されてる!
「どこで暮らすかも相談したんだけどね」
「うん」
「神様方に御礼に行ったり安倍家の用事頼んだりしたいから宗主様のところはやめてほしいって」
俺の話に「そっか」と彼女も納得を見せる。
「他はまあどこでも良さそう。差し当たり夏休み期間中はこの離れに居ろって言われた」
「そうなんだ」
「守り役四人も今離れで寝起きしてるんだって」
「そうなの!」
「『姫のために建てた家だから使ってもらったほうがいい』ってハルが」
「そうなんだ」
俺の話に予想どおり彼女はホッとしていた。
とはいえ念押ししておこう。
「まあとにかく。俺と貴女が一緒に暮らすことは全員総意の決定事項だから。
どこで暮らすかはまた決めるとして、ずっと一緒に暮らそうね」
俺の言葉に「うん」と答える彼女。うれしそうにしていたのに、フッと迷いが浮かんだ。
「―――でも―――」
「お父さん達はどうしよう」
途端にショボンとする愛しいひと。ああもう。困ったひとだなあ。
「『死んだことにして』って明日またアキさんにお願いしてみようか」と言い出したが、その案はさっき却下されてたぞ。俺との結婚の手続きが面倒になるからって。
「それはまた考えよう」
「『安倍家の仕事するのに安倍家にいたほうがいい』って説明してもいいし『俺と結婚する』って言ってもいいし」
そう答えたのに彼女は何故かポカンとした。
「結婚―――」
―――え? なんでそんな顔してんだ?
まさか、俺と結婚するのが嫌、と、か―――?
ザッと血の気が引いた。そんな。まさか。だって『俺の妻になる』って言ってくれたじゃないか。でも。
「―――イヤ?」
震える声でたずねたらハッとした彼女はぷるぷると首を振った。
「イヤじゃない」
「イヤじゃない、けど」
そうしてためらいがちに俺をうかがい見る。
「―――トモさんは、いいの?」
「いいよ?」
「なんでそんなこと言うの?」
「結婚式だってしたじゃないか」
「だってあれは『夫婦ごっこ』で、モデルさんが急病になったからで……」
モゴモゴ言う彼女の頬を両手ではさみ、その目をのぞきこむ。
「俺は本気だったよ」
「本気で貴女と結婚するつもりで式に臨んだよ」
俺が真剣だと、本気だと伝わったのか、彼女は息を飲んだ。
「結婚式したんだから。貴女は俺の妻で、俺は貴女の夫だよ」
きっぱりと断言する俺に彼女は迷うように眉を下げた。
「―――ホントに?」
「ホントに」
「いいの?」
「いいよ」
すがるようなその目に浮かぶのは俺への愛。なのになんでそんなこと言うんだ?
「お願いしただろ?『ただの貴女になって、俺のそばにいて』って。『俺の妻でいて』って。『ずっとそばにいて』って」
「貴女も受け入れてくれたじゃないか。『はい』って言ってくれただろ?『俺の妻になる』って言ってくれたじゃないか」
そう責めれば「それは、そう、なん、だけど」と彼女が目をそらす。
「―――嘘だったの?」
「嘘じゃない!」
途端にパッと俺に目を戻す彼女。
「嘘じゃない! 貴方の妻でいたい! ずっと貴方と一緒にいたい!」
―――自己主張をしないこのひとが!
そんなに俺のこと好きなの! 俺、愛されてる!!
ヘラリと笑って「じゃあいいじゃないか」と言えば彼女はまた目をそらした。
「……………その……………」
言いにくそうにもじもじし、ようやく口を割った。
「……………『妻になる』ことと『結婚する』ことが、イコールでつながってなくて……………」
……………。
……………そういうことか。
なんというか………間抜けというか………。
「………その、私、『結婚』てよくわからなくて」
これまでの五千年、生まれては死んでいた彼女は基本的に他人と深く関わってこなかった。
自分は他人に不幸を振りまく『災厄を招く娘』だと思い込み、幼い頃に家を出て山の中で暮らしていた。だから『結婚』というものを目にすることがほとんどなかったと言う。
読書家の彼女だからもちろん物語の中では読んだ。が、現実として『結婚』が「わからない」らしい。
彼女のわかりにくい言い訳をまとめると、物語に書いてあった『結婚』は『お嫁さん』がするもので『結婚』してなるのは『妻』ではなく『お嫁さん』だった。だから『妻』と『結婚』がイコールでつながらなかったらしい。
じゃあなんで『妻』は受け入れているのかと言えば黒陽夫妻という身近な先達のおかげだった。なるほど。納得。
「……………まあ確かに、法的には今すぐ『結婚』にはならないんだよね」
そうつぶやく俺にキョトンとした顔を向ける愛しい妻。
「戸籍上の年齢が達してないから」と説明すると「そうなんだ!」とまたしても驚いていた。
「でも貴女は俺の妻だ」
「で、俺は貴女の夫だ」
頬を挟みしっかりと目を見つめ、言い聞かせる。魂に刻み込むつもりで。
「いい?」「わかった?」と問えば「うん」と彼女が答えた。やれやれ。困ったひとだ。
「現代の日本の法律では、十八歳にならないと結婚――籍を入れることができないんだよ」
「入籍しないと法的には夫婦と言えないんだ」
「そうなんだ」と言う彼女に「だから」と続ける。
「貴女の十八の誕生日に入籍しよう」
俺の言葉に彼女はうれしそうにした。『は』の形に開いた口。が、声にはならずぱくんと閉じてしまった。
「……………」
……………またなにか余計なことを考えているな。
「なに? なにか心配?」
問いかければ、しばらくして吐き出しだ。
「……………二十歳すぎても、ホントに生きてられるのかな、って……………」
……………心配性め。
まあこのひとなら無理もない。これまで散々『二十歳まで生きられない』人生を送ってきたのだから。
とはいえ菊様も「問題なし」としていたし、守り役達が人間の姿になったということは『呪い』が解けたという証明になると思うんだがな。
とはいえ説得しておこう。
「竹さん三月生まれだろ?」
「うん」
「他の姫達は竹さんより早く生まれてるだろ?」
「うん」
「もし『二十歳まで生きられない』『呪い』が解けていなかったら、先に二十歳になる他の姫になんかある。逆に他の姫がなにもなく二十歳になったなら、それは『呪い』が間違いなく解けたという証明になる。すなわち貴女の『呪い』も解けているということになる」
その説明に彼女は「確かに」と納得した。
「まあそのときになってみないとわからないから。
これについてはまたそのときまで置いとこう」
そうまとめたらようやく彼女はほにゃりと笑った。
フッと力の抜けた身体をそっと俺にもたれさせ抱き締める。
そのままポンポンと背中を叩いてやる。
「あまり心配しなくていいよ」
「もう『呪い』は解けてるから」
「守り役達が人間の姿になっただろ?」
「『災禍』を滅して、貴女の『罪』も赦された。貴女の責務は果たされた」
「これからはやりたいことをやりたいようにすればいいんだ」
言い聞かせていたら彼女がそろりと顔を上げた。目が合ったからにっこりと笑って言った。
「『俺と一緒に暮らす』とかね」
ポカンとした彼女はじわりじわりと表情をゆるめ、しあわせそうな笑みを浮かべた。
「うん」と答え、俺の首筋に顔を埋める彼女。ぎゅうっと抱きつくのがかわいくて愛おしくて俺もぎゅうぎゅうと抱き締めた。
「約束だよ」
「ずっと一緒だよ」
「うん」
「約束」
腕をゆるめると彼女も身体を少し離した。そのまま目を閉じるから唇を重ねた。
抱き合い唇を重ね合わせる。ひとつに溶ける感覚に溺れそう。もう、好き。
と、このままむさぼりつきたい欲がじわりと出てきた。これはマズい。これ以上進むと殺される。
どうにか彼女から唇を離す。トロンとした愛しい妻の表情にガツンと殴られ押し倒したくなった。が、必死で素数を数えどうにかこらえた。
ああ早く結婚したい。結婚すればアレもコレも解禁だろう。彼女が今十五だからあと三年か。正確には二年半か。それまでにどうにか守り役を説得しないとな。
邪念まみれでそんなことを考えながらふと思い出した。そうだ。高校のことも一応話しとかないとな。
「そういえば」と切り出すと彼女は「んー?」としあわせそうに微笑んだ。クソかわいい。
「竹さんは学校どうする? 高校行きたい?」
そうたずねると彼女はハッと表情をこわばらせ、そっとうつむいた。
「……………行かないと、いけない、よね……………」
『行きたくない』とわかりやすく態度で示す愛しいひと。かわいい。
「高校は義務教育じゃないから、別に行かなくてもいいよ?」
そう教えると「そうなの!?」と驚く彼女。
「でも………だって………学生は学校に行くものでしょ?」
生真面目な竹さんらしい言い方にプッと笑みがこぼれる。
「学校に通ってる人間が『学生』なのであって、十五歳でも十六歳でも職に就いている人間はいるよ?」
「中学までは義務教育だから学校行かないといけないけど、卒業したら別に行かなくてもいいんだよ?」
そう教えると「そうなの!?」とさらに目を丸くして驚く彼女。間抜けだなあ。世間知らずだなあ。
「大学行きたいとかやりたいことがあるとか言うなら高校行けばいいけど、特にないなら無理してまで行くことないよ?」
「霊玉とかアイテムとか作って安倍家に買い取ってもらったら生活できるだけの収入は十分得られるだろうし。さっきの会議でも貴女に色々用事頼みたいって言ってたし」
そう説明すると「そうなんだ……」と考えだす彼女。きっと色々余計なこと考えるぞ。だから先手を取るために言った。
「さっきの会議でもその話出たんだよ」
「アキさんが提議したんだろうね」と付け足したら彼女は納得していた。
「貴女は『高校行かなくていい』ってみんな言ってた」
そう告げると彼女はピョッと飛び上がった。
「『これまで大変だったんだから、これからはやりたいことやればいい』って」
俺の言葉に彼女は喜ぶかと思いきや、どこか申し訳なさそうな困ったような顔をした。
「―――いいのかなあ……」とつぶやきうつむく愛しいひと。
「いいと思うよ」と断言してあげるとそろりと顔を向けてくる。
気が弱くて優柔不断でお人好しの彼女なら『みんなが勧めること』を丸呑みして受け入れるのに、今回はめずらしくためらっている。
多分あれだな。さっき言ってた『学生は学校に行かなければならない』が引っかかってんだな。生真面目で頑固で堅物な彼女らしいといえば彼女らしい。
………もう一度念押しを兼ねて意思確認してみるか。
自信満々に見えるように顔を作りまっすぐ彼女の目を見つめて問いかけた。
「竹さん、高校行きたい?」
「……………」
「高校で『こんなことやりたい』とか、ある? 部活とか、勉強とか」
「……………」
「将来的にやりたいこととかやりたい仕事とか、ある?」
「ものによっては大卒の資格がいるから、それなら高校行ったほうがいいけど」
「……………」
ああ。しまった。いっぺんに聞きすぎた。ぐるぐる迷っているのが手に取るようにわかる。
「特になければ、高校は行かなくていいと思うよ」
わざと軽く明るく言えば、彼女はおそるおそるというように俺を見つめてきた。
にっこりと微笑みかけ、頬をはさみその目を見据えた。
「貴女は高校行かずに俺と暮らすの。で、やりたいことする。
時々神様にご挨拶に行ったり安倍家の用事したりはしないといけないだろうけどね」
改めて断言してやると彼女はしばらく黙っていた。黙って迷っていたが、やがて困ったように微笑んだ。
「―――うん」
「わかった」
「そうさせてもらう」
「ありがとう」
ああもうチョロい。こんな簡単に言い聞かせられるとか、大丈夫なのかよ。俺がそばについてずっと守らないと!
そう考えながらも別のことを口に出した。
「竹さんは俺と暮らす間、何かしたいこと、ある?」
「んー」
悩む様子にふと思いついて助け舟を出す。
「千明さんの会社の手芸部、楽しそうだったよね。あそこに行かせてもらう? それとも家でなんか作る?」
そう提案すると彼女はパアッと表情を輝かせた。
「楽しそう」
「ね」
それなら俺が仕事する横で作業すればいい。
ずっとそばにいられる。
うん。いいんじゃないか?
「なんか作って、千明さんとこで買い取ってもらったらどう? 趣味と実益兼ねて」
「いいかも」
目がキラッキラだよ。かわいいなぁ!
「じゃあそれ第一候補ね」と笑うと、彼女は生真面目にこくこくとうなずいた。
「他にはなにかしたいことある?」
そう問いかけると、彼女は「んー」とやはり考えこんだ。
「なんでも言ってみて。料理でも、食べ歩きでも、神社仏閣巡りでも」と水を向けると、しばらく考え、ハッとなにか思いついた。
そしてはずかしそうにモジモジとしながら、ポソリとつぶやいた。
「……トモさんと、おでかけ、したい」
―――天使!
そんなに俺と出かけたいの!? 俺とデートしたいの!! ああもう! 大好きだ!!
「いいね」
「俺もしたい」
そう答える俺に彼女はそれはそれはしあわせそうに微笑んだ。その愛らしさに、俺が好きだという表情に、またも胸を貫かれた。
デレデレとだらしない顔になっている自覚はある。それでも勝手に顔がゆるむ。俺の妻が愛おしすぎる。
たまらずぎゅうっと抱き締めて彼女の頭に頰ずりする。好き。大好き。愛してる。
そんな俺に彼女も抱きつきすり寄ってくれる。かわいい。
「一緒におでかけしてね。一緒においしいもの食べたい」
「いいね」
「どこに行くかまた調べてみよう」と提案すると顔を上げ「うん」とうれしそうに微笑む彼女。
満面の笑みにどれだけ俺が好きか伝わってきて、またしても胸を鷲掴みにされた。俺の妻、女神。
ぎゅうっと抱き締めキスを贈る。彼女がうれしそうに顔を上げたから唇にもキスを落とす。ちゅ、ちゅ、とついばんでいたら彼女からもキスしてくれた。めちゃくちゃうれしい。俺、愛されてる! しあわせ!
しばらくちゅっちゅとじゃれるようにキスしあう。ああ、バカップルだなこれ。まさか俺がこんなことするようになるなんて。しわあせだ!
ちょっと落ち着いたことろで「他にしたいことない?」とたずねてみる。と、彼女は少し考え、なにかを思いついた。
「のんびり本読みたい」
「本かぁ」
そういえばこのひとけっこう読書家だよな。
ちょっと疲れた様子をみせたらすぐさま黒陽が休ませるために「本でも読め」って言っていた。
読書なら仕事する俺の横でできるな。うん。いいんじゃないか?
「いいと思う」と言うと、彼女はホッとしたように微笑んだ。
「ヒロさんが『好きに読んでいいよ』って本置いてるお部屋を見せてくれたんだけどね。ものすごくいっぱいあったの。あれ、みんな読んでみたい」
「そっか」
そういえばヒロとハルが術の研究用にラノベやら漫画やらいっぱい買ってたな。俺も昔一度見せてもらったが、どこの図書館かと思った。あれだけの蔵書があれば、竹さんの暇つぶしには十分だな。
そこまで考えて、ふと思い出した。
あふれる蔵書。
『トモくん手伝いに来てよ』そう誘われていた。
このひとならできるんじゃないか?
そう思いついて、聞いてみた。
「……竹さんて、古文書読める?」
「古文書?」
コテンと首をかしげる彼女にスマホで適当に画像検索して見せる。
「こんなの。読める?」
「うん。読める」
試しに読んでもらったら俺の見解と同じだった。
やっぱり読めるのか。なら、大丈夫かな?
「こーゆーの読むのは、どう? 楽しい? 嫌?」
「楽しい。ひとの日記とかお手紙とか読むのはちょっと申し訳ないかなぁって思うんだけどおもしろいなぁとも思うし、あの頃こうだったなぁ、ああだったなぁって思い出したりして、おもしろい」
本当に楽しそうだ。
それなら、大丈夫かな?
「……古文書読むボランティアがあるんだけど……やってみる?」
キョトンとする彼女にばーさんの知り合いの教授のことを説明した。
大学で古文書研究をしていること。
あちこちの古い家が解体されると聞いては古文書を発掘しに行っていること。
解読しないといけない古文書が山とたまっていて、読解ボランティアを常に募集していること。
「読解ボランティア? って、なにをするの?」
「文字通り『読み解く』の。
古文書を読んで原文を現代の文字に起こして、それを現代の言葉に訳す。
そのときにその時代背景とかがわかってないと同じ単語でも違う解釈になったりするから、けっこう厄介」
そう説明すると彼女は「あー」と理解を示した。
「竹さんは子供の頃には家を出たって言ってたけど、古い文字とかは読める?
その時代時代の言い回しとか時代背景とかって、覚えてる?」
俺の失礼ともとれる質問に彼女は「なんとなく」と答えた。
「千年くらい前からは家を出たら晴明さんのお世話になってたの。そのたびにいろんなの読ませてもらったりしてた。
でも、時代背景とかは、どうかなぁ…。覚えてるかなぁ…」
自信なさそうだ。
「試しに何点か読んでみる? 無理そうなら俺が読んで返却すればいいし。できそうで、楽しそうなら、ちょっとやってみる?」
俺の言葉に案の定彼女は遠慮した。
「トモさんそれでなくても忙しいのに。私のことで時間とらせられない!」
「もちろん竹さんの具合が良くなってからだよ。その頃には俺ももーちょっと落ち着いてるだろうから、時間取るのは問題ないよ」
「でも」となおもためらう彼女に、黙っていようと思っていたことをバラすことにする。
「読解ボランティアって言っても、少しだけど謝礼も出るよ。
それに、もし竹さんが古文書読めるなら、教授への恩返しになる」
「恩返し?」
予想どおり彼女は食いついた。
「実はね」と前置きして、彼女に暴露する。
「貴女に初めて出逢ったあの日あの時間に船岡山を通りかかったのは、この教授に呼び出されて引き止められたからなんだ。
だから、俺にとって教授は、竹さんに会わせてくれた恩人になる」
「―――!」
「あと、あの鬼に遭遇したのも教授に呼び出されたから」
「!!」
「あれがきっかけで宗主様の『異界』に行くことになったわけだから、やっぱり教授のおかげと言えなくもない」
さらっと言う俺に対し、ぷるぷる震えていた彼女は真っ赤になって叫んだ。
「―――大恩人じゃない!」
やっぱりね。生真面目な竹さんならそう言うと思ったよ。
「そんなの、私にとっても大恩人よ! トモさんに会わせてくださったんだもの!
どうしよう。そんな方がいらしたなんて。
お礼はなにをしたらいい? 菓子折りを包んでご挨拶に行くべきよね!?」
「竹さん落ち着いて」と声をかけたけれど聞いてくれない。
「それだけじゃない。結果的にトモさんがいてくれたから『災禍』を滅することも『呪い』を解くこともできたんだもん。
私達高間原の姫と守り役みんなの恩人てことになるわ! どうしよう! 今からでも菊様に相談を――」
「待って待って」
今にも式神を飛ばしそうな竹さんをどうにか止める。
かわいい頬を両手ではさんで俺のほうを向かせると、彼女は『なんで止めるんだ』と不服そうな目でにらみつけてきた。かわいいだけだよ?
「一般人の教授に『災禍』とか『呪い』とか言っても困らせるだけだよ?」
彼女が『それもそうか』と言いたげな顔をして大人しくなったので頬を開放する。
「それよりもたまった古文書読んであげるほうが教授は喜ぶよ?」
そう言うと、竹さんは俄然はりきった。
「そういうことなら、私、やってみる! がんばる!」
「……無理しないでね?」
そう言ったけど、やる気に満ちあふれているかわいいひとは聞いてくれなかった。
ふんす! と張り切る彼女をどうにかなだめその日の話し合いは終わりにして、彼女を抱きしめて眠りについた。