第二百十五話 『災禍』消滅
「じゃあ、いいわね」
菊様の確認に『災禍』は「はい」と答えた。
恐怖も不快もなにもない、ただ淡々とした答えだった。
「竹」
菊様から言外に『始めなさい』と命じられ、愛しい妻がうなずいた。
チラリと俺に目を向けてくれたから『大丈夫』と励ますつもりでうなずいた。途端に安心したように目を細める愛しい妻。クソかわいい。愛おしい。絶対に守る!
決意を込め、さらに集中する。彼女の腕を支える手に力が入った。
愛しい妻はそんな俺の手に目をやり、うれしそうに微笑んだ。クッソかわいい。絶対に守りきる!!
集中するためだろう。妻が目を閉じた。
すう、はあと呼吸を整え、ゆっくりと瞼を開いた。
銀色の球体に視線を落とし、その表面をそっと撫でた妻がすう、と息を吸い込んだ。
やさしい声が知らない歌を奏でた。
風が花を揺らす あなたがいる
それがすべて 私のすべて
やっと出会えた私とあなた
かけがえのない 愛しいあなた
おひさまが大地を照らすように
おつきさまが星を照らすように
あなたが私を照らす
私もあなたを照らす
あなたは私のおひさま あなたは私のおほしさま
昼も夜もそばにいるわ あなたと一緒に過ごしましょう
おやすみ おやすみ 愛しいあなた
隣で一緒に眠りましょう
おやすみ おやすみ よい夢を
夢の中でもそばにいる
おやすみ おやすみ 愛しいあなた
明日また逢えるそのときまで
おやすみ おやすみ よい夢を
明日また逢える
おやすみ おやすみ よい夢を
おやすみ おやすみ 愛しいあなた
おやすみ おやすみ 愛しいあなた
明日また逢えるそのときまで
おやすみ おやすみ よい夢を
明日また逢える―――
最後の音が空気に溶けていく。それに同調するように歌の終わりから淡く光り始めた妻の腕の中の球体が光を増していった。そして。
カッ!
一瞬強く発光した銀色の球体に息を飲む。
光はすぐに消えた。
と、妻の腕の中にあった銀色の球体が姿を変えていた。
そこにあったのは、桜の花びらの塊だった。
突然現れた丸いブーケに、先程まで妻が抱いていた銀色の球体はどこに行ったんだと間抜けなことを考えた。
すぐに腕の中のこのブーケがエネルギーに分解された『災禍』だと認識したが、ホンの一瞬とはいえ虚をつかれたのには違いない。
! 妻から離さなければ!
呆然としたままの妻の右腕をつかみ広げさせる。
同時にすぐさま『風』を展開して妻からブーケを飛ばす。
球体を形作っていた花びら達はまるで蝶が飛び立つように妻の腕から飛び散った。
それは見事な桜吹雪。
まるで結婚式のフラワーシャワーのような。
視界が桜吹雪で埋め尽くされる。
初めて逢ったあの船岡山の桜を思い出した。
触れることも、指一本動かすことすらできなかったあのとき。
あれから俺の『世界』は変わった。
彼女を好きになった。自分のダメさにヘコんだ。悔しくて、情けなくて、それでも諦められなくて。
何度も何度も自問した。何度も何度も考えた。
それでも諦められなくて。ただ愛しくて。
がんばった。がんばってがんばってがんばった。
そしてついに。
ついに、ここまで来た。
『災禍』が、滅びた。
高霊力の塊だった『災禍』のエネルギーを一気に花びらに変換したからだろう。高密度に固められた花びらは飛ばしても飛ばしても妻の腕からあふれている。マジシャンがトランプを吹き出すかのように花びらが無限の勢いで妻の腕から吹き出していた。
銀色の球体はむせ返るほどの桜の花びらに変化して真夏の空に舞い上がり続けていく。
「――――――」
ちいさな、ちいさな声が聞こえた気がした。
『ありがとう』
そう、聞こえた。
なにが? なにに対する礼なんだ?
そう問いかけたくてももう桜吹雪に消えてしまった。
妻の腕から飛び立つ花びらは楽しそうに舞い踊る。俺達を祝福するかのように。
『風』を吹き上げ続け、ようやく最後の一片が妻の腕から飛び立った。
周囲は桜吹雪が降り続けていた。
『災禍』のエネルギー量は予想以上に多かった。
妻の腕から早くどかせたくて、とはいえ妻に負担がないようにと一点集中で『風』を吹き上げ上空に飛ばし続けた。そのせいで『風』の勢いと高さが足りず、ある程度の高さまで上昇した花びらが自然落下してきていた。量が量なので周囲が桜で埋め尽くされた。
視界が奪われるほどの桜吹雪の中、愛しい妻が呆然と自分の腕を見つめる。
そこにはなにもない。
先程まで抱えていた銀色の球体も。
桜の花びらを押し固めたような丸いブーケも。
―――。
―――終わっ、た―――?
信じられなくて、それでも空になった彼女の腕に間違いないと思えて。
―――終わった―――!
ようやくじわじわと理解が追いついた。
終わった。終わった!『災禍』を滅することができた!
これで彼女は自由だ! もういつ死ぬかなんて考えなくていい! 責務も果たせた! これからはふたりでしあわせになれる!
歓喜のままに愛しい妻をうかがう。彼女はただ呆然と空になった腕を見つめていた。
『紫吹』を納め両手を開いたままの彼女の腹に腕を回す。そのままグッと抱き締めた。
やはり呆然とした顔をのろりと俺に向ける愛しい妻。かわいくて愛しくて、ヘラリと笑みがこぼれた。
「―――終わっ、た、の―――?」
呆然とつぶやく妻に「そうだよ」と教えてやる。
「『災禍』は滅びた」
「貴女の『責務』は果たされた」
桜吹雪の中、呆然とする妻。
そっと彼女の身体の向きを変え、正面からしっかりと抱き締めた。
「おめでとう」
「よくがんばったね」
「―――! トモ、さ―――!」
おそるおそるというように俺の背中に腕が回される。
「ホントに?」なんて震えた声でつぶやくから「ホントだよ」と教えてやる。
「ホントのホントに?」
「ホントのホントだよ」
「夢じゃないの?」
「夢じゃないよ」
背中に回された手がぎゅっと拳になり、俺の背中に押し付けられたのがわかった。
「よかったね」
「おめでとう」
頭を撫でながらそう言えば、愛しい妻がそろりと顔を上げた。
腕をゆるめ、その目をしっかりと見つめる。
「『災禍』は滅びた」
「貴女の『責務』は果たされた」
もう一度、しっかりと、言い聞かせる。
「貴女の『罪』は赦された」
呆然としていた妻の目がまんまるになっていくのを歓喜とともに見つめた。その目が次第に潤んでいくのも。
愛しくて愛おしくて、それ以上に嬉しくて嬉しくて。
もう一度、ぎゅうっと彼女を抱き締めた。
「おめでとう」
「おめでとう」
「トモ、さ―――」
「―――や―――」
妻のちいさな声に重なり誰かの声が聞こえた。と思ったら。
「「やっ―――たああああああ!!」」
「ゔわあああああ!!」
大絶叫に思わずふたりで顔を向けた。桜吹雪の向こう側で、蘭様が、梅様が、蒼真様が腕を突き上げ叫んでいた。
「やった! やったぞ!」
「ホントに!? ホントに滅したの!?」
「やったよ! やったよ姫! わあぁぁん!」
わあわあと叫ぶ姿は桜吹雪にまぎれて現れたり隠れたりしている。
蘭様と梅様がふたり抱き合い「やったー!」「やったー!」と泣き叫んでいる。蒼真様は上を向いて「ゔわあぁぁん!」と大号泣。白露様と緋炎様は互いに寄り添って涙を拭いている。菊様は偉そうに空を見上げていた。
ヒロはそんな守り役達にもらい泣きしているし、ナツと佑輝も「よかったな」と笑っている。
晃はひなさんの肩を抱いてふたりで空を見上げ、タカさんも同じように吹き上がった桜の花びらを見つめていた。
「トモ」
黒陽が隣に来た。その目が赤くなっている。
「ありがとう」
「お前のおかげだ」
真摯に、生真面目にそんなことを言うからおかしくなった。
黙って拳にした右手を上げると、黒陽もすぐ察してくれて笑顔がこぼれた。
ふたりで拳を合わせ笑い合った。
そのとき。
ふと、視界の隅に違う誰かが立っているのに気が付いた。
桜吹雪に見え隠れしている、あれは―――!
「!」
『災禍』!
高校生くらいの男がどこかを見て笑っていた。
それは銀色の球体が先程まで取っていた姿。
『宿主』保志叶多の高校生の頃の姿。
瞬時に思考が切り替わる! 抱いていた妻を背にかばい『紫吹』を構え警戒態勢を取る!
くそう。油断した! てっきりあれで終わったと思ったのに!
敵意をむき出しにする俺をあざ笑うように男はこちらを見た。
そしてまたどこかに顔を向け、今度はうれしそうな笑みを浮かべた。
口をパクパクと動かし、なにかを伝えている。
《ありがとう》
《あとを、たのむ》
読唇術が使えるからその言葉が読めた。
誰になにを言っているのかと声をかけようとした、次の瞬間。
ザッ!
桜の波が男の姿を隠した。
あっと思ったときにはもうその姿はなかった。
「―――今、の、は―――?」
なんだ? なんだったんだ?
残留思念?『災禍』の? 今はもういない。いない? 本当に?
それにあの言葉。誰に向けたんだ?
とにかくまずは現状把握。
そう思い、『風』を操作して桜の花びら全てを一気に上空に吹き上げた。
クリアになった視界には仲間達しかいない。―――やはり『災禍』は滅びたんだよな―――?
「トモ?」
警戒態勢を取る俺に黒陽も警戒態勢を取る。
ふたりで妻を挟むように背にかばい合う。
「どうした」
「トモさん?」
黒陽と妻の問いかけに答えることなく周囲の警戒を続ける。どこにも『災禍』の痕跡は見えない。
見えない? 本当に? 油断じゃないか? 見落としているんじゃないか?
警戒してあちこち確認する。吹き上げた桜の花びらがこぼれてはらはらと落ちてくるだけで大きな変化はないように見える。ならばと『風』を展開して京都中を調査。山鉾巡行は順調に進んでいる。触れたら消える花びらに市民も観光客もただ喜んでいる。妖魔や『悪しきモノ』は今のところ出現していない。警察や安倍家の能力者達も警戒しながらも季節はずれの花吹雪を楽しんでいる。
どこも問題なさそう。――考えすぎか? 警戒しすぎか?
そう判断し、警戒を解いた。
と。
「カナタさん!」
晃が突然叫び、駆け出した。
何かを察したらしいひなさんとタカさんもあとに続いて走り去った。