第百五十四話 七月十六日
夜が明けた。
ついに七月十六日になってしまった。
今夜日付が変わるときに『バーチャルキョート』がバージョンアップする。
そのときに保志社長が事前に定めた条件に合う者が『異界』に連れて行かれる。
おそらくは竹さんは連れて行かれる。
そうして『災禍』を封じる戦いが始まる。
行かせたくない。守りたい。逃げだしたい。
死なせたくない。別れたくない。ずっとそばにいたい。
そう思っても口には出せない。
そんなこと言ったらこの生真面目な愛しいひとは苦しむ。
責務への責任感とこれまで犯したと思い込んでいる罪への罪悪感でこれまで頑張ってきたひとにそんなこと言っても聞き届けてくれるわけがない。
ただ無為にココロを痛めるだけだ。
俺にできることは、少しでも彼女をサポートすること。
戦いを有利に進め、少しでも彼女が疲弊することなく責務を果たせるよう協力すること。
きっと彼女は生き残ると。『呪い』は解けると信じること。
大丈夫。きっと大丈夫だ。
自分に言い聞かせ、眠る彼女をしっかりと抱きしめてからヒロと晃との朝の修行に向かった。
修行を終えて離れに戻っているとき、晃に声をかけられた。
「大丈夫だよトモ」
なんてことない、いつもどおりの顔をしていたつもりだったのに。お見通しかよ。くそう。情けない。
そう考えているのも筒抜けのようで、晃は困ったように微笑んだ。
「ひなが言ってただろ?『昔封印したときとは違う』って。
今の竹さん、初めて会ったときと比べて全然違う。おれでもわかる。
トモがいっぱいに満たしてあげてるのがわかるよ。
だから、大丈夫だよ」
「そうだねぇ」
ヒロもニコニコと言った。
「もう、全然別人だよね竹さん!
ウチに来たばっかりのときはあんなにトゲトゲしてたのに、今じゃあまあまあるくなっちゃって」
「体型の話じゃないよ?」なんて茶化すからつい「ぷっ」と吹き出してしまった。
そんな俺の反応にヒロが微笑む。
「竹さんは変わったよ」
「トモが変えたんだよ」
やさしい声音に、つい、じぃんとキた。
くそう。いいヤツらだな。
「……………サンキュ」
うつむき、かろうじてそれだけ言う俺に、ふたりは両側から肩を組んできた。
離れに戻りいつものように時間停止の結界を展開してパソコンをいじる。
起きてきた黒陽と話をしていたら愛しい妻が目を覚ました。
すかさず横に移動し「おはよう」とキスをする。
いつものようにうれしそうに微笑んだ彼女だったが、ふと、その目に陰が差した。
きっと俺と同じことを考えている。
あと一日だと。
明日にはお別れだと。
行かせたくない。守りたい。逃げだしたい。
死なせたくない。別れたくない。ずっとそばにいたい。
口からこぼれ出しそうな気持ちをグッと抑え、にっこりと微笑む。
なにか言ったほうがいいと思うのになにも言葉が浮かばない。
不安なのは俺も同じ。逃げ出したい。連れ去りたい。でもそんなことできない。
胸をかき乱す言いしれない不安を隠し、そっと横たわった彼女の頬を両手で包む。
不安げなその目を見つめ、そっと顔を寄せると、俺がナニをシようとしているかわかったらしい愛しいひとはそっと瞼を閉じた。
なにもかも俺に委ねてくれている。それがうれしくて誇らしくて、でもそれもあと少しなのかと浮かんでせつなくて苦しくて、彼女のやわらかな唇にキスをした。
ゆっくりと離れ、それでも離れがたくて頬をはさんだままその目をじっと見つめていると、どこかうっとりとしていた彼女がふとなにかを言いたげのがわかった。
頬を染め、口を開けてはまた閉め、ためらっている。
なんだ? なにかあるのか?
じっと彼女の言葉を待っていると、ようやくおそるおそるといった感じで口を開いた。
「……………トモ……さ、ん」
「ん?」
「……………」
「なに?」
「……………あの、」
「うん。なに?」
それでもためらう彼女だったが、葛藤の末にそっと俺にねだるような目を向けた。
「……………ぎゅう、し、て……ほし」
ぎゅう!!
彼女が全部言い終わる前に抱き込んだ!
ベッドにころがり彼女を全身で抱き込む。
ああもう! 好きだ! 好きが過ぎる!!
いつもはかろうじて抑えているのに、そんなかわいいおねだりをされたら理性が死ぬ! かわいい! かわいすぎる!!
抱き潰す勢いでぎゅうぎゅうに抱きしめる。
好き。好き。好き。
思考が単純になる。『好き』しか考えられない。好き。ただ、好き。
「好き」
「好き」
気持ちがあふれて口からこぼれている気がする。でも、好き。止まらない。好き。
暴走モードの俺にも彼女は怒るどころかその腕を背中に伸ばし、抱きしめてくれた。
ああ! 溶ける!
溶ける。満たされる。好き。好き。好き!
頭を掻き抱くとちょうどいい位置に耳があった。
なにも考えることなくキスをする。
キスの合間にも「好き」と言葉がこぼれる。
そのまま身体を少しずらして頬にキスし、唇を重ねた。
奪うようなキスにも彼女は怒らなかった。
頭を押さえつけ、二度、三度と唇を重ねる。
やわらかい。あたたかい。好き。俺の妻。俺の唯一。好き。好き。好き!
ずっとこうしていたい。ずっと彼女を抱きしめていたい。離したくない。ひとつでいたい。
好き。好き。好き。
ぎゅうぎゅうに抱き合い、唇を重ねた。
欲望のままに唇の隙間から彼女の唇を舐めた。
と。
ビクゥッ!
彼女の身体が大袈裟なくらい跳ねた!
途端にハッと正気に戻った!
ハッ! 俺、暴走してた!
これ以上はあの亀に殺される!!
そう気付いた途端、恐ろしいほどの威圧が刺さってきた!
ヤバい。これはかなりお怒りだ。
これ以上は進んだ瞬間に殺される!
そろりと唇を離すと、とろりととろけた愛しいひとの顔があった。
くっっっっそかわいいぃぃぃ! こんなの、抑えるの無理だろう!!
ヒュッ。
首筋を細い水弾がかすった!
……………。
冷や汗が伝い落ちる。肝が冷える。ついでに頭も冷えた。
スミマセンウソです。抑えます。
そう考えたら思考を読んだらしい守り役は威圧を収めた。
すう、はあ、と呼吸を整え、もう一度愛らしい唇にちゅっとキスを落とす。
ぎゅっと抱きしめる。今度はやさしく抱けた。
「好きだよ」
「大好き」
肩口に埋めた彼女の口から「うん」とちいさく聞こえた。それがまた愛おしくて、また抱きしめる腕に力が入る。
ふたりでぎゅうぎゅうと抱き合う。離れがたくて、離れたくなくて、このまま眠ったら全部終わっていたらいいのにと思った。
そんなこと有り得ないと理解していても弱音が浮かぶ。情けない。
こんな俺では彼女を守れない。もっと彼女の夫として誇れる男にならなくては。
抱き合っているうちにようやくそう考えられるようになった。
重ねた身体をどうにか剥ぎ起こし、彼女と視線を合わせる。
愛しい妻。俺の『半身』。俺の唯一。
ちゅ、とキスをし、コツンと額を合わせた。
「―――大丈夫だよ」
その目をじっと見つめ、刻み込むつもりで告げた。
「大丈夫」
自分にも言い聞かせるつもりで、できるだけ自信満々に見えるように意識してニヤリと笑った。
少し驚いたように目を丸くしていた彼女だったが、すぐにふわりと微笑んだ。
心の底から安堵したような、やさしい笑顔。
またしてもズキュンと胸を貫かれた。
湧き上がる邪念をどうにか抑え、にっこりと微笑んだ。
「ひなさんも言ってたでしょ? きっと大丈夫」
「うん」
「貴女は責務を果たせる」
「うん」
「『災禍』を滅することができる」
「そのあとも俺と一緒にいられる」
「ずっと、一緒に」
『願い』を言葉に出す俺に、彼女は「うん」とやさしく微笑んだ。
ああもう! なんでそんなに愛らしいんだ!!
「がんばろうね」
「うん」と答える彼女ともう一度キスをして、ようやく起き出した。
彼女が着替える間、ふたりきりになった守り役からみっちりお説教された。
朝食をいただいて昨日と同じようにあちこちにご挨拶にうかがった。
午前中に予定していたすべての場所へのご挨拶が終わった。
早目の昼食を食べてデジタルプラネットにもう一度行ってみた。
周囲の確認。侵入ルートの確認。戦闘になった場合のシュミレーション。
そんなことをして、烏丸の本拠地にも行ってみた。
パソコンの使い方を彼女に再確認させる。大丈夫そうだ。彼女も安心したらしい。ほにゃりと微笑むその愛らしさにキュンとする。
鉾町をまわっていたらひなさんから連絡が入った。タカさんと晃はやっぱり駄目だったらしい。
『今夜が勝負です』
『ナツさんのお仕えする神様へのご挨拶がより重要になりました』
メッセージに緊張が走る。
いよいよ。ついに。
そんな思いに身を固くしていたら、続くメッセージに息を飲んだ。
『千明様が「タカさんも一緒がいい」とおっしゃっています。
トモさんの部屋のパソコン、神棚の部屋に移動させてください』
はあぁぁぁ!?
『ノーパソでいいでしょ!?』
すぐにメッセージを送り返すと、速攻で返信が来た。
『ダメだそうです』
『マシンパワーがいるそうです』
『至急!』のスタンプに『ふざけんな!』と悪態をつきそうになった。が、妻の手前罵声をグッと飲み込む。
「パソコン? 動かすの? おひっこし?」
ぽやんと聞いてくる妻に荒んだ気持ちが癒やされる。かわいい。
「そうみたいだね」と答えたけれど、不貞腐れたのを見破られたらしい。
「私、なにかお手伝いできる?」
心配そうに聞いてくれるからかわいくてまたも癒やされた。
………仕方ない。やるか。
「ゴメンね竹さん。戻らなきゃ」
デートは終わりだ。名残惜しいが仕方ない。
生真面目な愛しい妻はそんなこと考えてないのだろう。「大丈夫!」「早く戻ろ」と言ってくれる。
せめて御池の安倍家まで歩いて帰ろうとしたのに、生真面目なお人好しが物陰から転移してくれた。
そこからは大急ぎでパソコンをバラしアイテムボックスに突っ込み、神棚の部屋で取り出してセットしていく。
ここコンセントないじゃないか。どこだよコンセント。延長コード買ってこないと。
机? プリンタ!? 早く言ってよ!!
彼女との残り時間を惜しむ暇もなくバタバタとセットし、動作確認を兼ねて戻ってきたタカさんと『バーチャルキョート』に潜る。問題なさそう。
そうしていたらヒロが迎えに来た。
残りの細かいセッティングはタカさんにまかせ、バタバタと風呂に入れられる。学校終わって直接走ってきた佑輝も一緒。
用意されていた浴衣に着替え、夕食をいただく。それから女性陣が風呂に行き支度をした。
その間に俺達は軽く打ち合わせ。夕食前にナツも来て浴衣に着替えている。
デジタルプラネット訪問はどうだったか、安倍家の能力者の状況は、俺達のご挨拶はどうだったかを報告しあっていたら、竹さんとひなさんの支度ができたと声がかかった。
登場した愛しい妻にまたしても見惚れる。
今日は俺と同じ紺地に竹柄の浴衣。白い帯。
女性にしては背が高めの彼女だからスラリと着こなしていてかわいい。
「へー。おそろいなんだ」とナツに指摘され照れているのかわいい。
「似合ってる」「かわいい」正直に言ったのに彼女は恥ずかしそうに顔を隠してしまった。かわいい。
晃とひなさんもお揃い。ふたりは白地に薄い水色で俺達と同じ竹を描いた浴衣に紺色の帯。
四人並ぶと呉服店のカタログモデルみたいだな。どこでこんなの用意するんだか。
は? 知り合いの呉服店に依頼した? そこまでするか?
「報告しないといけないから写真撮らせて!」と母親達に写真を撮られた。彼女とのツーショット写真も撮ってくれたから俺に異存はない。
守り役達も揃い、俺達霊玉守護者とハル、竹さんとひなさんと守り役四人という大所帯で四条の御旅所に向かった。
平日なのに、もう夜の九時になるのに、祝日の昨日と変わらぬ人混みにうんざりする。が、人口密度が高いから愛しい妻がべったりとくっついてくれる。
「はぐれたらいけないから、しっかりくっついててね」とお願いしたら、生真面目な妻は俺の腕にべったりとしがみついた。
ああもう! しあわせ!!
今日もふたりの周囲にミストシャワーを展開している。
だからだろう。彼女はへばることなく御旅所に到着した。
「隠形取って転移したらいいじゃないか」と提案したのだが、御旅所の真ん前に転移はさすがに「無礼になる」と却下された。
今日はどの路地も人で埋まっているので「下手に転移できない」となり仕方なく御池のマンションから歩いて移動した。
毎年のようにハルが結界を展開。神様に祝詞を奏上し、ナツが舞った。
竹さんは初めて見たナツの舞に大興奮していた。
リクエストを受けて彼女が笛を奉納。さらに舞まで奉納した。
いつ聞いてもやさしい笛。いつ見ても綺麗な舞。俺の妻はハイスペックだ。
今回はひなさんの提案であちこちの神様が同席されている。らしい。
そのどなたかのリクエストで晃とひなさんまで舞った。
すごいなひなさん。こんなことできるひとだったのか。
ふたりの霊力を混ぜて献上したところ、やんややんやの大喝采が起こった。
ナツも加わって三人で舞うのはマジで天上の飛天の舞のようだった。
白露様が西の姫を連れて来て、西の姫から神々へ今夜の決戦について説明申し上げた。
「どうかご助力くださいますようお願い申し上げます」と頭をさげるのに全員で倣う。
それからもナツが舞い竹さんが笛を吹き舞を舞い、霊力を献上した。
どうにかご満足いただけたところでようやく解散になった。
御池のマンションにたどり着いたのは二十二時をまわっていた。
神域は時間停止の結界が展開されていたから何時間経っても問題なかったが、往復に時間がかかった。
全員汗だくのヘロヘロになっていた。
男が離れの風呂、ひなさんと竹さんは御池のマンションの風呂を借りて大急ぎで汗を流す。
軽食をいただいて寝ることにした。
ナツと佑輝とヒロは一階の武道場で白露様緋炎様と一緒に。
晃とひなさんは二階の空部屋で。
俺と竹さんと黒陽はいつもの竹さんの部屋で。
俺と晃がヒロ達と別になったのは『半身』と抱き合って寝たほうが回復するため。
決して俺達から言い出したのではない。蒼真様が「そうしろ」と言った。だから仕方ないんだ。うん。
黒陽が時間停止の結界を展開した。これで彼女をしっかりと寝させることができる。
「しっかりごはん食べてしっかり寝たら回復するからね。ゆっくり寝ようね」
そう言い聞かせると「うん」と生真面目にうなずく愛しい妻。
顔がこわばってるよ。緊張しまくってるのが伝わってくる。
そういう俺も緊張している。
こちらの狙いどおりに事態が動くだろうか。彼女はどうなるのだろうか。不安で心配で、正直胸が潰れそう。
俺ですらそうなんだから、生真面目で気の弱い彼女は顔面蒼白になっている。抱きかかえているからちいさく震えているのも伝わってくる。
「――竹さん」
抱きしめて「大丈夫だよ」とささやくと、甘えて抱きついてくる。かわいい。
このぬくもりを失いたくない。
絶対に死なせない。
『災禍』を滅して『呪い』も解く!
決意も新たに愛しい妻をぎゅっと抱き込み、ささやいた。
「諦めないでね」
「絶対に、最後の最後まで、諦めないでね」
俺の『おねだり』に、生真面目な妻が生真面目に考えている。かわいい。
やがて彼女は俺の肩口からそっと顔を上げた。
「――うん」
「わかった」
さっきまでのおびえた表情から、決意の込められた表情になった。
「あきらめない」
「がんばる」
俺のためにがんばってくれる気になったのが伝わって。
彼女も俺との未来のために戦ってくれるつもりなのも伝わって。
嬉しくて愛おしくて、胸がぎゅっと締め付けられた。
ふたり抱き合い唇を重ねた。
「がんばろうね」
「うん」
「大丈夫だよ」
「うん」
ささやきながら背中をポンポンと叩いているうちに、いつの間にか眠りに落ちていった。