第八十六話 帰還三日目 夜
彼女が風呂に入っている間に黒陽と『恋人ごっこ』でどこまでシていいかすり合わせていく。
交渉の結果、抱きしめるのと軽いキスは許可してくれた。
まさかキスまで許可がおりるとは思わなかった!
「とにかく姫の回復が第一だ。
昨夜はしっかり眠った。
あの程度ならば、まあ、目をつむろう」
「ありがとうございます」
そんなことを話していたら竹さんが戻ってきた。
「あの、お風呂、お先でした」
その声に振り向いて―――息を飲んだ!
風呂上がり! 色っぽい!!
頬が上気して赤くなっている。元が色白だからまるで花を染めたよう。
髪の生え際がうっすらぬれているのは汗ばんでいるから? キチンと拭けていないから?
おまけにパジャマ!
昨日も見たけど、風呂上がりは破壊力が違う!
ごく普通のシンプルなパジャマは男物にもありそうなデザインなのに、彼女が着ているとかわいい! むしろ色っぽい! 邪念が出そう!
「……オイ」
「ナンデモアリマセン」
ドスの効いた声にピッと背筋を伸ばす。
そんな俺に彼女は首をかしげた。
「コホン」とひとつ咳払いをして気持ちを立て直す。
にっこりと笑顔を作り、彼女に向ける。
「体調はどうですか?」
今日も色々あったから疲れが出ているかもしれない。
熱が出たのは一昨日だ。用心に越したことはない。
念の為に確認する俺に「あの、大丈夫です」とちいさく答える彼女。
でも頬が赤いよ? 湯あたりした? それとも熱が出た?
心配で近寄ろうとしたら、それよりも早く彼女がピッと姿勢を正した。
「では、先にお部屋に下がらせていただきます。おやすみなさい」
ペコリとお辞儀をする彼女。生真面目だなあ。礼儀正しいなぁ。かわいいなぁ。
『おやすみ』と挨拶を返そうとして、ふと思い出した。
そうだ。双子にも、タカさんにも言われていた。
『おやすみのハグ』をしなくては。
ついっと近寄る俺に首をかしげる彼女。
くそう。かわいい。
邪念が出てきそうになるのをどうにか抑え、彼女をぎゅっと抱きしめた。
ああ! 役得! しあわせ!!
「な! なな、な」
「おやすみなさい」
ポンポンと背中を軽く叩いて、肩をつかんでそっと離れた。
彼女は目をまんまるにして固まっていた。
「――竹さん?」
大丈夫か? 嫌だったか?
心配で呼びかけると、彼女はハッと再起動した。
「な、なに、を」
「『おやすみのハグ』ですけど」
ケロッと答える俺に彼女は絶句している。
黒陽はテーブルの上で苦虫を噛み潰したような顔で黙っている。
「ホラ。タカさんに言われたでしょ?」
そう説明すると彼女も思い出したらしい。
「で、でも」とモニョモニョ言いだした。
「ムリにする必要は」
「ムリしてませんよ?」
「そ、そうじゃなくて、あの、その、」
「嫌でした?」
「い、イヤとかじゃ、なく、て、その、」
「嫌じゃないならいいじゃないですか」
「い、いいことは、ない、よう、な、」
「駄目ですか?」
「だ、ダメ、じゃ、」
赤い顔で怒ったように言うのかわいすぎ!
ぎゅうぎゅうに抱きしめてキスしたい! むしろ「オイ」「ナンデモアリマセン」
突然固まった俺に彼女は気付かない。それどころではないらしい。
そして俺は背後から斬りつけるような覇気を当てられている。これ以上は考えることもいけないらしい。
視線をあちこちにさまよわせ取り乱していた彼女だったが、突然ハッとなにかに気付いた。
そしてひとりなにかに納得したように目を伏せ、ちいさく微笑んだ。
――諦めと拒絶の混じった笑顔に、察した。
「竹さん」
「ひゃ、ひゃい」
両手で彼女のやわらかい頬を包んで俺に向かせる。
じっとその目をのぞき込む。
迷いからか泳いでいる目。
その瞳に俺を刻み込むように、まっすぐに視線をぶつけた。
「なんか余計なこと考えたでしょう」
「よ、余計なこと、って」
「なにを考えました?」
「……………」
「な・に・を! 考えましたか?」
黒陽があわてたように「トモ」と呼びかけてきたが無視だ。
彼女がガクブルと震えだしたのも無視。
今ここで問い詰めないと、このひととんでもないマイナス思考持ち出して勘違いしたまま寝ることになる。
なにを考えたのかはっきりさせないといけない。
ぷるぷる震えていた愛しいひとは、おそるおそるというように口を開いた。
「な、なにも、考えて「竹さん」ひゃい!」
かたくなな彼女にグッと怒りをこらえる。
「――俺にはなんでも言って。
『ムカつく』でも『嫌』でもいいから。
でないと俺、わからない。
貴女が嫌がることはしたくない。
貴女に我慢もさせたくない。
貴女を喜ばせたいんだ。
だから、教えて?
なにを考えて、なんでそんな顔したのか」
情けない声になった。
実際情けなく思ってる。
彼女はなにかを諦めた。それはわかる。
だが、それがナニかがわからない。
彼女に不快な思いはさせたくないのに。
嫌な思いも、苦しい思いもさせたくないのに。
彼女は何も答えてくれない。
情けない。
なにひとつわからない。
なにが『半身』だ。なにが『元々はひとつ』だ。
彼女が何を考えているかわからないじゃないか。
彼女の頬をはさんだまま、情けなさに眉が下がる。
そんな俺に彼女は申し訳なさそうに、困ったように眉を寄せた。
「――ごめんなさい……」
「あやまらないで」
ふるふると首を振る俺に彼女は困っている。
情けなさが増して、つい、視線が下がってしまう。
「俺が信用に足るだけの男でないだけだから」
「貴女の話を聞けるほどの信頼を得られてないだけだから」
言葉にするとより情けなくなった。
そっと彼女の頬から手を離す。
ダラリと腕が落ちた。
情けなくて泣きそう。
こんなとき晃みたいな精神系の能力者だったら彼女の気持ちがわかったのに。
ヒロみたいな他人の気持ちを察することができる男だったら彼女の気持ちを察することができたのに。
俺がもっとしっかりした男だったら彼女も頼ってくれただろうに。
あ。駄目だ。ヘコむ。
久しぶりに駄目なところをさらけ出されて突きつけられた。
もっとしっかりしたいのに。
もっと彼女に頼られるような男になりたいのに。
三年修行してきても、俺、全然成長してない。
なんだよ。変わったのは外見だけかよ。中身はヘタレのままかよ。
情けない。
こんなだから彼女が何も話してくれないんだ。
情けなさをかき集めた精神力でどうにか隠し、いつの間にかうつむいていた顔を彼女に向けて上げた。
表情筋を駆使して笑顔を作る。
「――すみません。困らせました」
彼女はグッと詰まって、ふるふると首を振った。
くそう。かわいい。
「――引き止めてすみません。じゃあ、おやすみなさい」
どうにかそれだけ言って彼女に背を向けた。
泣きそう。黒陽に愚痴聞いてもらって泣こう。
すがるように黒陽に目を向けたら、ちいさな亀は『仕方ないな』と言うような顔でテーブルの上にいた。
それだけで何故かホッとして黒陽のところに行こうとして――足が止まった。
シャツの背中をつかまれた。
振り返ると、怒ったような顔でそっぽを向いた彼女が、俺のシャツをつかんでいた。
驚く俺に気付いているのかいないのか、彼女は顔を赤くしてしばらく葛藤していた。
が、ボソリと言葉を落とした。
「……………『うぬぼれちゃいけない』って、思いました」
――吐き出した。
ごまかすことなく、正直に、素直に、吐き出した。
遠慮がちで他人に迷惑をかけることをなにより嫌って自分の感情や好き嫌いは後回しにするひとが。
自分のつらさや苦しみを他人に見せることを嫌うひとが。
吐き出した。
自分から。
――俺のために――?
彼女がヘコむ俺のためにがんばって吐き出してくれたと何故かわかって、それだけ俺のこと大事に思ってくれてるんだと思えて、信じられなくて、でもうれしくて、何も言えずただ黙って彼女を見つめた。
彼女はそっぽを向いたまま、俺のシャツをつかんだまま、ぼしょぼしょと続けた。
「『トモさんが抱きしめてくれるのはタカさんに言われたから』
『私が大事でしてくれたわけじゃない』
『トモさんが親切でやさしいひとだから』
そう、思いました」
……………。
やっぱりか。
そうやって『自分が愛されている』と思う感情を否定したんだな。
『うれしい』や『しあわせ』を諦めたんだな。
受け入れかけた『俺』を拒絶したんだな。
結果、あの諦めと拒絶の混じった笑顔が出たんだな。
――どんだけマイナス思考なんだ!
馬鹿じゃないのかこのひと!
ここまでいくと『ひねくれ者』と言ってもいいんじゃないか!?
素直にそのまんま受け取れよ!
他のことはあんなに阿呆みたいに受け入れるくせに、なんで自分のことになるとそうなんだよ!
くそう。かわいい。
これが『ギャップ萌え』というやつか?
普段の素直な彼女と違いすぎて構い倒したくなる。
無理矢理にでもキスして俺を刻みたくな「オイ」
……………。
……………なんでわかるんだ?
俺、そんなにダダ漏れか?
どうなんだ俺。退魔師失格じゃないか?
そしてなんで肝心のこのひとには伝わらないんだ? どんくさいからか? ぼんやりだからか?
過保護な守り役からの斬りつけるような威圧をどうにかこらえ、ついでに己の内で暴れ回る邪念もこらえ、すう、はあ、と呼吸を整える。
どうにか落ち着いたところでそっと彼女の手をつかみ、俺のシャツからはずさせる。
正面に向き直った俺に、彼女は驚いたような、戸惑うような顔をチラリと向け、今度はうつむいてしまった。
くそう。かわいい。
「……ありがとう」
彼女がピクリとちいさく反応した。
「……話してくれて」
そう告げると、そろりと顔を上げる。
ようやく目を合わせられたことがうれしくて、彼女が俺を信頼してくれているとわかって、うれしくて誇らしくて、つい、ニマニマと口元がゆるんだ。
「ちゃんと言ってくれて、うれしい」
笑顔でそう言うと、彼女は困ったように眉を寄せた。
「……ご迷惑じゃないですか……?」
「ちっとも」
「嫌じゃないですか?」
「ないですよ」
ケロッと言い切る俺にようやく彼女も納得したらしい。
ホッと息を吐いた。
こわばっていた肩もストンと落ちた。
かわいい様子にまた笑みをこぼしたら、彼女も照れくさそうに微笑んだ。
諦めも拒絶もない、素直な笑顔に俺も安心した。
「――それはそれとして」
そっと彼女の頬を両手ではさみ。
「貴女のその思い違いは、ひとつずつ潰していきましょうね」
にっこりと微笑む俺に、彼女はガクブルと涙を浮かべ口元を引きつらせた。