5. 鴇とハル
鴇の昼休みはミス桜庭と太常との話で消失していた。ミス桜庭の立派な乳房の感触が忘れられず、悶々としたが、こんなことで左右されるのは未熟者、と自らを律し、精神の安寧を取り戻した。
学校に戻り、5限(数学)に出席しながら、碧とハルの関係を考える。
ハルは未だに碧の前に現れないが、ストーカーみたいに遠くから張り付いているのは何度も見ている。ストーカーその2である青とストーカーその1であるハルが見にくい言い争いをしているのを以前目撃したことがある。
恐るべきは碧の鈍感さで、ストーカー二人の尾行を全く気がついていないのだ。
碧は自分に向けられている『好意』という類をシャットダウンしており、それ故に色恋に関しては赤子レベルの鈍さをほこる天然記念物の女の子である。
(そこが可愛くもあり、憎らしくもあり……)
そんなのことを考えていたら、眉間に皺を寄せて腕組みをしていた。
その姿を見ていて教師に、黒板に書いた問題を解くよう指示され、鴇は前に出て、スラスラと回答を記載する。
鴇は医学部を目指している。医術師として極めたいからだ。
故に数学は得意であった。
黒板に書いた回答に丸がつけられ、鴇は再び考える。
鴇は高校3年にも関わらず、碧に志望校を聞きそびれていた。
(燈さんは薬の研究者だったし、透さんは医者だし、碧のクラスも理系だし、理系行くよな、多分。まさか、国立志望で文系って線もあるのか。英の家だから経済学部も選択肢にあるよな)
鴇は授業中に意を決したように教科書をパチン、と閉じる。
(念のために聞いておくか)
放課後、碧の教室に行き、受験のことを尋ねると碧は「あー、そうだね」と前置きをした後「東京外語大の英語学科にいきたい」とこともなげに言った。
「え? 理系じゃないの?」
「理系科目で点差とりたいかいから、理系を選んだの。文系科目って、点数開かないし」
鴇の心はハラハラと崩れていくのを感じた。
「それで、鴇って、英語得意でしょ? だから、教えてくれると嬉しい。だめかな?」
鴇は首をブンブンと横に振る。
(ダメなわけない)
「問題ないよ。半分がジェントルマンの血なので」
鴇のここぞとばかりのドヤ顔に碧は少し圧倒されたが「ありがとう」と御礼を述べた。
(俺、ハーフで良かった)
鴇は心の中でバイリンガルである事に感謝をし、頭の中に浮かんだ母親に感謝をする。
「それで、今日から始めるので大丈夫?」
「え?」
碧の顔にクエッションマークが浮かんだ。
「語学は毎日使わないと習得できないから、毎日練習しないとだよ」.
「そうだなあ、時間かあ」
勉強時間を確保しようと考えている碧に鴇はニコニコ顔で提案をする。
「ねえ、行きも帰りも一緒に行こうよ。そうしたら、会話を英語で勉強できるし、時間も有効だよ」
碧はスンと心を落ち着かせている。
「鴇と一緒に通学しているだけで、よからぬ噂が出てるから、余計勘違いしそうじゃない?」
よからぬ噂を本当にしたい、と鴇は思っている。だが、口には出さずニコリと笑顔になる。
「考えすぎだよ。彼女がいるわけでもないし、そんなこと言ってたら、世の中の男女は家族と夫婦以外、会話がないことになるよ」
「………彼女いないの?」
鴇は「え? いないけど、なんで?」と返答する。碧から発せられた間に胸騒ぎがする。
先程までざわついていた教室は鴇と碧の会話に集中しているのか、静まりかえっている。
「だって、屋上でーーー」
「違う。彼女じゃないから」
碧がみなまで言おうとした言葉が、放課後の教室にふさわしくない上に、鴇自身にダメージが大きいため、被せて返答した。
「………そっか」
「うん」
鴇は背中に冷や汗をかいていた。
「鴇が性に奔放なことはよくわかったわ。そういう人もいるものね。大丈夫。そういう一面もあるってだけで、そんなことで嫌いにならないよ」
その言葉と同時に、放課後の教室が一瞬凍りついた。
消えたい。すごい殺傷能力がある言葉だ。碧はその言葉こ破壊力に気付いてない様子で、それがまた鴇を追い込んだ。
いや、自分の行いのせいなのだが。
もういい。絶対英語で話す。これ以上は社会的に死ぬから。
これ以上、碧の爆撃も防げるし、英語で話すことにより、ミス桜庭が会話に入って来なくなったら良い、と思っていたので、鴇にとっても願ったり、叶ったりである。
「じゃあ、帰ろ」
「よろしくお願いします」
♢♢♢
鴇と碧が校舎から出てくると、モーゼの十戒のように人が波のように避け、振り返ってはチラチラ視線を向けられた。
(また、あからさまに)
碧はそんなことを気にせず、鴇と並んで歩く。一方、鴇はこの十戒に心当たりがあるので、やや気にしていそうだ。
鴇と碧の学校は東京の外れにあり、最寄駅から坂道を5分ほど登ったところにあり、行きは息もキレるが、帰りは快適な道だった。
坂の上から見る景色は戸建てが並ぶ住宅地と、駅前のマンションがよく見える。
鴇と碧が駅まで坂を下っていくのを、マンションの屋上から覗いている人物がいた。
碧の式のハルである。
ハルは屋上のヘリに座り、足組みをして豆粒より小さくなった鴇と碧を見下ろしていた。
「キミも素直じゃないですね」
ハルの後ろに現れたのは、太常だ。ハルは振り向きもせず、組んだ足に肘をつき、顎に手を置いて頬杖をする。
「ほっといてくれる?」
「碧はキミのこと気にしてますよ。こんな地上から離れた場所で見なくても、あの男のように側で支えてやればいいじゃないですか」
ハルは組んだ足を入れ替える。
碧と鴇は駅に着いたらしい。プラットホームにいるのが上から確認できた。
「今更、どのツラ下げて会いに行ける?」
「そのツラですよ」
隣に座ってくる太常と敢えて距離をとる。
「まあ、そのうち機会もあるでしょうしね」
太常はそう言うと、ハルの肩をポンと叩いて消えた。
(機会ねえ)
眼下のプラットホームにいた二人は電車に乗り込むのが見えた。