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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

茂木安左衛門記是別紙

作者: 小城

三方ヶ原

 浜松で生活し始めてもうすぐ1年が経つという、元亀3年の秋。浜松城下に急報がもたらされた。

「武田軍がやってくるらしい。」

武田家来襲。それにより氏真らは駿府を落ち延びた。北条家と同盟を結んだ武田晴信は西方への侵攻を開始した。この年の10月に甲府を発つと、美濃、三河、遠江の三方から同時に進軍を始めたのである。同月には遠江内に侵入、二俣城を包囲していた。

「(武田晴信か…。)」

薩埵峠では戦う前から勝敗は決していた。氏真が生き延びられたのは運が良かったからだとも言える。武田晴信という男の恐ろしさを氏真は身を持って知っていた。

「(どこまで持ちこたえられるのだろうか。)」

武田軍は2万とも3万とも言われている。氏真は妻や子らの命を守らねばならない。しかし、氏真らが身を寄せるところは他になかった。

「(どうすれば良い…。)」

時は一刻一刻と過ぎていく。何もできるはずもなく、妻や子、郎党たちと共に城に籠もることになった。手には新藤五国光の太刀を持っていた。氏真たちの守り刀である。

12月。二俣城は落城した。武田軍が浜松城目がけて押し寄せて来ることが予想された。

「(籠城か。)」

掛川籠城以来であった。12月22日の昼。小雪が舞っていた。城内が慌ただしい。

「えい、えい、おう。」

「えい、えい、おう。」

城兵たちが出陣していった。

「(何故か…。)」

その後のことはここに記すこともないだろう。浜松城を出撃した徳川家康は、三方ヶ原で武田軍と衝突。敗北を喫して、命からがら浜松城へ逃げ帰った。

「(あのときのようだ…。)」

氏真は駿府で武田軍から屋敷に逃げて来たことを思い出していた。

「(頭が痛むか…。)」

久しぶりの頭痛である。ここ数年はなかった。

「(武田晴信…。)」

死を前にして、憎しみが蘇ってくるようであった。傍には早川殿と子らがいた。しかし、家康も氏真も死ぬことはなかった。死んだのは晴信であった。三方ヶ原の戦いのあと、武田軍は浜松城を攻めることなく、西へ進んだ。そして、三河の野田城を攻めている途中で、晴信が病に倒れ、甲斐国へ退却を開始した。途中、晴信は病没した。氏真たちは生き延びた。

「三方ヶ原の戦いのときは、私も死ぬかと思った。」

後年、氏真は家康に語ったという。


信長

 三方ヶ原の戦いの後、氏真は徳川家以外に身を寄せられるところを模索し始めた。

「(京の都へ上ってみようか。)」

京都は今、織田信長が権勢を振るっていた。将軍足利義昭は追放されていた。京へ上るというのは織田信長に会うということである。言わずもがな信長は父義元の仇であった。しかし、氏真は信長に恨みは持っていなかった。

「(氏真が滅びなければ、今川家が滅びることはない。)」

天正3年1月。氏真は妻子を浜松に残し、僅かな供の者と京都へ向かった。京都に着くと、かねて書状を送っておいた知り合いの公卿飛鳥井雅教の屋敷に宿泊した。雅教の屋敷に逗留しつつ、信長との面会の機会を待った。3月16日。相国寺で今川氏真と織田信長は初めて会った。

「信長公は怖かった。」

後に氏真が語ったのは、それだけであった。4日後の3月20日。信長の所望により、氏真ら飛鳥井雅教らは信長の前で蹴鞠を行った。信長はその腕に大いに感嘆したという。

「(信長殿に仕えるのは難しい。)」

信長は機嫌次第で家来を斬るという噂もある。命を全うすることを望む氏真にとっては、近寄らない方が良い人物であったろう。

「(やはり頼りになるのは家康殿だけか。)」

面会もそこそこに氏真は浜松へ帰ることにした。


長篠

 三河、遠江では急報が走り回っていた。武田軍の来襲である。晴信の子勝頼は、天正3年の4月。大軍を率いて、三河長篠城を包囲した。長篠城からの救援要請を受けた家康は信長に伝令を発した。5月。三河国長篠、設楽の地で、織田、徳川連合軍と武田軍の戦いが始まった。このことを氏真は、京都からの帰り道に知った。信長との面会後、旧知の公卿たちへの挨拶が長引き、京都を出たのは4月のことであった。その途中に事態を知ったのである。氏真は三河国牛久保城にいた。徳川の者に頼んで滞留させてもらっていたのである。氏真はそのことを戦場にいる家康のもとへ知らせたかった。その使者を供の一人に頼んだ。名を朝比奈弥太郎という。朝比奈の一族の者であった。

「この書状を家康殿の手に届けるだけで良い。」

弥太郎は走っていった。しかし、この弥太郎は何を思ったか、徳川の将兵として戦闘に参加。さらには武田24将の一人内藤昌豊を討ち取ってしまったのである。

「(何をしているのだ…。)」

なかなか帰って来ない弥太郎に氏真は呆れていた。戦後、弥太郎のこの活躍を知った家康は氏真に弥太郎を貰い受けたいと言って来たのである。更には三河国の牧野城主に氏真を任命したとも言われる。氏真に対する家康の見方が少し変わった瞬間でもあった。

「(何をしているのだ…。弥太郎…。)」


牧野原城

 朝比奈弥太郎の一件から、徳川家康は今川氏真に対する見方を改めた。

「少しは役に立つかもしれぬ。」

以後、氏真は武田攻めにしばしば参加させられることになる。

「(何をしてくれたのだ…。弥太郎よ。)」

氏真の朝比奈弥太郎に対する愚痴はやるかたなかった。ただ、弥太郎はもう家康に貰い受けられていない。手始めは、遠江国牧野原城の在番であった。牧野城または牧野原城はもとは武田軍の城で諏訪原城と呼ばれていた。長篠の戦いの後の天正3年8月に城は落ち徳川家の城となった。家康は唐国の故事に習って、この城を牧野城と改めた。未だ南方の高天神城には武田軍が籠もっており、ここは徳川軍と武田軍の最前線拠点のひとつであった。そんな城の防備を期間交代とはいえ任されたのである。もちろん氏真の数少ない家来に加えて、徳川の将兵たちも共に城にいる。そんな一人に松平家忠という人物がいた。家忠は三河出身で深溝松平氏の一族の者で、長篠の戦いにより、父伊忠が亡くなると深溝松平家の家督を相続していた。家忠は氏真より17歳年下であった。

「其方は連歌をやるのか。」

氏真は諏訪原城攻めの際にも参加させられていた。家忠は連歌を好んでいた。既に武士として生きて行くつもりはなかった氏真は、在番の家忠としきりに連歌や和歌の話をした。これには家忠も辟易した。

「氏真様は和歌や連歌のことしか関心がありませぬ。」

在番を終えて、三河深溝に帰る途中、浜松城に立ち寄った家忠は徳川家康にそう告げた。自然、氏真は三河、遠江両牧野城主を解任された。

「(願ってもないことである。)」

氏真はこれを気に完全に武士を止めようとした。浜松へ戻った氏真は出家して、宗誾と名乗った。

「本意の時が来たならば、再び私に奉公するように。」

家来衆にも、そう言って離散を許した。

「(武士を止めても、私さえ滅びることがなければ、今川家は滅びることはない。)」

氏真の隣には、妻の早川殿と18歳になる娘、8歳になる息子が、皆ともに笑っていた。

この小説はフィクションです。

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