洋服屋の少女と花の香水
「好きな人とかいる?」
チョコレートのケーキにフォークを突き刺しながらレイラはアイリスへと問いかける。
何の気なしに尋ねた風だが、明らかに誰かを思い浮かべているレイラのその視線はフォークの柄尻の装飾へとむけられ、まっすぐとこちらを見つめるアイリスの目を見返すことはできずにいる。
「すみません。好きがどういう感情なのか私にはわからないのです」
特に表情を変えることなくアイリスは事実だけを答えるが、わかる人間からすればアイリスがこの話題に興味を持ったことは一目瞭然だったことだろう。
もっともそんな人間は一人しかいないが。
「そっか、でもそうだよね。私もよくわからないもん」
レイラは一瞬考えたのちにそう言いうと、少々頬を赤らめながらアイリスへと笑いかける。
「レイラさんは好きな人がいらっしゃるのですか?」
「……うん」
アイリスの率直な質問に対しレイラは目を左右に泳がせ、なんだかもじもじとしながら小さく肯定する。
「そうなのですか。レイラさんはどうして好きがわかったのですか?」
レイラはなおも恥ずかしそうにしているが、それにかまうことなくアイリスはまっすぐに問いかける。
以前のアイリスであれば興味本位で誰かにものを訪ねることなどまず考えられなかったが、誕生日のケーキを食べてからのアイリスは知りたがりなのだ。
「どうして?……どうしてかな……」
当然誰しもが経験することで、誰かに教わることなどなくとも知っているであろうその感情について。それとどう向き合うかについてならば17歳のレイラは同年代の誰よりも悩んできたことだ。しかし、それ自体が何なのか、どうしてそれだとわかったのか。そう尋ねられレイラは答えることができなかった。
「……私も好きが知りたいです」
レイラから答えを得られなかったアイリスは無表情ながらもどこか寂しそうな雰囲気を漂わせながら小さくそうつぶやいた。
そしてそんなアイリスを見たレイラは先人の知恵を借りることにした。
「じゃあ教えてもらお!」
「好きかな?って思って、好きだなーって思って、好きだってわかるのよ」
ナターシャの言葉にレイラはたしかにその通りかもしれないと考えたが、アイリスはそんな答えで納得するはずもなかった。
沈黙の時が流れる。
ナターシャは何か嬉しそうに、レイラは少し心配そうに、二人とも特に何も言うつもりもなくただ考え込む少女へと視線を向けている。
「難しいです」
しばしの沈黙の後、少し俯きながらアイリスはそう言った。
「そっか。まぁ、色恋沙汰ならディオくんに聞くのがいいんじゃないかな? ちょうど外にいるし」
そんなアイリスを見てナターシャは優しそうに笑いながら表の通りを指さして言う。
表の通りには阿呆面でナターシャへと手を振る茶髪の男がいた。
「立ち話もなんだからな、カフェでもいくか!」
ディオに事情を話すと、ナターシャさんの頼みなら! となんだか張り切って話に乗ってきた。
「おごりですか?」
レイラは遠慮も抜かりもないしっかり者だ。
「当然よ! そしてナターシャさんにちゃんと伝えてくれよ」
ディオはもうウキウキだ。
カフェに入ると珈琲の香りが鼻をつつく。それなりの広さの店内に客は一組だけだ。ようようと歩くディオについて対面の席に座ると間髪入れずに店員が注文を聞きに来た。
……早すぎない?
まだ注文も決めていないレイラはそう思ってしまう。
「三人分適当に。ケーキも二つよろしく」
ディオは慣れた様子で注文を済ますと話を切り出してくる。
レイラはなんだか置いてけぼりを食らったような気持ちだ。
「嬢ちゃんダリーのとこの子だよな?」
「はい、アイリスです」
アイリスはいつも通りの無表情でディオをまっすぐに見据えながら名前を名乗る。
「おっけ、アイリス好きって言うのはな、わかるとか気づくもんじゃないんだ」
ディオは得意げにそんなことをいう。
「ディオ様は好きがわからないのですか?」
得意げに言ったディオに対しアイリスが率直に聞き返すところを見て、なんだか話の腰を折られているようでレイラは少々の笑みを浮かべている。
「俺はわかってる。ようは相手にそう思いこませることが重要なんだ」
ディオは調子を狂わされつつも構わずに話を進めていく。
「ではディオ様も誰かにそう思い込まされているのですか?」
初めての情報に無表情ながらもアイリスは興味津々だ。
「その通りだ。ただそれに気づいたときに自分がどうするのかって言うのが問題になってきてな、そこを上手く――」
「ちょっと待ってください!何の話してるんですか?」
なんだか話がずれている。純粋なアイリスに変なことを吹き込まないでくれと言わんばかりにレイラがディオの話を遮る。
「ん?気になるやつがいるんだろ?」
ディオは悪びれる様子もなくきょとんとして問いかけてくる。
「いや、そうじゃなくて……」
レイラはやはり聞く人を間違えたのではないだろうかと思いつつも、この話を聞けば自分の恋が一歩前進するかもしれないと一人で聞きたいような聞かせたくないような気持と戦いつつ答える。
「そういうのじゃなくて……好きって言うのがどんな感情なのかを聞きたいんですよ」
アイリスを思う気持ちが一歩勝ったらしい。
「好きは好きだろう。変なこと聞くんだな」
ディオはなおも悪びれる様子もなく飄々と言う。
「その好きがわからないから相談してるんですけど……」
レイラの気苦労は絶えない。
喫茶店に沈黙の時が流れる。
ディオは阿呆面でコーヒーをすすっているが、レイラはこの後の話題について考えてただ黒い水面を眺めている。
カチャッ
右側から聞こえた音に視線を向けるとアイリスが表情は変えないながらもなんだかうれしそうにケーキを口へと運んでいた。
こういったほんの些細なしぐさが幼少のころの人形遊びを彷彿とさせ、レイラの目には愛おしく映る。
「ディオじゃん」
沈黙を破ったのはディオやダリーたちの友人クラッチだ。やや小柄な体格に短めの茶髪、赤茶色の瞳でやんちゃそうな顔つきの青年だ。
「クラッチさん!」
レイラは間抜けな声を上げると頬を赤らめる。
「あれ、レイラ?こんな奴と何してるの?」
クラッチはそう言いながらディオの隣、アイリスの向かいに座る。
「その……ちょっと相談があって……」
レイラは変な声が出た恥ずかしさやディオのことが好きだと勘違いされるかもしれないなどと色々なことが頭をめぐり、おどおどとした様子でなんとか答える。
「これがまた難しいんだ。こいつらに好きが何なのか教えてやってくれよ」
ディオがすぐに話をつづけたおかげでレイラはクラッチの視線から逃れることができ、息をすることを思い出す。
「スキって恋愛の?」
クラッチは確認するようにディオへと尋ねると暢気そうな肯定が返ってくる。
「そうそう」
「んー、好きっいうのは、要するに気になるってことだね」
アイリスはまた新たに差し出された情報を反復し聞き返す。
「気になる、ですか?」
「わからなかったら、誰かに好かれることだね。そうすればおのずとわかってくるよ」
今までで最も具体的な回答を得てアイリスは少々の満足感と新たな興味がわいてくるのを感じた。
「誰かに好かれる、ですか。努力します」
「おう!がんばれよ」
アイリスの言葉にディオがなんだか偉そうに応える。
「なんでお前が言うんだよ」
クラッチは手柄を横取りされたようでなんだか不服そうだ。
「そろそろ行こっか……」
高鳴る胸の鼓動に耐えかねてレイラはアイリスに逃亡を提案する。
「はい、ありがとうございました」
アイリスは特に考えることもなくレイラに従う意を示すと、二人に礼を言って席を立つ。
「おう!また何かあったら言えよ!」
ディオは尚も得意げに二人へと声をかける。
「だからなんでお前が偉そうにしてるのさ」
クラッチの文句を背中で聞きながら席を離れる。
入り口で長髪の女性とすれ違って外へ出ると空が陰りだしていた。
香水だろうか、その女性が通ったあとには花のような香りが立ち込めている。レイラは好かれるには今の人の様にもっと自分を磨いていかなければと思いながらカフェを後にした。
「おまたせ」
「やぁシャーリー」
ちょうど席を立ったディオと入れ替わるようにクラッチの待ち人が現れる。シャーリーと呼ばれた女性はテーブルのカップを見て言う。
「誰かといたの?」
「うん、ちょっとね」
「えー、浮気じゃないよね?」
「まさか、するわけないよ」
シャーリーにジト目で問いかけられたのに対しクラッチは笑顔でそう答えた。