3.眼前の岐路
前話分までちょくちょく修正入れています。流れに変更はありません。
それは貴婦人への一般的な挨拶だ。けれど放たれた台詞はそこから大きく逸脱し、衝撃となってディズに襲い掛かった。は、と息を漏らしたきり、動きも思考も止まる。
(けっこん)
知らない単語というわけではないのに、浮いて聞こえる。上手く頭に馴染まないのはどうしてだろう。
(結婚を申し込みに……聞き間違えた? 結婚、けっこん、けっこう、けっとう──決闘? 決闘を申し込みに? いやそれはそれで意味わかんないな……?)
混乱が極まる。咄嗟に訊き返すこともできず固まっていると、ルイはあっさりとディズの退路を塞いだ。
「これを。求婚のしるしです」
渡されたのは白い花束。絹のような花弁は瑞々しく、ふんわりと優しく華やかに咲き誇っている。白い軟毛のある葉、まっすぐな太い茎。ふわりと漂う癖のない甘い香り。
花を貰うことはあまりない。反射的に受け取ったストックの花束に見惚れ、ディズは頬を緩めた。
「ありがとう、ございます」
「……。喜んでいただけたようでよかった」
その言葉ではっと我に返った。見上げると、綺麗に微笑まれる。笑みを刻む薄い唇が紡いだ「求婚」という言葉は、さすがに聞き間違えようがない。
(け、軽率だった!? 求婚のしるしってことは、受け取ったらそのまま受け入れたことになる……!?)
ディズを混乱の渦に叩き落とした元凶のイグルは、少し離れたところでミリアとともにこちらを見守っている。目で困惑を訴えてもにこにこ人畜無害そうに笑うだけなので、どうやら助ける気はないらしい。
頑張って被った淑女の皮がそろそろ剥がれそうで、贈られた花束を胸に抱いたままディズは焦った。
(どっ、どうすれば)
「──イグル様」
さすがに見かねたのか、タリフが「僭越ながら」と腰を折る。
「突然のことにお嬢様も戸惑っておられるご様子。ひとまず場所を移してはいかがでしょう」
(タっ、タリフさああんっ……!)
感動で体が震えそうになった。苦笑したミリアも加勢してくれる。
「今の時季ならきっと東の庭園のミモザが見頃だわ、あなた」
「そうだなぁ」
妻の口添えに顎を撫で、イグルはふむと考える様子を見せる。
「長旅でお疲れではありませんか、ルキゼッタ殿」
「休み休みの道程でしたので、お気遣いいただくほどでは」
ルイがそう首を振ったのが決め手だったようだ。ゆったりと細められた目に、愉しげな色が浮かんだ。
「では、庭園でお茶でもいかがですかな」
***
領城の東にある庭園は、アイビーのアーチを抜けた先にある。
あくまで〝自然的な空間〟にこだわったそこに、目を瞠るような鮮麗さはない。広がるのは、どちらかというとほっと肩の力が抜けるような、素朴で安穏とした景色だ。
黄色い羽毛のような花をつけたミモザが、春を告げる優しい香りであたりを満たしている。降り注ぐ日差しも柔らかで、気を抜くとうたた寝をしてしまいそうだ。
もっとも、気を抜ける状況ではないのだけれど。
(どうしてこうなった)
現在、庭園の四阿で円卓を囲むのは、ディズとルイの二人だけ。養親たちは今しがた、「あとは若い二人で」と仲良く退席していった。お茶会の開始からわずか三十分足らずのことである。ディズの心中は諦念を通り越し、もはや無の境地に至っている。
(イグルさま、昨日からお茶目がすぎませんか……)
さらにいつの間にか使用人までいなくなっている。ディズは溜息をつきたくなるのを堪え、白磁に薄い顔料が小花を描くティーカップに指を伸ばした。
卓に並ぶカップケーキやパウンドケーキ、卵フィリングのサンドイッチには、手をつける気になれない。
(どうするかなぁ)
カップを傾けながらちらりと対面を盗み見る。
最初は政略結婚を疑った。だが政略結婚は利得を目的とした家同士の取り決め。そこに当人の意思など介在しないのだから、イグルが仕組んだこの状況には違和感しかない。
何より、あちらにはこちらとの婚姻で得られるものなど何もないだろう。彼の生家──フィズリーブルーは、先王の王弟が始祖の賜姓王族なのだから。
家位は公爵。貴族としての歴史は浅くとも、その血は現時点で王族に次ぐ尊さだ。リグスティが領家の直接統治下になかった理由もそこにある。
──〝よろしいですか、お嬢様。臣籍降下したとはいえ、王弟は王弟。その血が持つ力はあまりに強く、下手をすれば厄介事の火種にされかねないのです。だから先代陛下の王弟殿下は領地の統治を他家に任せ、自らは王の目が届く場所に留まるご判断をなさった〟
家庭教師の言葉を思い返し、ディズはカップにそっと息を落とした。思えばこの二週間、講義でやたらとリグスティが取り上げられていたのは、今日の布石だったのか。
「──その様子だと、あなたはイグル殿から何も聞かされていなかったようですね」
ディズは伏せていた目を上げる。先ほどまで傍らのミモザに向けられていた群青の眸が、今はディズだけを映し出していた。
静謐な雰囲気に、お手本のような綺麗な笑み。年齢はたしか、領主着任時点で今のディズと同じ十六だったはず。四つ違いだとは思えない落ち着きぶりだ。前領主の所業でますます扱いづらくなっただろう領地を今日まで遺漏なく治めている手腕から、優秀な人物なのだろうとは思うが。
どうにも警戒に似た疑心が募る。彼ならもっと他に、申し分なく釣り合う令嬢が見つかるだろう。家格も能力も、──血筋も。
「公爵さま」
互いに名乗ったあとだが、あえて家位で呼びかけた。ラビストネアにおいて、公爵や伯爵は爵位ではなく家位。家格を示すもので、個人を指すものではない。よって、呼びかけに使うのは一般的でないのだけれど。
カップを静かにソーサーへと戻し、ディズは淡く微笑んでみせる。
「求婚は何かの間違いではありませんか?」
──言葉選びを間違えたな、と思ったのは、秀麗な相貌から笑みが消えたからだ。
幸い気分を害した様子はなく、ルイはただただ虚を衝かれたように目を丸くしている。ディズは密かに焦りつつ、まじまじとその顔に見入った。
初めて、彼の表情に温度が宿った気がしたのだ。
(──あ、れ……)
同時にぞっと背筋を怖気が這う。直感的に悟ったのは、先ほどまでの彼の表情がいかに空っぽだったのかということ。
温かさもなければ冷ややかさもない。命のない人形が浮かべる無機質なそれと同じもの。綺麗だけれど、虚ろで、空っぽな、死んだ笑顔。胡散臭さすら感じない、それ。
「というと?」
不躾を謝罪する前に静かにそう問い返され、ディズは狼狽える。
「あ、え、と……私は、イグルさまとミリアさまの実子でないどころか、マガサウィンの遠縁でもないので」
「ええ、そのようですね。それが何か?」
(いやそれが何かって)
血筋を重んじる貴族にしてみれば、じゅうぶん得体が知れないだろう。
「……どうして私なんですか」
言いたい諸々を飲み込んでそれだけを口にすると、ルイは一度ぱちりと瞬く。そうして浮かべられたのは、やはり温度のないあの笑みだった。
魂の抜けた亡骸が笑っているような、そんな歪さを見せる表情に、ディズが怯んだときだ。
「一目惚れです」
「…………」
──ぜったい、嘘だ。
一瞬恐怖を感じたのも忘れて、思わず目が据わる。
「信じていない顔だ」
「……訊きかたを変えます。この縁談だとそちらには何も益がないのではないですか?」
「おかしなことを訊きますね。マガサウィンは由緒ある名家。対してこちらは王族の傍系といえど貴族としての歴史は浅い。婚姻によるたしかな繋がりを得られるだけでじゅうぶん利得になります」
一応理にかなった言い分だが、ディズはさらに胡乱げな顔になる。どうにも釈然としない。
「それならどうしてユドラ=ツィア・マガサウィンさまのご息女じゃないんです?」
この国で名に〝ツィア〟を持つことができるのは、その一族の総代だけだ。マガサウィン家の総代にはディズと同い年の未婚の娘がいる。より強固な繋がりを望むのなら、そちらと縁を結ぶのが妥当だろう。
言葉尻を捉えるように斬りこむと、ルイは小さく息をついたようだった。
「どうやらあなたは率直な物言いを好まれるようですね」
……もしかして先ほどの発言をあげつらった皮肉だろうか。ぴくりと口角が引き攣る。
「先ほどは不躾な発言を失礼いたしました。私は、腹芸があまり得意ではないんです」
「そのわりに嫌みは上手なようで」
空気が不穏に冷え込んだ。何食わぬ顔で紅茶を口にする目の前の貴公子に、ディズの唇は自然と笑みを形作る。目はもちろんのこと笑っていない。
(これは、ひょっとして、喧嘩を売られている?)
言葉こそ丁寧だが、どう聞いても挑発されている。
こめかみに浮きそうになる青筋を笑顔で誤魔化していると、伏せられていた長い睫毛が持ち上がって静謐な眸が姿を見せる。研ぎ澄まされた刃のような光を湛えた群青が、ディズをまっすぐに射抜いた。
次の瞬間、声から態度から、一切のもの柔らかさが消え失せる。
「──腹芸、ね。なるほど、存外容姿に似合わない度胸をしているらしい」
途端に場を支配したのは実に貴族らしい威圧感。穏やかな話しかたをがらりと変えて、冷ややかな艶を隠しもしなくなった低い声に、ディズの体は自然と緊張を強いられる。
こくりと無意識に空気を嚥下するディズの前で、ルイが静かにカップを置いた。
「言っておくが、縁談相手を間違えてはいないからな。こちらの用があるのはマガサウィンじゃない、あなた自身だ」
「は……、え?」
(わ、たし?)
思わぬ言葉に目が点になる。
養親の意向でディズは一切社交を行っていない。そういう場にも顔を出していない。それなのに、用があるのはディズ自身──?
思い当たるのは一つだけ。だがそれこそまさかだろう。だってディズは〝まがいもの〟だ。
「……私が聖色を──ネアの慈し子である証を持っているからですか」
ラビストネアが国教、アネア教。その主神は癒しを司る女神ネア。先天性の白髪は、そんな女神の慈し子である聖女の証だとされている、が。
ディズは違う。聖女にあるまじき漆黒を眸に持っている。
さらに異端である証明のように、神殿は見向きもしない。ディズが本当に聖女であるならば、慣習通り生まれてすぐに神殿に引き取られているはずだ。
聖色を持っていても聖女ではない、まがいもの。
悲哀も愁嘆もない事実としてそれを伝える前に、ルイは意外にも「いいや?」と頭を傾けた。
「聖色云々はどうでもいいな」
「じゃあどうして……」
「知る必要が? こちらはこちらの勘定で動いている。あなたもまた、自分の利得だけを考えればいい」
ディズは眉間に皺を刻んだ。
「私の利得?」
「ああ。そうだな、たとえばあなたの出身孤児院」
そこで一度言葉を区切って、ルイは円卓に封書を置いた。
「併設の教会はもう何十年も前に神殿の手を離れ、無神となっているはず。放棄された教会に神殿の〝施し〟はない。代わりに、あなたを養女にした見返りとして二年前からイグル殿が最低限援助をしているようだが。さて、それも半年後にはどうなっているかな」
「……どういう意味ですか」
当然のように把握されている己の事情にディズは内心慄いていたが、最後の台詞を聞き咎めて表情を硬くした。ルイがトンと長い指で封書を叩く。
「半年後、あの土地は還俗するんだよ。そのあとは競りにかけられる。元は神の土地だからな。貴族にも富豪にも欲しいと思う人間は掃いて捨てるほどいるし、資金とするために神殿も限界まで値を吊り上げるだろう。買い手がついて誰かのものになれば、あなたの大切な家族は必然的に路頭に迷うことになる」
信じられないのなら、その目で見て確かめればいい。
その言葉とともに渡された封書は、今まさにルイが言ったような内容の告知文だった。ディズは愕然と目を瞠る。
(うそ。嘘だ、だって、孤児院がなくなる?)
ふいに脳裏を過ったのはソルルタの顔。
(あれ、待って、でも、ソルルタ先生、昨日手紙、を──)
どうして何も言ってくれなかったのだろう。どうしてディズに隠したのだろう。
育て親を責めるような気持ちが湧いてきて、俯いたディズは下唇を噛んだ。どうして、なんて自分が一番わかっている。聞いたところでどうにもできない。貯蓄はある。でもそれは、あの土地を買うにも空き家を買うにも全然足りない。
ぐしゃりと手の中で紙が悲鳴を上げた。対面から息を吐き出す音が聞こえてくる。
「言っただろう、これはあなたの利得の話だ。こちらの要求に応じてくれるのなら、あなたの家族の生活は保障する」
──〝君が私たちの娘になってくれるのなら、最低限でよければ援助しよう〟
ルイの声に重なるように、耳の奥に穏やかな声が蘇った。ディズは顔を上げて無感動な群青と目を合わせる。あの声の持ち主が優しいだけの人間じゃないことは、すでに知っていた。
〝貴族〟なのだ。養父も、目の前の青年も。
「神殿と為政者との間には相互不干渉の不文律があるが、幸いあなたのところはすでに神殿の管理から外れているから問題はない。あの土地を競り落とすでも別の場所に移るでも、希望通りに援助しよう。もちろん住む場所だけでなく生活面においても支援は惜しまない」
「ほんとうに……?」
「ああ。なんなら誓紙を書いてもいい」
さらりとした声音とは裏腹に、あまりに重い言葉が形の良い唇から放たれた。ディズは驚いて秀麗な相貌を凝視する。
誓紙とは文字通り、神への誓いを明文化したものだ。ただ単に誓言を紡ぐより拘束力が強く、決して軽く扱えるものではない。
そもそも神への誓い自体、一種の質のようなものだ。何かを質草に誓文立てし、誓言を通して神の加護を得る。婚姻時の「これからの人生を賭して相手と連れ添う」というのもこれにあたるが、もちろんのこと誓いが破られれば質草は失われる。まさしく諸刃の剣だ。
ぐらりぐらりと心が揺らいだ。誘惑が甘い。好都合過ぎて、警戒が湧くほどに。
真っ暗な中に差した一縷の光に一も二もなく縋りたくなるのを堪え、ディズは息を吸った。ルイは己の利得を考えろと言ったのだ。
(結婚、すれば。血族じゃない私じゃ繋がりは多少弱くなるけど、少なくともマガサウィンにとってこの縁は悪くないはず。孤児院も助けられる。それに、もしこの先イグルさまが援助を打ち切っても、フィズリーブルーからの支援はあるわけだから)
この上ないほどの好条件だ。たとえば他所の家に嫁いでも同じだけのものはおそらく得られない。
ただ。
(簡単に帰ることはできなくなる)
唯一それが。それだけが。
黒水晶の眸が心境を映してゆらゆら揺れる。黙り込むディズを、ルイはしばらく眺めていたが。
やがてとどめを刺すようにその手から告知文を抜き取った。
「惑う気持ちもわからなくはないが、これは利害の一致。まあ、契約とでも思っていればいい」
「利害……そちらにも、きちんと利益があるということですよね」
「ああ。残念ながらただの善意で人助けするほどお人好しじゃないんでな」
それならいい。優しさなんて不安定なものに頼るよりよほど安心できる。
一度瞑目し、深呼吸を挟んで目を開けた。紅を刷いた唇だけが、笑みを形作る。
「わかりました。これからよろしくお願いしますね、──旦那さま」
ディズは静かに、揺らめく感情を握り潰した。