2.幕開き
「リグスティ……」
思いがけない地名に、ディズは呟いたきり、ぽかんと間抜けた顔になった。
リグスティ。それは、ラビストネア王国の最東端に位置し、ユソルと南東の境を接する領地の名だ。
「西大陸と東大陸を繋ぐ陸路のある要所ですよね。南北に長くて、東西文化の入り混じる土地だから商業都市があちこちにあるんだけど、領民の自治願望が強いから難しい土地でもあるんだとか。それから……」
複数の山脈によって隔てられた、大陸の東西。衣食住のどれをとっても西と東とではまるで違い、その異文化の合流地であるリグスティは、王都ヴァゼルに負けず劣らずの豊かさと賑やかさを誇っている。──が。
「たしか四年前に汚職で解任された領主の家が、事実上没落してます」
ちょうど昨日までの講義で習っていたところだ。復習がてら声に出してみると、横でほうれん草のクッキーを齧るレクルの眉がぎゅっと寄せられた。
「解任からの没落って。なんかちょっと聞こえよく言ってるけど、実質爵封取り上げなんじゃないのそれ」
「ううん。文字通り、解任です。前の領主家はあくまでも管理運営を委任されていただけで、領地を実際に所有している領家はまた別みたいですよ。リグスティは風土もですけど、そういうところもちょっと特殊ですよね」
「……僕からしたらリグスティだけじゃなくてこの国がもう特殊なんだけど。イグル様にも当てはまることだけどさ、領主と当主が必ずしも同じじゃないってところとか」
とある目的からユソルに流れ着いた異邦人であるレクルは、時折こうしてラビストネアの文化に戸惑う様子を見せた。土地が違えば文化が違うのは当然だが、それでもやはり上手く馴染まない部分というのはあるらしい。
難しい顔で首を捻るレクルに苦笑が漏れる。
「領主はあくまで直接的に支配している人を指しますから。イグルさまは領主ですけど、ユソルの領家であるマガサウィン家の総代はイグルさまのお兄さまですよ」
「だからそのあたりがややこしいんだって」
そうかな、とディズは首を傾げた。
(たしかに領主の選出は基本的に領家の中からっていうのを考えたら、以前のリグスティはちょっとややこしい気もするけど。それも四年前に通例通り領家の人に戻ってるみたいだし)
ややこしいかどうかはさておき、ひとまず反駁してみる。
「ただ単に重要視するところが違うだけだと思いますよ。総代は一族を統率する役目があって、そうなると治領は誰かに任せたほうがお互い役割に専念できるでしょう? 少なくとも合理的ではありますよね」
「ふぅん、まあたしかに」
「でしょう? そうなってるってことは、そうなるだけの理由があったってことですよ。何事もね」
何気なく口にした言葉は思いの外しっくりする。得意げな顔になったのは完全に無意識だったが、レクルは容赦なくその鼻をへし折りにかかった。物理的に。
「かわいいけどなんか腹立つな」
「! っなんで鼻つまむんです!? いきなりなに!?」
「高くなった鼻っ柱はへし折らないと」
「……」
まったく悪びれる様子がない。目の前でぷらぷら揺れる手を、ディズは反射的に叩き落とした。
「それで。なんでリグスティの領主はユソルに来るんです?」
「さあ? 知らされてないから知らないけど?」
「ええー……」
露骨にがっかりすると、彼は少しむっとしたようだ。目をすがめて、「なに」と紡ぎだす声がいつもより低い。
「だって領主が自領を空けてまで来訪するんですよ? 気になりません?」
「べっつにー。だって僕に関係ないし」
「えっびっくりするくらい冷たい……。でもほら、イグルさまが今日の今日まで来客の予定を黙ってた理由もそこにあるかもですよ」
ディズは眸を好奇心できらめかせ、ずいと身を乗り出した。対するレクルはどこか面倒臭そうに肘掛を利用して頬杖をついている。
「別に知ったところで何にもならないでしょ。そもそもディジリアは、来客のたんびに体調崩してるんだから」
やけに引っかかる物言いにぱちくりと瞬いた。次いで半目になる。
「……それだとさも私の我が侭で引きこもってるみたいじゃありません?」
「あんたの我が侭だろうがイグル様とミリア様の意向だろうが、あんたが客の前に出ないのは同じじゃん」
「それはまあ、……そうですけど」
「でしょ。どんな事情があるかなんて知りようがないんだから気にするだけ無駄だって」
あっさりばっさり切り捨てられ、ぐうの音も出ない。ディズは唇を尖らせて大人しく引き下がった。嘆息しつつ背もたれに背を預ける。
素っ気ないながらも、レクルの主張は尤も千万だったのだ。
──ところが。
翌日、それを根底から覆す事態が出来する。
「え、あの、なにごとですか……」
朝食後しばらくして、大挙して押し寄せたメイドたちに戸惑いが隠せない。怒涛の勢いで服を剥かれ、湯に放り込まれ、肌を磨かれた──その後。
全身にミモザの花香油を塗り込まれ、筋肉を解すようなマッサージを受けている最中に、ようやくディズはいささか死んだ目でその問いを口にした。
(いやほんと、何事)
まさか二日連続同じ感想を抱くことになろうとは。
唐突に浴室に連行されて茫然自失になっていたこともあるが、甲斐甲斐しく世話を焼く彼女たちの気迫に口を挟む暇がなかった。
現在の心境としては『羞恥で死にたい』。これである。
いくら同性でも突然服を脱がされ、複数人に入浴を手伝われるのは恥ずかしい。いやもう、手伝われるどころの話ではなかった。あの入浴のどこにも、ディズの意思が入り込む隙間はなかったのである。
身繕いは一人で済ませてあたりまえ、という平民元孤児の常識が顔を覆って泣いている気がする。
「せっかくの機会ですから、目一杯お世話させていただこうと思いまして」
「……?」
こちらに、と誘導する手に従ってドレッサーの椅子に腰かけ、三面鏡越しにその表情を窺う。真後ろに立って髪の水分を丁寧に飛ばしてくれているメイドがにこりと微笑んだ。
「こんなときでもなければ、ディジリアお嬢様はレクルの手しか借りませんもの。……それにしても本当に真っ白──綺麗な聖色ですね」
うっとりと目を細められ、ディズは居心地の悪さに身じろいだ。
新雪のように真っ白な、真珠のきらめきを持つ艶髪。腰を超えるほどに長く豊かなそれは、毛先にかけて緩く波打つような癖がある。
同色の睫毛は長く濃く、虹彩は黒水晶のように深い黒。白皙の肌は月光をくるんだようで、小さな顔にはぱっちりと大きな眸、すっと筋の通った鼻梁、血色のいい小さめの唇が黄金比で並ぶ。
三面鏡が映し出す、作り物めいて整った愛愛しい容貌。全体的に薄い色素と華奢な体つきに宿っているのは、神秘的な儚さだ。
養親がディズを表に出そうとしない理由は、この容姿と珍しい色合いにあったはず。──先天性の白髪は、この国において特別な意味を持つのだ。
だから現状がどうにも解せない。
「あ、そういえばレクルは?」
先ほどから姿が見えない己の侍女はどこに行ったのだろう。
目だけをきょろきょろさせると、爪磨きに勤しむメイドが穏やかに答えてくれる。
「衣裳部屋でお嬢様のドレスと装身具の候補をあげていますよ」
「……なるほど」
(上手く逃げたな)
外見はどうであれ中身は男。ディズしか知らないことで普段は意識もしないが、それは事実だ。
「本当は最初から最後までお世話させていただきたかったのですが、御髪とお化粧はレクルが担当するということで話がついてるんです」
(いつの間に)
もはや椅子に座っているだけの人形と化したディズは、メイドたちの話に相槌を打ち、ぼんやりとその仕事ぶりを眺めるしかすることがない。
(というかもうこれ、嫌な予感がひしひしとするんですが)
代わる代わるあてられるドレスに、ディズの目はここではないどこか遠いところを見る。
レクルが戻ってきたのは、くるくる動き回るメイドたちの手からようやく解放された頃だった。
「うわ。肌つやのわりに顔死んでるんだけど」
メイドたちと入れ替わるように入ってきたレクルは、ぱたんと閉まった扉とディズを交互に見やり、口角を引き攣らせる。
ディズは己の格好を見下ろした後で情けない顔になった。
「レクル……これ、ひょっとして私も応対に出る感じですか」
身につけているのは、上半身がレース仕立てになった濃紺のドレス。動きにあわせて揺れるサテンの上にシフォンを重ねたフィッシュテールや、デコルテから袖にかけて肌が透けて見える繊細なレティチェラレースが上品な一品だ。さらにその上から、銀糸と小粒の宝石で蔓薔薇と遊ぶ蝶を見事に仕上げたパステルカラーのショールを合わせると、もうどこからどう見ても盛装である。
あまりにも身の丈に合わない衣装に戦々恐々としていると、容赦なく現実を突きつけられる。
「当然。そんな格好しといて今さら何言ってんの。ていうか詳しく聞かなかったんだ?」
「楽しそうなところに横槍を入れるなんてできませんでした……!」
そもそもどうしてこうも急なのか。つい数時間前までは他人事だったことがやにわに眼前に迫ってきて、背後から奇襲をかけられた気分だ。
「歓待の準備中にひょっこり顔を出したイグル様が養女の支度も頼むって言ったらしいよ。……ちょっと、顔整えるんだから俯かないで」
掬うように顎を持ち上げられ、ディズはしかめっ面で稀有な紫水晶の眸と視線を合わせた。
(そりゃあ貴族としての教養はしっかり叩き込まれてるわけだから、いつかは表に出されるんだろうとは思ってたけど、でも)
「なんでせめて昨日教えてくれないのか……!」
「知らないよ。お茶目なんじゃないの」
苦々しく呻くも軽く流される。ディズは気を落ち着かせるように一つ息をつき、鏡の中の己と向き合った。
迷いのないレクルの手が、ディズの支度を見る間に整えていく。
複雑な形に編み込まれた髪には、葉に見立てたマーキスカットのグリーンダイヤモンドと、実に擬した小粒の紅水晶を散りばめ、繊細な小枝の意匠に仕上げた銀線の髪飾りを。
耳にはペリドットが輝きを添える銀細工のイヤリングを飾り、装いは品よくたわやかな雰囲気にまとめられていく。
文句なしに高いその技術力を素直に驚嘆できないのは、状況が状況だからだ。
「……レクル。あの、これ……私いま、全身総額いくらくらいなんです……?」
ぱちりと鏡の中の紫水晶の眸が瞬いた。緊張で吐きそうになっているディズに対し、彼が向けたのは無駄に爽やかな笑み。
「大丈夫、あんたが一番高いよ」
「て、適当すぎる……! 誤魔化すにしてももうちょっと何かないんですか!? もう、もしもし万が一にも落として壊したり引っ掛けて破いたりしたら、命で以て贖うしか……」
「物騒か」
レクルには呆れられたが、ディズは大真面目である。命とまではいかずとも、いざとなったら内臓の一つ二つを非合法な連中に売り飛ばす覚悟くらいはしよう。
胃がキリキリするような不安から明後日のほうに腹を決めたときだ。コンコンコンと扉が叩かれる。
「ディジリアお嬢様。ご支度はいかがでしょう」
ディズはぎゅっと拳を握った。差し出されたレクルの手を借りて立ち上がる。
肩甲骨を閉じるようにぴんと背筋を伸ばし、足を下ろすときは踵から。一度深呼吸して、顎を引いた。
「頑張れ、お嬢様」
レクルの激励が優しく背中を押してくれる。廊下で待っていたのは家令のタリフだ。
「ああ、これはお美しい」
彼は眩しそうに目を細めると、恭しく腰を折る。
「──では、参りましょうか」
客人を出迎えるために向かった前庭には、すでに養親が揃っていた。
ユソル領領主イグル=マガサウィンと、その妻ミリア=マガサウィン。ディズと同じく盛装の彼らは仲睦まじく寄り添っていて、ディズは目を和ませる。
「イグ……お養父さま、お養母さま、お待たせいたしました」
しかし彼らは、ディズの姿を認めるなり黙り込んでしまった。
ミリアにまじまじ見られ、腰が引ける。
「え、あの……なにか変、ですか?」
「……いいえ。いいえ! とっても素敵だわ、ディズ! 普段からお人形みたいに綺麗な子だと思っていたけれど、あなたはそうして着飾ると気高くなるのね。まるで女神ネアのようではなくて。ねえ、あなた」
「ああ。きっとどの聖女よりも美しいよ、ディジリア」
すらすら紡がれる褒め言葉に、ディズは照れるを通り越して固まった。身内贔屓が多分に反映されているとしても、女神は流石に不遜ではなかろうか。
返す言葉に迷っていると、ふと手を握るミリアのレースグローブに目がいった。精緻な薔薇を描くニードルレースに、ディズは思わず「あ」と声を漏らす。
「ミリアさま、それ……」
「ふふ、気づいたかしら。ええそう、あなたが作ってくれたものよ」
愛おしむようにグローブを撫でて悪戯っぽく笑うミリアに、ディズも自然と笑顔になる。自分が作ったものを大切にしてくれている。たったそれだけのことが、ただただ嬉しかった。
「そういえばイグ、お養父さま。どうして今回は私も客前に?」
客人の到着を待つ間、三人で少し雑談に興じていたところを、ディズは思い切って尋ねてみる。今回はすべてのことが唐突だ。昨日の来客の通達も、今朝のことも。
ミリアが呆れ顔で夫を見ていた。視線だけで妻の言いたいことがわかったのか、イグルは「せっかくだ。驚かせたいじゃないか」と笑みを深める。そしてゆったりと片目を閉じてみせた。
「今にわかるさ」
確実に含みのある仕草と言葉の真意を問う前に、開門の号令が朗々と響く。
「──フィズリーブルー様のご到着!」
今になって、忘れていた緊張が潮の如く押し寄せてきた。車輪の重い音を訊きながら、ディズは緩んでいた気を引き締める。
昨日の薄曇りが嘘のように澄み切った蒼穹の下、馬車から降りてきたのは年若い青年だ。
さらりと風になびく明度の高い金髪、明け方の空をそっくり閉じ込めたような群青の眸。背はすらりと高く、均整のとれた体つきをしている。涼しげな目許が印象的な秀麗な顔立ち、髪より濃い金の飾緒が胸元を飾る盛装を違和感なく着こなし、歩きかた一つ取っても洗練されている隙のない所作。
──理想の貴公子像そのもののような、ひどく整った容姿の青年。
「お久しぶりです、イグル殿。此度はお時間を取っていただき、感謝いたします。お二人ともお変わりないようで」
「ええ。遠路はるばるようこそ、ユソルへ。ルキゼッタ殿」
「お待ちしておりましたわ」
柔和な笑みを相貌に乗せ、養親と言葉を交わすさまはまさしく好青年だ。
ディズの足は無意識に一歩後退る。同時に、群青の眸がこちらを向いた。
「はじめまして、ご令嬢。ルキゼッタ=フィズリーブルーと申します。ルイ、……と呼んでいただければ」
にこりと綺麗に笑みを浮かべ、彼はついと双眸を細める。
途端に何故かぞわりと肌が粟立った。得体の知れない何かが背筋を撫でていく。
「名前を伺っても?」
たとえ知っていても、名乗られなければ面と向かって呼ぶことはできない。それが貴族社会のルールだ。
ディズは意識して息を吸うと、上手く動かない表情筋で何とか笑みを作ってみせる。
「ディジリア、と申します」
──なんだかひどく、嫌な予感がした。
「ディジリア嬢」
左手を取られる。滑らかに腰を折り、お手本のような笑みはそのままに手の甲に柔らかく唇を落とすふり。
「今日はあなたに、結婚を申し込みに来ました」