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偽りを紡ぐ  作者: 一朶色葉
序幕
2/4

1.嵐の前

「あ、あの~ぉ、すみませーん……だ、誰かいませんかぁ。おっ、お届け物ですけどー……」

 ピロピロピロ……と、大層控えめな呼子笛の音がする。

 黙々と小さな庭を手入れしていたディズは、ぱっと顔を上げて首を傾げた。

(うち、だよね……?)

 笛の音も声も、ひどく弱々しい。一瞬他所のものかと思ったが、この孤児院の近隣に民家は一つもない。

 気のせいかと訝りつつ、手を止めて立ち上がった。

 その拍子に、没頭している間は気にもならなかった凍て解けた土の匂いと、抜いたばかりの雑草の青臭さが鼻先を掠めていく。

 ようやく緑が芽生え始めた冬と春の境の日の午後。常ならばくすんだ常緑に混じる若い緑が鮮やかだが、今日はその色も沈んで見える。空が快晴には遠い薄曇りだからだろうか。空気も、冬が戻ってきたように冷たい。

 外套の下でぶるりと体を震わせ、ディズは歩きながら土いじりで汚れた手袋を外す。さらにフードを被って厄介な髪色を隠した。

 そこに飛んでくる、急かすような二度目の笛の音は、やはり届く前に掻き消えそうなほど弱々しい。

「あのぉ、こっ、ここに置いておきますからねぇ……ちゃ、ちゃんと届けましたよぉー……」

「えっ」

 ディズは慌てて正面に回った。だがすでに、人の姿はそこにない。届け物らしき影もなく、肩を落として錆塗れの門に近づいた──そのとき。

「ひっ、ぎゃぁああああああああああああああああ!!」

 突然、天を貫くような大絶叫が轟いた。

(何事!?)

 咄嗟に耳を塞いで目を走らせれば、遠くにまろびながら駆け去っていく背中がある。

 不審者でも出たのだろうかと体を固くさせるディズの耳に次に飛び込んできたのは、逃げる背中が残したお化けだという悲鳴だ。

(おばけ)

 今度は違う意味で体が強張った。寒いほどの気温なのに、首筋を汗がたらりと伝う。心なしか、気温とはまた別のところで寒気を感じる。

(いやいやいや、いないいない)

 ディズは生憎と、精神衛生上そういうのは信じないようにしているのだ。ぶんぶん首を横に振って気持ちを切り替え、それでもやはり少し警戒しながら門扉に手をかけた。

 滑りの悪い蝶番が、いつも通りギイイと嫌な音を立てる。いつもより不穏に聞こえたのはきっと気のせいだ。

「えーっと、届け物届け物」

 風がないからか、あたりは寂然としている。しんとした静けさが今は怖い。

 ディズは意図的に声を出しながら、きょろきょろとあたりを見回す。

「見えづらかったけど、鞄にホルンの図柄があったからたぶんあの人は郵便局の人だ。台車も馬車もなくて持ってたのは鞄一つ。声が若かったし、たぶんまだ子どもだから配達を任されるなら手紙の類だよね──」

 パキリ、と。

 自分の声に混じるようにして、枝を踏む音が聞こえた。

 孤児院の敷地を囲む塀の上、常緑の蔦がこれでもかと絡まる柵の間に、それらしきものを見つけていたディズの肩はびくりと大げさに震える。

 だが聞こえてきたのは、聞き慣れた声だった。

「ディズ? ぶつぶつ独り言を言って、どうしたの?」

「ソ、ソルルタせんせい……」

 相手が育ての親だと認識した途端、全身からどっと力が抜ける。「はぁああ」と肺を絞るような深いため息をつくと、ディズを映す白青の眸が驚いたように丸くなる。

「本当にどうしたのよ。顔色が悪いわ、気分が悪い?」

「ううん。そうじゃないんです」

 優しく背を撫でられ、ディズはへらりと笑った。

 フードの下から見上げた育て親の顔は、今年で三十七になるとは思えないほどに若々しい。肩上で揃えられた紅茶色の髪、怜悧な印象の切れ長の目。そのすらりとした立ち姿や涼やかに整った相貌を見ていると、段々とうるさかった鼓動も落ち着いてくる。

「郵便局の配達さんが来てたんだけど、なんか、お化けだって言って逃げちゃって」

「お化け?」

「うん。いないよね、お化けなんて」

「あら。神を信仰しながら、神話に当たり前に出てくるお化けの存在を否定するのはどうかと思うわよ」

 痛いところを突かれ、ディズは目を泳がせる。

 悪戯っぽく笑ったソルルタは、少し考えるようにディズを見下ろして「お化けね」と呟いた。その視線は、おもむろに傍らの孤児院へと向けられる。

 そうして次に唇に浮かべたのは、淡い苦笑だ。

「大丈夫よ。それ、たぶんキミのことだから」

「えっ」



 ユソル領の都グトの郊外に、ひっそりと建つ孤児院。その外観を端的に表すなら、──廃墟。これに尽きる。

 錆に塗れた柵に門、絡み合った蔦が溢れる崩れかけの塀。折り重なるように枝を伸ばす木々はまだ寒々しい印象を拭えず、まるで生気が感じられない。

 現在六人の孤児を抱える孤児院の建物も、外壁の塗膜が剥がれ、腐食の進んだ壁板には穴が空き、屋根は文字通り吹けば飛びそうな有様だ。掃除はきちんとしているし、よほどひどいところはどうにかこうにか廃材で修繕もしているが、その不格好な継ぎ接ぎが、見た目のボロさに拍車をかけている気がする。

(そんなまさしくお化け屋敷! って場所にフードを目深に被った女……うん、これはお化けと思われても仕方ない)

 さらに周りは民家もなく、人気もない。おそらく、手紙を置いて道を引き返しながらも気にして振り返ったのだろう。そこにさっきまではなかった得体の知れない影があったら、誰だって驚くに違いない。

 ソルルタの指摘にしばし二の句が継げなかったディズは、やがて納得したように頷いた。お化けに間違われたショックが多少尾を引いているが、本物がいるより何倍もましだ。

「それにしても珍しいわね、うちに配達が来るなんて」

「郵便物が来ること自体滅多にないのもあるけど、いつもなら定期的に取りに行ってますもんね。私より年下みたいだったから、入ったばっかりで勝手がわからなかったのかも」

 言いつつ、塀の上の手紙に手を伸ばす。

 宛名は──ソルルタ=サハルベーヌ。

「あ、これ先生宛てだ」

 眉をひそめたソルルタは、背面を見てますます眉間の皺を深くする。心底嫌そうに開封し、文字を追う顔を何気なく眺めていたディズは、ふとその白青に剣呑な色が浮かんだ気がしてゆっくりと目をしばたたいた。

 声をかけようとしたが、次の瞬間には何事もなかったかのように手紙が折り畳まれている。

「今日は冬が戻ったみたいね。寒いし中に入りましょうか」

 しまいに取り繕うように微笑まれると、ぎこちなくも頷くしかない。

(……差出人、ソルルタ先生の知り合いの聖職者だった。──まさか神殿絡み?)

 聞くに聞けない雰囲気で、中身はわからない。ただ。

(先生、神殿が嫌いなのに。……それから貴族も)

 直截な言葉を聞いたをわけじゃない。けれど神殿や貴族という単語を耳にすると、決まってその表情が少し翳るのだと気づいたのはいつだっただろう。

「そういえばソルルタ先生。納品、どうでした? 卸先の新規開拓に行ったんだよね?」

 さりげなく話題を変えたディズを一瞥して、ソルルタが小さく肩を竦めた。

「やっぱり無名だとダメね。良いものを作っても、名前が知られていないと足元を見られるから」

 ふ、と小さく息をつく横顔に少しの疲れが見えて、ディズは眉を寄せる。

(先生の裁縫の腕は確かなのに)

 孤児院の家計状況は、二年前から別口の収入を得られるようになった今でも、あまり芳しくない。養い口はディズを抜いて六人、それも最年長は今年でようやく十になる歳だ。正直、子どもたちが働きに出て得る給金は雀の涙程度で、大した足しにはならない。

(私の稼ぎは、ソルルタ先生、全然受け取ってくれないし)

 キミのおかげで食い扶持の維持には困らなくなったんだから、それは自分のために使いなさい、と言われるのがオチだ。だから何かしらの不測の事態に備えて、しっかり貯金しているのだけど。

(子どもたちの世話があるから工房に入ることも難しいし、うーん……せめてこう、作業の一部を委託してくれる仕立て屋か服飾の工房が近くにあったらよかったんだけど)

「──ディズ。何かあったの?」

「え?」

 不意にソルルタが立ち止まったので、ディズははっと我に返る。水仕事で荒れた手が指す先には、先ほどまで手入れしていた小さな庭があった。一角に子どもたちが文字や計算の練習をするための砂場が設けられた、素朴な庭だ。

「春先で伸び始めてた草が根こそぎ抜かれてるから、ストレスでも溜まってたのかと思って」

「あ……」

 つい目が泳いだのは、図星だったからである。

 草むしりはディズにとって、格好のストレス発散先なのだ。

 ストレス解消ついでに綺麗になる荒蕪地。抜いた雑草は堆肥にできる。一挙両得どころか一挙三得で、何より根っこからずぼっと引っこ抜くあの感覚がたまらない。

 だが、草に八つ当たりしているのを堂々と認めるのはどうなのだろう。

「これは、その……そうそう、根が柔らかいうちに除いたほうがいいかなって」

「別に誤魔化さなくても。昔からのことだし、効率のいい発散方法だと思うわよ」

 咄嗟に口をついた誤魔化しは、育て親には通用しなかった。慈愛に満ちた眼差しを向けられると、いたたまれなくなってくる。

「え、えへへ。ここ二週間勉強漬けで、ちょっとその鬱憤が。半月も帰ってこられなかったし」

 結局はにかんで認めたディズだが、何故かソルルタの表情は暗くなる。包むように握られた両手に、きょとんとした。

「そう。……大変なのね、領主の養女という立場は」

「え……?」

「助かってるわ、すごく。ディズのおかげでマガサウィン様から援助していただけるようになって、時々食事にお肉が出せるようになったくらい。でもね、ディズ。そのためにキミに苦労をかけるのは本意じゃないの。もともと住む世界が違うわけだし……つらくはない?」

「っ」

 心配そうな白青に顔を覗き込まれ、ディズはぶんぶんと首を横に振った。何か取り違えられている気がする。

「イグルさまにもミリアさまにも良くしていただいてる。それに私、勉強自体は嫌いじゃないんだよ。礼儀作法もダンスも、刺繍──に関してはソルルタ先生のおかげで何も教えられることがないって言われたけど、とにかく知らなかったことを知るのは、大変だけど楽しいよ」

 ただ今回は、何故か詰めに詰め込まれた予定のせいで、少し息が詰まっていただけだ。

 わたわた言い募ると、ソルルタの目がゆっくりと細められる。

「そう……。ディズは頑固なところがあるから、無理してないかと思ったんだけど」

「大丈夫。頑固なのは先生に育てられたからだから」

「……どういう意味かしら、それ」

 じとりとした視線を、ディズはにこにこ笑って受け流す。つられるようにソルルタの唇にも笑みが浮かび、それにほっと安堵したとき、傍らの扉が開いた。

「ディズおねえちゃん、おにいちゃんたちがおべんきょおしえてって」

 特徴的なタレ目をとろんとさせながら玄関から出てきたのは、今年で五歳くらいになる最年少の男の子だ。ぽてぽてという音がつきそうな足取りで歩み寄ってきたその子どもは、ソルルタを見上げて「せんせ、おかいり」と破顔すると、繋いだままになっていたディズとソルルタの手を当たり前のように解いて自分の手と繋ぎ直す。

「さっき、へんなこえしたよ?」

「あー……うん。大丈夫だよ、気にしないで。みんなお掃除は終わったって?」

「うん。おねえちゃんたちも、はりおしえてほしいってゆってた」

「あら、じゃあ針は私ね」

 くすくす笑いながら言うソルルタから、ディズはそっと目を逸らす。視界に入った庭は、やはり緑が暗く沈んで見えた。


***


 蜂蜜色をしたユソルの領城は、夕方になると空の淡い橙と絶妙に調和して、それは神秘的な眺めになる。

 日中は空を覆っていた雲も徐々に晴れつつあった。完全に晴れるとまではいかないものの、薄い雲に色づく橙と雲の隙間から広がる光芒が美しい。

 しかしそんな穏やかな空模様に反して、城内はさざ波のような喧噪に満ちていた。

 日が暮れるころになって城へと戻ったディズは、どこか怱々としている空気を不思議に思う。というのも城の空気というものは基本的に、城主の気質が大きく反映されるからだ。

 ユソル城の主にしてユソルの統治者イグル=マガサウィン伯爵は、春の陽気に似た穏やかな為人の気品溢れる紳士である──というのが、二年前に彼の養女になったディズの見解だ。

 物腰が柔らかく泰然自若で、妻のミリアとも常に蜜月のような仲睦まじさ。仕える使用人たちも口を揃えて「穏和な主人」だと評するような、そんな人物。

 そのイグルが。

「イグル様! 明日お客様がいらっしゃるとはどういうことなのです!」

「言葉のままだよ、タリフ。明日、お客様がいらっしゃるんだ」

「誰がそのまま反復しろと……! もっと早く仰ってもらわねば困ると申しあげているのです! こちらにも準備というものが──」

 たった今、年嵩の家令に叱責されながら、足早にエントランスを突っ切って行った。困惑を隠せないディズに、茶目っ気たっぷりのウインクを一つ残して。

(えええ……えーっと?)

 何があったのだろう。

 事情を訊こうにもついその後ろ姿を見送ってしまったし、使用人たちは忙しそうに動き回っていて捉まえるのは憚られる。

 ディズを見かけると手を止め足を止め、「おかえりなさいませ、お嬢様」と挨拶をしてくれるが、それすら申し訳なくなるほどに煩忙を極めているようだった。

 こういうときに頼れる相手は限られてくる。

「あ、いた! レクル!」

 自室へ向かいしなに見つけた背に、ディズは心持ち足早に近づいた。淑女たるもの滅多なことでは走らない、とこの二年の礼儀作法で口酸っぱく言われている。

「ああ、お帰りなさいませ、ディジリアお嬢様」

 振り向いて嫣然と微笑んだのは、ディズより三つ年上の、凛とした見目の美少女──に見える男だ。

 端麗な面差しにきめ細かな白い肌。ぱっちりとした眸は、紫水晶(アメジスト)を思わせる落ち着いた印象の紫。細身でしなやかな体は露出のない侍女の仕着せを纏い、首にはマガサウィン家の紋章が編まれたレースのチョーカー。少し癖のある栗色の髪は、高い位置で一つに束ねられている。

 素顔を見たことはないが、おそらく元々かなりの女顔なのだろう。小柄ではないが大柄でもなく、骨格が華奢なのも手伝って、彼の女装は違和感がないどころかこちらが歯ぎしりしたくなるくらいの出来だ。

 ディズは返事もそこそこに、レクルに詰め寄った。

「あの、レクル。なんだかみなさん慌ただしいというか、忙しそうというか──」

「ディジリアお嬢様」

 静かな声が、続く言葉を遮った。「お部屋で、落ち着いてお話ししましょう」と促されて、彼女は少し冷静になる。気づかないうちに城内の怱忙な空気にあてられてしまっていたらしい。逸る気持ちを落ち着けるように、意識して呼吸を整える。

 レクルは一度厨房に行き、茶菓の支度をしてから部屋にやってきた。先に部屋に戻っていたディズに温かいレモネードを渡してくれながら、「それで」と一呼吸置く。

「なんで使用人が忙殺されてるのか、だっけ」

 すっかり砕けた口調で、彼はすとんと隣に腰を下ろした。無遠慮にも、籐籠に盛られたフィナンシェを摘まんでいる。良くも悪くも第三者の目と耳がないからできることだ。

 ディズも特に咎めることなく、白磁のカップに口をつける。

「はい。イグルさまとタリフさんのご様子も少しおかしかったですし」

 老練な家令が声を荒らげていた珍しい光景が脳裏を過る。その憤慨をものともせず、右から左に聞き流していた養父の姿も。

「大物の来客予定があるんだと」

「おおもののらいきゃくよてい」

「そ。明日の昼過ぎに到着だってさ。それをほんとについさっき、ディジリアが戻ってくるちょっと前に通達されたおかげで、使用人は今、上を下への大騒ぎだよ」

 肩を竦めたレクルの手が、今度はカボチャを練り込んだクッキーに伸びる。けれどそれは、ディズの唇に押し付けられた。

「むぐっ」

 さくりと軽い歯触り。口に広がる素朴な甘さと、バターのふくよかな香り。好物の味だ。

 ついつい緩みそうになる頬を押さえると、すかさず二枚目が放り込まれる。

「おまけに滞在予定は四日あるみたいだし」

(よっか)

 次から次へと落とされる情報に、ディズは目を白黒させてレモネードでクッキーを流し込む。胸にあるのは、半々の怖さと好奇心。

「その大物っていうのは?」

 湿らせた唇でおずおず尋ねると、一度目をしばたたかせたレクルはまるで内緒話でもするかのように声を落とした。

「リグスティの領主だよ」


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