0.追憶の行く先
好きなものを詰め込んでるので設定盛り沢山です。お付き合いいただけると幸いです。
ひどく穏やかな二年前の春を夢に見ていた。
ゆるゆると瞼を押し上げてぼうっと霞む視界にぱちりと一つ瞬くと、寝起きで物の輪郭すらはっきりとしない世界が次第に明瞭になっていく。白に近いクリーム色の天井。切り込み細工が入った色ガラスの窓。広いベッドと、己の体にかかる厚手の毛布に上質な絹の掛け布。離れたところには脚の短いテーブルと天鵞絨張りの長椅子がある。
「──……ああ」
見慣れない景色に眉根を寄せ、彷徨わせた視線で辿ったそれらにようやくここが昨晩借りた宿の一室であると思い至る。ぼんやりしていた頭が徐々に覚醒し、それと同時に意識の片隅にとどまっていた夢が霞となって消えていく感覚がして、気づいたときには我ながらどうかと思うほどに重苦しい溜息が唇を割って出ていた。
窓の外はまだ薄暗い。おそらく再び微睡んでも問題ない時間帯だろうが、どうにも眠る気になれずにベッドから抜け出した。つき纏う倦怠感に唸りながら長椅子に体を預ける。
寝起きはどうにも気怠い。それに加えてここ最近は特に、気を塞ぐものがある。
テーブルの上の書類の中から一通の書簡を取り上げる。封蝋に捺された印璽が示す差出人は、リグスティと北西の境を接するユソルの領主──イグル=ユソル=マガサウィン伯爵。だらしなく背もたれに背を沈めながら、透かし見るように書簡を掲げた。
少し角張った文字が綴る中身は、何度見ても変わらない。
(娘の意思がすべて、ね。嫁にしたかったら口説いて落とせってことなんだろうが──政略結婚がざらな貴族社会では珍しいほどに涙ぐましい愛だな)
もっともその涙ぐましい愛とやらが原因で、こちらは領の仕事を差し置いて女を口説きに行く破目になっているのだから、気が重い。
父親を口説き終えたかと思えば今度は娘である。所詮は養女なのだから早々に手放すだろうと思っていたのに、とんだ誤算だ。まさか散々手紙を交わしてようやく得られたものが、娘を口説いていいという許しだけとは。
書簡をテーブルに放り、頭痛を覚えて眉間を揉んだ。ユソルに近づくにつれ憂鬱の度合いが増していく。
落とせない不安はない。確実に抱き込めるだけの自信はある。手許にあるのはそういう切り札だ。
けれど──いや、だからこそひどく億劫なのだ。
「……」
乱暴に前髪を掻き揚げて目を閉じると、瞼裏の闇に夢の残滓が浮かんだ。
枝葉の間から漏れる柔らかな陽光。砕いた真珠をまぶしたような耀きを持つ真っ白な髪。黒水晶の眸が緩んで、作り物めいた愛愛しくも美しい造形の少女が、ふわりと花咲くように笑う。
それはさながら陽だまりの情景だった。温かく、柔らかで、まるでこの世の幸せをありったけ詰め込んだような、そんな一場面。
見たのは一度きり。自分に向けられたものでもない。だというのに二年もの間、頭の片隅に焼き付いて消えない。
再び唇を溜息が割く。
声は、どうだっただろう。鈍い頭が再び深淵に沈もうと、子守唄を探し始める。ゆるりと思い出そうとするのは彼女の声。
一度だけ聞いたそれは、優しく鈴を転がしたときの柔らかく澄んだ音に似ていた気がするけれど、どうだったか。
(──不毛すぎる)
うつらうつらと船を漕いでいた意識を、心地の良い波間から強制的に引き上げた。まとわりつく眠気を振り払おうと長椅子から離れて窓を開けると、風に攫われた花の香りが微かに鼻先を掠める。
眼下に広がる庭に自然と漏れたのは舌打ちだった。手入れの行き届いた庭で風に揺れる花々の一角。真っ白な花弁を誇らしげに広げるストックに、眸の奥で真っ白な艶髪の残像が重なる。
「──っ」
気づいたときには、反射的に窓を閉めていた。力任せに引かれた窓がバンッと大きな音を立てて閉まり、視界から花を追い出してくれる。
(……忘れろ)
それでも眸の奥の彼女は消えてくれない。
ふわりと彼女が笑う。真っ白な髪を──聖色を持つ聖女が。聖女にあるまじき漆黒の双眸を穏やかに細めて。
(忘れろ)
目許にあてがった手の下で、強く瞑目した。咽喉を塞ぐ罪悪感の隙間からか細い呼気が漏れ出る。
二年前、穏やかでいてひどく胸をざわつかせた憧憬を、できることなら吐息に乗せてすべて吐き出してしまいたかった。
だってもう持っていても仕方がない。
妻を望んだときから、どんなに焦がれてもそれが手に入ることはないのだと、わかりきっているのだから。