5. 結婚の申し込み
さらに季節がいくつか過ぎると、お姫様のもとに結婚の申し込みが届くようになりました。幼い頃から結婚の約束をしていた王子様が人魚姫のもとへ行ったと、他の国にも伝わったのです。いいえ、王子様と人魚姫の物語だけではありません。人間のお姫様の美しさや優しさも、世間の人々の口にのぼるようになっていました。それに、とても思慮深く賢い方だという評判も。
それは、王子様の影のお陰でした。普通の人ならば行けないところや見ることができないもののお話を聞き、手に入ることが叶わないもの、想像もつかない不思議な品々を沢山ご覧になったお姫様は、ふとした時に漏らすひと言で周りの人々を感心させたり、大臣たちが頭を抱えた難題をさらりと解決したりすることができるようになっていました。何もかもに恵まれた素晴らしい方だ、という噂を聞きつけた王様や領主たちが、是非とも私の花嫁に、と次々にお姫様に手紙や贈り物を送るようになったのです。
「どなたでも好きな方にお返事を書きなさい」
「ええ、でも……」
山のように積まれた手紙を前に、お父様である王様はお姫様に命じました。本当のところ、王子様と人魚姫の結婚は残念なことだったのですが、今となってはかえって良かったかもしれない、と王様はほくほくしています。それもそのはず、お姫様に結婚を申し込んできたのはいずれも名だたる国の王様や王子様や公爵様でした。大きくて豊かな国、小さいけれど文化や芸術が盛んな国、戦いで負けたことのないとても強い国。どの方を選んでもお姫様は必ず幸せになれるだろうと、王様は信じているのでした。
「少し待ってくださいませ。よく考えてからにしませんと」
「もちろんだとも。お前の旦那様のことなのだから、お前が選んで構わないのだよ」
だからお姫様がためらっているのを、王様はただ恥ずかしがっているだけだと思いました。両手の指で足りないくらいの申し込みがあるのですから、どの方も立派な方なのですから、迷うのも当然のことでしょう。
でも、お姫様が気に懸けていたのは王子様の影のことでした。お姫様が結婚して、旦那様と同じ部屋で眠るようになったら、もう王子様の影とこっそりお喋りをすることはできません。いいえ、お姫様のことはどうでも良いのですが、世界にたったひとりぼっちのあの可哀想な影は、お姫様にさえ会えなくなったら一体どう思うことでしょう。そう思うと、お姫様は嬉しいだとか楽しみだとかいう気分になることはできないのでした。
結婚のお相手はどなたにするのですか、と。なかなか決めることができない姫様に、大臣たちは毎日のように問いかけました。最初はゆっくり考えなさいと言っていた王様も、だんだん焦れてしまっています。どなたも素晴らしい殿方たちを、あんまり待たせるのも失礼ですから。
もう少し、もうじきに。そうくり返しながら、お姫様は、実は結婚の申し込みの手紙を一通たりとも読んではいませんでした。代わりに、物思いにふける振りで夜の窓辺に座りながら、待っているのは王子様の影の訪れです。王子様のもとに帰ることもできず、どんな美しいものを見て、どんな素晴らしい品を手に入れても満足できない、ひとりぼっちの影は、きっとそろそろやって来る頃合いでした。
そしてとうとう、王女様の寝室の窓をノックする音が聞こえました。
「ああ、待っていました!」
王子様の影は、今度はどこへ行っていたのでしょう。どんな品物を携えてきたのでしょう。いつものようにおしゃべりすることができたら、きっと楽しい夜になるのでしょう。お姫様と過ごすことで、もしかしたら影もひと夜だけは寂しさを忘れることができるのかもしれません。
それは良い考えなのかもしれませんでした。何も知らない振りで王子様の影のお話を聞いて、いつものように首を振るのです。いいえ、これも駄目でしょう。確かに素晴らしいものだけど、王子様の人魚姫への愛ほどではないでしょうから。
そして何食わぬ顔で影を追い返してしまうのです。次に王子様の影が来る時は、お姫様は旦那様と一緒に寝ていて、ノックの音を、鳥がぶつかったんでしょう、とか今夜は風が強いですね、とか言って知らない振りをするのです。意地悪な影のことなんて知らないわ、と。そう思っても良かったのかもしれません。
「聞いてください。私、結婚の申し込みをたくさん受けてしまっているの。どなたかを選んで結婚しなければいけないの」
でも、王子様の影が挨拶をする前に、お姫様は窓に駆け寄って叫ぶように高い声を上げていました。ここのところ胸を塞いでいた思いが溢れ出して、触れることができない影に向かって、それでも縋るように手を伸ばしていました。
「なんですって」
窓から見える星空を人の形に切り取る影の黒さが、揺らめきました。王子様の影の心の揺れを示すかのように。そして次の瞬間には、お姫様は影に包み込まれていました。
「きゃあ――」
お姫様の足が床から浮いて、お姫様の髪が宙に踊ります。頬を撫でるひんやりとした空気が、部屋の外に出てしまったのだと伝えていました。手を伸ばしても何にも触れることができず、足を動かしても寝間着の裾がまとわりつくだけ。王子様の影は、お姫様を抱えて夜の空へと飛び出しているのです。
「どうして、どうしてこんなことをするの?」
お城の灯りがみるみるうちに小さくなっていくのを見て、お姫様は今度こそ悲鳴を上げました。王様やお姫様が住まう一国のお城、頑丈な石の壁の大きなお城のはずなのに、もう掌に載りそうなくらいに小さくなってしまっているのです。少し目を遠くにやれば、黒々とした山並みが巨大な獣のようにわだかまって、お姫様を呑み込んでしまいそう。でも、震えるお姫様に答える王子様の影の声も、悲鳴のように甲高く上ずっていました。
「だって、あなたが結婚してしまったら、私は本当に、本当にひとりになってしまうではないですか! ただでさえ私はひとりぼっちなのに、あなたまで私を見捨てるのですか!?」
お姫様を取り囲む影がぎゅっと縮まったような感じがありました。お姫様の方からは決して触れることはできなかったのに、どうやってか影の方からはお姫様に触れることができるようでした。もしも影が普通の人の姿をしているとしたら、お姫様を抱きしめて泣いているのかもしれません。
「そんなことは、しないわ」
お姫様がそっと手を伸ばして宥めようとすると、影がぶるりと震えました。きっと激しく首を振ったのでしょう。
「いいえ、そういうことなのでしょう。迷惑だからもう来るなと言うところだったのでしょう。あなたは王子と人魚姫の味方だったから! 影なんかの相手にもきっと飽きられたのでしょう!」
「違うの、聞いて」
どうか伝わりますように、と願いながら、お姫様は王子様の影を腕に抱きしめようとしました。もちろんすり抜けてしまうだけなのですが、せめて言葉が届きますように、と。きっと届くわ、とお姫様は思っていました。偽りのない心からの言葉が、たとえ影であっても魂に響かないはずがありません。最初は意地悪だと思っていましたが、王子様の影は決して話ができない相手ではないのです。ただ、寂しくて悲しくて、愛とはどういうものなのかを知らなかっただけなのです。
今こそ、影も愛を知る時なのでしょう。巻貝の手紙で聞く王子様と人魚姫の愛ではなくて、王子様を想うお姫様の愛でもなくて、確かに影だけに向けられたお姫様の思いやりを。
「私は、結婚するならあなたと、とお父様にお願いしようと思っていたの。あなたが寂しい思いをすると私まで苦しくなってしまうし、あなたとお話するのはとても楽しいのですもの」
「え……?」
王子様の影が間の抜けたような声を上げると、お姫様をしっかりと包んでいた闇が少し薄れました。驚きのあまりに、影が腕から力を緩めてしまったということなのでしょう。
気がつけば、お姫様は王子様の影とふたりで星空のただ中に浮いていました。でも、怖いとは感じませんでした。いつも窓から見上げる星が手が届くように近くて、それはそれは美しい光景なのでした。