4. 愛の価値と影の孤独
季節が何度か巡るごとに、お姫様のもとには王子様と人魚姫の声を閉じ込めた巻貝の手紙が届きました。磨き上げた色とりどりの珊瑚や、淡い虹色に輝く真珠なんかの贈り物と一緒に、ふたりの幸せな暮らしを伝えてくれるのです。
最初は聞くのが辛いこともありましたが、お姫様はだんだん海の素敵な光景を思い描くのが楽しみになっていきました。だって、人間が海に潜ったところで人魚たちのように生き生きとした世界を覗き見ることはできませんし、ましてや海の底に辿り着くこともできませんから。王子様と人魚姫、ふたりの言葉で綴られる景色はまるで目に浮かぶようでした。ふたりがお互いの言葉を補って、笑い合いながらこと細かに波の煌きだとか魚の尾ひれが翻る様子だとかを説明してくれるからです。
ああ、王子様はとても楽しそう。人魚姫の声もきらきらと輝くよう。ふたりとも幸せになれて本当に良かったわ。巻貝の手紙が届く度に、王子様の影が何をしても無駄だわ、ふたりはこんなに幸せそうで、相手さえいれば足りないのもなんてないのですもの、としみじみ思うのでした。
王子様の影も、時々お姫様を訪ねてきていました。王子様と人魚姫の手紙が届くのと同じくらいの間隔で、真夜中にこっそりとお姫様の部屋の窓をノックするのです。その度に、彼方の国で見つけてきた珍しいものや高価なものを携えて。
『影は、影のあるところならどこにでも入り込めるのですよ』
そう自慢げに言いながら、王子様の影はお姫様にどうですか、と尋ねるのです。今度の品なら、きっと王子も気に入るでしょう。人魚姫より素敵だと思ってくれるでしょう。どうかそうだと言ってください、と。
影が持ってきた品々は、確かに目をみはるような素晴らしいものばかりでした。
親指くらいの大きさのお姫様が着ていた、小さな小さなドレス。人の手では縫うことができないくらい小さいのに、目を凝らさなければ見えないほど細やかな刺繍が施され、砂粒よりももっと小さい宝石が縫い付けられています。
妖精が名付け子に贈る、真珠のように煌く露。親たちが込めた幸福や富や健康といった願い事を、贈られた者に与える力を秘めています。
いつまでも踊り続けることのできるぴかぴかの靴や、永遠という言葉を表した儚い氷のパズル。点すと望んだものを炎の中に見ることができる不思議なマッチ。どれも、王子様の影が最初に持ってきた機械仕掛けの小夜啼鳥に見劣りしない品物ばかりです。
「さあ、今度こそ頷いてください。王子に手紙を書いて、陸の上まで見に来てくださいと伝えてください」
「まあ、でも、そんなことにはならないわ」
王子様の影は、お姫様にもいつも宝石や花、異国のお菓子なんかを贈ってくれます。だからお願いをきいてください、ということなのですね。今夜も王子様の影からもらった赤い薔薇――愛に燃える血潮で凍った蕾を溶かし、真冬に咲かせたという一輪――を胸に抱きながら、でも、お姫様はいつものように首を振ります。
「確かに素敵よ。でも、王子様はきっと人魚姫と一緒にご覧になりたいと仰るでしょう。人魚姫は海から出ることができないのだから、王子様もいらっしゃることはありません」
王子様の影は、今回は珍しい品物を持ってきたのではありませんでした。王子様にどうにか海から戻ってもらおうと、素晴らしい催しの報せをもたらしたのです。
それは、とある国の王女様の誕生日を祝う宴でした。着飾った王女様の美しさはもちろんのこと、様々な国の様々な衣装を纏った大使や大臣が集う様、その華やかさは二度とはないものでしょう。
庭園を彩る花々、打ち上げられる無数の花火。楽団はその日のために作られた曲を奏でて王女様の健やかなご成長を祝うそうです。主役のお姿を見ることができない客も、芸をする猛獣や陽気な侏儒の道化師の踊り、あちこちで催されるお芝居で決して退屈することなんてないでしょう。
王子様の影がそんなことをとても生き生きと語るものですから、お姫様もつい影が差し出した招待状に手を伸ばしそうになってしまったくらいでした。上品な香りがふわりと漂う、雪のひとひらのように軽く薄い紙に、細やかな金の箔押しの飾り。封蝋にしっかりと押された異国の王様の誉れある紋章。王子様の影が、しっかりとしまわれていたはずの暗いところから持ち出したその招待状を見るだけでも、その宴がどれほど素晴らしいものか分かるというものでした。
でも、やはり王子様と人魚姫の絆を裂くことができるほどのものではないのでしょう。王子様の影が持ってきた招待状は一枚だけ、王子様はそんな素晴らしい催しにおひとりで行こうなんて考えたりはなさらないでしょうから。これまでの品物と同じ、いくら珍しいとか美しいと言っても、愛ほどではないのです。
「そうですか……。たった一日でも良いのに。そうすれば、王子も地上には素晴らしいものが沢山あると思い出してくれるでしょうに……」
王子様の影が残念そうに首を振りました。目も口もない真っ黒な姿はずっと変わらないのですが、何度も会ううちに、お姫様には影の表情が目に見えるような気がしてくるのでした。でも、同時に分からないことも出てきます。
「あなたはひとりで世界のどこにでも行けるのでしょう? 王子様と一緒だったらそういう訳にはいかないのでしょう? それなら無理に戻らなくても良いではありませんか。ひとりで気ままに過ごせば良い――それで、たまに私にお話を聞かせてくだされば良いのですけど」
王子様の影がやって来るのは、お姫様にとっては最初は嫌なことでした。王子様と人魚姫、大切なふたりに対してひどいことを企んでいるのですから。それでも、おふたりに迷惑を掛けてはいけない、何かしようというなら止めなければ、と思って誰にも言わずにこっそりと会ってきたのです。
でも、いつしかお姫様は王子様の影が来るのを心待ちにしているのに気付いていました。お姫様がいけないわ、と言えば、影は無理に王子様や人魚姫に近づこうとはしませんでした。行ったことも、聞いたことさえない国の珍しい人やもののことを聞くのは楽しいものです。王子様の影は、王子様のところに戻りたくて必死だからかもしれませんが、いかにも楽しそうに、興味を惹くように語るのがとても上手なのでした。
「世界のどこに行っても、私ほどひとりぼっちの者はいないのですよ」
だから、元気を出して欲しくて言ってみたのですが――王子様の影は、少しも励まされたようではありませんでした。しょんぼりと肩を落として、ひと回り小さくなってしまったかのような姿は、目を離すとそのまま夜の闇に溶けて消えてしまうのではないかと思えるほどでした。
「恋人のいない若者でも、家族に捨てられた年寄りでも。家を持たない乞食だって。少なくとも影はずっと足元にいますからね。世界中どこに行っても、何を見ても、どんなに素晴らしいものでも美しいものでも、私は一緒に楽しめる相手がいないのです。あなたの仰ることは本当に正しい。海の底なんて退屈な世界なのに、人魚姫と一緒だというだけで私の元の主にとっては天国のように思えるのですね」
「ええ、そうね……」
影もやっと分かってくれたのね、と喜んで良いはずでした。でも、お姫様の相槌も沈んだ声になってしまいます。お姫様の胸の痛みはだんだん薄れてきて、もう感じることもめったにないくらいになりました。王子様と人魚姫の手紙を聞いても、微笑ましいと思うだけで。でも、王子様の影は違うのでしょう。このままではいつまでもひとりぼっちで、楽しいと思うことなんてないのでしょう。
「優しいお姫様、王子が好きになったのがあなたならば良かったのに」
王子様の影はそう呟くと、お姫様の胸の塞がりかけた傷を貫きました。そしてお姫様が何も言うことができないでいる間に、ではまた、と言って消えていきました。
影の持ってきた品物の元ネタは以下の通り。作中に登場させるにあたって、原典とは敢えて多少異なる描写にしている場合もあります。
アンデルセンの童話より
・小さなドレス→「親指姫」
・妖精の露→「最後の真珠」
・踊り続ける靴→「赤い靴」
・氷のパズル→「雪の女王」
・望みを点すマッチ→「マッチ売りの少女」
ワイルドの童話より
・血潮によって咲いた薔薇→「ナイチンゲールと薔薇の花」
・異国の王女の誕生祝いの宴、芸をする侏儒→「王女の誕生日」