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3. 小夜啼鳥

 王子様と人魚姫の結婚式の後、お姫様はご自分のお城に戻りました。あの夜、塔の上のお部屋にやって来た王子様の影は、あれからは現れていません。いずれまた、と言っていましたが、王子様の国を離れたお姫様の国まで、本当にやって来るのでしょうか。王子様から離れて、触れることもできない影がたったひとりで、いったいどこで何をしているのでしょうか。気になってはいましたが、お姫様にはどうすることもできなかったのでした。




 しばらくすると、お姫様のお城に人魚の国から手紙が届きました。手紙といっても人間のように紙にペンで書くものではなく、掌に収まるくらいの大きさの綺麗な巻貝です。それを持ってきた王子様の国の使者は、お耳にあててみてください、とお姫様を促します。

 巻貝を耳にあてると波の音がする、と。かつて王子様はお姫様に教えてくださいました。いずれ王子様と結婚すると信じて疑わなかった頃のことを懐かしく――それに、まだ少し悲しく思い出しながら、お姫様は言われた通りに巻貝を耳に運びます。すると、お姫様の口元はにっこりと綻びました。


「まあ、素敵」


 巻貝の奥からは、王子様と人魚姫の声が聞こえてくるのです。人魚の国では、貝に魔法をかけて遠くまで声を届けることができるということでした。


 王子様と人魚姫の声は、代わる代わる海での暮らしのことを教えてくれました。海の底でも季節の流れは感じられるということ。陸から流れ着く花びらや木の葉が水面に浮かぶのを見上げるのも美しいし、人魚の国を訪れる魚たちや海鳥たちも季節ごとに変わります。何百というくらげがふわふわと泳ぐ様は、雪が降り積もる光景にも似ているかもしれません。

 そんな海の素敵な景色の数々が語られる合間に、王子様と人魚姫が笑い合う声も聞こえてきました。こんなことがあったんだよ、と横から口を挟んだり、その時王子様がね、とちょっとした失敗を打ち明けてくれたり。ふたりの声の調子からも、とても仲良く幸せに暮らしているのが分かって、聞いているお姫様の目には涙が浮かびます。でもそれは本当にうっすらと、です。寂しい、悲しいという気持ちは消えなくても、大好きな人たちの楽しそうな声を微笑ましいと思う気持ちの方が、お姫様の心の中では大きかったのです。その証拠に、目を潤ませたお姫様の口元は確かにほころんでいました。


 それに、巻貝からは人魚姫の綺麗な歌も聞こえてきました。声を失くしていた頃は聞かせて差し上げることができなかったからと、人魚姫はお姫様に歌声を贈ってくれたのでした。

 時に嵐を起こし、時に嵐を鎮め、荒くれ者の海賊も恐ろしい鮫も宥めてしまう魔力を秘めた人魚の歌声です。とはいえ巻貝から響く歌声はあくまでも優しく、いつまでもうっとりと聞き入りたくなるような美しい調べでした。


「おふたりにはお礼を言わなくては。陸のものもお土産に差し上げなくてはね」


 使者が持ってきた巻貝はふたつありました。王子様と人魚姫の声が聞こえるものと、もうひとつはお返事のためのものです。使者に教えられた手順に従って、お姫様は喉が痛くなるまで最近の出来事を巻貝に語りかけました。




 夜のお部屋で、お姫様はまた巻貝を耳にあてていました。人魚姫の歌は何度でも、一晩中でも聞いていたいほど美しいのはもちろんのこと、王子様の声も懐かしくて愛しいものでしたから。ふたりが笑い合う声、その合間に聞こえる息遣いまでもすっかり覚えてしまいそうなほど、お姫様は海からの「手紙」に繰り返し繰り返し聞き入りました。


「王子様は本当に人魚姫がお好きなのね」


 夫婦になったふたりのやり取りを何度も聞くうちに、王子様の声を聞いてもお姫様は胸が苦しくなくなっていくのを感じました。だって、王子様のこんなに楽しそうな声を、お姫様は聞いたことがなかったのです。愛する人と一緒だからこそ王子様は幸せなのだし、やっぱり人魚姫と結婚したのは良いことだったのね、と。だから、悲しくても仕方のないことなのだと、すとんと納得することができそうだったのです。


 またひと通り手紙を聞き終えて軽く息を吐いた時でした。お姫様のお部屋の窓を叩く、こつこつという音が響きました。


「私です。お久しぶりです。入れていただけないでしょうか」


 王子様と同じ声、でも人魚姫と一緒の時のような朗らかさなんてない、どこか暗くていじけたような声――王子様の影が、言った通りにお姫様を訪ねてきたのでした。


「ええ、どうぞお入りくださいな」


 本物の王子様のお声を聞いていた時に、あの意地悪な影がやって来るなんて少し嫌なことではありました。でも、お姫様はちょうど良いわ、と思って窓を開けてあげました。王子様と人魚姫の幸せそうな様子を聞かせてあげたら、王子様の影だってもうふたりを引き裂こうなんて思わないかもしれません。


「以前、あなたを怒らせてしまったので、やり方を変えようと思ったのです」


 でも、お姫様が何か言ってやろうと口を開く前に、王子様の影は素早くお辞儀をすると何かを取り出しました。


「要は、王子が海より陸の上にいたいと思ってくれれば良いのですから。ねえ、これは素敵でしょう? あなたの意見を聞かせてください。こんなのは、海の中にはないのではないでしょうか?」


 王子様の影の、黒い掌の上に載っていたのは、ぜんまい仕掛けの小さな小夜啼鳥(ナイチンゲール)でした。ねじを巻くときりきりと歯車の音を微かに響かせながら翼を広げ、美しい歌を奏でるのです。目には黒い宝石がはめ込まれ、嘴は細かな彫刻のほどこされた金でできています。小首を傾げて歌う姿は本物の小鳥のようで、でも、決して疲れることなく何度でも同じ調べを正確に繰り返すことができるのです。


「まあ、こんなもの。人魚姫の歌に比べれば何でもないわ」


 王子様の影が得意げに見せびらかしたのも無理はない、それはそれは素晴らしい細工ものでした。海の中では歯車が錆びてしまうでしょうから確かに陸の上でしか聞くことができない歌でもありました。

 でも、だからといって王子様がこの機械仕掛けの小鳥のために海を捨てるなんてあり得ないでしょう。ねじと歯車でできた小夜啼鳥を抱きしめることなんてできませんし、機械の決まりきった調べでは王子様にあんな朗らかな笑い声を上げさせることはできないでしょう。


「ふたりのお喋りを聞いてごらんなさいな。王子様は人魚姫を片時も離したりはなさらないでしょう。ふたりは深く愛し合っているのよ」


 順番は変わってしまいましたが、お姫様は王子様の影に手紙の巻貝を突きつけました。お姫様がさっきしていたように、巻貝を耳にあてた――といっても、影は全身が真っ黒ですから、耳のあたりに、ということなのですが――王子様の影は、久しぶりに聞くご主人様の声を、しばらくはじっと聞き入っているようでした。


「……本当に、楽しそうですね。お姫様の仰る通り、こんなガラクタでは無理なようです」


 王子様の影が小夜啼鳥を投げ捨てると、可哀想な機械の小鳥は床にがしゃりと叩きつけられて動かなくなってしまいました。お姫様は慌てて小夜啼鳥に駆け寄って、そっと拾い上げました。生きた鳥ではないとはいえなんてひどいことを、と思うのですが、お姫様には王子様の影を叱ることはできませんでした。だって、王子様と人魚姫の声を聞いた後の、王子様の影の声はとても寂しそうでした。本物の王子様のように表情を見ることができたなら、今にも泣き出しそうな顔をしていたのではないでしょうか。


「もっと良いものを探さなくては。人魚の歌より、海の底の景色よりも美しく素晴らしいものを。――見つけ出せたら、また参りますね」


 何か優しい言葉をかけてあげたほうが良いかしら、とお姫様が迷ううちに。でも、王子様の影はぺこりとお辞儀をすると、窓の外へ消えてしまいました。壊れてしまった小夜啼鳥だけを残して。

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