2. 影の訪れ
夢を見ているのかしら、と思ってお姫様は頬をつねってみました。王子様が人魚姫と結婚してしまったのがあまりに悲しくて、王子様が来てくれた夢を見ているのではないかと思ったのです。
でも、つねったところはちゃんと痛くて、目を覚ますような気配はありません。寝具に包まれた足の温かさ、起き上がった上半身が感じる夜の空気の冷たさも本物のようです。何より、窓の外からはずっとこつこつとノックをするような音が聞こえているのです。
「入れてください。あなたの他に頼れる人がいないのです」
「そんな、そんなはずはありませんわ」
王子様の声は、こんな不思議な形で聞いてもうっとりしてしまいそうな甘く優しい響きをしていました。思わず寝台から抜け出して窓に駆け寄りそうになって、でも、お姫様は必死に首を振りました。
「王子様は人魚姫のところにいらっしゃるはずですもの。私しか頼れないだなんて、そんなことはありえません」
王子様の青い尾ひれと人魚姫の赤い尾ひれは、月と星の明かりのもとでさぞ美しく輝いているのでしょう。ふたりが寄り添って眠るところを思い浮かべると、お姫様の胸はまたずきずきと痛み始めます。初めて人間の足をもらって、一歩踏み出すごとにガラスの破片を踏むようだったという人魚姫の痛みよりも、もっとひどいのではないでしょうか。
とにかく、窓の外にいる王子様の声をした誰かは、お姫様の言葉を聞いて少し考えたようでした。
「……そう、確かに私は王子その人ではありません。でも、とても近いものです。きっとあなたの力にもなってあげられますから、部屋に入れてくれませんか」
「それではあなたは何者なの? 私にしか頼れないとおっしゃるのに、どうして私の力になってくださるというの?」
王子様の声がとても困ったような弱ったような調子になったので、お姫様も少しだけ心を動かされました。何といっても好きな方の声なのですから。
それでもやっぱり姿が見えないのでは恐ろしいものです。だから、お姫様は精いっぱい声を張り上げて窓の外に問いかけました。ちゃんと答えてくれなければ入れてあげることはできません、と。心に決めているのが伝わったのでしょう、諦めたような溜息が聞こえてきました。
「分かりました。ちゃんと全部お教えしますから。――私は、あの王子の影なのです」
お姫様が恐る恐るカーテンを引いて窓を開けてみると、王子様の声が言った通り、星空が人の形に黒く切り取られていました。王子様と同じ背丈、王子様と同じ髪の長さ、お姫様の姿を前にしてお辞儀をする角度まで、王子様とそっくりでした。
これなら王子様の影、というのは本当のようです。ほんの少しだけ安心して、でも、まだ何が何だか分からないまま、お姫様は王子様の影に椅子を勧めました。
「約束通り、どういうことか教えてくださいね」
「ええ、もちろん」
王子様と何度もしたお茶会の時のように、お姫様は寝台の傍のテーブルに、王子様の影と向かい合って座ります。顔のところを見ても真っ暗なのはやはりとても不思議なのですが、王子様の影は口を開いたようでした。頬や顎のあたりの線が動くのでそうと分かるのです。
「王子が人魚になったので、私は切り離されてしまったのです。人魚たちには影がないのですよ。海の底には太陽の光は届きませんからね。代わりに辺りを照らすのは、光る魚や貝、海藻の花。それに、月の光を閉じ込めた真珠とか。お日様のように眩しい陽射しが空から注ぐわけではないから、はっきりとした影はできないのです」
「人魚姫はどうだったかしら……」
お姫様は首を傾げました。二本足の時の人魚姫とは何度もお日様の下で会ったはずですが、影がないことにはぜんぜん気付いていませんでした。影がいない人がいるなんて想像もしないことですから、気にしていなかったとしてもおかしくはないのですが。
「人間の足があった間は、影もあったのかもしれませんね。人魚のような魔法の生き物は、存在自体があやふやなんです。影も持たないなんて、全く哀れな連中です」
王子様の影がどこかバカにしたように言うので、お姫様は少し嫌な気持ちになりました。人魚たちの輝く鱗もひらめく尾ひれも、とても綺麗で素敵なのに。何より、足をもらった人魚姫は、確かに影はあったかもしれないけれど、危うく泡になって消えてしまうところだったのです。人魚姫はお姫様にとってはお友達です。お友達が元気でいてくれるなら、影があるかどうかなんてとてもささいなことのように思うのですが。
でも、この人が影だというなら、影を立派なものだと思いたいのも仕方のないことなのかしら、とも思いました。王子様の声で王子様の姿をしている人――のような不思議なもの――ですから、お姫様にとっては好きな方とそっくりなのですから、悪く思うのはとても難しいことなのですね。それに、王子様の影は気になることを言っていました。
「切り離された、というのは……?」
「ええ、そこです。それであなたに助けて欲しくてやってきたのです」
王子様の影はお姫様の方へぐいと身を乗り出しました。黒い闇の塊がお姫様に迫ります。侍女たちに気付かれないように灯りをつけていない寝室が、一層暗くなったように思えました。
「あの王子は、人魚の娘のために生まれた時から一緒にいる私を捨てたのです。主のいない影なんて、影を持たない連中よりもずっと哀れなものでしょう。私は、もとのあり方に戻りたい。お日様の下で、王子について走り回りたいのです。どうか、助けてはもらえませんか」
「私は、どうすれば良いのでしょうか」
王子様の影の切なそうな声は、お姫様の胸を揺さぶりました。影がお姫様を頼ってきたのも分かる気がします。王子様がいなくなって悲しいのは、きっとお姫様も同じなのでしょうから。だから、手伝えることがあるなら、と思って尋ねたのですが――
「王子が人間に戻れば良いのです。そのための魔法はありますが、恋に盲目になった王子は、今は聞き入れてはくれないでしょう。だからお姫様、あなたには王子が人魚姫を嫌いになるように手伝ってほしいのです」
「まあ、ふたりは結婚式を挙げたばかりなのに!」
王子様の影があまりにひどいことを言いだしたので、お姫様は思わず大きな声を上げてしまいました。誰か目を覚ましてしまったのではないかと、慌てて口を抑える隙に、王子様の影はゆらりとうごめいてお姫様の前に跪きました。
「ええ、でも、人間と人魚の結婚なんておかしいでしょう。王子は気付いていないだけなんです。あなたも王子のことが好きだったのではないですか? 人魚なんかに取られて悔しくはないのですか?」
「人魚姫は泡になって消えてしまうところだったのですよ? やっと無事に結ばれたというのに、どうして別れなければいけないの?」
「でも、人魚姫はもう助かったのでしょう。王子がいなくなっても、お姉様たちや魚たちと楽しく暮らしていけるでしょう。そして王子は、陸の上で私やあなたと幸せに。それが一番良い形ではありませんか?」
「やめて! そんなひどいことを言うのはやめて!」
影には顔がありません。でも、お姫様には王子様の影がにやにやと笑っているのが見える気がしました。好きな方がそんな表情をしているなんて、ちらりと頭に思い浮かべるのでさえ耐えられないことです。
「あなたなんて王子様じゃありません! 出て行ってください!」
さっきまでは悲しくて泣いていたお姫様ですが、今は怒りで涙があふれていました。王子様と人魚姫の結婚式はとても美しくて素敵だったのに。悲しいけれどお祝いしたい気持ちも決して嘘ではなかったのに。
泣きながら手を振り回しても、王子様の影に触れることはできませんでした。お姫様の手は影をすり抜けてしまうのです。でも、お姫様のあまりの怒りように、聞いてはもらえないと分かったのでしょう。
「分かりました、今宵はこれで失礼します。でも、いずれまた参ります。よく考えておいてくださいね」
そう言い残すと、王子様の影はするりと窓へと逃れて、夜の闇に消えていったのでした。