光の方へ
1.その後
野木 尹夜
あっけなかった。
あっという間だった。
微かに燃えていたロウソクの炎は、誰かの吐息と共に消えてしまった。
手を握って一緒に歩いていたはずなのに、いつの間にか隣には誰もいなくて、そのほのかな手のぬくもりさえも、消えていた。
あたしの親友、古湖由乃の死は、そんなだった。
由乃は、昔から病弱で、他の人ならすぐに治るような風邪もいつもひどくなって、何回も入退院を繰り返していた。そのくせ、いつも明るくて優しくて、自分のことより他の人のことを優先していた。体力がなくて心臓が弱いのに、どうしてもみんなと遊びたいと言うから、親に内緒で走って、病院に運び込まれたときも、「尹夜は悪くない。うちのわがまま聞いてくれて、ありがとう」と、あたしのことを責めることはなかった。
ずっと親友でいたいと思ってた。
けれど、だめだった。
既に毎月恒例となっていた由乃の入院は、今回も風邪によるものだった。
蝉の声も消え始め、静かな秋が近づいてきていた頃だった。
つい一週間前にも風邪で入院していた由乃は、あたしがお見舞いに行くと、少し疲れているようだった。「また風邪引いちゃった」と笑う彼女は、心配をかけないように、わざと明るく言っているようにも聞こえる。
「元気出しなって。ほら、これ今日の分のノート」
月に最低一回は入院をする由乃は、もちろんのこと、学校の授業があまり受けられていない。体育にだって出られないし、友だちとはしゃぎすぎてしまってもアウトだ。でも、クラスの人もそのことに慣れてきたのか、特別遠慮するということも減ってきて、普通の友だちとして接せられている。遠慮されることを嫌う由乃は、みんなのそんな対応が嬉しいようだった。
「いつもありがとー!本当に助かる。持つべきものは親友だね」
そんなことを言いながら、二人で笑い合う。一番幸せな時間だ。いつまでもこの時間が続いて欲しいと、思った。なのに……。
「非常に、残念です」
この台詞をいうのに、もう慣れてしまったかのような無機質な医師の声が、頭の中で木霊した。
あたしに、由乃の両親から、『由乃が危篤状態にある』と連絡が来て、急いで病院に行ったときには、既にこうなっていた。
間に合わなかった。
親友が、息を引き取ったという時に。
「ヘルパンギーナという病気を知っていますか。夏に流行るウイルス性の感染病で、突然高熱を出し、喉などに炎症が起こる病気です。今回、古湖由乃さんは体力が元から多くないのに加え、突然の高熱に身体が驚き、本来なら六才未満の子どもがなる熱性痙攣を起こしました。また、立て続けに心筋炎になり、ここで由乃さんの身体が耐えきれなくなりました。私たちも最善を尽くしましたが、今日17時38分、心不全に陥り劇症急性心筋炎でお亡くなりになりました」
医師が、淡々と死因を伝える。分からない言葉が多かった。でも、例え今、医師が言っていることが分かっても、由乃が生き返るわけではない。分かっても、意味がない。
あたしの横で、由乃の母親が泣き崩れるのが見えた。嗚咽混じりの泣き声も聞こえてきた。でも、その声を出しているのは横にいる由乃の両親ではなく自分だということに気づくのに、少し時間がかかった。そう、あたしは病院中に響き渡るような声で、泣いていた。
今自分の前で寝ている由乃は、今すぐにでも起きて、「なに泣いてるの?ほら、遊ぼう」と言いだしそうだった。
「起きてよ。起きてよ、由乃!」
あたしは、由乃の亡骸を激しく揺さぶった。医師が隣で何か言っていたが、そんなもの、聞こえなかった。
「起きて、起きて……」
あたしが何回呼んでも、由乃はもう目を覚まさなかった。
暗闇の中に放り込まれたような感覚になった。
絶望と、悲哀とがおり混ざり、心の中にぽっかりと穴が空いたようだった。
あたしは、由乃の笑った顔が好きだった。ヒマワリのようにひたむきで、周りを照らしてくれるような由乃の笑った顔が、大好きだった。
「尹夜、うちね、尹夜がいたら、毎日笑うよ。尹夜がいるだけで、楽しいから。だから、ずっと親友でいようね」
いつだったか、あたしが、由乃にずっと二人で笑っていようね、と言ったとき、由乃がいった言葉だった。そのときは、くすぐったくて、答えることができなかった。でも、言いたかった。
「当たり前じゃん!あたしだって、由乃がいたらずっと笑っていられるよ。ずっと、一緒なんだから」
そう言いたかった。
お通夜の日。棺の中で寝ている由乃の顔は、穏やかだった。参列者たちは、口々に「幸せだったから、死に顔が穏やかなのよ」「きっと、苦しくなかったのね」と言った。
違う。
苦しくなかった訳ない。
それに、穏やかな顔じゃなくて、あたしは、あたしは……。
笑った顔を、見たかった。
最後に、もう一度だけ由乃の笑った顔を見たかった。
―――ねえ由乃、もう一度だけ、笑ってよ。
そんな願いが叶わないことなんて、分かっていた。
分かっていたけど、願わずにはいられなかった。
あたしは、それから一週間学校を休んだ。周りの人は、理由を聞かなかった。分かりきっているからだ。その通り、あたしは親友の死を整理しきれず、自分の部屋に閉じこもっていた。
ようやく学校に行く気力が出て、学校に行っても、クラスの人はまるで腫れ物に触るように、あたしに接した。先生は、「あなたが、古湖さんととても仲が良かったのは知っています。でも、古湖さんのことは少しずつ忘れましょう。そして、新しい友だちを作りましょう」と言った。
――分かってない。誰も、分かってくれない。
どうしようもない居心地の悪さと、倦怠感があたしに付き纏うようになり、人と話すことが面倒だと感じるようになった。そして、次第に私は笑わなくなった。また、それを見計らったように、クラスの人も離れていった。
“当たり前じゃん!私だって、由乃がいたらずっと笑っていられるよ。ずっと、一緒なんだから”
毎晩、寝ようとすると、昔の自分の言葉が聞こえくる。もう、この言葉を言う相手はいないのに。
――由乃、由乃がいないから、あたし、笑えない。由乃、ずっと一緒じゃなかったの?
目をつぶった。現実に起こっている全てのことを、見なかったことにしたかった。深い闇の中に、意識が落ちていく――。
「尹ー夜!まだ寝てるの?病院しまっちゃうよ」
その声に驚いて起き上がると、目の前に満面の笑みを湛えた由乃がいた。
慌てて周りを見渡して、自分が由乃の病室の中にいることが分かる。さっきまで自分の部屋にいた気がするが、たぶん、気のせいだろう。
――やっぱり、夢だったんだ。由乃が死ぬなんて、ありえない。
「大丈夫?起きてますかー」
考え込むようにしているあたしを見て、由乃が、不思議そうに首を傾げる。それが何だかおかしくて、笑った。
「大丈夫。なんか、変な夢見ちゃって」
どんな夢なの?と聞かれたが、由乃が死んだ夢を見た、なんていう縁起の悪いことは、口が滑っても言えない。適当に誤魔化して、話を終わらせる。
妙にリアルな夢だったな、と思った。それに、こんなに記憶が残る夢も珍しい。
ふと、本当にこれは夢なのか、と思った。
不安になる。
今、由乃に触れたら、幻想のようにすり抜けてしまうのではないか。こっちが夢で、夢が現実なんじゃないか。そんなことを考えてしまった。
布団の上にのっている、由乃の手にそっと触れた。少し冷えた手だった。でも、すり抜けるようなことはなかった。
――良かった。幻想じゃない。
「急にどうしたの、手なんか触って」
探るような目つきで、由乃が尋ねてくる。
「いや、なんでも……」
どう言えばいいのか分からず、言葉を濁すあたしを見て、由乃が、優しく笑う。
「なに考えてるのか分かんないけど、ほら、うちはここにいるよ」
そう言って、由乃は優しくあたしの手を包む。
――なんでもお見通しだな。
あたしの手を包むその手は、やっぱり冷えていたけど、あたしの心は温まった。
「そうだよね、由乃。由乃は、ここにいるよね」
目が覚める。窓から、刺すような眩しい陽射しが入り込んでいる。
確認しなくても分かっている。ここは自分の部屋で、由乃はいない。いくら幻想に触れることができても、それが現実になることはない。
あたしは、布団を自分の方に引き寄せ、丸くなった。
目をつぶれば、由乃がいる。いつでも笑って、そこにいてくれる。
――目を開けたときには?
涙が、こぼれた。
そんなある日。
由乃の母親から、渡す物があると言われ、あたしは由乃の家へ足を運んだ。由乃が死んでから、一ヶ月経っていた。未だに、私は由乃との記憶に足を奪われ、前に進めていないでいる。
由乃の家に行くと、由乃の母が扉を開けた。その顔はくたびれていて、髪はまとめてこそいたものの、ぼさぼさだった。愛娘が死んだのだ、当たり前のことなのだろう。
「さ、どうぞ入って」
「…お邪魔します」
あたしは少し緊張しながら、由乃の家へ足を踏み入れた。家の中は、由乃の香りがした。
由乃の母に案内されながら、あたしたちは由乃の部屋に辿り着いた。
そこは……。
片付けが、全く、と言っていいほどされていなかった。床に散らばっている洋服。机の上にある、ペンと消しゴム。人がいた形跡があるベッド。
その全てから、由乃の気配を感じた。
「まだ、全部片付けてないのよ。由乃が、ここにいるような気がして……」
そう言いながら、由乃の母は、愛おしそうに部屋を見渡した。
止まってる。
そう、思った。
あたしの中にいる由乃は、哀しいけれどもう現実にいなくて、想像にいた。でも、今目の前にいる由乃の母にとっては、由乃は生きていた。この家からは、至る所から由乃の気配を感じた。もちろん、由乃の家なのだから当たり前だ。が、しかし。その気配は、今でも生きているのかのように強く感じた。ここにいると、あたしまで由乃が生きていると思ってしまいそうだった。それぐらい痛いほど切実に、由乃の母は由乃が死んでいるということを、認めたくないのだ。
「あの、それで……。今日は、なぜあたしを呼んだのですか?」
まさか、この部屋を見せるためにわざわざ呼んだわけではないだろう。
「ああ、そうだったわね」
慌てたように由乃の母は部屋の中に入ると、由乃の机の引き出しを開け、中から紙を取り出した。
「昨日から、少しずつ由乃の部屋を整理しているのだけど……。引き出しの奥に、このカギと紙が置いてあったの」
銀色に光る小さなカギと、恐らく手で破ったのであろうと思われる紙をあたしに見せながら、由乃の母は言った。
「なにか、書いてあったんですか」
「ええ。読んでみて」
あたしは紙を渡され、そこに書いてあることを読んだ。
【これを読んでいるのは、お母さんでしょうか。それとも、違う誰かでしょうか。とにかく、これを誰かが読んでいるということは、一つの事実を指しているのでしょう。
私がそちらにいるのなら、これ以上なにもしないで下さい。しかし、私がそちらにいないなら、一緒に置いてあるカギを使って、引き出しを開けて下さい。そこには、私の最後のお願いがあります。】
暗号文めいた文章に、困惑した。そう言えば、由乃は推理小説が好きだったことを私は思い出す。“私がそちらにいない”ということは、今の状況から考えると死んだことを意味するのだろう。
――由乃は、自分が死ぬことを知っていた?
そう考えて、心の中で首を振る。由乃が死んだのは、突然だったのだ。あたしたちにとっても、たぶん、由乃にとっても。
由乃の笑顔が、頭をよぎった。
「読みました?」
由乃の母に声をかけられ、あたしの意識は現実に引き戻された。
「ここに書いてある、由乃の“最後のお願い”って、なにか分かりますか?」
文の中で気になったところを聞いてみると、少し考えるように由乃の母は俯いたが、やがて顔を上げ、ゆっくりと首を振った。
「分からないわ。あなたは、分かる?」
「……いえ、分かりません」
「そう……」
「引き出しは、もう開けましたか?」
「開けてないの。なんだか、少し怖くて」
「どうして、私を呼んだんですか?」
さっきも同じ質問をしたが、意味は変わってくる。
「由乃の親友だから、なにか知らないかと思ったのよ。でも、由乃は誰にも言ってないのね」
あたしは、その言葉に、落胆があるような気がしてならなかった。
唇を噛みしめる。――親友なのに、知らないの?そう、聞こえた。
「開けましょう」
気づいたら、そう言っていた。
「由乃の最後のお願いを、叶えましょう」
少し戸惑っていた由乃の母だが、意を決したようにカギをカギ穴に差し込んだ。
ガチャリ、という重たい音がして、その引き出しは開いた。
中からは、先ほどと同じような紙と、三通の手紙が入っていた。
まず、あたしたちは紙から読んだ。そこには、こう書かれていた。
【この手紙を読んでいる、ということは、ふざけている以外なら私が死んでいる、と言うことでしょう。私の死後の世界が、どうなっているのか知りたいですが、残念ながら知る方法はないのでしょう。お母さんは、悲しんでないでしょうか。尹夜は、泣いてないでしょうか。そして、あの人は、どう思っているのでしょうか。みんな、私がいなくても、前に進んでいるでしょうか。
三人に、手紙を残しました。生きている間に伝えきれなかったことを書きました。なぜ、こんなことをしているのかと思ったでしょう。私は、御存じの通り、病弱です。ある日突然、死ぬかもしれません。この手紙は、一年ほど前から書いています。そして、少しずつ手紙の内容を変えて書いています。私が伝えたいことを伝えられたら、それは手紙の中から消えます。だから、手紙に書いてあることは、私が心から伝えたかったことです。どうか、手紙に書かれていることと、心から向き合って下さい。それが、私の最後のお願いです。】
やはり、由乃は自分がいつ死んでもおかしくないと思っていたのだ。由乃は話し上手ではなかったから、手紙という形で残した。
そして、あたしたちが気になったのが“あの人”という人物だ。三通ある手紙の宛先の一人だろうということは見当が付くが、それ以外、性別も歳も分からない。が、それは案外簡単に解決された。手紙の宛先を見てみると、一通目は由乃の母、二通目はあたし、そして三通目は河森葉弥という、あたしと同じクラスの男子の名前が書かれていた。
あたしは、この人物を知っている。同じクラスだから、というのもあるが、一番の理由は由乃がずっと想いを寄せていた人物だからだ。相談も受けたし、アドバイスももちろんした。しかし、あたしに言わせてみれば、どこが良いのか分からない人物だ。個人的な面識は、ほぼないに等しい。教室で時々見かけるのと、由乃からの情報以外、知らない。強いて言うのなら、よくいじられているのを見るから、弱そうな奴だな、と思っているぐらいだ。
そういえば、由乃は前に『葉弥ってよく分からない』と言っていた。じゃあ、なんで好きになったの、あたしが聞いたら、少し眉をひそめて『何でだろうね。楽しいからかな、隣にいると』と恥ずかしそうに困った顔で言った。それにしても、河森と言う奴は由乃を哀しませたり困らせたりたくさんした。よく性格が分からないのに加え、親友を傷つけたので、河森は、はっきり言って嫌いだ。あんな奴に良いところなんてないのではと思う。
そう考えると、『好き』という感情は不思議だ、と思う。どれだけ傷つけられても、どうしてその人のことを好きでいられるのだろう。あたしは誰かを恋愛として好きになったことがないので、それがどういうものなのか分からない。でも、親友の恋が上手くいってほしいと思っていた。例えそれが、あたしの嫌いな奴でも、親友が好きというのなら仕方ない。あたしの中で由乃は、選択肢があるときの決定権を持つ人物で、絶対的な存在だから。あたしは、河森葉弥宛の手紙を手に取る。これを、河森に渡さなくては。
由乃の最後のお願いを叶えるために。
次の日、学校で河森に手紙を渡した。戸惑ったような顔をしていたが、きっと読むだろうと思った。根拠はないけど、なんとなく、そう思った。
どちらにしろ、読んでもらわないと困る。
その日、家に帰ってから自分のベットの上で、手紙を開けてみようと決心した。
今まで、これを読んだら、自分の中にいる由乃まで消えてしまうのではないかと、怖かった。いなくなってほしくなかった。
また、泣きそうになる。
“尹夜、泣かないで”
耳元で、由乃の声が聞こえたような気がした。
机の上に置いてある、手紙に手を伸ばす。深く息を吸って、吐く。そして、ゆっくりと手紙を開けた。
河森 葉弥
古湖由乃の死がクラスに知らされたのは、夏休みが終わり、だるい学校が始まって一ヶ月ぐらい経った時だった。その知らせにはクラス中が衝撃し、一部の女子が泣き始めたぐらいだ。
古湖由乃は、学校より病院にいる方が多いんじゃないのか、と思うくらい欠席と入院ばかりしていた。
初めはクラスの奴らもなんとなく遠慮をしていたが、学校に来るあいつは入院をしていたことなど1ミリも感じさせないほど、明るかった。
その明るさのおかげで今やクラスの誰一人遠慮していない。
そして、その明るさ故、友だちも多かった。
しかし、その中で一番強固な絆があるのは野木尹夜だろう。二人は親友で、一緒にいると他の誰とも違う雰囲気を感じさせる。
野木は親友が死んだショックで、一週間ぐらい学校を休んだ。その後、野木は学校に来たが励ます声にも耳を貸さず、一人自分の机で黙り込んでいた。そんな野木を、女子はだんだん遠のけ始め、少し経ってから男子も野木のことを気にかけなくなった。
イジメ、ではない。
今、野木は他人との関わりを絶ちたがっている。そして、クラス全体も野木に呆れ、どうでもいいと思っている。その結果が、これだ。ただ、それだけだ。
俺は、あいつとの接点が全くなかったわけではない。どちらかというと、普通よりはあったほうだ。
俺とあいつは、同じ図書委員だった。いや、それより少し前に隣の席になったことで知り合うことになった。
俺にとってあいつの第一印象は、『めんどそうな奴』だった。
そう思うことになるきっかけは、英語の授業で、プリントを隣同士で交換して丸ツケをした時。
俺に戻ってきたプリントは凡ミスがとても多かった。点数もそれなりだったのだが、その点数の近くに、見れば分かるぐらいのサイズで「ダサい!」と、書いてあった。反射的に隣の席を睨むと、あいつはいたずらっ子のような目で、俺の反応を楽しむように笑っていた。
それからは、英語でプリントなどを交換する時は、俺もあいつも何かしら書いて渡していた。時には、もう一度プリントを奪い、書かれたことに対して言い返したりもした。
「こんなの間違えるの?」「馬鹿 阿呆」「お前の方がバカだ」
最初こそ、ムキになって書いていた。でも、だんだん楽しくなっていることに気づいた。こういうことを言うのはあまり気乗りしないが、俺が書いたことに対して、敵対感を剥き出しにして言い返してくるあいつを見ていると、楽しくなった。
でも、やっぱり学校はよく休んだ。あいつが学校を休んでいるときに英語があると、なんとなくつまらなかった。隣から面白い奴がいなくなると、全然楽しくない。だから、あいつがいるときに英語があると、本当に楽しかった。
でも、そんな時間も終わる。
席替えで、俺はあいつと離れた。
でも、近くにまあまあ仲が良い男子がいたから良かった。後ろの席は、空花深津という同じ部活の奴で、とにかく恐ろしい。しかし、普通に話すにはあいつより深津の方が良い。あいつは話すのが下手で、見当違いなことや、説明されても分からないことが多々あった。
それに比べて深津は、はっきり物事を言うし、空気を読むのが上手い。だから、話している分には深津と話している方が良い。
でも、反応という点で比べるとあいつの方が上だ。天然が入っているあいつは、話が通じないこともあるが、その分反応が面白かった。突っかかればのってくれるし、怒りっぽいけど思いっきり叩かれたり蹴られたりされたことはなかった。少しぐれていたけど、性根は優しかったのだ。
本当に、とても。
そこが、深津と決定的に違う。深津は、優しいのかもしれない。でも、そうだとしたら分かりにくすぎる。俺が何かしら失敗したら嘲笑ってくるし、逆に深津が何かして、俺が嘲笑うと叩いたり蹴ったりしてくる。しかも、思いっきり。それがとても痛い。男子と女子だからって、加減をしないのはどうかと本当に思う。
俺は、人によって態度がかなり変わる。あいつには強気で、深津には弱気。そういう風に、変えている。
深津には強気になってもどうにもならないし、更に大変になるだけだ。正直に言ってしまえば、深津には強気になろうがならまいが、絶対に勝てない。
俺は男子の奴らとふざけたりするとき、やられ役を大体しているのだが、前に俺がやられてるのをあいつが見ていた時、嫌悪感丸だしの冷たい視線を感じたから、あいつの前で弱気になるのは止めた方が良いと悟った。ていうか、あいつといるといじわるしたくなる。なんかそんな感じだ。
こう言っていると、深津がまるで悪い奴のように聞こえるかもしれないが、それもまた違う。深津は善人、というわけでもなければ、悪人というわけでもない。でも、正義感がとても強い。俺を叩いたり蹴ったりしているのは、所詮おふざけで、悪意があるわけではない。しかし、誰かが誰かに悪意をもって何かしたり、先生とかが大切な話をしているときに騒いでいたりすると、本気で怒った。その恐ろしさは今じゃクラス中が知っていて、女子にとっては正義の味方、男子にとってはアブナイ奴だ。
話が色々とずれてしまったが、とにかくあいつと俺は席が離れたことで、接点は委員会だけとなった。そして徐々に、関係が変わっていった。
それを、今から話していこうと思う。
あいつは、口が達者だった。悪くいえば、屁理屈ばかり言った。よく頭が回るな、と思う。本好きだったからだろうか。
「図書委員の仕事ちゃんとやれよ」
「葉弥の方がやってないじゃん」
「は?いつも注意してんのはどっちだよ」
「同じぐらいだと思いますけど。でも、葉弥は重要な仕事をしないから。うちは、重要じゃない仕事をしないから」
「重要じゃなくても仕事は仕事だろ。ちゃんとやれ」
「そう言うんだったら、委員会の報告書、自分の番の時うちにやらせないでもらえるかな」
そんなやりとりを、よく交わした。あの時までは。
あいつが、急に恋愛の話をするようになった。「好きな人いないの?」「気になる人は?」。全部、「いない」と答えた。それでもめげずに、あいつはこんなことまで聞いてきた。「深津ちゃんのこと好きでしょ?」。
全然違う。よりによって、なんで深津なんだ。そんなことを言ったら、全く納得していない様子で、ふーんと言った。
ある日には、
「葉弥ってさ、うちのこと嫌ってるよね」
と言われた。突然、そんなことを聞かれたから驚いた。またふざけてるのかと思ったが、あいつの顔は真剣だった。
「べつに、嫌ってない」
俺がそう言うと、少し安心したように、なんかありがとう、と言った。しかし、その答えに、特に重要な意味はなかった。
そして、その時がきた。
少し前から、「うち、好きな人いるんだー。当ててみてよ」と言われていた。そんなの分かるわけないし、ヒントも「同じクラス」とか「席は半分から前」とかしか教えてもらえなかった。それに、興味もそれほどなかった。「終業式の日、教えるから考えてよね」とも言われたものの、頭の片隅にはあったがあんまり考えていなかった。
終業式が終わってから、帰りの会の前の時に深津からの暴力からなんとか回避して、あいつから答えを教えてもらった。
結果から言ってしまうと、あいつは答えを言わなかった。最大ヒントのようなことを言っただけだ。
「うちの好きな人のイニシャルは、H.Kだよ」
そう、あいつは言った。これを言う前、あいつはすごく狼狽えていた。本当のことを言うかどうか、迷っているかのように。でも、きっと言いたいことを言えなかったのだろう、あいつは今自分が口に出したことを後悔するかのように顔を歪め、「じゃ、そーゆーことだから!」と言い残して兎のように跳びながら教室から出ていってしまった。
残された俺は、H.Kって誰だろう、と思いながら席に戻った。ふと寒気がして振り返ると、後ろの席の深津が目を細めて睨むように俺を見ていた。
「なんだよ」と俺が聞くと、「べつに」と一発俺をグーパンチしてから言った。本当に、なんだったんだ。
そして、冬休みが始まった。
H.Kが誰なのか気にしていたが、徐々に気にしなくなっていった。
ちなみに、深津は相変わらず俺を暴力の対象にしていた。しかも、前にも増してやたらと話しかけてきたり、叩いてくるようになった。でも、おかげさまで深津とは少し仲が良くなったような気がする。初めにも言ったが、話すのなら深津の方が良いのだ。
新学期が始まって、あいつは俺を避けているのかのように、話しかけなくなった。
俺は、自分から話しかけることがほぼないに等しい。本当に仲の良い奴にしか、自分から話しかけない。あいつとは、本当に仲が良いという関係ではない。たまたま隣の席になって、たまたま同じ委員会になっただけだ。
しかし、俺がいつもと変わらない対応をしているからか、あいつはまた俺に話しかけるようになった。
話しかけられるのなら、普通に応える。
そんな感じだったからだろうか、ある日、終業式のイニシャルを覚えているか、と尋ねてきた。俺は、なんとなくその話をしたくなくて黙っていたのだが、あいつが返事を待っている気配がしたので「そこまで記憶力がないわけじゃない」と答えた。すると、やはり「じゃあ、それが誰なのか分かった?」と言った。俺は自分でもよく分からないけど、その質問を無視し、近くの男子の方に行った。あいつが後ろで待ってよ、と言ったのが聞こえたが、それも無視した。
それから何週間かの間、俺はあいつを避け続けた。俺に話しかけようとこっちへ来るのから、なるべく離れたくて遠くに行った。
今あいつと話したら、聞きたくないことを聞いてしまうような気がした。
それでもあいつは俺に話しかけに来る。避けても、追いかけてくる。
――なんで、ここまでするんだ。
苛立ちのようなものを感じていた。諦めろよ。そう思った。
でも、最終的に折れたのは俺だった。
避けるのが馬鹿馬鹿しくなったのだ。
もう、なんでも言えばいいだろ、と思い始めていた。何を言われるのか想像もつかなかったけど、なんでもかかってこい、と意気込んでさえいた。
なのに。
まるで、そんな話を始めからしていなかったかのように、あいつは、その話を出さなかった。
はっきり言って、拍子抜けした。せっかく、聞こうと思ったのに。でも、いつも通りのあいつの様子を見て、安心した。きっと、気にしていないのだろう。そう考えることにした。
でも、心のどこかで分かっていたのだ。傷ついていないわけがないと。そして、あいつがその話をしなくなったのは、間違いなく俺のせいだということを。
それから、色々あった。俺と深津が付き合っているというおかしな噂が流れ、あいつは見事にそれを信じ、俺と対立した。どうやら俺は信頼されていないらしいということが分かって、悔しくなったりした。
また、あいつが俺のシャーペンを盗って、翌日、床に落ちていたと深津に渡された。それを問い詰めると、本当に知らない、机に置き書きして返したと困惑気味に言われたが、信頼されていなかったことが仇となって俺も俺で信じることができず、何日かあいつに対して怒っていた。
今思えば、くだらないことばかりだ。
いつだったか、あいつに「葉弥が何考えてるのか、うち、分かんない」と言われた。
確かに、あいつは不機嫌じゃないのに「不機嫌でしょ?」と言ってきたり、楽しんでいないのに「楽しそうだね」と言ってきたりすることが多かった。
しかし、それは俺に限ったことではないらしく、自分で「人が何をどう思っているのか、うち、あんま分かんないの。表情でなんとなく分かるけどさ、誰もがみんな、感情を表に出すことなんてないでしょ。悟られたくないこととか、本心を出せないことって結構あるし。でも、相手がどう思ってるのか、うちは知りたい。知った先で、うちや相手が傷ついても、本心を知る必要はあると思う。でも、うちは人の感情を読むのが下手だから。人の本心が分からない」と言っていた。
要するに、観察力や洞察力が著しく低いのだろう。口下手の上に相手の気持ちが読めないってどうなのかと思ったが、薄笑いだけにしておいた。
でも、こいつが人の気持ちを知ろうとしていることは分かっていた。
俺の気持ちは思い込みと勘違いで決められているような気がするが、10個中10個全ての予想が外れているわけでもない。
でも、本当に機嫌が悪いときに「不機嫌でしょ?」と言われると、更にむかつくもので、「不機嫌じゃない」と答えたり、楽しいと思っている時に「楽しそうだね」と言われると、素直に頷くと負けたような気がして「べつに」と答えたりした。
あいつに限って、だけど。
まあ、なんやかんやあったが、俺とあいつの関係が180度変わったのは、毎月ある委員会の定例会議の時だ。
あいつにとって、最後の委員会になってしまった。
会議が終わってから、学級文庫を各クラスごとに選び教室に持っていくのだが、既に恒例行事のように俺が真面目に本を選ばなかったので、俺とあいつが図書室を出るのがいつものように一番遅かった。唯一いつもと違ったのが、本を置きに教室に入ったとき、深津がいたことだ。
深津は学年委員をやっている。確か、学年委員はこの教室、1年3組の隣にある学年室でいつもやっているはずだ。たぶん、鞄を教室に置いていて取りに戻ってきたのだろう。
三人で雑談をしていると、深津が忘れ物を取りに学年室に行った。その時、不意にあいつが言った。
声が震えていたのが印象的に残っている。
「葉弥、うちの好きな人の話、覚えてる?」
なぜ、いきなりこの話を言いだしたのかは分からなかった。いや、本当は少し分かっていた、のかもしれない。
軽く、頷く。
それを見て少しホッとしたのか、先ほどよりあまり緊張していない口調で、あいつは言った。
「終業式の時に言った、あのイニシャルの人物はね」
聞いちゃいけないような気がした。でも、いつの間にか今隣にいるあいつの声を、待っている自分がいた。
「―――葉弥なんだよ」
固まった。それは、つまり俺のことが――?
「嘘だろ」
言葉を発しているのが自分だということが信じられなかった。あまりにも無機質で、冷たく突き放すような言葉だった。
「嘘なわけない」
お願いだから、信じてよ。そんな声が聞こえてきそうだった。
あいつは、どんな顔をしていたのだろうか。見なくてはいけないと思っているのに、横を向くことができなかった。
きっと、哀しい顔をしているから。
深津が教室に戻ってきたとき、俺は安心した。もう少しで教室から出ていっていたかもしれない。
この雰囲気が耐えられなかった。
「そろそろ帰ろ。締め出されちゃう」
あいつがそう言ったとき、よく感情を隠せるな、と素直に感心した。俺は早く帰りたかったので、女子二人を教室に置いて先に出た。後ろから、「由乃ちゃん、聞きたいことがあるんだけど」という深津の声が聞こえた。
後日、あいつが「委員会の時の話の続きだけど、ふるんだったら、ふってよね」と言われた。それに俺は「は?知らねーし」と答えた。
冷たいということは十分承知だ。でも、あの後からずっとあいつのこばかり考えてしまって、もやもやしていた。冷たい返事をしても、気持ちは全然すっきりしない。
その代わり、というわけじゃあないけど、俺は公にされていない極秘情報を教えた。
なぜだか、こいつには言って大丈夫だと思ったから。
告白をされても、関係が変わらない方が良いに決まっている。でも、ダメだった。変わってしまった。良い方に、ではなく悪い方に。
あ いつはよくいたずらをした。でも、勝手にシャーペンを取っても一日以内には返ってくるし、三本ぐらいペンを壊されたが本当に申し訳なさそうに謝ってきた。
言い争ってどっちも機嫌が悪くなった次の日には、俺の机に「ごめん」と置き書きしてあったときもあった。
しかし、告白されてから、俺の中で何かが変わった。あいつのしてくるいたずらが面倒くさくなったのだ。
あいつはあいつで、俺への対応の仕方に困っているようだった。
俺とあいつはふたりとも、告白前どうしていたのかが分からなくなっていた。
距離感が掴めない。接し方が分からない。
だから、こうなるのは必然だったのかもしれない。
俺とあいつは話さなくなった。
前とは違う。どちらとも、話そうとしないのだから。
そして、あいつとは二度と、永遠に話せなくなってしまった。
あいつが死んでから、初めはみんな喪に服すように静かだった。だけど、二、三週間経つと、だんだん前のような賑やかさが戻ってくる。
野木以外は。
野木は、みんなの分の悲しみを一人で抱えているかのように静かだった。元気な奴のはずなのに。人の死は、こんなにも誰かの性格や、これからの人生を変えてしまうものなのだろうか。
あいつが死んで、俺も変わったのかもしれない。というのも、深津に言われたのだ。 「強くなったよね」と。
どういうことなのかあまり分からないが、考えてみると確かにこの頃男子とふざけているとき、やられ役をすることがなくなった。深津の方は、暴力ではなく言葉の破壊力の方が強いので、相変わらず暴力の対象にされているが。だがそれも、前のようにたたいたり蹴ったりではなく、言葉の暴力になっていた。
――あいつの死で、俺はどうなったんだろう。
――なんで、告白されたとき、あんなにも冷たいことを言ったのだろう。
そんなことを、考えるようになっていた。
ある日。朝から眠気がひどくてあくびをしていた時。
野木から、一通の手紙を受けとった。宛先には、丸まった字で『河森葉弥へ』と書いてあった。字の特徴から、あいつからの手紙だと分かった。
野木は、俺の顔を見ると、きっと困惑した顔をしていたのだろう、説明をしてくれた。
聞いた話を簡単に言えば、死ぬことが頭のどこかで分かっていたあいつは、何か伝えたいことがある人に手紙を残した、ということらしい。
――なんで、俺に。もう、話していなかったのに。
約束してほしいことがある、と野木は言った。
「ここに書いてあるのは、由乃が本当に河森に伝えたかったことだから。真剣に読んで。それが、由乃の最後のお願い」
じゃあ、よろしくね。
そう言って野木は自分の席に戻った。
俺は、まだ動いていない頭をフル回転させ、事態を把握する。そして、半ば強引に渡された手紙を見た。
――読みたくない。
そう思った。しかし、野木の言葉を思い出す。
“真剣に読んで。それが、由乃の最後のお願い”。
そう言われたら、読むしかなくなる。
俺は、朝のあいさつの後すぐ席に座り、先生に見つからないように手紙を開けた。
手紙を開けたとき、俺は何を思ったのだろう。緊張か、不安か、それとも喜びか。分からない。でも、俺はきっと、哀しかったのだろう。
古湖 美緒
「非常に、残念です」
この言葉が医師の口から出る前に、もう分かっていた。
さっきまで忙しなく動いていた医師や看護師たちが、ピーッピーッという電子音とともに、動きを止めたから。
でも、その言葉を聞くと、分かっているはずなのに頭が真っ白になって、思考が停止した。
由乃が、死んだ。
心のどこかで予測していたことだった。かかりつけの医師にも、もしものことがあったら、由乃さんの命は危ないかもしれませんと、忠告も受けていた。でも、ついつい考えてしまう。
――なんで、由乃なの。
他の誰でもなく、なぜ、どうして、由乃なの。
医師が、なにか言っていた。聞こえない。なにも、分からない。
身体のバランスが崩れた。隣にいた夫が支えてくれる。泣き声を出すのがなんだか大人げないような気がして、声を押し殺して、静かに泣いた。
すると、突然隣から泣き声が聞こえてきた。
いつの間に来ていたのか、尹夜が何かを悔しがるかのように、泣いていた。
大きな声を出して。
病室の至る所にその声が反射して、泣き声しか聞こえなくなる。
羨ましい。そう、思った。
人目を気にせず、大声で泣けることが、羨ましい。私は、娘が死んだときでさえ、涙を流すことしかできない。娘の死を哀しんで、大声を上げることもできない。
醜い。
とても、醜い。
由乃は私にとって、二人目の子どもだった。一人目は、まだお腹の中にいるときに、流産で死んでしまった。
自転車との衝突が原因だった。あの時、もう少し周りを見ていたら、もっとお腹を守っていれば——今でもその傷は癒えていない。
だから、由乃が生まれた時は、この子は死なせないと決めた。でも、医師から話からの話を聞き、私はショックを受けた。
心臓が、弱い。だから、普通の人として生活するのは、難しいかもしれない。
その話が急に現実味を帯びたのは、幼稚園の頃だ。
由乃が高熱を出し、呼吸困難に陥った。でも、それはただの風邪で、普通ならなんともならないことだった。
そして、由乃がすやすやと私の腕の中で寝ているとき、少し気まずそうな顔をした医師に言われた。
「由乃ちゃんの心臓が弱いことは知ってますね?今回のように、ただの風邪でも大変なことになります。なので、普通の人にとって大変な風邪が、由乃ちゃんにとって命取りになる可能性があります。怪我などは気をつければ避けられるかもしれませんが、風邪は注意してもなってしまうかもしれません。覚悟は、しておいてください」
それは、あなたの娘は死ぬでしょうと予告されるのと、同じことだった。
――死なせないと、決めたのに。
気をつけても救えないかもしれない命は、どうすれば救えるのだろうか。一つの小さな命も救うことができなかった私には、そんなことはできない。
でも。
救うことはできないかもしれないけど、愛情をたくさん注ぐことはできる。この子が死ぬ時、素晴らしい人生だった思ってくれるのなら、それが一番良い。
それから私は、由乃を大事に大事に育てた。外で遊ぶことや、走ることを制限したから、遊び足りていないかも、と思ったが、尹夜という親友ができたので大丈夫そうだった。月に一度は入院をしたけれど、毎日楽しそうでいつも笑っていた。
あるとき、尹夜が私に言った。「由乃のお母さん。あたしね、由乃の笑顔がだーいすき。あたしを笑顔にしてくれる、魔法の笑顔なの」。そう言って、二カッと尹夜は笑った。
小学校の頃の話だ。私は、こんなことを言ってくれる友だちと巡り会えて、由乃は幸せ者だな、と嬉しくなった。
でも、そんな友だちも残して、由乃はいなくなってしまった。
由乃が死んだ日。私は魂が抜けたように家に帰った。
由乃の部屋を覗いた。一瞬、椅子に座り、こちらを向いて怒ったような顔をしている由乃が見えた。が、蜃気楼のようにそれは消えてしまった。
一歩ずつ、踏みしめるように、部屋の中へ足を踏み入れる。
服が散らかっていた。
ペンが出しっぱなしだった。
布団はたたまれていなかった。
その一つ一つを見ていると、急いで服を脱いでいる由乃、ペンで何か書いている由乃、布団に入って寝ている由乃が、浮かび上がった。
――ここに、由乃がいる。
そう感じた。
由乃の葬式も終わってから、二、三日ほど経ったとき、尹夜の母から相談を受けた。どうやら、尹夜は由乃が死んでからひどく塞ぎ込み、闇を抱えているようになっている、ということだった。
話の途中で、尹夜の母はこう言った。
「由乃ちゃんが亡くなってから、尹夜の一部も亡くなった」
それは、私も感じていたことだった。
尹夜は、よく笑うとても元気な少女だ。しかし、由乃が死んでから、笑わなくなって元気の真反対のようになってしまっていた。すれ違うときにあいさつをしても、前は元気よく「こんにちは、おばさん」と言っていたのに、今では軽く頭を下げるだけだ。
よく笑う元気な少女が、もとから存在していなかったかのように、尹夜の性格は変わり、消えていた。
「大丈夫よ。時間が経てば、尹夜ちゃんも元に戻るわよ」
そう言って励ましたが、そんなこと、心にも思っていない。
一度心の中に開いてしまった穴は、そう簡単に塞がりはしない。そのことは、一番自分が分かっていた。
由乃の部屋に入ることは、なかなかできなかった。この部屋の主が既にいないことを、受け入れたくないという気持ちもある。でも、一番の理由は、由乃はまだこの部屋にいるから、勝手に片付けてしまったら怒られるのではないかと思ったのだ。
由乃がいなくなってから二週間ほど経ったとき、私は何かに導かれるように由乃の部屋に足を踏み入れていた。特に理由もなく、ただ急かされるような気持ちに押され、部屋に入った。
一瞬、由乃が引き出しを開いているのが見えた。まるで、ここを開けて、と私に訴えかけているかのようだった。
由乃の引き出しは二つあり、右側の引き出しは普通のだが、左側のはカギつきの引き出しになっている。由乃に頼まれてそうした引き出しを買った。カギを持っているのは、もちろんのこと由乃だから、どこに置いてあるのかが分からない以上、開けることはできない。
右側の引き出しを開ける。持ち主がいなくなってしまったことを哀しむように、キイ―ッと音が鳴る。少し埃っぽい匂いが、鼻についた。中に入っている物を、丁寧に取り出していく。
小さい頃気に入ってよく付けていた、ウサギのキーホルダー。
物を捨てることができない性格のせいで、たくさん溜まっている消しゴムや鉛筆。
誕生日にあげた髪留め。
一目見て、大切に扱われていたことが分かる。汚れも少なく、使えないような物はない。
――全部が、とても懐かしい。
そんなことを思いながら、引き出しの中から物を出し続ける。もうそろそろで全部出し終わるだろう、となったとき、それを見つけた。
その紙は、物に紛れて人目から隠れるように、置いてあった。
なんだろうと思い、手に取る。半分に折られていて、開けばすぐに読めるようになっていた。導かれるように、その紙を開く。中を読んで、驚いた。その内容は、まるで死を予言しているようだった。他になにか入っていないかと、引き出しをあさった。しかし、その紙に書いてあったようにカギがあるだけで、他にめぼしい物はなかった。
――開けた方が良いのだろうか。
そんなことを、考えてしまった。なぜなら、これを読んだとき、
――由乃が、消える。
そう思ってしまったから。
本音を言えば、開けたくなかった。由乃がここに居続けるのならそれがいい。どこにも言ってほしくない。それに、私が誰にも言わなければ、見つかることはない。だから、隠し通すことはできる。その一方で、“最後のお願い”というものは、きっと私に向けてのことだけではないだろう、と思っていた。尹夜に向けても、必ずあるはずだ。尹夜の母の話を思い出す。
“由乃ちゃんが亡くなってから、尹夜の一部も亡くなった”
決意を決める。きっと、今の尹夜は私のように由乃のことばかり考えているだろう。私の気持ちも、きっと、分かってくれる。
私が手紙を見つけてから、次の日に尹夜を家に呼んだ。尹夜は由乃の部屋を見て、言葉を失ったように、呆然としていた。やはり、尹夜にも由乃の強い気配を感じたのだろう。
手紙を見せて、念のため由乃から何か聞いていなかったか、聞いてみた。尹夜は「知らない」と答えた。あまり期待していなかったから、落胆はあまりしない。ただ、親友にも言っていなかったから、私にも言わなかったのだな、と密かに安心した。
手紙を見せ、カギの存在を教える。ここからが、本番だ。尹夜は、引き出しを開けようとするか、しないか。考え込むだろうと思っていたのに、尹夜はすぐに「開けましょう」と言った。どこか、怒っている風でもあった。
カギを差して、引き出しを開けた中には、先ほどの紙と同じような紙と、三通の手紙が入っていた。一つ、私が知らない人物宛の手紙があったが、どうやら尹夜はその人物を知っているようで、少し困惑した表情を浮かべながら「これはあたしが渡しておきます」と言った。
由乃の最後のお願いですから。
そう付け足して。
尹夜は、紙にあった“最後のお願い”にこだわっていた。
ここで、やっと、私は分かった。尹夜は、由乃が死んでいることを受け入れているということを。私とは違う理由で、由乃に執着しているということを。
――目指している場所が違っている。
やっと、そのことが分かった。
手紙を見つけてから、由乃の部屋に一層入りにくくなったような気がする。やはり、引き出しなど開けなければ良かった。
手紙は、人に何かを伝えるための手段の一つ。
由乃が死んだとき、なぜあの時ああしてやれなかったのだろう、こう言ってやれなかったのだろうと後悔した。でも、もし手紙に「あなたがしたことは、言ったことは、間違っていない。あれで良かった」と書いてあったら、どうだろう。後悔はきっと消える。しかし、それと同時に由乃の存在さえも消えてしまいそうな気がする。
死んだ人の記憶は、月日と共に薄れてしまう。その人が好きだった物、嫌いだった物。その人のクセ。新しい記憶が積み重なって、埋もれていく。でも、強い感情と一緒にその人がいたら、忘れることはきっとない。例えば、後悔だったり、哀しみだったり、愛情だったり。人によって、それぞれあるだろう。
縛られている、ということかもしれない。でも、その人を覚えているためには、そうするしかないのではないか。私には、それしか思いつかない。
私は、後悔していることがある。
それは、約束を守れなかったことだ。
由乃が入院する五日ほど前、ピクニックに行こう、と言われた。その日は、夫の仕事が三日間休みで、私も一日空いていた。ピクニックの話は前々からいつか行こうと約束していて、私と夫の仕事が休みの日を狙っていたのだろう。でも、私は気乗りがしなくて、「ごめん。また今度にしよう」と言った。すると由乃は不機嫌になって、一日話してくれなかった。
これが、由乃との最後のけんかで、後悔の元。ひどくちっぽけで、後悔と呼んでいいのかも分からない。でも、これしかない。他に後悔と呼べるものがないのだ。約束だって守ってきたし、けんかも、あまり多くなかった。後悔できることが、多くない。
由乃は、いつも何かに遠慮をするように、自分の意見を出すことが少なかった。「どっちがいい?」と聞いても、「お母さんの好きな方がいいな」と答えることが多かった。
そう言われたら、私はこう考える。
――もし、あの子なら何を選ぶかな。
あの子とは、もちろん、一人目の子のことだ。
もし、あの子が生きていたら、どんな物を、色を、選ぶだろうかと考える。でも、そんなことを考えている私を見て、いつも由乃は少し哀しそうに目を伏せていた。その理由を、最後の最後まで聞きそびれてしまった。
それも、後悔と言ったら、そうなのかもしれない。
この頃、よく疲れるような気がする。耳障りな溜め息を、またひとつ、つく。
掃除が終わり、自分の部屋に戻る。重たい手つきで椅子を引き、背中を預けた。引き出しを開けると、すぐに手紙が見えた。なんとなく持ち上げてみる。かさついた感触が、ひどく冷たいように思えた。
厚さからして、紙は二、三枚のようだ。表には由乃の字で『お母さんへ』と書いてあり、それ以外は裏表どちらにも何も書かれていない。
読みたい、ということより、好奇心の方が強かったかもしれない。どちらにしろ私は、なんらかの感情に押され、手紙を開けた。
2.手紙の向こうに
【尹夜、元気にしてる?うちがいなくなって、泣いてるよね、きっと。だって、尹夜、うちのこと大好きだもんね!
これ読んでるってことは、うちは死んでるのか。全然想像つかないや。『死んでる』って軽く言ってるけど、あのね本当は、すごく怖い。尹夜と一緒じゃない未来があるなんて、嫌だよ。もっと生きたいし、笑っていたい。二人ともおばあちゃんになっても、楽しいことが毎日あるような、そんな日々を過ごしたい。死んでるなんて、嫌だよ。
尹夜、前に言ったこと、覚えてる?
「うち、尹夜がいたら、毎日笑うよ。尹夜がいるだけで、楽しいから。だから、ずっと親友でいよう」
うち、こう言ったよね。尹夜、この言葉は約束みたいなものだけど、尹夜を束縛する言葉じゃないんだよ。うちがいなくなった今、尹夜はきっと笑ってない。分かるよ。親友だもん。でもね、うちがいなくなったからって、笑えなくなる理由にはならないんだよ。うち、尹夜の笑った顔が一番好きだから。尹夜には、ずっと笑っていてほしい。将来、尹夜にうち以上に仲が良い子ができて、その子と笑っているとしても、べつにいいよ。尹夜に、うちという親友がいたこと、忘れてほしくない。でも、それじゃきっとだめなんだよ。いつまでも、うちの幻想と一緒にいちゃ、だめなんだよ。だから、今から言う言葉、胸に刻んで。
私の一番の親友は、尹夜だよ。でも、だからこそ、うちのことは忘れて。頭の片隅の方にでも、追い出していって。尹夜には、これからの人生がある。笑ってほしい。うちのことなんて気にしないで、笑ってほしい。尹夜、さようなら。今まで本当にありがとう。次のページに、足を踏み出して。つらいこと、哀しいことがあっても、きっと尹夜は乗り越えられる。尹夜の心に、いつでもうちはいるから。尹夜が気づかなくなっても、一緒にいるから。
また会おうね。尹夜、大好き。】
【まず、謝りたいことがある。
信じられなくて、ごめん。困らせて、ごめん。迷惑かけて、ごめん。
葉弥には、たくさん謝らないといけないことがあったのに、生きている間に伝えられなくて、それだけが心残りだよ。
葉弥は、よく分からなくて、弱いし、怒りっぽいし。でも、優しいし、人の気持ちを考えられる。頼めば、仕方なさそうにやってくれる。だけどやっぱり短気だし、変だし。まあ、つまり、うちは最後の最後まで、葉弥のことが嫌いで嫌いで嫌いで、好きだったっていうこと。呆れたかな?ふられたのに、しつこい奴だって。
葉弥に言われて、一番嬉しかったのはね「べつに嫌ってない」ていうやつ。あれ、心の底から良かったーって思った。で、一番ムカついて、傷ついたのは「はあ?知らねーし」。なにが知らないんだよ!分かってるくせに。そういうところ、本当にずるい。でも、そうなっちゃったのは、うちのせいだよね。
深津ちゃんのこと、本当にごめん。本当に仲良いとは思うけど。
葉弥。うちは、葉弥の中に入れたかな。少しぐらい、葉弥の特別になれていたかな。友だちだって認識されていたのかも分からないけど、葉弥の視界に、入れていたのかな。入れていたら、嬉しい。ちょっとは、見ていてくれたのかな。
最後に、うちからのアドバイス。女子は、もう少し丁重に扱え。今までの
葉弥の行動で、何人の女子を泣かせてきたことか。だから、もう少し丁重に接しなよ。深津ちゃんだって、傷つくことはあるんだよ。うちが言いたいことはこれでおしまい。このアドバイス、忘れるなよ?
葉弥、今まで、ありがとう。葉弥がいて楽しかった。会うことができて、本当に良かった。ありがとう。】
【お母さん。うちね、一人目の子どものこと、知ってたよ。お母さんが、そのことに執着してるってことも。今まで、うちを一人の子どもとして見たことは、何回?例えば、洋服を選ぶとき。色の好みを聞くとき。お母さんは、誰を思い浮かべて考えていた?きっと、一人目の子どものことだよね。責めたい気持ちもあるけど、私はそれを望んでいたから、責めることはできない。一人目の子どものことを考えてほしくないなら、全部自分で決める。でも、うちがそうしなかったのは、お母さんにそのことを気づいてほしかったからだよ。結局、最後まで気づいてもらえなかったけど、気づいてほしかった。
ねえ、一人で全部抱え込まなくていいんだよ。痛いなら、哀しいなら、誰かに少し分けたら良いじゃん。うちは、そのうちお母さんが壊れてしまいそうで、すごく怖かった。自分だけしか理解できないなんて思って、殻に閉じこもらないで。私がいたじゃん。お父さんがいるじゃん。一人じゃない。大丈夫だよ。支えてくれる人がいる。
忘れないことで、苦しまないで。後ろばっか見ちゃだめだよ。うちや、一人目の子どもを、忘れないためのきっかけとして、使わないで。ふと、思い出してもらうだけで良い。それだけでいいから。
あのね、うちがいなくなったら、部屋を綺麗にしてほしい。たぶん、色々な物が散らばっていると思うから、整理をしてほしい。全部すっきり片付けて、なんの部屋にしようかなんてことを、考えてほしい。
お母さん。うちが死んだのは、お母さんのせいじゃないよ。一人目の子どもが死んだのだって、きっと違う。うち、すっごく幸せだった。お母さんの子どもに生まれて、良かった。幸せにしてくれて、ありがとう。
じゃあ、いってくるね】
由乃は、最後の最後まであたしのことを考えてくれていた。涙があふれ出して、頬を伝う。手紙にその雫が落ちた。
あと一回だけでいいから、由乃の笑った顔が見たかった。だけど、とっくに気づいていた。由乃は、いつも笑ってくれているということに。いつだって、ヒマワリのような、ひたむきな笑顔で、あたしを見ていてくれているということに。ときに励まして、ときに叱るように、きっとこれからも笑っていてくれる。
消えてほしくなかった。こんなにも簡単に、消えてしまうなんて、認めたくなかった。でも、由乃は忘れてほしいと言った。あたしのことを思って、自分の存在は消えてもいいと、そう言った。
心の中にいた由乃が、薄らいでいくようだった。目をつぶる。由乃の笑顔が、少しずつ遠ざかっていく。追いかけたい気持ちを抑えて、あたしは笑った。顔がこわばっていて、上手く笑えていないことは分かった。でも、あたしは笑った。あたしが気づいていなくても、由乃は一緒にいると言ったから。たった一人の、大好きな親友が、ここにいるから。
“尹夜なら、大丈夫”
その言葉は、まるで魔法のように、あたしの背中を押した。
いつか、由乃みたいに笑うようになろうと、誓った。
次の日、いつも通り学校に行った。いつもより、清々しい朝だった。鳥も朗らかに鳴きながら、空を飛んでいる。
教室のドアを開ける。あたしに話しかけてくる人は、誰もいない。避けられているわけではないけど、やはりこういう反応をされると、哀しくなる。原因はほぼ自分にあるから、人のことを悪くは言えない。
いつもは真っ直ぐに自分の席へ行き、本を読むのだが、今日は違う。ドア付近にいた女子の輪に顔を出し、明るい声を意識して、あたしは言った。
「おはよう!」
一瞬、驚いたようにこちらを見る。そして、一拍おいた後、口々に「おはよう」と返ってきた。
大丈夫、やり直せる。
そう自分を奮い立たせ、あたしは笑った。
その手紙には、俺への悪口は、一切書かれていなかった。いや、少し書かれていたが、悪意が全く見えなかった。
あいつには、もう嫌われていると思っていた。あんなにひどいことを言ったのに、どうして、嫌いにならなかったのか、分からない。いや、分かった。あいつは、まだ俺のことを好きだったのだ。どんなにひどいことを言おうと、俺を責めることはなく、なぜか自分のことを責めていた。あいつの優しさが、この手紙には滲んでいる。
また、疑問が浮かんだ。俺は、あいつのことが嫌いじゃなかった。優しい奴だと、思っていたくらいだ。それなのに、なぜ突き放した?
前に、『深津ちゃんと、付き合ってるの?』そう聞かれたとき、こいつにだけは言われたくなかったと思ったことがあった。どうしてだ?それは――。
あいつのことが、好きだったから。
そう思ったら、胸の中がすっきりした。どうして、もっと早くに気づくことができなかったのだ。あいつが死んでから気づいても、もう遅い。この場所で、あいつに会えることは、もうない。
俺は、あいつの名前を呼んだことがなかった。呼ぶときは大抵「おい」とか肩を叩く。そいしていたのは、なんと呼んだらいいのか、分からなかったから。そして、あいつがとても儚い存在に見えていたから。触ったら、壊れてしまうような、そんな気がした。でも、本当に消えてしまうなんて、思っていなかった。
「葉弥?なに泣いてんの?」
後ろの深津からそう言われ、慌てて目じりを手で触る。涙でしっとりと濡れていて、温かかった。
「いや、なんでもない」
そう言ってから、あいつのアドバイスというものを思い出した。確か、深津も傷つくことはある、と書いてあった。そして、もう少し丁重に扱え、とも。好きでもない奴に優しくすることは、きっと優しさではないだろう。叩かれる覚悟を決め、深津に話しかける。
「なあ。俺、今分かったんだけどさ、あいつのことが好きなんだ」
深津が眉をひそめる。
「あいつって、由乃ちゃんのこと?」
「ああ」
「こら。前を見なさい」
話の途中で、先生が俺らの方を見て、叱責を飛ばす。
軽く頭を下げて、仕方なく前を向いた。
今言ったことが正しいのかは、分からない。深津の答えを待つばかりだ。でも、深津が俺のことを好きなのは知っていた。噂を流したのが、深津だってことも。知っていたけど、べつにどうでもいいと思っていた。このまま黙っていても、傷つく奴や、困る奴はいないだろうと、そう思っていた。でも、今となっては、それが間違いだったということは明白だ。
「見てれば、分かった。葉弥が、由乃ちゃんのこと好きってこと」
そう言った深津の声は、少し震えていた。
窓から入ってきた風が、優しく頬を撫でる。
「由乃のことが、好きだったんだ」
もう一度、独り言のように俺は言う。初めて、あいつの名前を呼んだ。
机に突っ伏して、泣いていた。顔を上げて鏡を見ると、目が真っ赤になって腫れていた。下に行くのは、腫れが引くのを待ってからの方がいいようだ。
やはり、手紙を読まなければ良かったと、後悔する。どうせなら、「幸せじゃなかった」と言ってくれれば良かったのに。「お母さんのせいだ」と、責めてくれたら良かったのに。でも、私は一つ気づいたことがあった。一人目の子どものことだ。あの子を忘れたくないという口実で、自分を苦しめて、誰も分かってくれないと自分に酔っていた。由乃は、そんな私のことを、ちゃんと分かっていた。
“一人の子どもとして、見てた?”
その言葉は、胸の奥深いところに突き刺さった。
その通りだった。私は、由乃を通して、一人目の子どもを見ていた。ただし、一人ではなく二人として、ずっと見ていた。誕生することができなかった一人目の子ども意志が、由乃にあるような気がしてならなかった。
そんな私の勘違いや願望が、由乃を少しずつ苦しめていた。由乃は、いつもどんな気持ちで「お母さんの好きな方で良いよ」と言っていたのだろうか。私の考えが分かっておきながら、何も言わなかった。それは、由乃の優しさだったのだろう。
こんな形で私に伝えたのは、最後の嫌がらせのようなものだったのかもしれない。今となっては、確かめようもない。
そろそろ夫が帰ってくる頃だ。目の赤みや腫れも、だいぶ落ち着いた。手紙を引き出しの中に戻し、立ち上がる。夕飯の支度をしなければ。
カチャカチャという、無機質な食器の音が二人だけの食卓に響く。
由乃が死んでからというもの、会話が減った。先ほど、お帰り、と声をかけ、少し会話をしてから話していない。この頃、今までどんな会話をしてきたのかが思い出せないでいる。なので、突破口をなかなか開くことができない。
でも、これでいいじゃないかと思っている自分がいた。会話があってもなくても、なんの変化もないだろう、そう諦めてしまっている自分がいた。
「なんかあったのか」
そう問われたとき、内心焦った。夫には、手紙のことは言っていない。バレたらマズいわけではないが、なんとなく嫌だった。
そんな私を、夫は真っ直ぐ見つめてくる。こういうところが、由乃は似たんだなと思った。
「少し、目が赤いぞ。泣いたのか?」
「……ええ、ほんのちょっとだけ。でも大丈夫よ」
夫が、哀しそうに目を伏せた。どこかで、見たことがある表情。
「お前は、俺が頼りないか?」
驚いて、夫の顔を見つめる。
「――どうして、そんなことを言うの?」
「お前は、全部一人で背負い込む。それで、苦しむ」
「……」
「どうして、俺を頼らないんだ。由乃だっていた。なのに、いつもお前は一人だ。そんなに、俺たちが頼りなかったのか?」
きっと分かってくれないからよ、とは言えなかった。
視線が針のように身体をつつく。思わず、横を向いた。
「頼られないのは、結構辛いんだよ……」
そう夫は呟き、食器を片しに台所へ行ってしまった。
なぜ、夫の一言一言が、こんなにも胸をえぐるのだろう。息が苦しくなるのだろう。
思考はぐるぐると回るだけで、一向に答えへ向かう気配はない。「上で寝てくる」と言い残し、私は少し不穏な空気が残るリビングを後にした。
部屋に戻り、もう一度引き出しから手紙を出す。すると、さっきは気がつかなかったが、由乃からの手紙以外でもう一枚紙が入っていた。それには大きめの付箋が貼ってあり、こう書かれていた。
【お父さんから、お母さんに。】
――夫から?
慌てて付箋をはずし、文面を読む。とても短い文だった。でも、今の私には、それだけで十分だった。
【三人で、一緒に行こう。】
今までの自分がばかみたいに思えた。
今は、二人になってしまったけど。
夫の気持ちはきっと変わっていない。
こんなにもすぐそばにいたのに。由乃や夫に言われても、殻はなかなか破れなかった。でも、たったの一文で、殻はひび割れて破ることができてしまう。
破るきっかけを作ってくれる人がいることが、とても幸せなことだと思った。
朝、いつも通り起きて朝食の準備をしていた。夫が眠たそうに上から降りてくる。無言でご飯を済ませ、家から出ようとしている夫に向かって、私は元気よく言った。
「いってらっしゃい」
少し驚いたような顔をした後、「行ってきます」と夫は言った。久しぶりに見る、笑った顔だった。