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ある日の昼下がりと、君の記憶

作者: 小雨 れい

ある下町に、ある商店街がひっそりと佇んでいた。

どこか、もの寂しげに見えるのは、近所に大きなデパートが建って以来、時代の流れに従って人の声が消えていったからである。

今時、そんな場所も少なくないだろう。

 

 だが、私の瞼の裏には、生き生きとした街の風景が哀しい記憶と共に今でも鮮明に残っている。

 ここにあふれかえっていた人たちのそれは、もうセピア色に染まってしまっただろうか。押し入れの中の古いアルバムに挟んでしまっただろうか。

 

 時の流れとは早いもので、どうやら私はそれに取り残されてしまったようだ。

 私の中の時間だけが止まっているようだ。 

 

 

 等間隔に並んだ街灯は頼りない明りをその頭に灯し始めた。

 一つ…、また一つ……、と次第に、ほんの少しだけだが周りが明るくなった。


 

 何気なく上を見上げると、頭上の薄汚れた半透明なアーケードで視界が覆われる。その向こうには暗い灰色の空がぼんやりと揺らぐ。

 このアーケードも随分と古い。いたるところに穴が開いているので、雨なんかが降ってくると雨漏りしそうだ。

 

 アーケードは自分がボロボロの姿になるまで、ずっと商店街の一生を見守ってきた。

 彼は、今のすっかりと物寂しくなってしまった様子を、一体どういった思いで見つめ続けているのだろう。

 

私は空の様子を見て少し歩を速めつつ、こんな空想をした。

 


ポタッ、ポタタッ…

 

 雨が降ってきた。

 

 ポタッ…


 

 不意に私の肩に小さな冷たさを感じた。それはジャケットにまるい模様を描いた。

 

 


 私の営む喫茶店は、いくら星霜を重ねようとも、相変わらずな態度で主人である私を迎えてくれる。

 主人の中の時が止まっているのだから、それも当たり前かもしれない。

 

 街灯よりも幾分か頼もしく温かな光が、その窓から漏れている。

 


 ……電気、つけっぱなしだっただろうか。

 


 私は不思議に思いつつ、ただいまと言いドアを開けた。ドアにつけてある小さなベルが、チリンという音を鳴らす。

 


 おや、なるほど、お客を一人待たせてしまっていたようだ。

 


 店のカウンター席に座っている、セーラー服をまとった少女の姿が見えた。

 少女は、ベルの音に気付くとこちらをはっと向いた。やがて私の姿に気が付くと不満げな声をあげた。

 


 「おかえりなさい、マスター。随分と待ちくたびれたんですよ」

 


 その声に合わせて、少女の綺麗に結われたおさげが揺れる。

 彼女はたいそうお怒りの様だ。

 

 まったく、彼女はドアにかかっていた「準備中」の文字を無視して入ってきたらしい。

 そのことを指摘しようかと思ったが、「鍵をかけないほうが悪いんです」と言い返されそうなのでやめた。

 もしかしたら、「不用心だ」という小言も付け加えてくるかもしれない。

 かの有名な孔子は六十の年を「耳順」と言ったが、私はいくつになっても他人の小言を聞くことが苦手である。 

 だから、私は彼女よりも早く声を発した。

 

 

 「ああ、すまん。少し買い物をしていたんだ」


 

 そう言って私は、仕方がないじゃないか、という反抗の意味も込め片手のビニール袋を掲げて見せた。


 

 

 この少女が初めてうちを訪れたのはいつだっただろうか。

 少女が一人で、しかもこんな古めかしい喫茶店に来るだなんて、変わった子だなと思った。

 しかし、初対面だったにもかかわらず、初めて会った気はしなかった。

 不思議なことに彼女からは懐かしさのようなものを感じる。

 

 

 なぜだろう。

 

 

 昔、どこかで会ったことがあったのだろうか。それともただ単に、彼女が身に着けている、セーラー服が原因だろうか。

 最近は、学ランやセーラー服といった学生服も見なくなったしまった。

 


 いずれにせよ、少女のまとっている雰囲気は、もう三十年も前に時のとまってしまったこの場所によく溶け込んでいる。

 


 まるで、ずっとここで暮らしてきたかのような。

 


 

 そんな少女はようやく怒りを鎮めてくれたようだ。

 よいしょ、といいつつ、いつものようにカウンターの真ん中の椅子に座りなおした。

 カウンター席は普通のテーブル席よりも高さがあるので、座ると足が付かない。少女は置き場のない足をぶらぶらさせながら、私にミルクをたっぷりと注いだ珈琲を注文した。

 

 私が手を動かしている間、少女は邪魔しちゃあ悪いとでも思っているのだろうか、学生カバンから本を取り出し大人しく読み始めた。

 さっきも、そうやって大人しく待っていてくれればよかったのに。

 

 


 彼女は私の良い話相手であった。店を訪れる時には決まって、土産に面白い話を持ってきてくれるのである。

 少女に白い湯気がふわふわとたっているマグカップを差し出すと、いつものように彼女が口を開いた。

 

 

 「今日はこんな話を持ってきたんです」――


 

 彼女の話は、三十年程前に少し流行った恋愛映画についてだった。私は映画をあまり観るほうではないので、ついていけない話もあったが、私の退屈を紛らわしてくれるには十分だった。

 しかし、なぜ中学生がそんな昔の映画を知っているのだろうか。

 そんなことを考えたが、次第に少女の話にすっかり引き込まれていき、どうでもよくなった。

 

 楽しい時間が過ぎていく。

 


 「……それで、私が特に一番好きな映画は――っていうんですけど―」



 刹那、周りの景色、音、風がすべて静止した。

 

 その題名は、私が人生で初めて観たものであり、妻と一緒に見に行った最初で最後の映画のものだったからだ。


 


 私の妻は三十年前に他界した。

 病気と判明してからはもう手の施しようがない状態になっていた。

 だから、彼女には何もしてやれなかったのだ。

 その後悔と悲しみは三十年経った今でもずっと心の中にある。


 私の中の時が止まったのは、その時だ。妻が息を引き取るとともに、私の中の歯車が何かを挟んだかのように、急に止まってしまった。

 彼女がいない時を、これからもずっと刻んでいかなければならない。そんな事実を受け入れたくなかったのかもしれない。

 しかし、周りの時は、そんな私のことを気に留めるはずもなく、足早に流れていった。

 

 

 新しいものが次々と世の中に生み出され、年号が変わり、総理大臣も次々と交代していった。

 どこかの会社が立ち上がり、倒産した。どこか遠くで戦争が始まり、終わった。

 そして、多くの命が消え、多くの命が誕生した。



 ふと、私はこういった世界のサイクルから離れたところにいるのではないかと考える時がある。

 私は、世界においていかれたのかもしれない。

 少し、大げさだろうか。

 しかし、どうしてもそう考えてしまうのだ。


 

 「……ねぇ、私の話聞いてます?」

  


 少女の不満げな声が聞こえ、はっと我に返った。



 「…ああ、少し昔を思い出していたんだ」



 急に声を出したので、少しかすれてしまった。

 それを紛らわすために、盛大に咳払いをしたが、かえっておかしかったのかもしれない。

 目の前の少女は、不思議そうな顔をした。



 「…少し、私の空想を聞いてくれないかな?」

 


 「いいですよ」



 少女は、いかにも子供っぽく、こくんと頷いた。



 「たまに、君と、亡くした妻の姿が重なって見えるんだ。だから、こんなことを考えてみた。もしかしたら君は私の妻であり、私にばれないように少女の姿に戻って会いに来てくれているのではないか、とね」



 「それは素敵なお話しですね」



 少女はにっこりと微笑んだ。



 「奥さんを亡くされたことを悔やんでいますか。その方との時間を取り戻したいと思っていますか」



 「ああ、そう思うよ」



  そういうと、彼女は安心したような、少し哀しいような複雑な表情をした。

 


 「良かったです。ずっと聞きたかったことが聞けて」



 「刻むことを拒んだ時を、動くことをやめた歯車を、もと通りにするにはどうすればいいか、知っていますか?」



 思い出した。いつも妻が言っていた言葉を。それは――



 「それは、楽しかった時間を思い出すこと。です。」


  

 「だから、思い出してください。あなたの中で、奥さんは生きています。ずっと。

  そしてこれからも、きっとあなたと一緒に人生を歩んでくれますよ」



 そういって、また微笑んだ。


 ふと、少女の姿がにじんだので、慌てて背を向けた。

 チリンとドアのベルが鳴ったような気がした。

 


「…待って!!君は本当に――」

 


 少女がドアを開けたのかと思って、振り返ってそう叫んだが、そうした時にはもう少女の姿はなかった。

 

 きっとあの少女はもうここを訪れることはないだろう。


 何となく、そんな気がした。



 

  

 私は珈琲の温かな香りに包まれながら、おもむろに目を閉じた。

 いつか見た、大きな滝のように一気に時間が流れ出した。

 今まで失っていたものを取り戻すために。


 


 …どこからか騒がしいほどの、沢山の人の声が聞こえてきた。

 合間に、自転車のベルの音、ハイヒールが石畳を叩く音、紙袋がこすれる音が、微かに混じっている。

 

 これは…懐かしい音だ。


 懐かしいにおいも漂ってきた。これは、もう何年も前にシャッターを下ろしてしまった隣の店からだ。香ばしいコロッケの香りが食欲をそそる。


 目を開けて、窓を見た。


 ああ、やっぱり。


 そこには三十年前の、まだ人々の中でセピア色に染まる前の、商店街の姿があった。


 誰もいなかった店内を見渡すと、その全ての席が色とりどりの格好をした客で埋まっていた。

 賑やかなその声が、私の耳を刺激し、様々な思い出を蘇らせた。


 しかし、記憶に浸っている場合ではないことを分かっていた。

 私はここの主だ。だから、することは一つだけ。


 私はいつもそうしていたように、彼らのために珈琲を淹れた。

 


 そうしている間にどのぐらい時が経っただろう。時計に目をやると、もう三時になっていた。

 そろそろ妻が買い物から帰ってくる。私は急いで、彼女のお気に入りであるコーヒーカップに珈琲を淹れてやった。ミルクたっぷりの。


 しばらくすると、チリン…とドアの小さなベルが可愛らしい音をたてた。

 彼女と共に、麗らかな春の光が入ってくる。目が眩みそうだ。



 「お帰り、恵子。」

 


 そう言うと、彼女はもう皺がいくつも出来てしまった頬にえくぼを作った。日差しに負けないぐらいの子供っぽい無邪気な笑顔だ。美しいウエーブのかかった白い髪が、それによって静かに揺れた。


 彼女はどんなに星霜を重ねても、やはり変わらない。容姿は少し老けてしまったようだが。

 

 私もそれに答えて微笑む。

 硝子細工のような時間が壊れてしまわないように。もう時を止めてしまわないように。


 



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