001
「ひぅん、ひゃん、あっ、はぁん!」
石造りの部屋の中、風鳴り音を伴って平手が振るわれるたびに嬌声が響く。
「貴様、なぜしくじった」
「そ、それは、あのような相手が現れるとは、ひぃんっ!」
無言の平手打ちに、女がまたも声を上げる。それが悲鳴の類でないのはその艶のある響きで明らかだ。
「あの程度の手勢があれば大丈夫とうそぶいたのは貴様ではないか?」
「あ……」
「貴様ではないか、と言っているのだ」
「あっ、ひゃん、ひぃっ、ひぐっ、もっ、もうしわけ、あぅん……!」
「フラムフェーダーの確保にしくじり、さらに肝心の側妃の子を見つけたにも関わらず追い返され、追手も出してはいない、と」
平手ふるうのは長身痩躯の男。白い肌にオレンジ色の髪をオールバックにし、怜悧な表情と相まって神経質そうな雰囲気をしている。
男が平手を振るっている相手は、男の膝の上に乗った女だ。豊かな金髪を滴らせた、むっちりとした肉付きのいい女。
トメルギア王女、ハクダ・エメル・トメルギアだ。より正確に言えばその尻に、平手を打ち下ろしていた。
「あぅ……その、ですが。最悪フェーダーを破壊しろ、というお達しは遂行できましたし」
「黙れ」
「ひぃんっ!」
「貴様が王位につくための力と知恵をくれてやる。だから貴様は俺に体を差し出す。そういう契約だったな?
だがな、手足として役に立たない貴様なんぞ一晩いくらの娼婦と変わらん」
「わ、わかりました……わかりました、から」
とろんとした、上気した表情で眼前の男を見つめるハクダ。
「ん、なんだ?」
「そ、そんなことではなく……」
絞り出すようなか細い声。いかなるものであろうと、その声を聴けば官能を呼び起こされるだろう。
「お、お情けを、どうかお情けをくださいまし、バイドロット様……」
「お前は痛めつけるのが好きなのか痛めつけられるのが好きなのかどっちなのだ」
「そりゃもうどちらも……あんっ!」
再度見舞われた平打ちに身悶えるハクダ。対するバイドロットは赤くなった己の手をひらつかせながら呆れ顔だ。
「これでは罰にならんな」
「ああん、いけずですわバイドロット様ぁ」
ねだるように体をくねらせるハクダに正直引いているバイドロットは改めてハクダに告げる。
「貴様、理解しているのか? イルランドの種が違ったからと言って貴様が王位に着けるわけではないのだぞ。
このままでは戦になり大勢が死ぬ。人々の苦鳴こそが邪神の最大の供物なのだ、人が死ぬのは困る」
「生かさず殺さずですわね、さすがですわバイドロット様」
「茶化すな。侯爵を黙らせる圧倒的な力が必要だ。そしてそのためには王家の血と魔力が要る。
もっと必死になれ。俺は最悪、貴様を捧げても構わんのだぞ?」
紫色の輝きを帯びた双眸に見下ろされたハクダの背筋に、それまでの快感を拭い去るような悪寒が走る。
だが、ハクダもそれに負けじと視線を返す。
「あら、そんなことをすればわたくしが抱けなくなりますわよ?
バイドロット様はわたくし以外の女で満足できまして?
満足できても、"それで生きていけまして?"」
しばしの無言。だが、バイドロットとハクダはお互いににたり、と笑みを交わし、お互いの口を吸いあう。
その様をじっと見ている者たちがいた。部屋の片隅に控える二人の騎士だ。
「ふふふ……最高だ」
古株と思しき騎士がぽつりと呟く。対してもう一方の幼さの残る騎士はかぶりを振る。
「わ、私にはわかりません。このように眼前で主を辱められることの、何が褒美なのか……」
それを聞きとめたハクダは、服をはだけながらその騎士へと顔を向けた
「あらあら、不満ですの?」
「騎士としては屈辱以外の何物でもありません……!」
そう答えた若い騎士に、しかし古株のほうが両手に肩を置いて、真摯な声で告げた。
「いいかお前――それが、いいんじゃあないか」
「え……」
「流石、わかっていますわね。ではバイドロット様、あの新人に少々見せつけてあげるとしませんか?
ふふふ、使い物にならなくなるくらいに見せつけてから初物を食べてあげますわ」
「いやちょっと待て。下郎とはいえ人目があるのだぞ」
「何をおっしゃるのですか、わたくしもう我慢できませんわよ……!?」
「ちょ、待て貴様この色情魔……アッー!!」
常識的な反応を返したバイドロットを熟練の技で拘束して押し倒すハクダ。黄色い悲鳴を上げるバイドロット。
二人の騎士は、血走った目でその痴態を見続けた。
しばしの後。ガウンを羽織ったバイドロットはワイングラス片手に窓辺に立っていた。その背中にはどこか哀愁が漂っていた。
ハクダとその配下はいない。おあずけが十分効いた下僕に褒美をくれてやると言って出て行った。
あの女の色狂いは今更だ、咎める気などありはしない。むしろ気がまぎれたくらいだ。
「……くっ」
その余韻も覚めた今、先ほどまでの余裕はどこへやら。バイドロットは苦々しげな顔で窓の外を見下ろした。
トメルギア公都。この大陸最大の都市は、まだ西の空がわずかに赤いというのに、ほとんど明かりが見て取れない。
一部の盛り場だけが明るいのみで、住宅街と呼べるような地域には人の気配がない。
「とうに連絡は途絶えていたというのに、何故、本国が今更……!」
苦虫を噛み潰したような顔のバイドロットは手にしたグラスの酒を一気に飲み干す。
芳醇な香り、味。この大陸に来てから初めて知ったものだ。
シンフェギメルア教の教主バイドロット。
王城に居座り、王女の肉体を貪り、およそこの大陸で望める贅の限りを尽くす存在だ。
邪教の恩恵を餌に教義を広める一方、今の世において再現することのできない魔道具を生み出す力を持った謎多き人物。
しかし、彼の真の目的は先ほどハクダに語ったとおり、王家に眠る強大な力なのだ。それを手に入れるためにはイルランド王子、正確にはその血が必要だ。
だからこそ王子が大公家の血を引いていないというのは痛手以外の何物でもない。
バイドロットは己の左腕にはまった篭手に目をやる。紅蓮の赤に彩られた篭手は明らかに魔道具の類だ。
精緻な細工といくつもの宝玉に彩られた篭手は、この線の細い男にはまるで見合っていない。
だが、これとイルランド王子こそが己の野望の要であった。
ハクダでも王子の替えにはなる。だが、バイドロットにとってハクダは己の生命線と言っていい。
あの汚濁そのもののような女がいたからこそバイドロットはここまで生きてこれた。それは厳然たる事実だ。
それを理解しているからこそハクダもあのように強気に出ていられる。公都を暗雲が満たすこの空の下ではもはや必要もないが、万に一つを考えればハクダを失うことは避けたい。
「まあ、とはいえ奴も私を切り捨てることはできんがな」
今は公都をハクダの派閥が抑えているが、対立するベリエルクガン侯爵の手勢は当の昔に己の領地へと退転した。恐らくは軍備を整えているはずだ。
ハクダは座して待てば玉座が転がり込んでくる状況ではあるが、その後確実に国が割れる。そうなったとき確実に勝てる力を得るためにはバイドロットの言に乗るのが最も手っ取り早い。
なにより、今のバイドロットにとってハクダは必要ではあっても不可欠な存在ではないことをハクダ自身も理解している。
「いっそこちらを裏切ってくれれば即座に捧げてやるところだが。
どうにか利害関係が一致している状況か。つくづく、あの愚物が役立たずなばかりに」
思い出す。
曇りきった目、痩せきった手足、異臭を漂わせる乱杭歯。
およそ玉座にふさわしくない、生きながらに腐った男。
ハクダすら清廉に思えるほどの劇毒に満ちた魂。
いかにすれば人がここまで堕ちるのかとバイドロットは感心したものだ。
だが、結果的には役立たずの塵だ。おかげで計画が大幅に狂った。そもそも、あの愚王が使い物になるならばここまで足踏みをせずにすんだのだ。
この時の遅れがもたらしたものを思うたびに、バイドロットに怖気が走る。
脳裏をよぎる黒い鎧。銀の髪。最強最古の魔動機とその駆り手。それが、突如として現れた。
早く力を手にしなければ、今まで築き上げたすべてのものが灰燼と化してしまう。
「なんにせよ、奴に姫を抑えられる前に何とかしなくては……俺が動ければ話は早いというのに」
暗雲に満たされた公都はバイドロットにとって居心地のいい水槽のようなものだ。出れない、という点を含めて。
ドアをノックする音に気付いたバイドロットは、その相手に部屋に入るよう促す。黒いローブを纏った男が部屋に入るなり膝をついた。
「司祭シャーグル・ファーゼイ、参りましてございます」
「挨拶はいい。ハクダが確保に赴く、気づかれないように後をつけて何かあったら手助けをしろ。手勢は」
「不要にございます」
シャーグルと名乗った男は懐から漆黒のカードを取り出して構える。それはシンフェギメルア教の与える恩恵の頂点にある品。
「これがあれば我は一騎当千」
「然り。貴様が一番よく使いこなしている。
行け。何事もなければよし、何事かあって功あらば、貴様を正式に司教に任じよう」
「おお、ありがたき幸せ。では」
闇のしもべはそのまま闇に溶けるように消え失せた。後に残るのは静寂のみだった。
「公都まであとわずかか」
夜空に漆黒に彩られた機体が浮いていた。
赤いマントを夜風にたなびかせた機体が見ているのは北西。暗雲が垂れこむ公都の方角だ。
黒い鉄騎の中、同じく黒の鎧をまとった騎士は仮面の奥からその方向を睨む。
「バイドロット卿の思惑がわからない上は仕方がない……とにかく、こちらはこちらでできる限りのことをするか」
それだけ呟いて、夜空を黒の機体が駆けていく。




