001
春先のまだ冷ややかな空気の中、パトラネリゼは目を覚ました。
うっすらと開いた深いブルーの目に見えるのはカーテンの隙間から差すうららかな陽光だ。茫としながらそれを眺め、
「あああああああ! マズい、マズいですよこれは!?
時計、時計は……」
がばっと起き上り、部屋の隅に置かれた文字盤を持つやたらごてごてとした機械に目をやる。針は3時半ばを過ぎたあたりで止まっていた。
「え、昼過ぎ!? そんなはずは……」
カーテンから外を見れば、朝の喧騒もまだ小さい中、防壁の向こうに太陽が見えている。寝ぼけた頭をゆすり、
「ああ……魔力の補充を忘れてたのですよ。
日の角度からしていつもの時間じゃないですか」
目を瞬かせながら、寝間着を脱いで普段着に着替えていく。鏡の前に座って白い髪を櫛でとかし、髪をリボンでくくっていく。
前の両サイドで髪を二本にまとめ、後ろ髪も末のほうをリボンで束ね、
「よし、出来上がり」
鏡に映っているのは12、3歳くらいの幼い少女だ。白い髪に青い目、華奢と言っていい雰囲気をしているが、どこか明るい空気を感じさせもする。
服はところどころに手製と思しき飾り付けがされおり、作ったもののこだわりが見て取れる。
階下に下りて行って最初にパトラネリゼを迎えたのは、茶色の髪をバンダナで纏めた娘だ。16,7くらいでそばかすの残る娘が、台所に立って朝食の用意をしている。
「おはよう、パティ」
「パティじゃないですよカルミン。
私のほうが姉弟子なんですからね、それなりの呼び方っていうものがあるでしょう」
「あー、はいはいおはようございます姉さん」
「うむ、よろしい」
一つ満足したという顔のパトラネリゼに、
「そーいうセリフはもう少し修行が足りてから言うべきじゃないかねえ」
冷や水を浴びせるような老女の声。振り向くと、居間のテーブルの前に白髪の老女が腰かけている。
「いいんですよエンホー先生。いつものことですし」
「まあお前がそういうならいいけどねえ。
でも朝からああも慌てふためいているようではまだまだ」
「あう……」
当人同士が納得するなか、パトラネリゼはばつが悪そうにテーブルに腰かける。
「そ、それで師匠、今日は調子はいいんですか?」
「まあなんとかね。書き物もひと段落したし、しばらくは落ちつけそうだよ」
そう言う家の中には所狭しと書物や紙の束が置かれている。その大半はパトラネリゼの目の前の女性が書き記したものだ。
もっともここにあるようなものは覚書か書き損じで、清書したものは町の図書館に収められている。
エンホーは俗に賢者と呼ばれる人種だ。多くの知識を修め、それを伝えたり流布していくことを生業としている。
かつて魔法文明のころには問えば必要な情報を答える魔法の道具があったと言われているが、それらが衰退、あるいは喪失した今の時代において、問えば即座に答えることができる賢者は場合によっては魔動機以上に人々に頼られる存在であった。
ただエンホーももう歳である。最近は少しのことで寝込むことも多くなり、つい最近まで風邪で臥せっていたところだった。
「それにしてもパトラネリゼ、ここのところ気が抜けてないかね。
何か気になることでもあるのかい?」
「気になるも何も、一週間前のあの光!
空を切り裂いて天津橋に大穴を空けたあの現象ですよ!
あんなのは見たことも聞いたこともありません、きっと何かの前触れに違いないです!」
「パトラネリゼ。そうやって未知の出来事に臆して不安がるのは賢者のやるこっちゃないよ?」
エンホーがため息をつきながら諭すが、パトラネリゼは指を振りち、ち、ち、と舌を鳴らす。
「臆するとか不安とか……私はですね、何かとてつもないことが起こるんじゃないかという予感に打ち震えてるんですよ!
誰も見たことがないような、そんなものに巡り合えるような……」
「はいはい、それもいいけど姉さん、朝ご飯だよ。それと仕事はいいの?」
「やばっ、師匠、この話はまた後で!」
仕事、と言ってもパトラネリゼがやっているのは町の中の便利屋のようなものだ。
ミグノンという町の名前は、この町がまだ村だったころの初代村長の名前からとられているらしい。
長い年月をかけて発展してきたが、エンホーが居ついて以来この町は加速度的に大きくなった。今では自治領と言っていい規模にまで成長している。
そんな町だから、人手は足りていたりいなかったり。
幼いながらも賢者として膨大な知識を備えているパトラネリゼは、最近足腰の弱った師に代わっていろんなところで知恵を貸している。
しかし賢者の本領が要求されるような事態はそうそうあるわけでなく、しかも大事であれば大体師匠に用向きが行く。
なのでパトラネリゼは町のいろんなところの仕事をちょくちょく手伝っては小銭を稼いでいるのだ。
「お弁当ですよー」
「おう、ありがとなパティ」
町を囲う四方の外壁のうち、南側の詰所に昼食を届けにきたパトラネリゼは配達の弁当を渡しながら世間話に興じる。
「変わりはないですか?」
「今のところは、と言いたいがな。
狩人連中が森の中があわただしいみたいなことを言ってる。ちょうどここ3,4日のことだ」
「それにほら、イゾーさんとこの息子が畑でファングボアに鉢合わせたって言ってたじゃねえか」
「ファングボアですか。また物騒な。被害は?」
「どーにか畑1枚で済んだとさ。そのうち森の中を掃除しなきゃいかんかもしれん」
ファングボア。いわゆる魔物であり、極めて凶暴な種類だ。
その名のごとく強靭な牙が生えており、それに突かれれば命はない。
なにより問題なのはサイズで、物によっては魔動機でないと危険なほど巨大なものもいる。一方でその肉はよく脂がのり大変な美味である。森でよく獲れる肉類といえばコガネジカだが、その味は比べ物にならない。
無論、仕留める難易度も比べ物にならない。コガネジカと同じサイズのファングボアを仕留めるのに5倍の戦力を要するというのがミグノンの狩人たちの共通見解だった。
城壁の外には畑が広がっており、ある程度まで行くとそこからは森になっている。
北の大国からははるかに離れており、このミグノンは人が住む領地としては最南端と言っていい。
この先は広大な森林山野が広がり、それははるか先の竜巣山脈まで続いている。その先に何があるのかは誰も知らない。
「あの光、竜巣山脈から走ったように見えたのです。
きっと何かがあったに違いない……」
伝承では北の大国トメルギアの初代王がこの大陸を支配していた強大な竜を倒したという。その竜が住処にしていたというのがあの山脈だ。
そういったこともあり、この地から南への開拓はあまり進んでいない。
何があったのかを知るすべもないが、ふと思うのだ。師から譲り受けた知識のみで満足して生きていくのか、と。
師は自分を連れてこの大陸とは別の大陸からやってきた。
一方の自分は物心ついてからはこのミグノンの町を離れたこともない。己で直接未知を知らずして何が賢者か、と。
その思いはあの天を裂いた光を見て以来より強くなっている。
「パティ、どうかしたのか?」
「ああいえ、なんでもないですよ。また何かあったら――」
「おーい、何か南からやってくるぞー!」
城壁の上にいた守衛が平原の向こうを指さした。パトラネリゼは慌てて城壁の梯子を上っていく。
「おいパティ、危ないぞ!」
「大丈夫ですから!」
城壁の上へと躍り出たパトラネリゼは急いで南のほうへと目をやった。
言葉にしようもないが予感がしたのだ。何かが、何かを運んできたのだと。
南へと伸びる道の向こうにそれが見えた。
白に赤や青で彩られた、見たこともない様式の魔動機が。
一方の白の機体は、
「おー、こんな広い畑見たことないわ」
「オレもだぞセルシア。なんかわくわくするな」
城壁を遠目に盛り上がる少年と少女の様子に、言いようもない悪寒を感じていた。
自分は何か、とてつもないものを解き放とうとしてはいないかと。
『……不安だ。果てしなく不安だ』