016-004
「おいしいごはんの次は広いお風呂とか、もう最高ですねえ」
湯船に肩までつかりながら、パトラネリゼは息をつく。ゼフィルカイザーのおかげで真水の心配はなかったとはいえ、航海中は体をふくのが精いっぱいだった。それからすればこうして湯船につかることができるというのは、
「はぁ……極楽極楽」
これ以上に的確な言葉はあるまい。
宴もたけなわとなった後、朱鷺江に案内されたのがこの大浴場だ。大、とつくだけあって随分と広い。故郷のミグノンにも公衆浴場があったがそれをはるかに上回る広さだ。
浴場はガラス張りになっており、外には星空と天津橋が望める。絶景とはこのことだろう。
浴場内には多くの女性たちが体を洗っている。全体的に年若い人たちばかりだ。
「それに妙に気合が入ってるような。どういうことなんでしょうね、シア姉」
「あたしに聞かれても困るって」
パトラネリゼの隣、湯船の縁に座ったセルシアからぶっきらぼうな声が返ってきた。
海の真ん中ということもあってか、全体的に魚類系の形質が目立つ。いわゆる人魚の姿の者がいれば、カノのように魚人といったほうが通じそうな外見の者もいる。中には魚の本体に手足が生えている部類もいる。
パトラネリゼの目から見ても綺麗どころがそろっているのだが、隣に座るセルシアの姿の前では皆霞んで見える。
女としてはややがっしりとしつつも、均整のとれたしなやかな肢体。水を弾く玉の肌。
うっすらと割れた腹筋に、わずかに膨らんだ乳房。
率直に言って貧乳の部類なのだが、彼女の野性的な美の前では巨乳などただのデッドウェイトにしか映らない。
どこか物憂げな表情に浴場の湯煙が合わさることでその美貌がさらに引き立てられており、同性からも視線を釘付けにしていた。
一方の己を見る。寸胴ボディにぷにぷにとした手足。いろいろと足りていないものが多すぎる。
「いーですもん。まだ育ちますもん」
「なんのことよ?」
「シア姉には関係ないですよ畜生」
ぼやいてそっぽを向くパトラネリゼだったが、しかしそちらには新たなる絶望が待ち構えていた。
「かっかっか。ま、島の女にとっちゃ祭りの夜は戦場だからな。
うちの島、明日をも知れない生活が長かったんでチャンスと思ったら即夜這いな風習が根付いちまっててなあ。
そっちの船員と夜の約束してた奴とかもいると思うぜ」
快活な、男気溢れる口調で島の風習を説明した朱鷺江は、セルシア同様に湯船の縁に腰かけている。首に手拭いをかけ、持参した酒瓶から酒を注いでいた。
「なんだったら一杯どうだ?
……って、何変な顔してんだよ」
パトラネリゼの目はその裸身に釘付けになっていた。
その肌は隅から隅まで様々な色に覆われている。しいて言うなら、明るい緑と紫の割合が多いように思われる。
そこに赤、橙、黄、青とあらゆる色がまだら模様になってひしめき合っていた。
賢者であるパトラネリゼは古今に確認された様々な形質について知悉している。そのパトラネリゼでも、朱鷺江がいかなる形質でそのような肌をしているのかはわからなかった。
だがしかし。パトラネリゼの視線を掴んで離さないのは、その肌ではない。朱鷺江の胸部の大霊峰二連山だ。
ビキニの拘束から解放された乳房はその威容を惜しげもなく晒していた。
パトラネリゼは思う。ゼフィルカイザーには否定されたが、やはりあの乳房、己の頭くらいはあるのではなかろうかと。
セルシアもそのプレッシャーに表情を崩していた。ジト目でおっかなびっくりと朱鷺江に尋ねる。
「いや、その。重くないの?」
「これか? いやもう、重いのなんの。寒くなると肩凝りひどくなるしたまに切り落としたくなる。
あー、生き返るわー」
ざぶんと湯につかると、双子山が双子島になった。心底疲れたというように朱鷺江が首をゴキゴキと鳴らす。
「ふぃ~、風呂の時と泳いでるときは気にせずに済むんだけどなー。
なんならこれ、いる?」
「いらない」
「何言うんですかシア姉!? もらえるもんはもらいましょうよ!」
「ちんまいの。あたしがこんなもんぶら下げて飛び回ったらどうなると思う?
――乳が千切れるわ」
セルシアの戦闘速度を知るパトラネリゼとしては決して否定できなかった。
「いやもう、野郎どもはスケベな目を向けるわ、肩凝り通り越して首が吊りそうになるわ。邪魔で仕方ねえ。
酒、飲むだろ?」
「もらうわ」
酒瓶から注がれた酒は無色透明で、セルシアにはなじみのない物だ。杯を飲み干すと、喉が焼けるように熱くなってくる。
「うわ、きっつい酒ねえ。もう一杯」
「はいよ。イケる口だな、お前。セルシアでよかったっけ」
「そーよ、えーと……デカ乳?」
「朱鷺江だよ、トキエ。もしくはキャプテン」
「諦めてください朱鷺江さん。三か月ほどの付き合いの私もいまだに名前覚えてもらってませんので」
少女のため息に交じる哀愁に、今度は朱鷺江の顔が引きつった。
「ところでシア姉。ちょっと聞きたいことがあるんですが」
「なによ」
「なんでエル兄のこと微妙に避けてるんですか?」
アウェルもゼフィルカイザーもいないこのタイミングならばと、パトラネリゼは尋ねてみた。
ヴォルガルーパーとの戦いが終わって、アウェルがしばし寝込んだ。その間セルシアはアウェルに付きっきりだったのだが、いざアウェルが目を覚ますとセルシアは以前のような過保護っぷりを見せなくなった。これはまあいい。
「お母さんと一体何があったんですか?」
あの日、セルシアが実母のヘレンカと死闘を繰り広げトメルギア公宮が崩壊した。それ以降からセルシアはあからさまにアウェルを避けるようになった。
別段邪険にしているというわけではないのだが、いつまでもこのままだと旅路に差し支える。
むっとした表情をしたセルシアだが、すぐに嘆息して表情を崩した。
「まあ、あたしもどーしたもんかわかんなくなってたし」
問われたセルシアは、遠い目で語り始めた。
「アウェルってさ。昔はまあ村でいじめられてたわけよ。んであたしが庇ってやってたんだけどさ」
(あ、そっからなんですか)
「で、姉ちゃん姉ちゃん言ってたんだけど、父さんが死んでからあんまり姉ちゃんって呼ばなくなったのよ。
背伸びしてるなーと思ったけどまだ弱っちいし、あたしが守んないと、そう思ってたんだけどね」
パトラネリゼはトメルギア公都直前での諍いを思い返す。あのときもセルシアはそんなことを言っていた。
――あんたがやる必要ないじゃない。
――この白いのは物騒なことを運んできてる。
――あんたは木こりやりながら木彫り細工で生活すればいいじゃない。
あれもアウェルを案じてのことだったのだろう。言い方には擁護の余地はないが。
「でもまあ、あれよ。助けられたじゃん?
あのときなんていうの? こいつも男なんだなーって思っちゃってさ。
そしたらこう、なんていうか、こう、さ」
「ほうほう」
気恥ずかしげにしながら、何と言ったものかと言葉を選ぶセルシア。似合わない乙女チックな様子にパトラネリゼもにわかに期待が高まる。
結局言葉にするのは諦めたのか、彼女は、親指を立てて自分を指した。
「ここに、ガツンと来たのよ。ガツンと」
「そこで下腹部を指すのは何故!? 普通胸でしょう!?」
「女がどこで子供こさえるのか知らないの?」
「いえ知ってますけど、知ってますけどね!?」
コイバナ的なものを期待していたのに発情期の獣じみた回答。
二次性徴もまだこれからのパトラネリゼにとっては理解できない領域の話だ。すがるように朱鷺江に視線を向ければ、
「いやー、わかるぜ。ほんと、ガツンと来るんだよなー」
「わかり合ってるー!?」
海賊娘の感性は蛮族娘に近かったらしい。
「そんでまあ、母親の件が残ってるうちはそっちに気ぃ取られてたんだけどさ。
そっちが片付いたらなんかこう、妙に意識しちゃって。
あいつは家族で、弟みたいなもんで、ずっとそうだと思ってたのに……変わらないものなんてない、か」
頬を赤らめながら、かつてゼフィルカイザーに投げかけられた言葉を口にするセルシア。そんなセルシアを、ニタニタとした笑みのパトラネリゼが揶揄してくる。
「むふふ。つまりシア姉はエル兄にホの字と?」
「そんなんじゃないわよ、まだ。たぶん、ね。
あたしがあいつの何にガツンとやられたのかわかんないし。それに、今のあたしじゃあ母親とそう変わらないじゃない」
そう神妙な風にいうセルシアに、パトラネリゼも下卑たにやけ面をやめる。
「その、お母さんとは……?」
「話したってほど何か話したわけじゃないわよ。
でも、あんたも一目見たなら分かったでしょ。あれがどういう女か」
言わんとすることはパトラネリゼもわかるが。一方、横から聞いているだけの朱鷺江は首を傾げた。
「なんだ? 母ちゃんとモメたりでもしたのか?」
「あー、まあシア姉はお母さんと生き別れてまして。それで、そのお母さんと会うために旅をしてきたんですけど」
「ふんふん」
「そのお母さんというのが傾国の美女でして」
「美人の母ちゃんならいいじゃねえか」
「いえ、美しさもさることながら、腕っぷしで一国を滅ぼしかねない凶獣でして。実際城を崩壊させたりしましたし。それも生身で」
朱鷺江は冗談と思い笑い飛ばそうとするが、パトラネリゼの神妙な表情に杯が止まる。セルシアも嘘を言っている目ではない。
「……ま、まあそれが本当だったとするぜ。セルシアはその母ちゃんの何が嫌なのさ?」
「腕っぷしがこの世の全てだと思ってるところ」
パトラネリゼがどう言ったものか、と思ったところにセルシアが一言で言いきった。とどのつまりはそういう手合いだ。そして、それは確かにセルシアにも通じる部分があったものだ。
アウェルを頭ごなしに庇護していたのも、結局はアウェルが自分より弱いものだとみなしていたためだ。
それは確かに事実だ。だが、
「腕っぷしが全てだっていうなら、なんであたしがアウェルに助けられてるのよ」
そう。それだけが強さでないと、今のセルシアは知っている。
「だから――」
伸ばした手が力強く空を掴む。
「あたしも、強くなりたい。力じゃない何かで。
そうしたら、もっといろんなことが分かると思うから」
パトラネリゼは、その姿に見惚れた。それほどにセルシアのたたずまいは美しく、格好良かった。朱鷺江もヒュウ、と口笛を鳴らして酒を煽り、
「それにほら。強くなっとかないとガルデリオンのもんにならなきゃいけないでしょ」
「ブ――――ッ!?」
何が起爆剤となったのか、朱鷺江が勢いよく酒を噴き出した。
「ちょっ、朱鷺江さん!? どうかしたんですか!?」
「げほっ、ぐほっ……鼻が、鼻の奥が酒で焼ける……!!
い、いやすまんぜ。で、その、なんだ? 強くならないと誰だかのもんに、ってのは」
「あたしが父さん以外で初めて負けた奴なんだけどさ」
「へ、へえ。どんな奴なんだ?」
「黒い全身甲冑に銀髪で仮面つけてる人ですけど……あの、朱鷺江さん、顔が青いですよ? お酒が悪い回り方してません?」
「い、いや大丈夫。大丈夫だぜ。んで、そいつとどうしたんだ?」
「お礼参り済ませて今は一勝一敗なんだけど、あいつ、あたしに「君を必ず手に入れる……!」とか啖呵切ってくれてさ。
いやー、女冥利に尽きるってのはああいうののことを言うのかしらね」
「――ごふっ」
朱鷺江、無言のダウン。
「どしたの、デカ乳」
「なんでもないぜ、おう。でもそいつのことが気に入らないから強くなりたいってわけだ」
「や、あたしあいつのことは嫌いじゃないわよ?
次に負けたらマジで嫁に行かにゃいけないし。反故にしたら女が廃るわ」
「シア姉的にガルデリオンさんはアリなんですか」
「あいつに負けたときもこう、なんかガツンときたしね。その上であんだけ情熱的に欲しがられたら悪い気はしないって」
惚気るように言うが、それは男は強ければそれでよしの母親と違わないのでは、と内心で突っ込むパトラネリゼ。しかし、セルシアは緩んだ表情を引き締めた。
「だけど、あたしの方で納得がつかないうちに負けるわけにはいかないもの」
(変わらない物はない、ですか。ゼフさん、シア姉もちょっとは変わったみたいですよ。
でも、エル兄も大変ですねえ。いえ、どっちかというと大変なのはガルデリオンさんのほうでしょうか)
パトラネリゼも納得が行ったというように頷いた。だが一方、納得が行かないという表情の海賊娘の姿あり。
「どったのデカ乳」
「どうする朱鷺江、ここで始末するべきか……!?」
セルシアのことなど気にも留めずに血迷った目で自問自答する朱鷺江。首を傾げるセルシアだったが、
「――なにこれ。ちょっとデカ乳」
「あん!? こっちは忙しいんだよ、ちょっと黙って――おい」
美人どころ二人が、危機感とともに視線を水平線へと向けた。
一方、アウェルはというと。
「なあ、オレたち友達だよな?」
『ああそうだ』
「何度も一緒に死にそうな目にあったよな」
『ああ。だが、そのたびに力を合わせて切り抜けてきた』
「――だから女湯を見せやがれくださいお願いします!」
『文脈がまるで繋がっとらんわ……!!』
コックピット内で深々と頭を下げるアウェルに全力で怒鳴り返すゼフィルカイザー。
セルシア達が風呂に入りに行くのを見届けたアウェルは全力ダッシュでドックまで戻りコックピットに滑り込んだ。そしてこのやりとりを延々繰り返している。
『そもそもパティとも通信が繋がらんし、映像も真っ暗だ。おそらく通信機が脱衣所に放置されている。諦めろ』
「なら風呂の場所はわかるんだろ!? 外から覗きに行こうぜ!!」
『一発でバレるわ!!』
「なんだよ!! 前は覗きに行こうぜってお前の方から誘ったじゃないか!」
『誘っとらん、尋ねただけだ! 貴様こそ見慣れてるとかほざいていただろうが!!』
「るっさい、これ以上はオレの意欲が満たされないんだよ!!」
こいつこんな性格だったかなあ、と中枢回路に過負荷を覚えるゼフィルカイザー。
以前は何か機会があったら盗撮しといてやろう、程度のことも思っていた。しかしアウェルも成長したし、セルシアも一目置くようになったのだ。必要あるまいと思っていたらこれである。
(もしコックピット内をイカ臭くされるようなら縁切りも考えねば……)
アウェルに対して非情な選択がちらつく。
全年齢対象を志す彼にとって、かような行いを見逃す情けはなかった。
『忍び込むならハッスル丸でも誘え、あいつなら専門だろうが。
というかハッスル丸はどうしたのだ。あいつも風呂か?』
「ハッスル丸なら飯の後、カノの姉ちゃんと一緒にどっかに行ったぞ」
(なんだろう、すごく嫌な展開の予感がする)
あのペンギンが何をやらかしても動じないようにしておこう、そう覚悟を改める。
『大体あれだ。貴様、セルシアの裸体を拝んでどうするつもりなのだ』
「そりゃあ、あれだよ、うん。目に焼き付けたら彫り出すんだよ」
『……彫刻か? というか意欲とはあれか。創作意欲か』
「おう。そしたらいつも拝み放題だぜ……!!」
以前、ゼフィルカイザーはアウェルに塗装技術を教えてやろうとしていた。自身のフィギュアをグレードアップさせるためだ。しかし、これを聞いて教えるとさらにまずい事態になりかねないという危惧が鎌首をもたげてきた。
(あのセルシア像といい、降りてきたこいつは凄いもの作るからな……)
そんなことを考えていると、ぐらり、と足元が揺れる感覚があった。
『む――?』
「どうかしたのか、ゼフィルカイザー?」
『そっちは慣性制御が効いているからわからんか。なに、船が波に揺られたようでな――なに?』
自分で言って首を傾げる。ドック内にも波はあるが、グラエブランド号ほどの大船を揺るがすほどではない。となれば、ドックの入口から大波が入り込んだのか。
即座に首をドック入口へと向けると、高波がドック入口から断続的に押し寄せていた。ドック内の船が波に煽られて揺れている。
違和感を覚えたゼフィルカイザーは船の当直に声だけかけて船から飛び降り、ドック内を走って水門へと向かう。
観音開きの水門の脇にある魔動機用と思しき出入り口を抜けると、メンテナンス用の通路だろうか、ゼフィルカイザーが立ち回れる程度の足場があった。そして、その先に広がる夜の大海を見た。
星明りと天津橋の光に照らされた常闇の海原。そのまま死者の国にでも繋がっているようにすら錯覚する。
『海面には何も見えんな……気にし過ぎか?』
「いや、ゼフィルカイザー。なんかいるぞ、これ」
それまでの色ボケした様子の抜けたアウェルの声に、ゼフィルカイザーもセンサー類に意識を回す。暗視モードでも目立った物は見当たらない。ならば、とサーモグラフィーに切り替え、
『――なんだこれは』
そこに、膨大な数の熱源反応と、そして一際長大にのたうつ熱源反応を捕えた。




