001
澄み渡る青空を白い雲が流れていく。目を凝らせば、その雲のはるか向こう、白くはあるが雲とはまるで違うものがあるのが見て取れるだろう。
中天よりいくらか外れた場所、はるか天空を幾重かになった白い帯が通っており、地平線の果てからもう片方の果てまで青空を両断している。
そのさらに向こうには不揃いな形をした二つの月。満月なのだろう、小さいほうの月は綺麗な真円を描いているのに対して、その向こうにある大きいほうの月はあちらこちらが抉れ、欠け、でこぼことした輪郭をしている。
その青空をさらにもう一つ、山脈が隔てている。いかほどの高さがあるのか、山頂あたりは雪化粧を纏っており、それが常の姿であることをうかがわせる。
その山脈の、麓に近いあたり。木々の覆い繁る山肌を走る二つの影があった。
「はっ、はっ……撒いたかな?」
息を切らしながらそう言うのは、二人のうち先を走っていた少年だ。茶色の直毛が自己主張するようにハネており、彼らが相当な勢いで山の中を走っていたことがうかがえる。
その身なりはやや薄汚れており、見る者が見ればそれがただ山中を走り回っていたためではないだろうことがわかるだろう。
左手には鞘に収まった剣。何の変哲もない、ごく普通の拵えのものだ。さほど長くもなく、少年用にあつらえたものだろうことがうかがえる。
「セルシア、大丈夫か?」
そう言って彼はもう片方の手で引っ張ってきた相手に問いかけた。無理な走り方をしてきたのか、膝に手をついて息を整えている。
「その、ごめん。だけどもうこうするしかないと思って―」
弁解するようなことを言う少年。一方の相手は息が収まってきたのか顔を上げながら、
「なにさらしてんだゴルァ!?」
全力で両の拳を振りぬいた。容赦のない一撃は少年の顔面を打ち抜き、中を舞った少年は半回転して地面に落ちる。
少年を殴り飛ばした相手、セルシアと呼ばれた少女は悪びれる様子もなく少年を睨みつける。
少年もこうした扱いに慣れているのかすぐに立ち上がり、こちらも苦虫をかみつぶしたような顔でセルシアと相対する。
「いや、つってもだよ姉ちゃん? あのまんまだと姉ちゃん生贄だよ? 相手ドラゴンで餌にされちまうよ?
んなことになったら俺、おっちゃんにどうやって詫びればいいのさ」
「あ゛? なにか、このあたしが、ただのバカでかいハネつきトカゲなんぞに食われるとでも思ったの?
あんたあたしナメてる? どうなのよアウェル」
本気で心配している様子の少年、アウェルの言葉に対して、セルシアはこれも本気で自分が死ぬ気など全く無いという調子で返す。
二人で立ち並ぶとセルシアのほうが頭半個分くらいは背は高い。姉ちゃん、と呼んだあたりセルシアのほうが年上なのだろう。
服装はやはりアウェル同様薄汚れているが、顔立ちはそこいらの村娘とは思えないくらいに整っている。
乱れきった紅色の髪、大きく見開かれた金色の目に、瑞々しく健康的な肌。目筋も鼻筋もなかなか見れないバランスで調和しており、着飾れば相当な美少女になるだろうことが伺える。
もっとも現状、その整った顔はなんともガラの悪い表情を纏っているのだが。張りのある声も紡ぐ言葉はやたらとドスがきいている。
「いくら姉ちゃんでもドラゴンは無理だっての! こないだ村を襲ってきたの見ただろ、村長の家よりもでかかったんだぞ!
あんなの戦闘用の魔動機でもないと相手にできないって!」
「サイズがでかいんならでかいでやりようってのがあるの。
いい? この世にはぶっ殺すやつとぶっ殺される奴しかいないの。あたしぶっ殺す側。なんの問題もないでしょ」
「だからもう少し現実を――ああいいやなんでもないですはい」
トチ狂った原理に反論しようとしたアウェルであるが、セルシアの凄味っぷりに言葉を濁す。
実際のところアウェルの知る限り、セルシアが万全なら万に一つどころか百に一つくらいの可能性でドラゴンの首級を上げてきてもおかしくないのだ。そんな想像はまずありえないことなのだが、目の前の人の形をした何かはそう思わせる程度に強いのも事実であった。
「だけどさ、そりゃセルシアが万全だったらそうかもしんないけどさ。剣取り上げられて両手縛られてたらいくらなんでも無理があるだろ」
そう言われるとセルシアの顔のしかめっぷりがいっそうひどくなる。彼女の両手は縄だけでなく鎖で厳重に縛り上げられていた。何重にも巻かれており、この拘束を施した周囲の者たちの彼女に対する評価がうかがえる。
「っとに、あたしの剣さえあれば……どこにあるか知らない?」
首を振るアウェルにため息をついたセルシアは右足を靴から抜くとその足でアウェルが手にした剣の柄を蹴りあげた。余程よい角度で蹴られたためか、剣は鞘からすっぽ抜け、くるくると回転しながら宙を舞い、差し出していたセルシアの両手の拘束を切り裂いて地面に突き刺さった。僅かでも足さばきなり手の運びなりが狂っていればセルシアの腕が落ちていただろうに、セルシアにはなんら臆した様子もない。
「あのな、行儀わるいぞセルシア。剣を足で蹴り飛ばすとか、おっちゃんが見たら説教じゃ済まないぞ」
苦々しい顔でそう咎めるアウェル。手首に絡んだ縄を取っていたセルシアが、その一言にしゅんとなる。だがそれも一瞬で、
「もういない人のこと気にしたって、仕方ないでしょうが」
そう言って、地面に突き立った剣を引き抜き、アウェルからひったくった鞘に収める。
「ちょっと借りとくわよ」
「あいよ」
「で、どうすんのよ。あいつらにあたしら探しにくる度胸なんてないでしょうけど、でも村にも戻れないわよ」
「旅に必要そうなもんだけ集めて隠しといた。それ持ってどこか別の村なり町まで行こう。もうそれしかないだろ」
「あんたの魔動機も隠しといたの?」
「あれは流石にそのまんまにしとく。あれ持って逃げたら村のみんなが困るだろ」
「……それでいいの? 一応おじさんおばさんの形見でしょうが」
そう念押しするセルシアの口調は、先ほどまでの荒っぽさとは打って変わって冷静だ。そう言われてアウェルの表情にも一瞬迷いが浮かんだが、
「仕方ないよ。オレと姉ちゃんが暮らしてくほうが優先だ」
「……ごめん」
「いいって。でもまあ、とりあえずは村のみんなと鉢合わせないように山を下りるのがさ、き――」
その時。僅かに地面が揺れた。それと同時に、鳥が大量に飛び立っていく音。それが徐々に徐々に二人へと近づいてくる。
「マズ――」
「――ちょうどいい」
収めた剣の柄に再び手をかける。
「この溜まった鬱憤のウサ晴らしを――」
「いいから逃げるぞ姉ちゃん!」
馬鹿をやろうとした馬鹿の手を引いて、再び少年は走りだした。