金魚は海で生きていけない
金魚が宙を泳ぐようになったのは、海への強い憧れからでした。
それは少女の手の平がもみじのように可愛らしくあったころ、少女は夏祭りの夜店で売れ残ったような貧相な金魚に語りかけました。
「お前は海にいたことはある? こんな水槽よりずっと大きな水場なの。どこへ行っても行き止まりがないのよ」
少女は、もっと素敵な言葉で金魚を誘惑したかったのですが、それはできませんでした。なぜなら少女も、海を見たことがなかったからです。
その頃、少女には幼馴染の少年がいました。よく少年は、海が好きだと少女に笑って言ったものです。しかし幼い言葉では、その実態を表すには不便でした。だけれど海の魅力だけは、少女の胸を躍らせました。
その時の少女と同じように、金魚は海の魅力に取りつかれました。
「でも彼は言っていたわ。空を見上げれば、まるで海に立っているようだって」
金魚は海に恋い焦がれ、そっと天を仰ぎました。まるで手を伸ばすように、水と空の境目をつつきました。熱に浮かされたようにふらふらとたゆたい、いつしか宙に飛び出していました。
ひんやりとした空気は、まるで今までいた水の中のようです。そして金魚は、水の中には戻れなくなっていました。
それからというもの金魚は少女の周りを活発に泳ぎ回り、まるで幻想のように美しい色彩で目を引こうとしていました。否、それは少女の幻想であったのかもしれません。そうだとしても、少女は決して金魚に触れはしませんでした。金魚が火傷しないように、日陰が続くことを願いました。
少年はもう旅に出たきり、戻ってきません。あんなに大きな世界へ一人で出て行って、一体何を見たいというのか、少女にはわかりませんが。それでも彼が戻ってくるのを、少女は日陰の中で待つことを選びました。
いつからか、星に願うのが少女の日課になっていました。少女の指先が細く美しいものになったころです。
「どうか一目でも、彼に会わせてください」
意地悪な星たちは、そんな退屈な願いは聞いていられないとわざとらしく欠伸をします。
「彼に会えないのなら、どうかこの想いを私ごと海に沈めてください」
意地悪な星たちは、ここぞとばかりにウインクし合いました。可笑しそうに笑う、きゃっきゃという声が夜空に響きます。星が一つ落ちてきて、少女目の前でくるりとまわりました。まるで馬鹿にしているように、誘っているように。
星がくるりと回ったその時に、しょっぱい水が少女をさらいました。十秒もかからない出来事でした。世界は海に飲み込まれたのです。
霞ゆく意識の中、少女はそれでも星に願っていました。
(海に沈んだわたしの想いを、いつかあの人に)
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灰色に死んだサンゴ礁を見ると、なぜだか落ち着く少年は、もう立派な青年となっていました。今でも青年は海が好きで、海の中に潜るのが好きでした。背中から供給される酸素の、許す限りずっと、海の中にいたいのです。
そろそろ上がろうか、と陸を目指す青年は気付きました。
ゆっくりと降りていく車や、所在なさげに水中に残された家。もがきながら沈んでいく人々も、そこにはいました。
どうしたことだろう、と青年は不安にかられつつも陸を目指します。不思議と、恐怖は感じませんでした。漠然とした不安だけが、青年を動かします。いっこうに海は終わりません。
酸素が残り少なくなり、青年が自らの死を悟った時です。青年は見ました。海の向こうの星に向かって祈る少女の姿を。少女はどこか恍惚とした表情で眠っています。
なんて美しいのだろうと青年は思いました。星空に照らされてたゆたう少女は、まるで誰かのようで。
青年は動くのをやめ、ただ懸命に手を伸ばしました。
そんな青年と少女を見ながら、哀れな淡水魚は沈んでいきます。
金魚は、海の中では生きていけないのです。
ちょっと意味がわからないです(眠)