(六)
騎道は、傍らにある和紙を綴じた一冊を手にした。
『六角白楼陣』の表書きが流麗な草書で認めてある。
「松川さんからこの写本を渡されて困惑しました。一体どういう意味があるのか、もう明かしていただいてもいいのではありませんか?」
藤井は、チラリと騎道の手元に目をやった。
三橋の試合に付き合わされ、彩子を秋津会長のおかげでなんとかかわし、慌てて図書室に飛び込んだ騎道だった。
すでに西日は、広い自習机を黄色く照らし始めていた。
待たされて腹を立てていたのは、藤井のお供の松川ただ一人。藤井本人は、「そんなに息を切らして」と、笑う程度だった。
その無邪気な表情と打って変わって、今は謎めいた顔立ちで半眼を伏せていた。
「あなた様が必要となさっていたから。違いましたか?」
「なぜそう言い切れるのでしょう?」
「……星が、そう語りました」
「僕の生年月日をご存知なんですか?」
薄く口元が微笑んだ。
幻影のように、艶やかな金色に辺りは染まってゆく。
「いいえ。存じません。
知る必要も私にはありませんわ。
祖父一宗朗が見出した極意。白楼講の神髄ですわ」
騎道の手から、藤井は写本を取り上げ伏せた。彼女の頭脳には、この中の一字一句が記憶されているのだ。
「生まれは、流れ生きる日常には、大局すぎます。二つの個人の間で意味を持つのは、初めての合。いつであったのかが強い運命を示します。
あの日は強い運命の日でした。恐らく、この私には生涯二度とない出会い。
あなたは、大きすぎて私には何であるか占断も下せないほどの存在です。美しい蒼碧の光に守られた……。
それは、あなた様のみ、心当たりがございましょう?」
巫女のように聡明な顔立ちで、藤井は騎道を伺った。
彼女の言葉はほとんどが真実である。まさしく現代においては最高の巫女姫であるに違いない。
騎道はもう隠すことはなく、素直に受け入れた。
「わかりました。その日があなたと僕にとって、どんな意味をもつのか。これから僕自身で解いてみます。
お互いに知ることがあって、判らないことがある。フェアですね。少し安心しました」
「騎道様はお優しいのですね。影一つなく一心で」
率直な騎道の言葉に、藤井は儚く微笑んだ。
「決め付けるのは無用心ですよ。恐ろしく冷酷だから優しくできるのかもしれないのに」
「私は信じておりますわ。私の前に引き合わされた人ですもの」
どちらも視線を合わせるようなことはなかった。
だが、お互いの間に、いいようもなく深い時間が流れていた。それは静かに、これから明かされる真実の扉を、大きく押し開く力をもっている。
連綿と伝承されてきた意味が、この時にあった。
出会う為に。
10/16 PM1:26
土曜日の午後、駿河と隠岐、騎道の三人は、私服で再び落ち合った。
すでにお互いの手の内を明かしてある。唯一固辞しなければならないのは、彩子にこの一連の行動を悟られてはいけないということ。よって、学園内で顔を合わせるのはよくないと、駅裏の人目につきにくい喫茶店を選んだのだ。
「まず騎道さんが睨んだ、手下と思われる二人はこれです。
二人とも彼とは同級生で、稜学のOBです。こっちが、矢崎といって血の気の多い奴なんです。この大柄の方が、潮田啓二。潮田と彼とは主従関係に近い間柄だそうです。
潮田火器専門店の息子で、店自体、秋津の本家とは関わりが深いそうです」
どこからもってきたのか、卒業アルバムを隠岐は広げてくれた。写真の顔は二つとも、騎道には覚えがある。
『マジェラ』で統磨の盾になった二人。彼らは、街中で出会った二人だった。
ポートレート風にレイアウトされたこのページには、潮田と並んで誇らしそうにメダルを手にする一枚があった。
もう一方の手には、ライフルを二人とも抱えている。
「これは……?」
駿河は騎道の疑問のあとを引き取った。
「秋津会長と同じく、統磨も射撃の腕は最高だったんだ。
聞いた話では、会長に射撃を教えたのは、統磨らしい。やはり血だな、元武家の家柄上、素質はあっただろうし。
恐らく、実行犯はこの三人。首謀者は秋津統磨。
で、決まりだな」
「三人とも、統磨の経営する『マジェラ』に入り浸っていて、四件に関するアリバイの裏を取るのが難しいのが気にかかります。それと使用した凶器も、潮田が隠蔽工作をしているでしょうから、僕らが証拠を掴むのはとても無理で。
でも、潮田くらいの銃器類の専門家なら、エアライフルの殺傷力をあげることは可能なはずです。二件の殺しの犯行は、確実に彼らだと断定できますよね」
「もう一つ、2月の老婦人の事故があったビルは、秋津本家がオーナーだ。建築会社も秋津財閥の傘下にある。
事故は昼時に起きた。だから、事故の瞬間も前後も、目撃した人間は誰もいなかったそうだ。誰も見ていないと、口を揃えさせるのは、秋津家には簡単なものだろうが」
家ぐるみの隠蔽工作、もしくは、統磨の次期後継者としての独断による隠蔽の可能性も、駿河は示唆した。
「問題は上坂さんの事件ですね。あるのは方位陣からの推測だけで、状況は不可解すぎるというだけの事故ですし」
今更なぜ、騎道が上坂の事件の疑問を持つのか、隠岐は不思議だった。
「秋津家との関連性が掴めないというだけで、他の三件と同じく無差別なターゲットにされただけだと思いますけど」
無人トラックの暴走という超常的な事故である上に、生徒が下校していた為に、目撃者が一人として居なかった。
犯人の手掛かりが皆無で、実際の所、上坂の一件を他の三件から別に考えたとしても、推測に支障はなかった。
だが、この件を持ち出したのは、依頼者のあざみ姫であり、騎道自身でもあった。そして彼ら二人の推論は、上坂の死を必要としている布陣を語ったのだ。
「恋人の連城には、当たってみたんだろう?」
「上坂さんが恨まれる理由も思い当たらなければ、別段変わった様子もなかったと言われました」
騎道は指先を眼鏡の縁にかけ、押し上げた。
「でも彼女は、何かを隠している様子だったんです」
騎道が上坂の名前を出した瞬間、連城真梨は沈鬱に包まれた。そんな大切な一人の死を悼む彼女に、騎道は疑念を抱きたくはなかったが、たった一人、執行部での上坂の側近であった二年生が漏らした言葉は、小さく肯定していた。
「彼の話では、上坂さんは、夏休み前から何かひどく悩んでいたことがあったらしいんです。それが何かと口に出す人ではなかったので、彼も自分の思い違いかもしれないと、断っていましたけど。もっと身近にいた連城さんが、それに気付かないというのは、あまり考えられません」
「事件と関係があるんなら、連城さんが隠すっていうのは、筋が違うでしょう? 関係ないことかもしれませんし……」
騎道の真剣な眼差しに、隠岐は語尾を濁した。
「僕も、そうであることを祈ってる。
だが、関連性があるならば、事件の真相に近付く、今までにない手掛かりになるような気がするんだ。
とにかく、もう一度、週明けに彼女と会ってみます」
傷付いている女性を問い詰めることになる。これは誰にとっても、気の重いことだった。この思いは、騎道が手にするブレンド・コーヒーの後味を、微かに苦くしていた。
「そちらの状況はどうなんだ?」
尋ねる駿河は、洒落たシングルのジャケットを、嫌味なく着こなしていた。現役のモデルらしいが、少し背伸びをしているように、騎道には感じられた。
「変化無しですね。気配もないし。やり方がまだ甘かったのかと、心配になってきました」
「あなどるなよ。統磨のバックには、秋津の本家がいる。
奴らは、家名を守る為になら、何だってする」
「『猫狩り事件』ですか? その時に、秋津本家とあなた方は関わった?」
過去の事件を思い起こして、駿河は視線を鋭くしていた。
「……圧力をかけてきたんだよ。ガキの四人に向かって、口を閉じなければ、そろって排除するとな……!
あれは本気だった。奴らはそういう手合いだ」
「彩子さんも、本家の圧力が存在することを知っているんですか?」
「噂では知っているだろうが、実際、俺たちが脅されたことは彩子に教えちゃいない。知れたら、逆上するのが目に見えてたからな」
「どう決着をつけたんです? 四人が全員存命だということは……」
四人とも無事で、秋津本家も何ら家名に傷はないのだ。
「……。さすがに俺と賀嶋は手を引くことを考えた。目をつぶって、世間に告発することも諦めた。
問題だったのは、彩子だった。どう納得させたらいいか……、本気で参ったね」
カランと、喫茶店のドアベルが鳴った。ドアを開けた青年が、駿河の名前を呼んだ。
「あとの詳しいことは隠岐に聞いてくれ。先に失礼する」
駿河は立ち上がりながら、テーブルの伝票に手を伸ばした。
「先に抜けるお詫びだ。これくらいはさせてくれ」
騎道の返事も待たず、精算を済ませ出て行った。
「悪いことをしたな。何か予定があったらしいね」
隠岐は、軽く首を振った。
「モデルの仕事です。先輩、他のは全部キャンセルしたんですけど、これだけは毎月の契約だからって、断れなかったそうなんです」
騎道は驚いた顔をした。
「キャンセルって、いつからいつまで?」
「んー、騎道さんとの話しがついた日から、今月一杯かな?
先輩、そういう話しをしないんですよね」
「……無理をさせたんだな」
隙なく決めたファッションは、モデルとしての正装なのである。中途半端な気持ちで、華やかな世界にいるのではない。それが判る騎道は、駿河に申し訳なく感じていた。
「気にしないで下さい。先輩はいつだって、何か起きればそうするつもりですし。マネージャーの間瀬田さんも、先輩の行動パターンは承知してますから」
今に始まったことではない。事もなく隠岐は言い切った。駿河の要求に泣くのは、先ほどの青年だけということか。
「騎道さん、これから予定、何かありますか?」
目の前のクリームソーダに、隠岐の関心は移っていた。駿河と騎道はブレンドコーヒーで、一瞬気が引けたが、隠岐はお気に入りを通したのだ。
「いや、何もないよ。それがどうか?」
「できる限り騎道さんと一緒に居ろって、先輩の命令です」
「え? あ、でも、それはありがたいけど……」
遠慮するように、騎道は語尾を曖昧にした。
「ほら、奴らが来て何か起きて、事がおおっぴらになった時、僕が居れば、僕が犯人に狙われたってことにできるでしょ? 騎道さんは、僕を偶然助けたことにできるし。
……何か、誤解したでしょ?」
「いや……、あー。……うん、少し」
照れ笑いを、騎道は隠岐に見せた。
「いやだな。僕の腕力なんか期待しないで下さいよ。
僕、パソコン離れたら普通以下の通行人ですよ。
騎道さんの身代わりになるくらいしか、手伝えません」
「そんなことないよ。かなり危険じゃないか」
隠岐は体を乗り出して、真剣な目をする。
「騎道さん。彩子さんもそうですけど、三橋さんにもこのこと知れたら困るでしょ? 三橋さん、ほんのこの前にも、先輩のところに来て『彩子を変な事件に巻き込むなっ』て脅してったくらいですから、きっと」
知られたら、縁を切られるだけで済むはずがない。騎道は、囮になろうとまでしているのだ。
「それくらいのフォローは、僕ら引き受けますから。
必ず気を付けてください。彩子さんのためにも。
僕ら三人の誰かが、奴等に怪我なんかさせられたら、絶対に彩子さん、おとなしくなんてしてませんよ。
そんな人なんです。優しくて一生懸命で、だから」
「ありがとう。感謝するよ」
一生懸命なのは、隠岐の方である。彼は今でも、彩子は大切な仲間の一人としか考えられないのだ。
「僕も、彼女をこれ以上苦しめたくないんだ。
正義感が人一倍強い人だけど、彼女が女性で、感情が豊か過ぎて、逆に犯罪者の気持ちも汲んでしまうはずだ。
事件で微妙であればあるほど、それは強く出て、苦悩させてしまう。今度の事件は、その典型だと僕は思うんだ。
統磨さんは、秋津会長兄弟の実の兄だ。運良く解決できたとしても、かなり後味の悪いものになるだろうからね」
真実は、時に残酷な剣に姿を変えるのだ。
統磨が真犯人であると確信した頃から、騎道は秋津兄弟に対して気の引ける思いがしていた。正義は正しく、真実は常に翻せない過去である。だが……。
恐らく彩子も、騎道と同じ迷いを抱くだろう。女性であるが為に、深く強く、二つに感情を分裂させてしまう。
「先輩と同じこと考えてたんですね。不思議だな。
僕ら、ていうか、僕がわかったのはずっと後のことでしたけど、賀嶋さんと駿河先輩は『猫狩り事件』時、それに気付いたそうです。
本当はあの頃の統磨さん、家のプレッシャーでストレスが溜まってて、精神的に酷い状態だったんですよ。
それを、彩子さん理解していたんでしょうね。
あいつのこと、徹底的に追い詰めて土下座させた後。
『もう、たくさん』って、一言。そのまま告発もしないで、事件は落着でした。ああいうのを許したっていうんですね。
だから僕ら、秋津本家に抹殺もされずに済んでるんです。
男には考えもつかないのに、彩子さんだけは、女の子で優しくて激しすぎるから、感じてしまうって。
あの人が、そんなことから解放されるには、犯罪から引き離すしか手がないし、自分でもきっと解ってるのに……」
「人間を、信じているから。彼女は真実を突き止めたくなるんだ。一度本気になったら、止めるのは難しいだろうね」
深い騎道の洞察力に、隠岐は尊敬さえ感じていた。
隠岐は知らない。騎道はすでに、事件を追うために彩子と手を組む約束をしているのだ。
嘘ばかりついている。さすがに騎道は、隠岐の素直な視線に、胸が痛んでいた。そして今度は、裏切るのだ。
騎道は、空のコーヒーカップを静かに押しやった。
「駿河君に伝えてほしいんだ。共同戦線は、今日までで終わりにしたい、と」
「! 騎道さん……?」
隠岐の顔色が変わった。耳を疑っている。
「お互いもう十分だと思う。それに、これからは危険すぎる。報告は、僕から藤井さんにしておくから」
「危険なのは、騎道さんだって同じでしょう?」
声がつい高くなる。混乱に突き落とされていた。
「僕は、大丈夫なんだ。いろいろと、ありがとう」
騎道は立ち上がる。手を挙げて、背中を向ける。
「そんな……! そんなのないですよ!
騎道さん!!」
引き止める大声に、騎道は振り返った。
「双方の安全の為に、本当は手を引いてほしいというのが、僕の本音だ。でなければ、しばらく静観してもらいたい」
こんなにも完全な拒絶を味わうのは、生まれて初めてだ。
呆然と立ち尽くす隠岐を置き去りに、騎道は出ていった。
「……どうしよう……、先輩に怒られる……」
追い掛けることもできなかった。食い下がったら、次にどんな冷たい言葉をかけられるか。
「そういうことだったの?
また揃って、ヤバイことに頭を突っ込んでるわけね」
「! 青木さんっ……!!」
衝立の陰に席をとっていた少女が、顔を上げて隠岐を睨みつけていた。
彼女は青木園子。隠岐にはクラスメートだが、彩子の親友である。隠岐はとっさに頭を下げた。
「おねがいしますっっ! このこと、彩子さんには内密にしてくださいっ!」
「騎道君に、四神の理性の駿河、情報収集の隠岐が加われば、怖いものなしかもね。騎道君、半端じゃなく頭が切れるし。捜査はかなり、佳境に入ってるみたいじゃない?」
「わかってくださいよ。これって、男の友情なんですから……」
園子は自分の伝票をひらひらと振って、隠岐に詰め寄った。
「男の友情って、利用するだけ利用して、手を切るもんなの? あたしが彩子に吹き込まなくたって、駿河君が逆上して、ぶちまけそうだわね」
「……そこまで、先輩に理性が無いとは思いませんけど」
確信はぐらついているが、意地で言い張った。
「駿河君に伝えておいて。独占報道の権利はうちのデイリーフォーカスのみ、ってね」
「僕、そんなこと判断できる立場にありません」
「そんな口が利けるの? 君達は? 前門の狼、後門の虎。真実を掴んでいればいるほど、あなた達は危険なのよ?
一応、来週の月曜に、資料を全部、うちに預けなさい。
何かあった時に、それで敵討ちはしてあげるから」
「でも月曜って、地区大会が目白押しで、青木さん取材が忙しくて、学園に居ないでしょう?」
あまり利口とはいえない誤魔化しを、隠岐は返した。
「だったら、翌日っ。おとぼけたら、彩子にバラすわよ」
敵か味方か、よくわからんっ。呻きたくなる隠岐だった。
青木は当然とばかりに、自分の伝票を隠岐の手に握らせる。
「いい? しっかり生き延びて、うちのインタビューを受けられるくらいの元気は、残しておくのよ?」
言うだけ言って、園子は隠岐を残して出ていった。
妙な励ましを受けて、隠岐はガックリと肩を落とした。
「……みんな自分勝手で、我が儘なんだからっ……。
騎道さんまで……。尊敬してたのに……」
ずずずっと、隠岐は力なくクリームソーダをすすった。
「もう秒読み段階なのに、今さら誰が降りれるっていうんですか。人間は、走り出したら止まらない動物なんですっ」
ゴールは目の前にある。
この先に何があるのか、予感は出来ても、誰一人として確信は出来ない。
時は、語る言葉もなく、未来へと流れていた。
『カウントダウン 完』