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3/8

(二)


 10/7 PM3:45

「ああ、佐倉さん。丁度良かったわ。

 この本が見当たらないのよ。探してもらえない?

 たった今、下にお客様がいらしたって連絡があって……」

 中年の域に入った司書教諭は、ほっとしたように、図書室に入ってきた女生徒を捕まえた。

「はい。わたしでよければ」

 図書委員でもある佐倉千秋は、真面目で本への愛着の強さを司書婦人に見込まれて、日頃から頼りにされていた。

 放課後、本を返しにきただけなのにこれだ。

「この本、とても大きくてすぐにわかるはずなのに、変なのよ。藤井老師の『新説九星気学 白楼講』なの」

 お願いねと、婦人は部屋を出ていった。

「あ、僕、急いでいませんから……」

 ずいぶん奥の本棚の方から、男子生徒の声が張り上げられる。

「……騎道さん、ですか?」

 佐倉の声に、彼は棚の間から顔をのぞかせて、「やあ」などと手を挙げた。



 10/7 PM5:56

「たぶん叔父が持っていたと思うんです。私、明日借りてきます」

「ほんと? 助かるな」

 駅前近くには、若者が集う賑やかな通りが幾つかある。ゲームセンターもあればショッピングアーケードも。騎道と佐倉が連れ立って歩くのは、書店や専門店の目立つ、比較的静かな通りだった。

「こんなことなら、佐倉さんをあちこち連れまわさなければよかったな」

 騎道は、とっぷりと暮れた東の空を眺めた。

「いいえ……」

「六軒も本屋を回ったんだから、疲れたでしょう」

 首を振るだけで、佐倉を答えた。

 佐倉の鞄を取り上げて、騎道は近くの喫茶店を指した。

「時間、まだいいかな?」

 控え目に佐倉をうなずくのを待って、騎道は扉を開けた。



「ふしぎですね。どこにも無かったなんて」

「そうだね」

 図書室をどう探しても、騎道が求める朱色の装丁の一冊は出てこなかった。騎道が近くの本屋を探してみると言うので、佐倉は駅前の大きな専門店の方が見付かりやすいと教えた。騎道はまだ街に詳しくはないだろうと、佐倉が案内を申し出たのだ。

 決してデートなどではない。けれど偶発的だが、これは立派なデートかもしれない。

 目的にひとまずの決着がつけられると、佐倉はその事実を目の当たりにした。動揺が、鼓動を速くする。

「田崎臨という人を知っているかな? 一年生なんだけど」

 騎道はティーカップを戻し、佐倉に視線を向けた。

「……いいえ」

 ぎゅっとうつむいて、佐倉は首を振った。

 目の前のミルクティーが静かに冷めてゆく。

「そう……。彼に、佐倉千秋さんが好きだから、手を引いてくださいと言われたんだ」

「あの人、騎道さんにまでそんなこと。失礼だわ……!」

 佐倉は頬を赤くしていた。騎道はそれを見て小さくうなずいた。

「本当は、告白されたんだ、彼に」

 騎道の言葉は、ますます佐倉を赤くさせる。

「……失礼な人なんです。騎道さんのことを、ひどい言い方をして……。嫌いです、私……」

 眉を寄せて、佐倉は本心から許せないと思っていた。

 名前も知らない、のっぽの男子生徒が目の前に現れて自己紹介を始めた時には、彼女は心底驚いてぼんやり見つめてしまった。登校途中に、彼は待ち伏せていたのだ。

 一年生で名前は田崎。あっけにとられている中でも、それだけは記憶に残った。すぐに騎道への散々なこけ下しの暴言を吐き始めるので、佐倉は我に返った。

『あなたには関係ありません!』

 と、突っぱねてやったら『関係あります、絶対!』と言い放ち、田崎は一言。すでにタイミングを完全に逸しているにも関わらず、告白したのであった。

 お弁当を受け取るために近くに居て、咄嗟に隠れた彩子は、しどろもどろに田崎を擁護する発言をしたが……。

『……ああいうのを積極的というんじゃない? にへらっとしているだけの誰かさんよりは、ましかもしれないし……』

 彩子としては、騎道よりは良かろうという親切心だったが、佐倉には届いてはいなかったのである。

 田崎は決死の覚悟も空しく、玉砕したのだ。

「僕は男だから、彼の気持ちはよくわかるんだ。きっと同じことをするだろうな、彼の立場なら。

 自分で言うのも変だけど、調子がよくてずるくて、佐倉さんを縛っているだけなんだ。気に入らないのは当然だね。

 それだけ、田崎君は佐倉さんのことが大切なんだね」

「そんな言い方、違います。とっても楽しくて……」

「僕も幸せだったな。すっごく寂しいよ。きっと三橋なんか、ガンガン怒るだろうしさ。

 あ、佐倉さんには悪いけど、あいつにいつも半分くらい取られちゃってたんだよね。だから、絶対怒られるな」

 騎道は本当に素直である。子供のように肩をすくめて本気で親友の怒りを心配する。

 佐倉はくすくすと笑い声を立てていた。

 騎道は指で眼鏡を押し上げてから、話しを戻した。

「でも、彼が現れた以上、こっちもフェアになりたいんだ。

 真っ白な状態に戻してみようよ。そうしたら、きっともっと別なものが見えてくると思う」

 騎道は田崎の感情を押し付けるつもりではなかった。生き方の選択を提示してみせただけなのだ。

 始まりへ、こだわりのない素直な感情に帰ることを教えた。

「佐倉さんにとっても、それが一番いいことなんだ」

 前向きな別れを、騎道は告げていた。

 今朝、彩子を通して受け取った、中身のなくなったお弁当箱を、騎道はテーブルの上に乗せた。

「ありがとう。佐倉さん」

 佐倉は両手でそれを受け取った。膝の上に乗せて大切に掌を重ねる。ふっと、彼女は微笑んだ。

「騎道さんのお陰で、卵焼き作るの上手になったんですよ。

 お礼をいわなくちゃならないのは、私の方です」

 佐倉は、震えそうになる指先に注意しながら、ティーカップを取り上げた。冷めかけのミルクティーが、熱いものが詰まった喉を救ってくれる。

 騎道の影に居ることも、これでお終いだった。



 10/7 PM6:33

「騎道さんは、先に帰って下さい。取ってきますから」

「慌てなくてもいいよ、佐倉さん。待っているから」

 駆け出す佐倉の後姿に、騎道は声を上げた。

 喫茶店を出てかなり離れてから、佐倉は自分のお弁当の袋を置き忘れたことに気付いたのだ。

 騎道は通行の妨げにならないように、ガードレールの側にたたずんだ。もう日は完全に落ちていた。やはり十月に入ると、日暮れはかなり早く感じられる。

 騎道がここにきて、一ヶ月経ったのである。

 目の前の時計屋に飾られた大きな柱時計は、騎道の腕時計と同じく六時半を回ろうとしていた。

 その向こう隣は、潮田火器専門店とある。これは郊外に本格的な射撃場があるせいだろう。

 店の両開きのドアを開けた青年が、騎道の目を引いた。

 三人ほどの、それぞれ同じ年齢くらいの男たちが、青年の後ろから店を出てきた。先頭の、騎道には見覚えのある男は、気取った質のいいジャケットと、ゴールドのブレスレットで羽振りの良さを誇示している。この街での実力者、秋津本家の後継者、秋津統磨だった。

 四人それぞれの瞳は薄暗い光を秘め、はしゃぐ足取りは、これから歓楽街を流そうかという気配だった。

 彼らが今夜どんな享楽にふけようが、騎道には関わりのないことだった。だが、肩で風を切る一団は、今夜に限らず、夜の街に何かしらの騒動を予感させた。

 傍観を決めた騎道に、偶然振り返った統磨の視線が止まった。居丈高な鋭い瞳を、統磨はゆとりを含んだ友好的な色に変えて、騎道の前に近付いた。

「久し振りだな」

「そちらも、お元気そうですね」

 騎道は統磨の思惑を察し、穏やかに受け止めた。

「育が急に引っ越したと聞いて驚いたよ。

 騎道君。君の差し金かい?」

「そんなことはありませんよ。育君が行きたいと言ったから、僕は手配をある人に依頼しただけで」

「育が、行きたいと? 言った?」

「ええ。彼は人形ではありません。意志があるんです。

 じきに普通の子供として、僕らの前に現れますよ。そうすれば、ご自分の間違いに気付かれると思いますが」

 統磨は、くくっと喉で笑い声を押し殺した。

「無理だよ。そんなに自信があるのかい? あれは、ただの精神異常者だぞ」

「いいえ。彼は正常です。そしてここに帰ってきます。

 彼が見たままを語り出せば、すべてが明確になるでしょう。関山荘で何が起きたのか、6月26日に誰を見たか。

 ただ、それまで待つつもりは、僕にはないんです。

 久瀬光輝は、僕にとって大切な人でした。僕は真実を突き止めます。光輝と育君の為にも、必ず。

 二度と不幸な犠牲者は出しませんよ」

 統磨が見つめる前で、騎道の瞳は紅い光を込めた。

「誰がどう、実力行使に出ようとも」

 夜の秋風が、二人の間を通り過ぎる。大声を出し合いながら、会社帰りのサラリーマンが繁華街へ流れてゆく。

 統磨の背後に離れて待つ三人の男たちは、向かい合ったまま静止する二人を、斜に構えた視線で眺めている。

 うち二人は、騎道には覚えがある。忘れるはずがない。

 二日前、騎道がクリオンとして、『マジェラ』で格闘したあの二人だ。

「敵討ちとは立派だな。だが、分をわきまえた上で動いた方が無難じゃないのか? その久瀬という奴の、二の舞にならないようにな」

 久瀬光輝などという男に面識はないと、知らぬ顔をするつもりらしい。騎道の内部で『マジェラ』で感じた怒りが立ち上ろうとしていた。

「あなたも、分をわきなえるべきでしたね」

 玲瓏と澄んだ声が響く。統磨を見返す姿は穏やかである。

 だが、完全に排除した感情の底から、騎道は真の怒りを発した。

 ぎこちなく視線を逸らす統磨。彼は、騎道の背後で物問いたげに立ち止まる女生徒に目をこらした。

「君は、春日先生の所の……?」

 騎道も背後を振り返った。佐倉は、統磨に小さく頭を下げていた。

「ご無沙汰しています」

「騎道君と付き合っていたのか。これは奇遇だな」

「! いいえ、違います。本当に」

 頭を振る佐倉を、統磨は懐かしい目で見守った。

「お似合いだよ。彼女は僕の恩師の姪に当たるんだ。くれぐれも大事にしてくれよ、騎道君。

 それと、君自身も、自分を大切にするんだな」

 統磨は佐倉の前で咄嗟に隠した鈍い怒りの視線を、もう一度、騎道だけに見せて背中を向けた。

「……知り合いなんだ」

 佐倉は騎道をそっとうかがった。統磨の最後の言葉は、佐倉にも酷薄なものを感じさせるほど強かったのだ。

「ええ。中学生の頃、よく叔父の所にいらしてました」

 騎道は、統磨の態度に屈してはいなかった。

「叔父は地方史の研究者で、秋津本家のご老翁は叔父にとっては先達でしたから、交流があったんです。

 統磨さんは、そういった地方史を外でも学ぶようにと、叔父に師事したんです。叔父の家は私の家のすぐ近くでしたから、お会いしたのはお茶をお出しした時くらいで」

「秋津の次期総領だから、彼も大変だったんだな」

 騎道は社交辞令のように冷めた言い方をした。

「でも、秋津の長男でなければ、あんな風にはならなかったと、私思うんです」

 佐倉自身、統磨への風評は多く耳にしていた。聞く度に、秋津家は遠い存在だが、信じられなく気掛かりだった。

「……その頃は、どんな人だったの」

「物静かで優しい人でした。好奇心が強くて、礼儀正しくて。叔父は教え甲斐があるって喜んでいました。

 人が変わってしまったのは、中学を卒業してからです。

 本格的に秋津の教えを伝えるためと、叔父の家への出入りを禁止されてしまったんです。

 きっとまた、一人ぼっちになってしまったんだわ」

「一人?」

 騎道は佐倉の呟きを聞き直した。

「一度だけ、漏らしたことがあったそうです。

 自分は弟たちからも引き離されているんだ、って」

 佐倉も騎道同様、統磨に弟がいることを知っていた。分家である秋津静磨と数磨の二人は、実の兄弟なのである。

「家のために、だなんて今の時代じゃナンセンスな話しだな。

 いくら街に旧い歴史があって、伝えられるべきでも、住んでいる人間の頭までが古いままなんて不幸だよ。

 わかるよ、佐倉さんの気持ち」

 統磨と険悪に対峙していたらしい騎道が、今はその統磨の一部分を、失われたものではあるが認めていた。

「考え直しだな……。ちょっとこだわりすぎてた。

 佐倉さんが、彼のことを信じていてくれていたお陰だよ」

 騎道は詫びるように頬を緩めた。

「たぶん彼だって、そんな時間をきっと忘れていないよ」

 騎道の存在を佐倉は大きく感じた。感じて、並んで歩きながら、追いつけないほど遠い人だと再認していた。



 10/8 AM8:25

 佐倉千秋は登校すると、いつものように渡り廊下を抜けて教室へ向かおうとしていた。少し小走りだったのは、腕に抱えたものを早く渡したい一心からだった。

 それが、ふいに背後から名前を呼ばれた。声の主を振り返ると、咄嗟に、佐倉は臆して目を伏せていた。

「あの方を、私から奪い取らないで欲しいの」

 感情を抑えた声は、震える鈴の音に似て、消え入りそうだった。目の前の女生徒は、この学園で最も美しいと称えられる藤井香瑠である。

「私……、そんなつもりじゃありません」

 隠そうとしていても、佐倉には痛いほど感じる辛さが、藤井には滲んでいる。同じ感情を、佐倉も抱いていたのだ。

 否定しながらも、自分の想いを藤井に読み取られていたことに、佐倉は深い恐れを抱いた。

「ならば、その本は渡さないでいてくれるのね?」

 佐倉は藤井の目的を悟って顔を上げた。藤井らしくない性急な問い掛けだった。

 小首を傾けると、艶やかな黒髪がハラリと肩に広がった。

「おっしゃっていることが、私にはわかりません」

 ずしりと重い本を、両腕で強く抱え直しながら、佐倉ははっきりと告げた。

『新説九星気学 白楼講』という背文字の一冊を、彼女には大切な人間が待っている。その一心が、彼女を強くさせていた。

「その本さえ、あの方の手に渡らなければ、私の元に来てくださるの」

 思い悩むように視線を落として、藤井は自身に言い聞かせるように答えた。

「わかりません。そんなの……。

 騎道さんにも意志があるのに。書店からこれを無くしたのはあなたなんですか? そんな風に人を操るなんて、ひどいことだと思います」

 非難していた。藤井香瑠は、この学園では一、二の権力者だ。実際に、不遇な目に合わされている生徒も居る。

 だが、今のあざみ姫は違うのだ。そう佐倉は感じて、感じるまま対等な気持ちで向き直っていた。

「あなたには思いも付かないことが、この世の中にはあるの。その為にも、私にはあの人が必要なの……」

 形の良い眉をひそめる姿を、佐倉は初めて見た。

 諦めとも警告ともつかない、本当は騎道へ向けたような言葉を残し、藤井香瑠は立ち去っていった。

 秘められた感情のあまりの激しさに、佐倉はしばらく身動きできなかった。深い決心と、底無しのように見える憂い。藤井香瑠がわずかに垣間見せた、一瞬の生気が放った美しさは、強烈に焼きついてしまっていた。

 これ以上、彼女を悲しませる権利が自分にあるのか?

 その答えを、佐倉はとても出せない。腕の中で、緋色の一冊は重みを増してゆくばかりであった。


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