終わりは唐突で事件は夢の中に消えていく
「ねえ、そんな事はあって欲しくないでしょう? 嫌よね? 人がどんどんおかしくなる、地獄の様な世界なんて?」
ねっとりと絡みつく様な口調。信用ならない。その場に居る誰もがそう感じていた。語る内容も妙に客観的で、実体験というよりは作り物めいていた。
だが無視できる内容でも無い。
「カーヤさん、でしたよね?」
だからシュウは事の真偽を人形に尋ねる事にした。
「今の話に出てきた女の子というのはあなたですよね? どうでしたか? 今の話は本当なんですか?」
「ぼんやりとそんな記憶はあるけれど」
「ああ、本当だよ」
悪魔の断定的な口調に、シュウは思案する。そして言った。
「お話は分かりました。とても危惧すべき事なんでしょう。でもどちらにしたって、あなたの行動に意味があるとは思えない。あなたのやり方で世界が変わるとは思えないんです。そんな無意味な事に誰かを犠牲とするなんて容認できません」
女は薄く笑う。
「変わるわ。変えてみせる。それにね、次に犠牲になるのは所詮シンボル。誰かでないのだから良いでしょう?」
女が何処か誇らしげにそう言った。涼子とカーヤはその言葉の意味が分からなかった。だがシュウと悪魔はその意味を悟って、悪魔が溜息を吐く様に呟いた。
「僕がその立場なら絶対に嫌だね」
「そんな事無い。長年の夢だったのよ」
「本当ですか?」
シュウの問いかけに女が睨みで答えた。
「勿論よ!」
「そもそも神って何ですか?」
「神っていうのは」
「論文では教授もあなたの体も別次元の存在としか書いていません。なのにあなたは神だと言っている。言葉の置き換えにしては少々飛躍している様に感じますが」
「同じ様なものじゃない」
「いいえ、違います。別次元の存在と神ではこの世界に対する支配度が違いすぎる。あなたがその言葉を使っているのには訳があるはずだ」
女はしばし思案気に空を見上げたが、やがて首を振った。
「やっぱり同じよ。どちらにせよ、この世界を苦しめている嫌な存在。言葉の違いに大した意味は無いわ」
「そんな事は──」
シュウが尚も追求しようとした時、突然魔法円がぼんやりと光上がった。シュウが驚いて言葉が途切れ、女が勢いづいて嬉しそうに笑ってくるりと回った。
「駄弁はそろそろ終わりにしましょう」
女は恭しく一礼すると、粘つく様な笑いを浮かべて、
「それでは皆様ごきげんよう」
踊る様に爆発的な光を放つ魔法円の中へと跳び入って、魔法円の放つ光の中に消えた。
シュウは舌打ちした。
「まだ聞きたい事があったのに」
「だが、あの中に飛び込むのは自殺行為。だろう?」
悪魔の言葉に頷いてからも、シュウは焦燥として魔法円の輝きを睨み続けた。
「ねえ、シュウ」
背後から涼子が恐る恐るといった様子で近付いた。
「あの人はどうして自分からあの中に入ったの? 何をしようとしてるの?」
「涼子を使ってやろうとした事を、今度は自分を使ってやろうとしているんだ」
「何でそんな事を?」
「多分、自分なら上手くやれると思ったんじゃないかな? 体も中に意識が入っていない死体ならって思ったんだろう」
涼子が眉に皺を寄せた。
「良く分からない」
「分からなくて良いんだよ」
やがて魔法円の光が収束して、中から呆けた様子で膝を突き、空を見上げる女が現れた。ぴくりとも動かない。生きているのか死んでいるのか、判断が付きかねた。
突然女の腕が跳ねた。続いて、甲高い笛の様な音が辺り一面に広がった。空気を震わし、鼓膜を震わし、聞いていると頭が割れそうになる音が、辺りを震わせる。決して人間の体では出しようのない音が女の口から漏れている。女は手をばたつかせて一つの楽器になっていた。
「まさか本当に成功したのか?」
両耳を塞ぐシュウの呟きは辺りに満ちる音の奔流に呑まれて消えた。
その次の瞬間、突然音が消えた。耳の奥に金属を鳴らした様な響きだけを残して、女の発する音は消えていた。耳がおかしくなった所為で、平衡感覚の狂いによろめきながら、涼子は女へと近付いた。
「おい、涼子! やめろ、危ないかもしれない!」
「でも」
それだけ呟いて、涼子は女へと近寄っていく。恐らく目の前で異常な状態になった女を助けようとしているのだろう。もう死んでいるというのに。シュウは仕方なく涼子を追って女に近付いた。
女は傍で見ると明らかに死んでいた。死体であるのだから当然で、問題は中に意識が宿っているかどうかなのだが、何となく宿っていないだろうとシュウは思った。
「死んでるんだ」
「そうだな。動いていたから分かり辛かったけど、こうして動かないでいると、やっぱり死体だ」
妙に生々しい死に化粧をした女は微かな香水の匂いを振りまきながら見開いて動かない眼で天を眺めている。
「助けられないよね?」
「助けるも何も元から死んでる。言いたい事は分かるけど、無理だよ」
「そうだよね」
子細に観察したが動く気配は無い。
先程の金切り声は何だったのか。何かが入ったのか、あるいは単なるノイズか。何かが入ったにしても、一向に動かないのは、すぐに抜けていったからなのか。
しばらく待ってみたが分かる訳が無い。動かない事を確認して、シュウは涼子の肩を引いた。
「涼子、帰ろう。ここに居ると、色々と不味い」
少なくとも警察に見つかれば面倒だ。
「そうだね」
シュウが予想していたよりもあっさりと涼子が同意した。シュウが訝しんでいると、涼子が無理矢理笑顔を作って、答えた。
「もうシュウに迷惑かけたくないから」
「別に迷惑じゃないけど」
「いいよ。帰ろう」
悪魔と人形は何処かへと消えていた。校門を出て、女が見えなくなると、涼子は今迄の事が全部夢だったような気がした。ただ単に危険な状況が去っただけでなく、心が浮き上がる様な喜びに包まれて夢の様な心地だった。
先程のやり取りの中で、涼子はようやく過去を思い出したのだ。研究所の中で女の子と出会った事、父親に連れられて海外を飛び回っていた事、母親が刺されているのを呆然と見ている所、シュウが刺されそうになっているのを呆然と見ている所、今迄に無い沢山の記憶が溢れてきて、けれどまず真っ先に思い出したのが、小学生の時にシュウに告白をしようとした時の事だった。
推敲に推敲を重ねて思いを綴った手紙を胸に心地良い眠りにつこうとした時、ノックの音と共に転校という父親の急で無粋な言葉に驚き、悲しみ、泣き明かし、それでも思い切りがつかなくて手紙を持って登校して、結局渡す事が出来ずに、何だか腹立たしくなって手紙をゴミ箱に捨てた思い出。思いだした今ではどうして忘れていたのか不思議な位に、まざまざと当時の思いが蘇る。どうしてシュウが捨てたなどと勘違いをしていたのだろう。辛い思い出が勘違いであると分かっただけで涼子は嬉しかった。
記憶が次々に押し込まれていく。沢山の記憶が一気に吹き上がってきた所為か、つい先程まで悩まされていた事件が遠いかなたの事に思えた。今はただシュウと二人で並んで歩いている事が嬉しかった。後の事はどうでも良い。
シュウも同じ事を考えてたらな、と思ってシュウを盗み見ると、何だか難しい顔で空を見上げていた。何だか罪悪感が湧いた。多分今までの事件を、私の為に考えてくれているだろうに、その私が全く別の事に浮かれているなんて。そんな事を考えながらも、心は真綿に包み込まれた様にふわりと浮き上がっている。
シュウが突然涼子を見た。涼子は何だか気恥ずかしくなって、今迄自分が考えていた事を気取られない様に、言い訳をする様に、自分の中だけで渦巻いていた話題を強引に変えようとした。
「そうだ、シュウ、その、お腹の傷は大丈夫なの?」
「ああ、涼子のお蔭で犯人が逃げてったから」
「そっか」
それで会話が途切れた。繋げる話題は沢山あるのに、何故だかそれ以上口から出ない。どことない居心地の悪さが満ちてくる。この場から離れたい訳じゃない。けれどこの場にいる為には何か話さなければいけない気がする。でも言葉が出てこない。
そうして二人で黙り込んで歩いていると、沈黙に耐えかねたのか、シュウが唐突にこう言った。
「今夜は月が綺麗だな」
涼子が空を見上げると、明るい満月が浮かんでいた。視線を下ろすと、道路の脇に並ぶ家々が照らし出されている。一面輝いている様に見えるが、ようく見れば家と家の間には闇が滲んでいる。白い灯りは段々と青に翳り、最後には闇に変わっていく。そこかしこの光と闇のコントラストに目を転じながら、段々と道の先へと視線は映り、道の先もまた同じ様に月の光と夜の闇が混じり合っていて、それが山へとたどり着くと、山は月の光に照り輝いて、闇は無く、盛り上がった月の光が薄らと三角形を作っていた。何だか不思議な気持ちになって山から視線を転じて空を見上げると、明るい満月が浮かんでいた。綺麗だと思った。
「そうだね」
涼子が同意すると、シュウは息を呑んで涼子を見て、その表情を見て渋い顔を作って、溜息を吐いた。涼子は空の月に見惚れている。シュウはその横顔を見ながら、やがて顔を緩めて薄く笑うと同じ様に空を見上げた。
「ねえ、シュウ」
シュウが涼子を見ると、涼子は微笑んでいた。
「どうして私の事を助けてくれるの?」
シュウはどう言ったものかと考える。今さっき告白して気付かずに流されただけに正直に直球では言い辛い。とはいえ、回りくどくしても流されるのは今しがたで証明された。しばらく考えてから、自分の気持ちを伝えるのはまた次の機会があるだろうと、やはり少し遠まわしに受け答えた。
「助けたいと思ったから」
あまり格好の付いた答えじゃなかったかなと、シュウは言ってから思った。一方で涼子は顔を更に朗らかにして、まるでシュウの心を見透かした様であった。
そうしてまた会話が途切れる。涼子は幾分心を弾ませて、シュウは涼子の表情に思い惑って、今迄の凄惨な事件など無かったかのような淡く緩い空気を醸しながら二人は家へと帰った。
「それじゃあ、何かあったら大声を出して。呼べる様なら俺を呼んで。逃げられる様なら俺の所に来て」
まるでお使いに出掛ける子供に言い聞かせる様だ。
「分かった分かった。シュウもね。もしも何かあったら今度は私が助けるから」
シュウの心配に反して、涼子は安心しきっていた。もう事件は終わっている。何かが起こる事は無い。心配そうなシュウと別れて、涼子は家へと帰った。母親が笑顔で迎えてくれた。いつもより遥かに遅い夕食を摂って自室に戻る。
戻るとそこに人形と悪魔が居た。
「あ、お邪魔してまーす」
「やあ、これからお世話になるよ」
涼子は愕然として膝を突き、混乱を収めてのろのろと立ち上がって、ベッドの上に座っている人形と悪魔の上にかぶさる様にして二つの顔を覗き込んだ。
「何であなた達が居るの?」
悪魔が楽しそうに涼子の肩を叩いた。
「何を言っているんだい。僕達はずっと君の中に住んでいたんだ。外に出たとて他に行くところも無いし、何、知らない仲じゃないだろう? よろしく頼むよ」
人形もまた肩に手を置いた。
「って、訳でよろしくね!」
憤然と追い返そうと思ったが、ふと目の前の人形がまだ少女だった時に二人でお喋りをした時の事を思い出した。思い出すと、何となく追い出す気も失せて、
「ああ、もう」
脱力して二人の居候を認めた。
「さっすが話が分かる!」
「いや、古の賢才にも勝る呑み込みの良さ」
適当な事を言う二人を放って置いて、涼子はこの事を伝える為に窓を開けて、向かいの窓を叩いた。