今日も世界は平常運行
透明な壁の向こうに目を伏せて笑う少女がいた。
少女はとても簡素な白いつなぎを着て俯いていた。
黄色がかった薄色の髪と中身の透けそうな白い肌が、つなぎの間から漏れていた。
ただでさえ白いのに、沢山の照明が照らす所為で少女は更に白く染まって、のっぺりと平坦に見えた。
きっと碌に運動をしていないに違いない。細い手足は今にも折れそうに垂れている。
微かにも動かない少女は人形の様だ。
周りで狂乱している物々がその印象を強めている。
フォークとスプーンとロンドンブーツと黒地の本が少女を取り囲んでワルツを踊り、白いシーツは少女の前で滑稽な踊りを披露している。
諸々の服がシーツの後ろで歌を歌って、ベッドとナイフと皿達がそこかしこで笑っている。
まるでどこかのお祭りの様だ。
その真ん中で祭り上げられた少女は人形の様に動かない。
物と人が反対になった様で、私は見ていて怖くなった。
どうして笑って見ていられるんだろう。
私は周りを見て疑問に思った。
透明な壁を隔てて少女を見つめる研究員達は皆一様に期待に満ちた笑顔を浮かべている。
私の隣に立つ教授もおかしそうに笑っている。
透明な壁の向こうにいる少女も髪の間に笑う口が見えた。
ただ一人だけ、私だけが笑っていない。それが何故だか分からない。
私がおかしいのか、周りがおかしいのか。分からない。
教授は私の顔色を窺いながら「この研究が進めばあの少女を助ける事だって出来るんだから」といつも言っていた。
少女は常に笑っていて苦しんでいる様には見えなかったが、私には少女が哀れに思えた。
だからそれを弄んでいる様に見える研究員や教授に嫌悪を感じていた。
科学者という立場を考えればそれは潔癖だったのかもしれない。
そんな私の視線を感じる度に教授は言い訳がましく少女やその他の患者達を救うという建前を並べていた。
教授は才能に溢れ、人格も申し分無く、誰彼にも慕われる人柄だった。私にとっては神にも等しい存在で、本当に尊敬し続けてきた。
だから教授が大学を辞め、学会も抜けて、この研究所へ来る時にも、私は頼み込んで付いて来た。
教授と共に世界を解き明かし、いつか教授に認めてもらう為に。
ところが人格者だった教授は研究所に来てから一転して、少女の不遇に一抹も同情を示さなくなった。
科学者として自分を抑えているのだろうかとも思ってみたが、どうもそうではない様だ。
今までとほとんど何も変わらない態度なのに、何故か少女に対してだけは冷酷で、少女を人間として扱っていない様に思えた。
この研究所に中てられたのではないだろうか。そう考えれば研究員達が、教授が、あの少女に異常な態度で接する事に納得できる。
「大丈夫よ。あなたは私の助手なんだから」
私はその言葉を聞いた瞬間、あまりの驚きに視界が明滅した。
それは私の中に複数の意識が入り込んだ日、異変に気付いた朝の事だった。
前の夜、他人の体に入る不思議な夢を見た。起きてみると、今度は自分の中に複数の意識が入っていて、私の体を勝手に動かそうとしていた。
余りの異常な出来事にすぐにでも部屋を飛び出して助けを求めたかった。
けれどそんな事をすれば、研究員達に何をされるか分からなかった。良くて一生牢獄に閉じ込められ、少し悪くて笑われながら精神と身体を弄ばれ、最悪想像が出来ない程の地獄を見る事になる。
教授にだって言えない。今の教授も研究員達と同じだ。
自制した私は声を潜めて内なる意識と語らい、とりあえずの協力を得る事に成功した。
一先ず安心しつつも、何時意識が暴れて研究員達に拘束されるか心配しながら、朝食の席に座ったその時だった。
「大丈夫よ。あなたは私の助手なんだから」
教授は全てを見透かした目をしていた。
私の肩を数回叩いて教授は朝食に手を付け始め、私は呆然として朝食を食べられなかった。
その日は休んで、自室に籠って泣いた。教授の事が良く分からなかった。
私達が来てから半年程経つと、研究所が行き詰り始めた。
少女から望むデータを取れず、日々試行錯誤を繰り返すも、研究は一歩も進まず滞っていた。
やがて教授に御鉢が回って来た。今までは見学程度、多少のアドバイスをする程度の助力だったが、今度は完全に少女を任された。
研究員達の間で異世界が関係しているのではという論調が高まった事も大きかった。
異世界に関する研究は当時教授が第一人者だったと言っていい。というより、まともに扱う研究者はほとんど居なかった。異世界など夢物語だと今と変わらず馬鹿にされていた。
とにかく藁にも縋りたいという研究所全体のプレッシャーが私達の上に圧し掛かったのだが、教授はまるで気にした風も無かった。
その点は今まで通りの尊敬できる教授であったが、これから少女に対してどんな酷い実験を行うのかと考えると、疑惑の念は自然と大きくなった。
加えて研究所内で危険物の様に取り扱われる少女と対面で接する恐怖も大きかった。透明の壁越しに眺めていた異常な光景に自分が浸されてしまうのではにかと危惧していた。
会ってみると何て事は無い内気な少女だった。教授も私が想像していた様な実験らしい実験は一切せずに、ただ少女と話合うだけだった。
研究所に備わっているカフェテリア、皆が恐れ戦いて無人の大空洞となった一角で、私と教授と少女は対談した。
少女は自分の境遇を苦しいと語った。
けれどそれは私が想像していた様な苦痛ではなく、周囲の期待に応えられない事に対してだった。
その優しい少女を私は心から救いたいと思った。せめて少女の苦しみを和らげられればと。
それから何度か少女と話した。何とか様になってきたドイツ語でどうにかこうにか話していると、最初は心を閉ざし気味だった少女も口数が増え、私を姉だと慕ってくる様になった。
本を読み聞かせ、初等教育程度の勉強を教え、日本語を教えた。
教授の教育方針は基礎だけ教えて突き放すであり、私も人に教えるのは不得手で、少女も特別頭が良かった訳ではないが、それでも段々と理解が深まっていった。それに合わせて笑いもどんどん増えていった。
一方、研究所の期待と失望の重圧もまた強くなった。
私の良心からも研究所全体からも、早く少女の病気を解明しろと無言の責めが増えていった。
いつもの様に三人で談笑していると、怖がって誰も来るはずのない私達の所へ突然日本人の親子がやって来た。
父親の方は教授のかつての教え子だった。年度が離れていたので私とは面識が無かったが、偶に教授と連絡を取り合っていたそうだ。
娘の方はまだ幼く小学校も卒業していない歳だった。父親の影に隠れて怯えていたが、歳の近い少女にだけは好奇の視線を送っていた。
話によると海外の販路を探り渡っている父親を教授が招いたそうだ。娘も連れて来る様にと厳命して。
少女の為に友達になれそうな子供を呼んだのかと期待したが、すぐさま打ち砕かれた。来て早々、娘を実験に使うという話になった。
父親はそれを承知で連れてきていた。どうして我が子を捧げられるのか理解できなかった。話していてすぐに分かった事だが、父親は酷く金にがめつい男だった。それでも自分の娘を売り払う神経は到底理解出来なかった。
親子は研究室を去っていった。少女の意識を入れられた娘はこれから父親と共に世界を旅する事になる。
何も知らない二人を仲良くさせて同調する下地を作り、少女の病気を使って私の病気を娘に移す。
実験は無事成功。娘に病気が移り、その病気の因って少女の意識が娘に移った。この病気が特別な人間に発症する物ではなく、誰もが患者たりえる事が証明された。科学の大進歩。万々歳だ。滅んでしまえ。
私は少女と離され、少女は再び研究員達の手に委ねられた。
研究員達が研究成果を奪おうとしたのではない。
予算を掠め取る事だけを考える研究員達は次もよろしくお願いしますと教授を持ち上げおだて始めたが、教授はそれを固辞して少女を返した。
徹底的に少女を痛めつける為だ。徹底的に少女を孤独にして世界の外に希望を見出させ、娘への移乗を強める為に。
私の病気が見逃されたのも、実験に使う為。私と少女が仲良くなったのも、落差で少女により孤独を感じさせる為。
研究員達には徹底的に辛く当たる様に指導していた。教授は本当に人だろうか? 鬼か何かではないだろうか?
悔しかったのは教授が何をしても、私の教授に対する尊崇の念が変わらなかった事。非難する心も確かにあったが、きっと教授がやっているのは全て良い事なんだと心の底から心服して理性の雑音を押さえつけていた事。
それに感謝もしていた。結局私の病気の事は上手く隠されて、見逃された。ありがとうございます、教授。苦しむ少女から目を逸らして私はそう思っていた。
ついにその日が来た。私と教授は研究所を出る所だった。苦しみ続けて疲弊した少女を見て、教授はここまでねと呟いて、その日の内に退出届を出した。
研究所が用意した車に手をかけて名残惜しむ様に振り返ると、突然目の前の研究所内から甲高い音が聞こえた。
耳鳴りだろうか。建物内との気圧差が原因か。
はたと悲鳴だと気が付いた。気付いた瞬間、高低様々な悲鳴が一斉に私を圧倒し、次の瞬間にはそれまでの喧騒が幻の様に静かになった。
建物に駆け寄ろうとした私を教授の手が押し止めた。
入り口のガラスの向こうに人が居るのを見つけた。
両手両足をそれぞれ車輪の様にひしゃげ丸めて四輪となった人間が、呆けた顔で車輪を回してガラス戸に迫り、こつんとぶつかり弾かれた。ガラスがあるのだからドアを開けなければ外には出られない。それでも何度も何度もガラス戸へ体当たりを繰り返している。
それが逃げようとして必死にもがいている人間だとしばらくして気が付いた。気が付いた時に、建物からけたたましい危険信号が鳴った。施設ごと魔術災害を消し去る合図だ。
私が呆然としていると教授は無理矢理私を後部座席に押し込み、車を出発させた。
後部ガラスから建物を見ると入り口のガラス戸の向こうに続々と人が集まっていた。象の影がよぎった。皮膚が象の皮になった人間が集まって象の振りをしていた。
残りの人々は本当に人なのかも良く分からない。ただ入り口に集まる物の中に時たま見える目と口の様な物が付いた何かが人間を彷彿とさせるだけだ。だからあの時入り口に犇めいて、声を立てる事も出来ずにガラス戸に鼻を擦り付けていたのは、実は人ではなかったのかも知れない。そう思いたい。
後日その場所へ行ってみると、聳え立つ偉容が溶け崩れた白いコンクリートの塊になっていた。
撤去作業の末にも人の死体は一切出てこなかった。一部、その研究所には在り得ない物品が出てきたが特に疑問を持たれる事無く粗大ごみとして捨てられた。私はそれらから眼を逸らして決して見なかった。
一つだけ、古びたプラスチック製の人形が私の眼に止まった。それは少女が大事にしていた人形だった。お腹を押すと挨拶をするだけの単純な玩具だった。試しに押してみると、壊れているのだろう、声とは思えない掠れた声が聞こえてきた。