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全ての希望が今途絶える

「涼子が留学に行く時の事覚えてます? ほら行きの車に乗る時に」


 朗らかに言い放ったシュウから母親に目を移すと、母親は困った顔で首を傾げていた。

 知らない様だ。十八年来の家族だ。私には分かる。あの仕草に嘘は無い。

 気が付くと。張り詰めていた息を自然と吐き出していた。


「すみません。お邪魔しました」

「あ、ジュースとお菓子持っていくね」

「いえ、大丈夫です。すぐ帰りますから」


 シュウはお母さんとのそんな当たり前のやりとりを終えて、私を連れてリビングを出た。


「お母さんも知らなかったみたいだね」


 シュウは無言で私の手を引っ張った。

 シュウの顔は今まで見た事が無いほど、強張っていた。

 その追い詰められた表情に気圧されて、私は何も言えなかった。


 部屋に戻ると、シュウが焦った様子で、シュウの家に向かう窓を開けた。


「帰るの?」


 シュウは振り返ったが、私の質問には答えなかった。


「明らかにおかしかった」

「お母さんも知らなかった事? 確かにね」


 シュウの焦る様とは反対に私は大分落ち着きを取り戻していた。


 確かに私の過去が丸々信用できないという事は足元を崩す程の衝撃だった。

 それでもお母さんが私と同じ状況にあり、あの女と仲間で無い事を確認した時に、私は崩れた足場の代わりに、しっかりとした膜に包み込まれる様な安堵を感じた。


 私の大事な物は私を取り巻いている現在であって過去では無い。過去がいかに違っても、今周りにシュウがいて、お母さんがいる、遠くにはお父さんや親戚がいて、近くには友達がいる、それが大切な事なのだ。


 そしてそれを崩そうとしているのが、この病気とあの女だ。

 病気はお母さんを傷つけた。そしてこれからも周りを傷つけようとするかもしれない。


 あの女は不気味だ。

 冷静に見つめ直せば、今のところあの女は私の病気を調べようとしているだけで、なんら憎むべき点は無い。


 けれど私にはその当たり前の感覚を振り払うだけの予感があった。きっとあの女は私を完全に狂わせ、私の周囲を害し尽くすであろう予感。半ば確信しているその妄信が私の心に居座っていた。


 病気と女。私の世界がこの二つに脅かされているという確信が、反面私の安堵へと繋がっていた。

 幼い頃から親しんでいた子供向けのファンタジー小説。その中では原因を打ち崩せば、異変も止まっていた。

 現実も同じ。病気と女、この二つを正せば、私の向かっている破局は消え去るはずだ。

 その明確で簡潔な道筋が私の心を安堵させていた。


 勿論、物語の上での整合性が現実の世界に適用できるとは言い難い。

 しかし感情の方はひたすら単純な世界を信じていた。

 もしかしたら、そうでもしないと私の心は崩れ去ってしまうのかもしれない。


「ちなみに車に乗る時に何があったの?」

「行きたくないって言って駄々こねて、隣町まで逃げ回ってたんだ」

「確かにそんな事を忘れるのはおかしいね」


「俺がおかしいと思うのはそこじゃない」

「どういう事?」


 私の疑問に、シュウはやや躊躇いながらも、ふるえる様に硬質な声で答えを返した。


「どうしておばさんは俺の事を無視したんだ?」

「いや、話してたでしょ」

「こんな夜中に男が勝手に上がってたんだ。それにリビングに居れば、俺が玄関から入って来てない事も分かってたはずだ。それなのに何も問いたださなかったんだぞ。幼馴染だろうがなんだろうが、どれだけ信頼していても、一言二言詰問して来るだろ」


「確かに」


 異常だ。そう言われてみれば、おかしい。


 お母さんはあの事件以来優しいし、私をあれこれ縛らなくなったけれど、元々は厳格に規律を重んじるタイプだった。


 お母さんらしくなさ。そこに別の意志が割り込んでいたのだとしたら。

 そんなはずはない。あの女の仲間なんかであってほしくない。きっと勘違い。何かの間違いに決まってる。


「まるで──」


 シュウの言葉が途切れた。

 私の耳にも入った幽かな音が原因だ。


 みしりと、木の軋む音がした。

 お母さんが階段を上がってくる音だ。


 助けを求めて、シュウを見ると、ドアを睨みつけていた。明確な敵意を持って、お母さんを迎えようとしていた。


 やがて木の軋みは消え、足音が私の部屋の前へとやって来た。


 思わず呑んだ息の音に合わせて、ドアノブがゆっくりと、小さく金属音を響かせながら、捻られた。


「涼子、シュウちゃん」


 何も知らぬげな明るい声色。申し訳なさそうに歪みながらも、晴れ渡った表情。やわらかく母性を湛えた笑顔がドアの隙間から現れた。

 私が恐怖を感じるには、シュウが敵意を向けるには、あまりにも役者違いなその様子。

 私が答えを求めてシュウを見上げると、シュウは睨みの取れた固い表情でお母さんを見つめていた。


「思い出したわ。そうね、確か行きの車に乗る時に、涼子が逃げちゃったのね」

「ええ、あの時は大変でしたね」

「そうそう。空港でも同じ様な事があってね。パパの話だと、向こうに着いてからも大変だったらしいわ」

「はは、今の涼子からは想像できませんね」


 しばらく二人共笑っていたが、急にお母さんの目が厳しくなった。


「それにしても、シュウちゃん。幾らお隣さんでも勝手に上がっちゃ駄目よ? 夜這いなら朝にしときなさい」


「朝じゃ、夜這いになりませんよ」

「それもそうね。でも、こんな夜には止しときなさい」


 最後に一つ笑顔をくれると、そっとドアを閉じた。優しげに響くドアの閉め音が笑顔の残滓を振りまいて、続けてとんとんと軽妙に階段を下る足音が聞こえてきた。


「勘違い……だったのかな?」


 緊張の解けた私が苦笑しながら、シュウを見上げると、シュウは一拍遅れてから、はじけた様に私に向き直った。

 その顔にはありありと恐怖が滲んでいた。


「そうみたいだな」


 シュウは突然身を翻すと、机の上からノートとペンを取って何かを書きだした。


 私が見守る中、必死の形相でノートの上から下までペンを走らせ終えると、私の鼻先へと突きだした。


『これを読んでも声を出さないで 本当にかんちがいだと思ってるのか? どう考えてもこのへやでの会話を聞いてきたんだ とにかくおれのへやへ』


 会話を聞いていた?

 お母さんが?

 何の為に?

 お母さんは何をしようとしてるの?


 思わず声を出しそうになって、シュウの手に止められた。


「そうだ涼子。おばさんもうるさいし、俺の部屋にこないか?」


 シュウの緊張した面持ちには汗が浮いていた。


 分からない。

 シュウが正しいのか。お母さんがどうしてしまったのか。一体何が起こっているのか。私はどうすればいいのか。


 分からないまま、私は頷いていた。

 とにかく下流へ、私の意志を置いて、櫂を挿さずに流れるままに流れていきたかった。


 シュウは窓から身を乗り出して、シュウの部屋へと戻っていった。

 私が呆然としたまま、立ちつくしていると、シュウが私を手招いた。私は括られた糸に操られて、シュウの部屋へと進んでいった。


 頭の中に閃く物があった。何かを忘れている。同じ様な事があった。きっと思い出さないと大変な事になる。

 その予兆は私の後ろへ。私は意志を放棄して、操られるままにシュウの部屋へと乗り込んだ。


「何が起こってるの?」

 私の口は辛うじてそれだけ言うとそれ以上動かなくなった。


「分からない。ただあの部屋に居るともっとまずい事になってた気がする」


 顔を上げるとシュウは何か考えている様だった。


 対する私はほとんど物を考える事が出来ない。ただ先を、何事も無く終わる幸せを望みながら、手を引かれるだけの存在になっていた。

 今はシュウだけが頼りだ。この訳の分からない状況を理解して、解決してくれる人はきっとシュウだけだ。

 希望が、字義通りの他力本願な希望が私の心を支え、溶かしていった。どろどろと更に私の思考を奪っていった。


 私は無気力と希望をないまぜにしたまま、シュウを見つめ続けた。

 時間は止まっていた。

 一瞬も永遠も意味を失い、停滞した世界はシュウの思考というただ一つの結果によってのみ計られる。

 今の私には時間を計る術は無く、ただ止まった時の中で時間が動き出すのを待つしかなかった。


 やがてシュウが顔を上げた。


「あれは、まるで」


 狭窄と拡大を繰り返す私の視界の中で、シュウは悩ましげに私を見つめ、


「いや、まだ分かっていない事が多すぎる。予断は止めておこう。そんな事をすれば更に酷い事になる」


 口を閉ざした。

 何かを悟った様だが、それが何なのかは分からない。

 私はぼんやりとシュウを見つめた。何も感じず、何も考えずに、ただ見つめた。


 シュウは悲しげに目を狭めると、溜息をついて、立ち上がった。


「とにかく今日は寝よう。明日学校を休んで、女の人に話を聞きに行ってみよう。多分、あの人が鍵を握っているはずだ」


 私の視線に送られて、シュウは部屋から出ていった。

 私の視線に迎えられて、シュウは布団を持って帰って来た。

 床に敷いて、ベッドと布団を交互に指差した。


「どっちが良い?」


 私がのろのろと布団の中に潜り込むと、シュウは電気を消した。

 ベッドに入りこんだシュウが、こちらを向く気配を感じた。


「これからも色々嫌な事が分かるかもしれない。でも、いや、だから、俺を信じて、頼って欲しい。俺は絶対に裏切らないから。俺も涼子を信じて、守るから。それを信じていて欲しい」


 元よりシュウの事は信じている。けれど私はその訴えかけに言葉を返す事は出来なかった。


 シュウの言葉がどこかしらじらしく闇に響いたから。

 きっと自分自身に言い聞かせる為に言ったのだ。

 きっと私を信じる事が出来ないから言ったのだ。

 それに答えを返すのは、いけない事の様に思えた。


 それでも私は信じている事を伝えたくて、黙ったまま頷いた。

 闇の中なので多分伝わらない。それでいい。


 満月が照らす仄明るい部屋の中で、目を閉じていると、自分の心が瞼に映った。

 心は白く温かく点っていて、暗い未来を進む為の灯りになりそうだ。

 私はシュウと二人でこの灯りを持ちながら、闇の中を進んでいくんだ。


 目を覚ますと、私は日の光に照らされた赤く曇った部屋の中で、傷つき赤くまみれたシュウを見下ろして座っていた。


 世界が終った。

 起きぬけで働かない頭が、ありきたりな一文を思いついた。

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