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過去の記憶は今ここに

「おじさんが不倫? ちょっと信じられないな」


 シュウはそう言って、黙り込んだ。

 私とお父さんがあの女と関わりのあった事、そしてそれを不倫ではないかと疑った事に対する反応だった。


「うん、私も違うと思う。お父さんの仕事関係なんじゃないかな」


 シュウは黙ったまま、考え込んでいる様子だった。

 私の言葉を聞いているのかも分からない。


 電灯に照らされた部屋は影が浮き上がって、かえって、暗さ、寂しさが強調されていた。

 昼間の陽光に比べれば電灯一つでは光量が足りない。人口の光が冷たいと言われるゆえんだろうか。

 シュウも同じ。影が浮き上がって、どこか淀んでみえた。私とシュウの間を電灯の光が遮っていた。


 私とシュウを隔てる壁。それは無数にあって、昔から感じていた事だ。

 その最もたる物が今、目の前にある。


 昔のシュウを思い出す時に真っ先に思いつくのが考え事をしているシュウだ。

 家が隣どうして、年が同じ、家同士の交流があったので、自然と二人で一緒に居る時間が増えた。

 私とシュウ、どちらかの部屋で、話をしている時、本を読んでいる時、お菓子を食べている時、ゲームをしている時、そんな誰にも邪魔されない二人だけの時、何か不思議に出会う度に、シュウは思考に落ち込んだ。

 私もそれに倣って考え始め、二人の間に沈黙が下りる。


 その外界と切り離された静かな時間が好きだった。

 向かい合って座る今と同じ、二人だけの時間がそこにあった。

 それは当時の私にとってこの上なく大事で、幸せな時間だった。


 思考に沈んでいる間は、お互いの事さえ意識の端に上らない。完全な一人の世界を二人だけの世界が包みこんで、外の世界を遠くに押しやっていた。

 その世界を隔てる柔らかで強固な薄絹を私だけが取り去った瞬間は今でも頭に焼き付いている。

 どんな表情をしているのだろうと、シュウの顔を盗み見ると、何の変哲もない表情をしていた。

 誰もがし得る普通の表情。それが私を混乱させた。


 シュウは不思議な、才能とでも呼ぶべき発想を持っていた。

 まるで小説の中に出てくる探偵の様に、飛躍的な発想を重ねて結論に至る能力があった。

 どんな経路を辿ったのか分からないほど奇怪な結論を、どこからともなく考え出す能力がシュウにはあった。


 その能力は決まって、普通の思考では答えへと到達できない時に現れた。

 小さい頃には知識が足りない所為で、世の中の事全てが不思議に思えてしまう。だからシュウの能力はいかんなく発揮され、私には理解できない結論が、けれどどこか真実味のある結論が、次々に生み出された。


 私が幾ら頭を振った所で、シュウと同じ物を見る事ができない。そんな事を考えた。

 私とシュウは別々の世界からやって来た。そんな気持ちにさせられた。

 きっと考えている時のシュウはとんでもない、誰もが浮かべない表情をしているんだ。

 そう思った。


 結果として、私とシュウに外見上の違いはまるで無かった。

 結果として、同じでありながら違うという事が、私とシュウの異質さを際立たせた。

 その異質さが私にとってはシュウとの間を遮る壁に思えて、同時にとてつもない魅力に思え惹かれていった。


 その思いは年を経る毎に強まっていった。それとは反対に、私とシュウは少しずつ世の中の事を分かり始めて、シュウの能力はほとんど現れなくなった。

 シュウの能力が現れなくなった事で、私とシュウの間は埋まった様な気がした。手を伸ばせば届く様な気になった。それは長い間一緒に居た事にも起因しているのだろう。


 二人の間が近付いても、シュウに感じる魅力はいささかも衰えず、内に秘めてしまった才能は外に現れていた時よりも溢れんばかりに輝いている様に思えた。


 私とシュウが小学校の六年生の時、丁度夏休みに入る直前、お昼時の私の部屋。

 当時、キスというものに憧れていた。

 シュウとキスがしたい。何となくそう思っていた。


 恋愛を殊更意識していた訳ではないが、周りから得た知識で、キスと言う物は素晴らしいもので、お互いを永遠に絡め取るものだと考えていた。

 あの頃はシュウを間近に感じていたとは言っても、いつ再び離れてしまうか分からないという不安を感じていた。

 その不安が、キスを行え、と強迫していた。


 そして私はその強迫に抗わず、かといって即座に行動を起こすほどには心を支配されずに、なんとなく漠然と、キスがしたい、と思っていた。


 その思いが最も膨れ上がったのが、先程述べた夏休みに入ろうかという時だった。

 前日にシュウから登校を別にしないかと言われた事が一番私の心を苛んだのだと思う。


 レースに遮られ、和らげられた日差しが部屋を薄暗く照らしていた。横合いから当たる日差しに影が浮き上がり、シュウの姿は六年後の今と同じ様にどことなくぼんやりとしていた。

 隔てられた部屋も今と同じだ。陽光の明るさはあれど、人の声、車の音、一切が硬質な壁に遮られて、静まり返った静寂が茫として、まるで深夜の様に冷たく漂っていた。


 ただ一つ大きく違ったのが、時たま窓からそよぐ風だった。

 レースをはためかせ、体を撫でる風は、静寂を掻き混ぜて、それが済むと窓の外へと帰えっていく。そんな事を繰り返していた。


 そこでシュウは今と同じ様に何かを考えていた。

 私は考える事を止めて、シュウを眺めていた。

 シュウの髪が風に揺れるのを眺めながら、私は何も考えずに対面に座るシュウへと体を近づけていった。


 みしり、と木の軋む音がした。

 お母さんの上ってくる合図だと気付いた瞬間、私は体を引っ込めて、元のベッドの上に座った。


 今自分が何をしようとしていたのか。座ってから始めて気が付いて、心臓がどぎまぎし始めた。

 シュウは変わりなく、何かに考えている様子だった。


 思い出した。

 その失敗のお陰で、私は恋をしているんだと理解したんだ。

 どうしてそんな風に心動いたのかは分からない。

 ただ、それまでの漠とした一緒にいたいという感情を、急に恋だと確信した。


 それから私は告白をしようと、色々と悩み、直接伝える気恥ずかしさ、メールで伝える素っ気なさに悩んで、その中間のラブレターという形に結実した。

 そうして──

 あまり思い出したくない。


 不安と期待をないまぜにした一種異様な興奮の中で、推敲を重ねて書ききった手紙は、翌日ゴミ箱に捨てられた。

 必死に考えた文面はただの炭素の汚れに成り果て、手に持つだけで汗の浮いた渾身の手紙は二つに破れ、大量の屑と一緒に冷たくなっていた。


 私の前にはシュウがいる。

 あの頃と変わりなく、何かを考えている。

 私の心はあの頃とは変わった。ただ好きだという気持ちはまだ残っている。強く沈んでいる。


 気が付くと、私の手には汗が浮いていた。


「なあ、涼子」

「な、何?」


 体が跳ねた。

 現実に立ちかえって見ると、シュウが難しい顔をして、私を見つめていた。


 頭を突きあげる様に胸が鼓動していた。

 それを必死に抑えつけながら、私はシュウと対面していた。


「やっぱりおじさんの仕事関係の人なんじゃないかな?」

「うん、ただどうして私に見覚えがあるのか、分からない」


「涼子は外国に行ってたんだからおかしくはないだろ? おじさんに会った時に涼子が一緒に居たんだ」

「え?」


 私の頭が一瞬止まった。

 必死に抑えつけようとしていた鼓動も瞬時に沈静した。


「私が外国に?」


 全く覚えていない。たったの一度だって言った覚えはない。


「あの、シュウ」


 私が懸命にシュウの言っている事に追いすがろうと口を開いた。けれど、シュウは私の事など目に入っていない様に声を高めた。


「いや、それどころか涼子の留学も関係があるのかもしれない! だったらその六年間の間に──」


 …………え?


「おい、涼子?」


 完全に思考が止まる。何を言っているのか分からない。理解できない。観念が崩れていく。私は考えがまとまらず、自分が何を考えているのかを漠然と感じながら、私を揺するシュウを呆然と眺めている。


「涼子、大事な事なんだ。留学している間に何か無かったか? どんな些細な事でもいい。去年までドイツで何をしてた?」


 留学? 六年間? 去年? 私のしていた?

 中学校へ。高校へ。通っていた。

 私はシュウと……会えなくて。それで勉強を頑張って。

 白い教室に。……白?

 こんなに白い教室は知らない。

 私の中学校の時の教室は──

 思い出せない。

 どこか広い森の中を──

 高校は……思い出せる。

 皆の顔を思い出せる。

 友達を思い出せる。

 去年はクラス替えの前に──

 ……クラス替え?

 去年は皆と違うクラスに──いた?

 私はどこに?

 私はどこに?

 私は何処かにいた?


「涼子」


 私の目の前に突き出された指が私の思考を収束させた。


「シュウ、私」

「涼子か? 涼子だな?」

「私が私の中にいないの」

「ドイツに行っていた間の事が記憶にないのか?」

「私の中に私が、中学校も高校も行ってたはずなのに。旅行だって行ってないのに。ずっと日本に居たはずなのに。それなのにどこにも私がいないの」


 私の心が再び膨れ上がっていった。

 私の心を張り裂く為に、暴走しようとしていた。


「そうか……分かった」


 意外なほど素っ気ない返答だった。

 その素っ気なさが私の狂い始めた思考を停止させた。


「涼子は生まれてから今までずっと日本に居た。けどその間の記憶が曖昧なんだな?」


 私は頷いた。それに伴って、再び頭の中がぐるぐると回り始め、熱を持って私に眩暈を引き起こした。


「涼子、落ち着いて。じゃあ、おばさんに聞きに行ってみよう。涼子が留学していた事を覚えているか」


 私が何か言う前に、立ちあがったシュウが私の手を取って引いた。

 私は引かれるままに立ちあがり、ドアを抜け、階段を下り、リビングへと入った。


 出来ればお母さんも私と同じ様に、留学の事など知らないでいて欲しい。この事件とは無関係であってほしい。

 リビングに入ると、テレビを見ていたお母さんがこちらに気が付いて振り向いた。


「あら、涼子にシュウちゃん。どうしたの?」


 不思議な顔で尋ねてくるお母さん。

 それに対して何と言うのだろう。

 横に立つシュウの顔を見上げると、破顔していた。

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