ずっと望んでいた言葉
「涼子! どこいってたの!」
玄関を開けると、お母さんの怒声が聞こえた。
体がぶるりと震えた。お母さんが私の事を心配してくれる、それが嬉しかった。
声に続いて床を蹴りつける足音が聞こえ、やがてリビングに通じるドアが開いた。
現れたのは怒り顔のお母さん。
「ごめんなさい」
「まったく! ……心配したんだから」
お母さんが私の事を抱きとめ、鼻を啜った。
泣いているのだろうか。
私もお母さんの背中に手を回した。お母さんが私の事を思ってくれる、それが嬉しかった。
「あの……本当にごめんなさい」
私はお母さんの体から身を話して、お母さんの目を見つめた。
透明な瞳、あの女の濁った目とはまるで違う、綺麗で美しい瞳。
その眼に嘘を吐かなくてはならない自分が嫌だった。
結局私はどんな風に道を進んでも、お母さんに泥をかけてしまう。
「その、今日は外で……」
そう言いかけた私の口を、お母さんは再び抱きしめる事で塞いだ。
「いいのよ。なんであれ、帰って来てくれたんだから。無事でいてくれるだけで」
まるで私の心を見透かした様に、まるで私の願いを汲み取った様に、私の聞きたかった言葉、今だけじゃない、ずっと望んでいた言葉を私にくれた。
心が震えて何も言えないでいると、お母さんは私を離して、涙の浮いた眼を瞑って笑った。
「さあ、ご飯を温め直すから、座って待ってて」
私を促す様に一度私の背を押すと、そのまま私を残して台所へと消えていった。
○ ○ ○
自室の窓ガラスが数回鳴った。
カーテンの向こう側、静まり返った暗闇から小石でも当たった様な小さな音。
部屋に入って灯りを付けて、さて着替えようかという時だった。
何だろうとカーテンを開くと、虫でも鳥でも蝙蝠でもなく、向かいの窓から身を乗り出したシュウが居た。
「よう、涼子。どうだった?」
私は無言でカーテンを閉めた。
「おい、待てって。どう? ちゃんと怪しまれなかった?」
「良い訳する必要無かった。着替えるからちょっと待ってて!」
私が制服のリボンを取ると、カーテンの向こう側から窓の閉まる音が聞こえた。
暖房を付けたが、不意打ちに油断していた姿を見られたせいで、すでに暖まっていた。
手を震わせながら、すぐさまタンスの引き出しを開いた。着ようとしていた部屋着の上の段、やや外行き用の服に着替えて、カーテンを開けた。
向かいの窓は閉まっていて、ガラスの奥はカーテンに隠れて見えない。
私は多分シュウがそうした様に、夜空に身を乗り出して、向かいのガラスを叩いた。
叩いてすぐに、カーテンが勢いよく開き、シュウが現れた。
窓を開けたシュウに向かって、出来るだけさり気なく私はお礼を言った。
「さっきはありがとう」
「ん? どういたしまして。大した事はしてないけど。それよりそっちに行っていい?」
「別にいいけど」
私が窓から体を離すと、シュウは大股に家の境界を越えて、私の部屋へと入って来た。
「久しぶりだな。こうして来るの」
「そうだね。小学校の時以来だもんね」
ゴミ箱に捨てられたラブレターが頭に浮かんだ。
行き来が無くなったのはちょうどあの頃か。
シュウが窓とカーテンを閉めた。
沈んだ夜の音が完全に締め出されて、静寂に部屋が包まれた。
聖別された祭儀場の様に今、この部屋は外界から隔離されている。
この世界に私とシュウ、二人きり。この状況に心ときめいているのは、きっと私だけなのだろう。
そんな思いと静寂が混じり合って、更に私とシュウは二人きりになった。
「涼子のお母さんは?」
「下で……多分テレビでも見てる」
「この部屋に来たりは?」
「ほとんどないけど」
「そっか。よかった」
「え?」
「あまり聞かれたくない話だし、特に涼子のお母さんには心配かけさせちゃまずいだろ? それで、今日はどうだった? 何か新しくわかった事は」
「ああ、そういう事」
相手の言葉に一喜一憂する自分が情けない。
所詮すでにふられているんだ。思い人が私を心配してくれる。それ以上に何を望む。
私がベッドの上に座ると、シュウは床の上に座った。
「分かった事。まずは私の病気からでいい?」
「勿論。それが一番大事だろ」
「あの女が言うには、私の病気は願いを叶える物なんだって。私の望んだ事が叶う病気なんだって」
「願い事を?」
「そう。世の中にはいろんな願い事があって、その中で強い願いが叶うんだけど、私の場合はそんなの関係無く願い事が叶う病気だって言ってた」
シュウは怪訝そうに黙りこむと、立ちあがり、ベッドの上にある枕を手に取った。
「じゃあ、これを浮かせてみてよ」
私は頭を振る。
「私の中にも願い事が沢山あって、その中の強い物が私の願いになるんだって。それで、私はこの病気が願い事を叶える病気であって欲しくないから、叶えられないって」
「それじゃあ、本当にそういう病気なのか分からないだろ」
「うん、私もそう言ったんだけど、自信がありそうだった。それに嘘を言う必要がないし」
シュウは枕を元の位置に戻して、自分も元の位置に座った。
「まあ、なんとなく分かるよ。本当かどうかは別にして。涼子が願い事を叶えられない理由っていうのも」
私は思わず俯いた。
「その様子だと分かっている様だけど、はっきり言わせてもらうよ。目を背ける訳にはいかないし。涼子がそんな病気であってほしくないっていうのは」
シュウがここまで踏み込んでくるのも珍しい。
「うん、私がお母さんを刺す事を、私が願ったって事に……それにまだこの病気が続いてるって事は私がこの病気を望んでいるって事に」
「女の人の話が本当ならね。それで、実際涼子はどう思うんだ? 病気になってから、願い事が叶ったっていう時はあった?」
考えるまでもなく、思い当たる。もう何度も考えた事だから。
そう明らかにおかしかった。私がおかしくなり始めた時に、突然シュウが私に話しかけてくる様になったのだ。明らかに不自然なタイミングだった。まるで図ったかの様に。
それが何を指し示しているのか、私に答えを出す事はできない。
「あるのか?」
「もしかしたら。ちょっと言えないけど」
「そうか。まあ、それなら……じゃあ、涼子のお母さんはどうなる? あんな事件を涼子が望んでたのか?」
私は押し黙らざるを得ない。
そう確かにあの頃、お母さんに対して不満を積み重ねていた。ずっとずっと顔を合わせる度に。
それが殺意に変わらないと誰が言える。人はほんの些細なきっかけで鬼になれる。そんな事、現実も虚構も口を揃えて教えてくれる。
「確かにあの頃は勉強とかの事で色々と」
「あのな、それは俺達みたいな思春期が持つ親に対する不満に過ぎないだろ。それで親を殺そうなんて事にはならない」
「そんなの分かんないじゃん」
「分かる。人を殺すなっていうのは、生まれた時からずっと戒め続けられる事だ。理性が働く状況なら確実に足を引っ張る。だから些細な理由で人を殺すなんてのは突発的な事がほとんどだし、それなら思考は単純になる。涼子が言っていた様に──傷を抉る様で悪いけど──わざわざ母親をめった刺しにするなんて事ありえない」
「仮にそうだとしても──さっきも言ったでしょ、私は願いが叶う病気なんだって。ほんの小さな願いが実際に叶っちゃったって事も」
「その病気は叶わない願いを叶えてくれるって物で、小さな願望を大きくする物じゃないだろ。どっちにしても親に小言を言われたからって、死んでほしいとは思わない。せいぜい、会いたくない、どんなに酷くとも、消えて欲しい、だろう。実際に殺す所を想像しながら死んでほしいなんて言う奴はいない。俺達は普通の学生なんだ。涼子は偏った考えなんて持ってないし特殊な家庭環境じゃない。ドキュメンタリーや映画や小説に出てくる殺人者じゃないんだ。自分の親を殺すなんて事を本気で……」
シュウの言葉が止まった。まるで何かに気付いた様に驚いた表情で固まった。
本当に時間が止まったみたいだった。
目に映る世界も私の心もその瞬間に固まった。
それはほんの一瞬の事で、時間はすぐに動き出した。
「願える訳が無い」
「今の間は何?」
勿論、それを見過ごせるわけが無い。
「いや、なんでも」
「考えた事を言って」
「……良く考えたら、間違ってたんだけど」
「言ってみて」
「もしかしたら、自分の手で、その、さっき言った事をやらない様に、別の誰かにしてもらう為に、別の意識に乗り移られるっていう状況を作ったんじゃないかって」
衝撃は無い
ただ、やはり、とだけ思った。
「でも、それもおかしいんだ。どちらにしても殺めるなんていう事を願うはずが無いし、精神を入れ替えたって自分が手を汚したんじゃ同じ事だろ。もしも本気で自分はしたくないけどしようとしたなら、事故や病気を願うはずだ」
先程よりもずっと早い口調で言い切った。
良くわかった。私の事を慰めようとしてくれている。
その慰めは優しい嘘だ。
温かで心地よいけれど、浸かってしまっては前に進めない。
「きっとシュウが言っていた通り、衝動的だから単純な思考になったんだよ。今すぐ殺したいけど、嫌だ。誰か変わりにお願いって。それともずっとわだかまっていたのかもね。自分の手でって思うくらい。その最後の砦が皮肉な事に、いや憶病な事にかな、自分で殺したくない、だった」
「いや、それでも」
「別にいいんだ。もう起こった事だし。これから償っていけば。だから、これからの事を考えよう」
そうだ。過去の事は関係ない。これから。これからを良くしていかなければならない。
「涼子。それでも絶対におかしいんだ」
「もういいから。それよりも話したい事があるの」
これ以上この話をしていたくない。
私がそっけなく答えると、シュウは一度、頭を思いっきりこすってから、じっと私の目を見つめて言った。
「分かった。後で冷静になった時に、もう一度考えてくれ。そして、これだけは忘れるな。その願い事を叶える力で、あんな事件が起こるはずは絶対に無い」
ありがたい事にシュウの言葉は続いた。
もしもシュウの言葉が途切れていたら、私は頷いていただろう。
心にも無く。
「それで、別の話したい事って言うのは?」
「え、あ、うん、あの女とそれからお父さんの事なんだけど」