何を忘れているの?
とん、と体が揺れた。
倒れてはいけない。慌てて態勢を立て直そうとして、頭が重い事に気がついた。
ぐっとへばりついている。根っこでも生えた様に机から離れようとしない。
目に光が差し込んできた。驚いて体が跳ねた。
脳が振られて、重苦しい吐き気が胸にこびりつく。
寝ていた、と認識した途端、周りの光景が押し寄せてくる。
煌々と点った電灯とそれに照らされて並ぶ座席。目の前でうなだれている女と奥の座席で話し合っている男女。窓の外は暗く閉ざされて、灯りの点ったこの場所が世界から切り取られている。
どこかで聞いた事のある楽曲に合わせて、目の前の女から声が聞こえた。
「お目覚めかしら?」
食器の擦れる音が響いている。左を見ると、老齢の男女と幼い男の子がスプーンを啜っている。
「どうしたの? 気持ち悪い?」
じわりと頭が温かくなった。
寝る前の自分を思い出し、女の言葉を思い出した。
「いえ、大丈夫です」
氷の入ったお冷を流し込んで、頭と体に芯を通す。
「眠っていたみたいですね。すみませんでした」
「気にする事無いわ。眠るっていうのはとても素敵な事だもの」
女はテーブルの上にノートを開いて、何かを書き込んでいた。
ノートには数字と記号が並んでいたが、何を意味しているのかは分からない。恐らく私に関するメモなのだろうけれど。
女は突然ノートに書き込んでいた手を止めて、顔を上げて、笑った。
笑顔の女と目が合い、なんとなく気まずい思いが胸に残った。
「それで……確か、私の願いは叶うっていう話でしたっけ?」
「ええ、そういう話もしていたわね」
ひっかかる物言いだけど、もう慣れた。この女は言う事全て煙に巻く。
「願いが全て叶うなら……」
何か頭に引っかかる。嫌な感じが圧し掛かっている。
何か忘れていた。思い出さなきゃいけない事を。思い出したくない事を。
「願いが全て叶うなら……例えばこの水がりんごジュースに変わってほしいって願えば変わるんですか?」
「ええ、あなたが本当に望めばそうなるわ」
私は水を掲げて、睨みつけた。りんごジュースに変われ。甘いジュースに変われ。
十秒ほどしてもコップの中に入った液体は透明のままだった。
自分は何をしているんだろうという羞恥が私の顔を火照らせた。
一応、コップの中身を確かめる為に、液体を口に含んでみる。
ふわりと甘い味が広がった。
りんごの味がした。
驚きながら、含んだ液体に集中した。
それはミネラルと塩素を含んだ水の味だった。
念のために一度飲み下して、もう一度新しく水を口に含んだ。
水の味だ。
「水みたいですね」
「それはそうよ」
女は笑っていた。何一つ非を認めていない。
それはそう、とはなんだ。願いは叶わなかったのに。
「あなた本気で水がりんごの味になってほしかったの?」
「それは……ちゃんとリンゴジュースに変われって思いましたけど」
「それは願いじゃないわよね。思っただけ」
女は人差し指を立てて、片目をつぶって見せた。
極めて限定的な場面での教示する者のジェスチャーだ。
「あなたは今、その水がりんごジュースに変わったらって願ったのね。でもあなたは本当にそう願ったのかしら。頭の中で思い浮かべただけじゃない? だって、もしも本当に水がりんごジュースに変わったら、あなたは認めざるを得ないもの。あなたには願いを叶える力があるって」
心臓が跳ねた。息が荒くなった。
頭が不安に締め付けられている。
それが何故かはわからない。
何かを忘れている。
女は左手で自分のコップを掲げ、右手の人差し指をコップに当てた。
「幸せな人は今を変えたくないものよ。もしも本当にそんな力があるのなら、きっと今の生活が変わってしまう。そんな思いが強ければ、当然水は水のままそこにあり続けるでしょうね」
女は少し申し訳なさそうに眉を寄せて、コップを置いた。
「私にも少し責任がある。願いを叶えられるなんて言ってしまったから。そんな力が自分にあるなんて知ったら誰だって身構えてしまうもの。そんな事を知らないで、何の気なしにただそうであったらと考えていれば、先の事なんて想像せずに今そうだったらいいなと考えていれば、もしかしたら水はりんごジュースになっていたかもね」
女の長々とした口舌を聞いている内に、段々と私の心は醒めていった。
女の言葉はただの言い訳にしか聞こえない。
「結局は証明できないって事ですよね」
「ええ、そうね」
女はにこやかに肯定した。
あくまで余裕のこもった同意だ。
確かに今は示せないけれど本当の事なのよ、と。
呆れつつ、何気なしに外を見ると、しんと暗闇が下りていた。
起きた時点ですでに外が暗かった事を思い出した。
今何時だろう。
携帯を取り出すよりも先に、店の端に置かれていた柱時計が目に入った。
もう大分遅い時間だった。
すでに夕食の時間は過ぎている。
「今日はもう遅いので帰らせていただきます」
「あらそう?」
帰ろうとして腰を浮かせかけて、思い出した。
この女とお父さんの関係は?
何故こんな大事な事をすっかり忘れていたのだろう。
「最後に一つ良いですか?」
「ええ、いいわよ。何かしら?」
どう聞こうかと一瞬迷ったが、この女に回りくどく聞いても、更にはぐらかされるだけだろう。
「あなたは父とどんな関係なんですか?」
女の顔がよく分からないといった風に歪んだ。
とはいえ、それ以上に踏み込んだ質問はできない。
はっきりと口に出してしまえば、この女とお父さんの不義が本当になってしまう。そんな気がした。
「どんなって言われても……普通の知り合い、いえ顔見知りってところね。あまりお話した事はないけれど、何度か顔を合わせた事はあるわ。けど、急にどうしたの?」
「いえ、分かりました。ありがとうございます」
動揺した様子はなく、嘘を言った風にも見えない。
勿論、それを見抜く眼力が私にあるとは言えないし、ましてこの女の言葉を一から十まで信じるわけにはいかないけれど。けど、なんとなく安心した。
考えてみれば、お父さんの会社はかなり手広く展開している商社だ。研究機関に何か売り込みに行っててもおかしくはない。
私を連れて出向いていた事は不思議だが、お父さんは休日返上で働いていたりして、あまり家族を顧みない。だから、例えば旅行先で商談の機会を見つけて、私を連れたまま相手先にという事だってあるだろう。
そう考えると心が落ち着いた。そうあの堅物、厳格なお父さんが不倫なんて。
「よく分からないけど、お力になれたかしら?」
女の笑顔に私も笑顔で返しつつ、私は席を立った。
「ええ、ありがとうございました」
「あ、お会計なら済ませておいたわ。大丈夫、これ位奢るわよ」
バッグから財布を取り出そうとして、その手を女に止められた。
「そうですか、ありがとうございます。それでは」
「ええ、またね」
また会いたいとは思わないが、この病気を治す手段は今の所この女にしか見いだせていない。
私は手を振る女に手を振って返し、店の家へと向かった。
家に帰ると、丁度シュウが隣の家から自転車を出している所だった。
「あ、シュウ。どこか出かけんの?」
シュウは驚いた顔で私の事をマジマジと見回すと、自転車を手放して私の元へと駆け寄ってきた。
私は見つめられている事で赤くなる。自転車が大きな音を立てて倒れたが、シュウは全く気にせずに私の肩を掴んだ。
「良かった、無事だったか」
「は?」
一瞬何を言われたのか分からなかったが、すぐにその言わんとする事に思い当たった。
今の私は次々と精神が入れ替わり、ふらふらとその辺りを歩き回る病気なのだ。いつもなら帰っている夕飯の時間に連絡も入れていなければ、心配するのは当然だ。小さな子供が何処かに行ってしまった時の様に。
「ああ、ごめん。ちょっとまたあの女の人の所に」
「馬鹿か。あの人は危ないって言っただろ」
思わぬシュウの暴言にたじろぎながらも、私はやや声を大きくして言い返した。
「そうは言っても、今は唯一の道でしょう。いくら気に入らないからって、他に方法が無いならあそこに行くわ。シュウだってあの人は病気について詳しいって言ってたし」
「確かにそうだけど……正直何をされるのか分からないぞ」
「でも今のままじゃ悪くなる一方じゃない」
「今は段々と落ち着いてきてるだろ。そりゃあ、予断は許さないけど、何もあんな人に縋るなんて」
「シュウ。私はね、一刻も早くこの病気を治したいの。もしかしたら、また」
言葉の続きが出てこない。感情が昂った所為か、その後に続く言葉が出て来なかった。思い出せなかった。
ただ、シュウは何かを察したようで、開いた口をつぐんだ。
「確かにあの人は怪しいけど、だからこそ近付かなくちゃいけない。あの人が何かをしようとしているのなら、知らない所で何かをさせるよりは目の見える所で防いだ方が絶対に良い。あの女と病気に怯えながら暮らしていくよりも」
シュウは黙っていた。
きっと考えているんだ。どうするのが一番いいのかを。
「分かった。ただ一つ約束して。これからあの女と会う時には絶対に俺を一緒に連れてってくれ」
シュウの真剣な目に見つめられていた。
シュウをこれ以上巻き込んでいいのだろうか。
シュウが私の事を心配してくれて嬉しい。
シュウの手が私の肩に触れている。
「分かった」
私がそう言うと、シュウはやや安堵した様で、溜息を吐いた。
それから私の肩に置かれた手を慌てて戻すと、焦った様に倒れた自転車を起こしに行った。
「それじゃあ、シュウ。また」
自転車を起こしながらシュウはまたも慌てた様子で、私の方に顔を向けて笑顔を作った。
「あ、ああ、また。そうだ、涼子のお母さんかなり心配してたから、ちゃんと謝っておいた方がいいぞ。いい訳もちゃんと考えておけよ」
「うん、分かった」
いい訳か。
言い訳は嘘だ。
お母さんに嘘をつく。
どうしようもない罪悪感が胸を貫いた。
当たり前の事のはずなのに、いつもしていた事のはずなのに、どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。