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病気の本質

「どう? あの男の子を殺す覚悟は出来たかしら?」


 目を覚ますと、目の前にいた女からそんな事を尋ねられた。

 辺りを見回して、ここが以前目の前の女と会ったカフェだと知る。夢の中で駅前のカフェに行ってほしいと頼んだのが功を奏したようだ。

 右手に熱が走り、痛みが右手から右肩へと昇って来た。鬱血して紫がかった右手と机の上に突き立ったフォーク、そしてたった今女の言った言葉。一体私に乗り移っていた意志はこの女と何を話していたのかと悩み始めると、途端に頭が痛くなった。


「あの、さっきの私と何を話していたのかは知りませんけど、今の私はその誰かを傷つけるつもりはありません」


 私の言葉に女は笑った。


「前の人は関係ないわよ。私はあなたに尋ねてるの。どう、殺す気にはなったかしら?」


 そこに至って昨日の電話の事をようやく思い出す。男の子というのはシュウの事か。


「私は……勿論そんな気はありません! 絶対にそんな事はしません!」


 ふざけた言葉に惑わされるな。目的は分からないけれど、きっとこの女は私が慌てふためくのを喜んで見ているに違いない。そう自分を戒めてから、女を睨みつけた。


「そうよね」


 女は相変わらずにこやかな表情を浮かべながら、私の言葉を肯定した。

 思わぬ返答に力が抜けた。


「そうよねって、あなた」

「そうなのよ。人ってそういうものなのよね。どうしてかしら?」

「え?」


「未来が見えないのは当たり前。遠くのことだって分からない。それどころか自分の事さえ分からない。何もかも分からない事だらけ。それで終わった後に過去が何を指示していたかに気付く。自分の周りに何が起こっていたのかに気付くの」


 女の持って回った言葉に一瞬思考が消えそうになった。

 痛む右手を握りしめて、その痛みを体の中へ。頭の中まで電気を走らせ、なんとか女に食らいつく。


「それが私っていう事ですか? 私は何にも分かっていないと?」

「いいえ、人間すべての事を言っているの。私だってそうよ。この世の中は分からない事だらけ」


 女の言いたい事が見えない。ただ女の悩ましげな溜息が鼻につく。


「だったらどうして私がシュウを殺すなんて、そんな馬鹿げた事が起こるって分かるんですか? 何も分からないなら、あなたは……あなたの言う事は当てにならない」


「きっと人は人が好きなのね。だから他の人のことばっかり分かって、自分の事が分からない。私もあなたの事が好きだから沢山の事が分かるのよ」


「あなたが……私の事を?」


 全身に鳥肌が立った。

 逃げ出したい。一刻も早くこの場から。

 しかし頭のどこかに隠れていた冷静な自分が、シュウの安全が確認できるまではここに居るべきだと言っていた。


「そう! 実はね! 実はね! 私あなたの事を昔から知っているの! 覚えているかな?」


 女が目を輝かせて、興奮気味に身を乗り出してきた。

 後ろの壁に頭をぶつけながら必死に記憶を探ったが、昔の記憶に女の顔は見当たらない。


「昔、丁度十年前にね、ドイツであなたのお父さんと話す機会があって、その時にあなたを見る機会があったの」


 十年前。私が七歳か八歳の時だ。小さい頃の事だし、たった一度だけ会った顔を忘れていてもおかしくはないが、ドイツという言葉を見過ごせなかった。

 お父さんは良く海外出張や単身赴任をしているのでこの女と出会っていても別段不思議と思わないが、私が外国に出た記憶はない。両親からそんな話を聞いた事も無いし、写真もビデオも見た事が無い。てっきり日本の外から出た事が無いと思っていた。

 一体何故お父さんは私を連れて海外に行っていたのだろう。旅行か何かだろうか。何故この女とお父さんが話をしたのだろう。仕事の話だろうか。


「あの時、あなたはとても可愛らしかったわ」


 一体お父さんの何なんだ。まさか浮気相手なんて話はあってほしくない。


「だからね。この街の近くに引っ越してきた時に、さりげなくあなたの事を見守っていたの。もしもいじめられていたり、変な人に襲われていたら助けてあげようってね。だけど特に何も無かった」


 そう言って、女は椅子に深く座りこんだ。

 目の輝きが消え、濁った瞳が私を見つめていた。


「ずっと私の事を見ていたんですか?」


 それが事実だとしたら気味が悪い。例え純粋な善意から来たものだとしても、私の知らない所から私に視線を送る者がいたのだ。

 まさしく目の前の女が言っていた通り、私は何も分かっていなかったのだ。


「四六時中ってわけじゃないけどね。この近くに来る事があったら眺めていたわ」


 そもそも何故この近くに引っ越してきた。この近くにやってくる理由は何だ。

 嫌な想像ばかりが頭に浮かぶ。私は頭を振って、お父さんを信じる事にした。


「それで急に論文を送ったりしてきたのも、私の幸せの為に?」


「そう。最近あなたの様子がおかしかったし、あなたが母親を刺したなんて新聞に出ていたから」


 胸が痛んだ。母親を刺した状況が頭の中にありありと浮かんできて、私の頭を痛めつけた。


「すぐにでも助けに行きたかったんだけど、どう止めればいいのか分からないでしょ? 何か悩みでもあるのかと思って、あなたの事を観察していたの。そしたらびっくりしたわ。丁度私が、いえ、あの時はまだ教授が研究していたわね。教授が研究していた現象と同じなんですもの。だからすぐに論文を送って、それから直接会ってその病気を研究して治してあげようと思ったの」


 言っている事はとてもありがたい。けれど実際が伴っていない。シュウを殺す事には繋がらない。


「あなたの言いたい事は分かりました。助けてくれようとしている事は大変嬉しく思います。けれどあなたの言うあの男の子を殺さなければならない理由とはなんでしょう?」


 静かに、出来るだけ静かに言った。努めて落ち着いた風を装わなければ、すぐに昨日から溜まっていた怒りと目の前の不気味さへの恐怖を爆発させてしまいそうだった。


「あら、いきなりよそよそしくなっちゃって。まあ、いいわ。あなたの勘違いを正してあげましょう。私は別にあなたがあの男の子、シュウ君だったかしら、シュウ君を殺さなくちゃいけないなんて一言も言ってない。私が言っているのはこのままいけば、いずれあなたはシュウ君を殺してしまう。だから覚悟しておきなさいと言っているだけよ」


 気が付くと唾を呑みこんでいた。

 母親を刺した光景が頭の中で渦を巻いている。あれと同じ事をシュウにも。考えるだけで肌に汗が滲んだ。


「このままというのは、病気が進行していったらという事ですか? 病気が進むとお母さんにしたみたいに、シュウを?」


「そう、別におかしくは無いでしょう? 一度あった事なんだから、二度あったって」


「そんなわけ──」


 激昂して立ち上がろうとした私の鼻先を人差し指が優しく押していた。


「だからね。覚悟をしておきなさい、と言っているの」


 女の淀んだ目を見ている内に、昂った心が落ち着いていった。


「どうすればいいんですか?」


「そうねえ、とりあえず殺してしまった所をずっと想像し続けて、殺す事に慣れてみたらどうかしら? 覚悟っていうのは待ち構える心だもの」


「そうじゃなくて! そんな事にならない様に、この病気を止めるにはどうすればいいんですか?」


 女は指先でコップに刺さったストローを弄んでいた。私の焦る姿を見ながら笑っていた。


「一つは勿論病気を治す事。でもまだ解析には時間がかかりそうね。間に合うかどうかは分からない」


 コップの中の氷が鳴った。女は喋っている内容に興味が無いと言わんばかりに、コップの中に目を落としてくるくるとかき混ぜた。


「二つ目はあなたからあの男の子を遠ざけてしまう事。相手がいなければどうしようもないものね」


 女がこちらを見つめてきた。私は口をつぐむ。まだ先がありそうだ。私は女の言葉を待った。


「最後はあなたがシュウ君を殺したいと思わない事。この三つね、あなたの取れる選択肢は」


「なら三つ目です。私はシュウを殺したいと思った事なんてありません」

「あら本当かしら?」


 目の前が赤く染まった。今日で何度目かの激昂だ。


「馬鹿な事言わないでください! 私がシュウを殺したいと思うだなんて、そんな事絶対にあり得ません」


 息を切らす私に向けて女は不思議そうに聞いてきた。


「そうかなぁ。じゃあ、あなたのお母さんは?」


「おか、母がなんですか?」


「あなたはあなたのお母さんを殺したいと思った?」


「そんな事、あるわけない!」


 右手に痛みが走った。気が付くと、ナイフを握りしめていた。どうしてナイフを握っているんだ。まるで殺そうとしたみたいじゃ──。


「ほら」


 私の動揺に女の声が重なった。

 慌ててナイフを取り落とした。金属の音が辺りに響いた。


「人は願望によって動く。それは誰でも一緒。人が思った事をすぐに行動に移さないのは、別の願望が阻むから。人はどんな行動をする時にも頭の中で願望がせめぎ合っている。そして勝った願望が行動として表出する」


 金属の音で聖別された世界に、女の澄んだ声が溢れた。

 さっきまでの怒りを忘れて、私はそれに聞き入った。


「けれどね。普通は行動しても叶うかどうか分からない。願望が外に出たら、今度は世界中の願望とせめぎ合う事になるから。だから世界は願望によって動いているけれど、どの願望が叶うかはその強さによって決まるの。例えば人間同士なら願望の強さにそこまで差が無い。だから誰にでもチャンスはあるし、誰もが失敗する可能性がある」


 心地よい声を聞きながら、私は思った。

 願望の強さ。私がシュウに負けていたのは願いが足らなかった。確かにその通りかもしれない。結局のところ、お母さんに小言を言われるのが嫌なだけで、シュウにどうしても勝ちたかったわけじゃない。


「でももしも願えばそれだけで叶うのなら、そんないい事はないでしょう? さっき言ったみたいに頭の中では幾つもの願望が押し合いへしあい外に出ようとしている。けれど出てしまえば必ず叶う。そんな力があったらいいと思わない?」


 確かにそれは幸福だろう。その当人にとってだけは。

 さっきの話と合わせて考えれば、周りの人は全く願いが叶わなくなってしまう。


「良いと思うでしょ? そんな力が欲しいでしょ? それを持っているのがあなたなの。あなたの病気の正体。あなたが願えば全てが叶う。それが今起こっている事の本質」


 その言葉を聞いた瞬間、頭の中に嫌なイメージが流れ込んできた。

 それがなんだか確認する前に、ぶつりと意識が途切れた。


 いつもの移り変わりと違う。そう思った時には、目の前に立ち塞がった鳥と戦っていた。

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