この世界で
それからの私の生活は一変した。毎日、ご飯を食べる時以外は不思議な機械を頭につけて、質問に答え続けた。
怖かった。私を見つめる目が、私に向く思いが。
何日も何日も時間の感覚が無くなる位、同じ生活を繰り返した。今思い返しても頭がおかしくなりそうだ。もうすでに狂っている私の頭が、更に狂いそうになる。その生活の果てが罵倒だった。
多分望む結果が得られなかったのだろう。当時の私には何のことだか分からなかった。周りに言われるがままに生活をしていたのに、なんで怒られるんだろう。不思議に思いながらも従った。
段々と痛みが加わって、段々強くなっていった。痛くて痛くて、気が付くと眠っていた。
傍にはあの人形があった。挨拶をするだけの人形。でも私にとっては外界との繋がり、いや外界の遺品だ。
来る日も来る日も苦痛を覚えて暮らしていた。そうして気が付くと、私は世界を旅していた。本の中にある世界へ毎日の様に遊びにいった。それはきっと他の人は夢だとか空想だとか言うのかもしれない。でも私にとっては世界そのもので、私にとっては現実そのものだった。
それからずっと世界を旅していたから、こちらの世界の事はほとんど分からない。ほとんど覚えていない。
今、私の体は薄れている。みんなが現実と言う方の私はきっともうすぐ消えてなくなってしまうのだ。現実の私が消えて、別の世界が本当の私になるなんて思っていない。きっとついにこっちの私が耐えられなくなったのだ。多分、次の実験が始まれば、私は完全に消えてしまう。
できれば私はこの力を使って、みんなを助けてあげたかった。救ってあげたかった。けれど、もう駄目だ。
こちらの世界で思い出せるのは、研究員たちの怒り。久々に会いに来てくれた両親の怒った顔。私が結果を出せないから、だから皆が怒っている。私がみんなに迷惑をかけている。
みなさん、私の事を憎んでいると思います。でも許してとは言えません。言いません。でも、お願いです。どうか私の事を忘れないでください。
私の隣にいた人形がいない。探しても見つからなかった。どうしていないのだろう。この部屋は何処だろう。
夢の世界だろうか。現実だろうか。それさえも私は分からなくなっている。
ここまで長くなった。誰が読んでいるか分からないけれど、ありがとう。お父さんやお母さんだったらごめんなさい。研究員の方たちだったらごめんなさい。
せめてこの日記の中でだけでも、私という存在が残りますように。
日記、いや、手紙はここで終っていた。私は目を擦って眠りについた。
この少女の存在をこの世界に残してあげようというやる気と一緒に、私は深い眠りについた。
○ ○ ○
「いや、しかし、可愛い女の子に吸いだしてもらうと元気になるなあ」
「全くね。もみくちゃにされて最高だったわ」
「なんねえよ。体だるくて死にそうだよ」
「下らない現実逃避はそれ位にしとけ」
「てか、大丈夫なん? あたしら死んだりしないよね?」
「まあ、前やられた時は大丈夫だったし、大丈夫なんじゃない? どうせこの体は死んでるし」
「あの子と戦うのはまだ無理ってことねん。気にせず次に行きましょや」
「あいつ怖いでごわす。おいどん、悔しいでごわす」
体が震えた。言葉の通り悔しさからか、あるいは身に刻まれた恐怖を思い出したからか。
植物を操る少女に再戦を挑みあっさりと負けた「それ」は、立ちふさがれたルートとは別のルートへ向かって歩いていた。
「二回負けた位で悔しいなど、今更であろう」
「この島来てから何度負けたか分かんないしね」
「死なない体だと緊張感が薄れるよなぁ」
遥か遠くから爆発音が聞こえた。きっと誰かが戦っているのだろう。今更この程度の事を気にする者はいない。
「それ」が島を徘徊し始めてから大分経った。中にいる意識達にとっても慣れたものだ。
「あのー、ちょっと皆さんに聞きたいんですけど」
「なんだ?」「良いよ」「何?」
「こっちの世界に飛ぶ周期が長くなってません?」
「飛ぶ周期?」
「あ、向こうの、というか、元の? 現実? の世界でまともで居られる時間が増えてません?」
木陰からのそりと小さな龍が現れた。龍は大口を開けて、「それ」を威嚇している。
臨戦態勢を整える龍の横を、それは気にせず通りぬけた。
その龍は大した事無いと、意識の誰もが知っている。
「確かにそうかも。始めのうちはどんどん短くなってたけど、今は段々長くなってるよ」
「そうだな。俺もこの島に久しぶりに来たな。この島の時間はほとんど進んでなかったが」
「それ」は近くの木から果実をもぎ取って口に入れた。
食べられる物と食べられない物。始めは何も分からず死なない事を盾に片っ端から食べていたが、今では生きる為の知識が身についていた。
「んー、誰かの意識と交代する事は少なくなりましたね。というより最近ではほとんど無くなっていますよ」
「そういや、私達も段々減っている気がしない? 特に最初の方に居たヤバ気な奴らはみんな消えているわ」
島の冒険者が「それ」の横を通りすぎた。一人で会話している「それ」を奇異の目で窺いながら。
昔だったら別の冒険者の目を気にしてこそこそと隠れようとする意識があった。しかし慣れ切ってしまった今、そんな意識は居なくなっていた。
「仮説なんですけど、マナが無くなって来たからなんじゃないですか?」
「マナ? ああ、あの女の子が言ってた? 魔力みたいなものだっけ?」
「そうです。あの少女に負けて、マナとかいうのを奪われてから一気に周期が長くなったので、もしかしたらマナが関係しているのかも、と」
「その前から緩やかにだが、長くなっていたと思うぞ」
「ええ、今思い返してみると、それは敵にやられて、体が死ぬ度……いえ、壊れる度だったと思います。もしかしたら、この体が壊れるとマナが漏れ出すんじゃないでしょうか?」
「んー、思い当たる所はあるわね」
「一応仮説ですけど」
「じゃあ、何か? 負け続ければ、いや、自分の体を壊し続ければ、いずれこんな所に来なくてよくなるし、元の世界でも意識を乗っ取られる事が無くなる訳か」
「じゃあ、やってみる?」
「いいんじゃん? どうせ死なないんだし」
「それ」は懐から魔石を取り出した。掌に心地よい感覚が広がる。馴染みきった力の感触。
「私は反対」
「お?」
「怖いのか」
「無駄だと思うから。ゼロになれば増えなくなるっていうなら、こんな事態は最初から起きなかったわけでしょ? きっと何か元凶がある。マナっていうなら、それをこの体に注入した元凶が。それを消さない限りどうにもならないと思う」
「それも一理だな」
「つっても元凶ってなんだ?」
「いいよ、もう適当で! どうせ落ち着き始めてるんだ」
「そうなら良いけど」
「何が言いたい」
「これは爆弾。どんな構造でどんな大きさでどんな効果があるのか分からない爆弾。少なくとも油断してちゃまずいと思う」
「つっても対策も何も無いだろうに」
「それはそうだけど……」
「先に進めばきっと分かる事がある」
「勘か?」
「俺の勘は当たるんだ」
「くそ! そういう台詞吐くとは大体当たるんだよな」
「先に進めると良いけど」
○ ○ ○
店内を見回すと聞いていた通りの女がいた。
机の上に何か──女性だし鏡だろうか? ──を置いて見つめ合っている。
見た所危険性は感じない。慎重に女に近づきながら、涼子は拍子抜けしていた。
「あら。今日も来てくれたのね。意外だったわ」
近寄ると女が微笑みをもって迎えた。
その微笑みを涼子は鼻で笑った。
「涼子ちゃんじゃないのね? まあ、何でもいいわ。そっちに腰かけて」
「名を名乗ってはいないと聞いていたんだが」
涼子の言葉に女は驚いた様な表情を作って、息を呑んだ。
「意外ね。涼子ちゃんと面識があったなんて。てっきり面識が無い物だと思ってたのに」
木や石の椅子とは比べ物にならない座り心地の良さに驚きながら、涼子は促された席に座った。
ほんの僅かに言葉を聞いただけで分かる信用のならなさ。きっと息をする様に嘘を吐くタイプの人間だ。
そう思いつつも、涼子の警戒は薄らいでいった。どう見ても肉弾戦が出来る様には見えない。いざとなれば首を捻切ってしまえばそれでお終いだ。
「ある島で情報交換が出来るんだよ。いいか、この体の持ち主以外がこの体に入っていたとしても、そう簡単にだませると思わない方がいいぞ。殺されたくなかったらな」
涼子は出来るだけ表情を動かさずに、言い切った。この体で迫力を出すのは難しいだろう。
自分の体であったら、涼子は相手の首にナイフの一本でも突きつけている所だ。
「ふーん、島ねえ。何やら気になる所だけど、その前に……その体で私を殺せるかしら?」
机にフォークが突き刺さった。
女の右手のすぐ横に叉が全て埋まった状態のフォークが突き立っていた。
もしも数センチずれていたら、女の手を潰していただろう。
フォークを握る涼子の手が赤く充血して震えていた。
「体の力は動かす意識に引っ張られるんだ。覚えときな、学者さん」
「そうだったの。覚えておくわ」
誰もが一目で分かる暴力性に曝されながらも、女は冷や汗一つかかずに、机に広げたノートにメモを取り始めた。
涼子の眉が不審に歪む。
命の危機を前にして、目の前の女は何故冷静でいられるのか。
見た所、決して自分の命を軽視している様には見えない。この体の持ち主である涼子から聞いた話の印象では、むしろ自分の事だけを考えているからこそ狂っているのだと感じた。
殺されない自信があるのか? 肉体的な面では抵抗できると思えない。魔術の素養も見られない。精神的な面で、例えばこの体に殺せない様な暗示や呪いがかけられているのかもしれない。
ならば本当に殺せるか試してみようか。そう考えて、ナイフを手に取った瞬間、視界が黒く反転した。
「お帰りなさい」
涼子が目を覚ますと、目の前に女の笑顔があった。
何故か破滅を予感させる、甘くとろける狂者の笑顔。