そうして与えられる不吉な予言
「ねぇ、悪魔」
「なんだい」
白い病室の中で私は本を読んでいた。
悪魔はジグソーパズルと戦っている。
「私ってもしかしてもう死んでるんじゃないかな」
本の中では龍に乗った少年が生き生きと空を飛んでいた。
「だったらどうする?」
私の決死の問いを悪魔は事も無げに受け流した。
「まさか、ほんとに……」
「勘違いはしないでね。僕はもし死んでいたらどうするのか聞いただけだ。君が死んでいるかどうかには言及してないよ」
悪魔はパズルのピースを嵌めながら言った。ジグソーパズルの答えはまだまだ見えない。
「でもそんな風に言うってことは」
「正直に言うとね、知らないんだ」
「え?」
「君が生きているのか、死んでいるのか。僕は知らないんだよ、本当に」
悪魔は嘘を言わない。
「そうなの?」
「うん」
「何でも知ってそうなのに」
「僕は君に作られた存在だからね。君の知っている事しか知らないんだ」
ただはぐらかすだけだ。
「私の知っている事?」
「記憶を無くす前の君がね」
「そうなんだ」
「おや、いつもならもっと喰らいついてくるのに」
私は少年と龍が新しい島へ訪れた所で本を閉じた。
奇怪であやふやな島が脳裏に焼き付いていた。
「なんとなく」
「なんとなく?」
「なんとなくまだ知るべきじゃない気がして」
「へぇ」
「これも記憶を無くす前の私がそう言ってるのかな?」
「さあね」
悪魔は興味がなさそうに、淡々とピースを嵌めていった。
「私もう寝るね」
「ああ、お休み」
私はベッドの上で横になって天井を見つめた。
白い天井を見ている内に、段々と意識が薄れていった。
いつもの様にどこかで誰かの声が聞こえる。
「さてどこまで真実に耐えられるのか。拝見させていただこうか、我が主」
○ ○ ○
朝起きるとニュースで、著名人が殺されたと報じていた。
一晩の内に十数人。見た事もない人ばかりだが、いずれも物理学の分野で活躍する学者や科学雑誌の編集者。常軌を逸した惨事に朝からどこのニュース番組でもこの事を報じていた。
大々的に取り上げて、扇情的に発しているけれど、一介の女子高生である私にとっては実感の伴わない関係の無い何かに過ぎない。
それがどれだけ大きくても、どれだけ悲惨でも、テレビを隔てた私にとっては──誰々が死んだ──小説ならたったの一行で済まされる脇役の退場と同じだ。
心に余裕のある時ならば、被害者に憐憫を感じ、加害者に恐怖を感じるのかもしれないけど、今の私に余裕はない。
これから狂気の女に私の秘密を聞く。その事で頭がいっぱいだった。
横断歩道の信号が青になるのを待って、道路を渡る。私の横にはシュウがいる。真面目な表情で前を睨んでいる。いつものとぼけた表情と比べると、少し怖い。
私の視線に気がついたのか、シュウがこちらを向いて笑った。
何故と疑問が浮かぶ。
どうしてシュウは私についてくるのだろう。一緒に来てくれたのだろう。
女と出会い、自分の秘密に立ち向かっていこうと決意した昨日、シュウは駆けよって来て言った。
「俺を頼ってくれ」
嬉しかった。けれど私は適当にごまかして、その場を取り繕った。
巻き込みたくないという思いもあった。それ以上に、私の秘密──それが何なのか分からないけれど──それを知られたくなかった。
そして今日、孤軍の決意を持って玄関を出ると、電柱に寄りかかっていたシュウが私を出迎えた。
そして今現在、女がいるというカフェへ歩きながら、やっぱり私の頭には何故と浮かぶ。
どうしてシュウは私と一緒に来てくれるのだろう。
頭の中に答えはあった。そうじゃないかなという望み、そうであって欲しいという願い。
聞こうかどうか迷っていながら、カフェへの道を粛々と歩き続け、気が付くと店の前に立っていた。
「リョウ? 大丈夫か?」
「ん」
とかく今回の事は私の事だ。シュウに頼らないようにしたいという思いを胸に、私は入り口のドアを開けた。
平日の昼間とあって、人は少なかった。
店内を見回すと、子供連れの奥様方が二組と高齢者の集まりが一組。
そして店の一番奥まった場所に女性が一人。昨日と同じスーツ姿。けれど今日は完全に装いを整えていた。どこかの会社で働いていそうな知的でやり手の会社員。昨日の狂人と比べればまるで別人だ。
やってきた店員に告げて、女性が一人だけ座っている席へと案内される。
席へ近付いてきた私達に向けて、女性は開口一番、にこやかにこう言った。
「あら、始めまして」
私ではなくシュウへ。
その瞬間、鳥肌が立った。
何か嫌な予感がした。
「どうも始めまして」
シュウは慇懃にお辞儀して、席へと座った。
シュウも相手を警戒している様だ。普段なら名前を名乗る。
私もシュウに続いて席に座り、適当に二人分の飲み物を頼んで、女と向かい合った。
とにかくこちらのペースを握らなければと考えたが、何と言って切り出したものか思いつかない。
まごまごとしている内に、女が口を開いた。
「それでね、話っていうのは、私の目的の事なんだけど。あ、論文は読んでくれたのよね。なんとなくでも分かってくれてると良いんだけど」
残念ながら私には全く分からなかった。書いた者が狂っているという事以外は。
横に座るシュウを見ると、難しい顔で何かを考えている様だった。
シュウにも読んでもらっていた。読んだ時は何も言わなかったけれど、シュウならもしかしたら理解しているかも。
「あの、一つだけ聞かせてください」
そう言ったシュウの目には、猜疑の念が込められていた。慎重なシュウらしい心の動き。けれどここまで強い不信を誰かに向けた事があっただろうか。
「あれは本当にあなたが書いた物ですか?」
女を見ると、笑顔が固まっていた。
「どういう事かしら? 一応私名義で発表させていただいているけれど」
再び女の表情が柔らかな笑顔に戻った。
くるくると良く表情が変わる。一片の淀みも無く、まるで精密な機械に皮を張りつけた様に。
「もしも僕の勘違いだったら申し訳ないんですけど、あれに書いてあった内容を昔見た事があるんです」
女の顔が喜びに変わった。おもちゃを与えられた子供の様に、透き通る様な笑顔に変わっていた。
「まあ! もしかして教授の事を知っているの?」
突然の弾む様な口調にシュウは若干気圧された様だ。
シュウはお冷で唇を湿らせて、改めて女の顔に視線を合わせた。
「確か佐藤丹香さんという方だったと思います」
「教授の事ね! どうして知っているの? 将来は物理の研究職に?」
「いえ、僕は医学を志していて、医学関係の本の中に。催眠療法を応用した別の世界から病気にアプローチする方法論だったと思います。面白い考え方をする人だと思って、他の本も読んでみました。どうやら佐藤さんは魔術と別の世界に興味を持っていたみたいですね」
「勉強家ね。その通りよ。魔術と異世界、この二つを調べる事が教授と、その下で学んでいた私の目標」
「その読んだ本に書いてあった事と、あの論文に書いてある事はそっくりでした」
「そうね。さっき論文は私名義と言ったけど、私はまとめただけ。けれど勘違いしないでね。勿論、論文を送った先々ではしっかりと教授と一緒に行った研究ですって伝えているわよ」
女が急に落ち着いて、私の方へと向き直った。
女の目が私を覘き込んでいた。腐った泥沼を思わせる目が、私の奥へ這い寄って来た。
「さて、無視する形になってごめんなさい。教授の事になるとついね。尊敬していたから。でも、あなたの事をないがしろにしていた訳じゃないのよ。むしろとっても大事に思っている」
目が、教授の話を経た彼女の目は、淀んで、気味の悪い、屍蝋の様な。
「涼子」
はっとして横を見ると、シュウが厳しい表情でこちらを見ていた。
シュウは私から視線を逸らすと、何も言わずに女を睨みつけた。
私も同じ様に女を睨む。
私とシュウの敵意を、女は毛先ほども動じずに笑顔で受け流している。
「体調が悪いみたいだから、手短にすませましょう。私と教授が調べていた魔術と異世界、その鍵があなただと思ってるの。だから協力してほしい。別に人体実験に付き合えというわけじゃないわ。ただ、たまに、そう、一週間に一度、ここでお話をしてくれればね」
「それが彼女になんのメリットを?」
私が口を開く前に、シュウが私の前に立ちはだかった。
頼らないと決めたのに、とても頼もしい。悔しくて情けない。
「その彼女の病気、研究をしている所は皆無よ。個人レベルでもね。研究をしていたのは教授。そしてその後を継ぐ私だけよ」
「その──」
「お疑いなら調べるなりなんなりすればいいわ」
シュウが黙った。相手の言っている事を測りかねているのか、女の言葉が真実だと感じたのか、あるいは交渉の余地がないと考えたのか。
「あなたのその病気について、一つだけ忠告する事が出来るわ。あなた病気が落ち着いてきたなんて思ってないわよね?」
「そんな事は思ってません」
思える訳がない。私は一度母親を刺したのだ。これは言わば爆弾。どれだけ平静であっても、いつまた爆発するか分からない。安心などしていい訳がない。どんな拍子で、また周囲の人を傷つけてしまうのか。
「そう、ならいいけど。また誰かを刺してしまうかも、なんて程度の認識じゃないわよね」
「え?」
「さっき研究している所は無いって言ったわね。昔一つだけあったのよ。いえ、その研究所が情報を規制して一つにしていたと言っていい。けどその研究所の全てが尊厳と存在を失って死に絶えたわ。たった一人の発病者の所為でね。詳しくは言っても、想像がつかないでしょうけど、とにかく酷い有様だった」
女の鬼気迫る言葉に気おされて口を開けないでいると、女は伝票を手に持って、急に立ちあがった。
「ま、顔みせ程度ってことで、今日はこの辺で」
女はテーブルの下に置いてあったバッグを拾い上げて、中を覘き込み、一つ頷いた。
「うん、データもちゃんと取れてる。その病気が解明できる様に期待しておいてね」
女は鼻歌でも歌いだしそうな様子で、バッグを肩に担ぐと、私を見て笑った。
「いい、できるだけ感情を揺り動かさない事。特に怒りだとか悲しみだとかにね」
「待って下さい」
去りゆく女をシュウが止めた。
「あの論文、最後の部分も佐藤さんが書いた物ですか?」
「最後っていうのは?」
「それぞれの論文の最後です。みんな同じ結論になっていたでしょう? あれも本当に佐藤さんが書いたんですか? 佐藤さんの考えとは、ある意味正反対だと思うのですが」
シュウの言葉を聞いた途端、女の表情が劇的に変化した。笑顔から無表情へ。見守る様な表情から、見下す様な表情へ。
けれどそれは一瞬の事で、すぐにまた笑顔に戻ると、会計を済ませ、去っていった。
「勿論よ」
○ ○ ○
家に帰ると、シチューの匂いがした。
最近だったら喜んで台所に行く所だが、今はどうにも気力が湧かなかった。
疲れきっていた。話し合いはそんなに長時間の事ではないのに、心の底から疲れ切っていた。
つい今しがた、別れる直前にシュウは言った。
「あの人はあまり信用しない方がいいし、関わらない方がいい。病気について知っているのは本当だと思うけど……」
あの女が信用できない事は分かる。病気について知る手がかりである事も分かる。
けれど、それとは違った所で、あの女の笑顔を思うと心がざわついた。
警戒でも期待でもなく──いうなれば、誰かが心の底から語りかけてくる様な、不思議な予感。それが何を示しているのかは分からない。
携帯が鳴った。非通知と表示されている。非通知は拒否しているはずだけど。
出ると、あの女の声だった。
「こんにちはとこんばんは、どちらがいい?」
目の前にいないからだろうか。嫌な感じはするが、威圧は感じない。
「何の用でしょう? そもそもなんで電話番号を知ってるんですか?」
「さっきはあの男の子がいるから話せなかったんだけど、もう一つの忠告をしてあげる。あなたはこのままいけば、間違い無くあの男の子を殺すわよ」
一瞬、頭が凍りついた。締め上げられる様な痛みを頭に感じた。
「ちょっと待って下さい! 一体何の事ですか?」
すがりついた携帯は乾燥した電子音を繰り返していた。