腐りきった女
「こんにちは」
リョウが立つ路地の先に女性が立っていた。ぼさぼさの髪の毛に化粧の崩れた顔、着崩れたスーツという退廃とした雰囲気を、顔に浮かんだ満面の笑みが掻き混ぜて、どこか不気味で、どこか人を逸脱した印象を作っていた。
「あなたが黒い流れ星さん? だとしたら期待はずれもいい所だわ」
リョウは不敵な笑みを浮かべて目の前の存在を嘲笑った。
リョウはこの女性を見た事があった。以前、人形店で薄気味の悪い笑みを浮かべてきた女性だった。
しかしリョウにはそれが分からない。以前会った時の女性は笑顔こそ不気味であったが恰好は整っていて、目の前に居る崩れきった格好とかけ離れていたから──というだけでなく、今リョウの中には別の精神が入っていて、その精神にとってはあずかり知らぬ所だったから。
リョウの中のリョウでない精神は傲岸な態度を崩さない。
「私がどれだけ心をときめかせて、あなたを追っていたかわかるかしら? 時間が戻せるのなら戻してほしいところよ」
「あなた、じゃあないわね。あなたに用は無いのよ。ちょっと退いててくれるかな?」
女はリョウの言葉など意にも介さず、満面の笑みを浮かべたまま、腐った見た目からは想像のつかない張りのある声で言った。
リョウの黒目がふっと揺らいだ。途端にリョウの口調ががらりと変わった。
「あれ? ……どちら様? もしかして何か御迷惑でもおかけしてしまいましたか?」
リョウは女の乱れ切った姿を訝しみながらも、記憶の無かった時の自分が何かしでかしてしまったのではないかと顔を困惑とさせた。
不敵な笑みから一瞬で困惑へと変わる様子は滑稽だった。それが広瀬涼子の日常だった。
「はじめまして、お嬢ちゃん。私ね、あなたに用があって来たの。ね? 聞いてくれるかしら?」
リョウは女が何を言っているのか分からなかった。リョウにとってその訳の分からないという感覚は近頃ありふれたものになっていた。この世界へ戻って来た時は特に。
普通であれば訝しみ避ける様な今の状況も、もしかしたら自分と深く関わりのある事かも知れない。だから聞いた。
「なんの事ですか?」
「この前あげた論文、読んでくれた?」
「え、あー、はい」
女の言う論文を思い出して、リョウは女から身を引いた。USBメモリの中にずらりと並んだ難しい題名の付いた文章群。専門用語を並びたてた膨大な量の文章はその内のたった一つ、それも極一部の分かる所だけを流し読みしただけで、それを書いた人間の異常さが分かる内容だった。
「あなたがアレを書いたんですか?」
「読んでくれたみたいね。嬉しいわ」
かみ合わない返答だが、リョウはそれを肯定と受け取った。今一度、論文の内容を思い出して、女から一歩身を引いた。
異常な人間を前にして、喉が渇いていた。
「なんでアレを私に?」
唐突に女の表情が満面の笑みから真剣なものに変わった。
その真剣な表情は女の感情とは無縁の表情だとリョウは感じた。どこか作り物じみた、まるで誰かの真似をしているみたいな表情だ。きっとさっきの満面の笑みだけが、女の生み出せる唯一の表情なのだろう。
人の真似をする人形だか怪物だか。そんな想像が浮かんできて、リョウは女の目を見ていられなくなった。
「一つ質問してもいいかしら?」
またもかみ合わない会話だったが、リョウは安心していた。その質問に答えればこの場を離れられるかもしれない。
早く女の要件を満たして、この場を離れたい。もうそれだけしか考えられない程、目の前の女に気圧されていた。
「どうぞ」
「それじゃあ、質問。0と1の境目に椅子を並べるなら、あなたは何脚ならべる?」
何故そんな質問を。疑問に感じながらも、答えはすぐに思いついた。
「国、いえ、人によって違います」
「なら、あなたにとっては何脚かしら?」
「十六」
女はリョウの答えに納得がいかないのか、首を傾けた。
「ん? 並べ方は?」
「一から十五脚を等間隔に並べて、十六脚目を十五脚分の距離だけ離して並べます」
「ああ、なるほどね~。うん、よろしい」
「一体、何なんですか?」
訳の分からなさと安堵からくる油断で、思わず疑問を口に出してしまって、リョウは後悔した。これ以上、女性との会話を長引かせてはならない。
だが幸運な事に、女はリョウの疑問などまるで聞いていなかった。
「楽しかったわ。ほんとはもっと色んな事を話そうと思ってたんだけど、なんだか満足しちゃった」
女は踊る様にくるりと回って、リョウに背を向けた。
とはいえ、油断はならない。なんとか切り抜けた事に安堵してしまう心を戒めつつ、リョウは女の動向を注視した。
すると案の定、数歩も歩かない内に、女は振り返った。顔には満面の笑みが浮かんでいる。先程の笑顔よりも、もっと強い、まるで顔を崩した様な笑みをリョウに向けて、女は歌う様に言った。
「そうそう、私言い忘れてた。あなたの秘密を知ってるの。あなたが今どうなってるか知っているから、もし私の知っている事に興味があるなら、今度駅前の喫茶店に来てね。きっと来てね。待ってるから、きっとよ」
そういって、女は再びくるりとリョウに背を向けると、今にも踊りだしそうな、不安定な足取りで路地の先へと消えていった。
「あ、待て」
追いかけようにも足が動かなかった。心が動揺していた。
私の秘密。妄言で片づけられそうな言葉が、何故かリョウの心を捉えていた。
あの女は本当に何かを知っているかもしれない。そう思わせる様な不気味さがあった。
そしてあの不気味な女が知っている事はきっと常人が触れられない様な狂った事に違いない。そんな予感が足を縛りつけていた。
後ろから自分を呼ぶ声が聞こえる。
シュウの声だ。
心配してくれるシュウの顔を見て、リョウは決意した。
女の言っていたカフェに行ってみよう。
とにかく今の曖昧な状況を打破しよう。