誰かが叫ぶ愛の気持ち
「愛! これは愛なのね!」
どこかから叫び声が聞こえた。
心の底からの叫びだ。誰かが幸せを感じている事に嬉しくなった。
まともな叫びでは無いと分かっていた。そもそも白昼の街中で叫ぶ行為がまともなはずがない。それでもどこかから聞こえた叫びに気分を高揚させたのは、もう夏に差しかかった熱気に当てられて、幾分イライラしてしまった心を静めてくれた為かも知れない。
何にせよ、何処からか聞こえてきた叫びが自分に関係があろうとは、毛頭程も考えていなかった。いつか幼馴染の女の子に告げようと考えている愛の言葉や学校で時たま掛けられる好意の言葉と、今しがたの叫びは全く相容れないものだった。
芝居がかった叫びは現実味が感じられず、まるでスクリーンの向こう側から聞こえてくる様で、いっそ人間に向けられた言葉ではないとさえ感じられた。
まるで別次元の出来事であるかの様に感じていた為に、叫び声が自分の思い人と同じ声である事に気付けなかった。
「愛してる!」
視界がぶれた。
俺は一瞬何が起こっているのが分からなかった。
「好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ」
気がつくと、右腕にしがみついた幼馴染の涼子から愛の囁きを連呼され続けていた。
あ、また涼子に誰かが乗り移ってる。
もういい加減事態に慣れてきた頭には冷めきった思いしか浮かばなかった。それなのに心臓は高く強く鼓動した。
涼子の精神は依然としてあやふやな状態を続けている。
誰かに乗り移られる回数が減ってきたと当の本人は言っているが、俺はむしろ増えたと感じていた。
総数としては減っている。他の人がいる場所で乗り移られる事はほぼ無くなった。しかし自分の近くで変わってしまう事が極端に多くなった。
それはなぜか。俺には分からない。
もしかしたら自分が病の原因なのではないか。原因不明の病なだけに、色々と考えてしまう。
思い返してみれば、最初に涼子がおかしくなったのは、自分と一緒にいる時だった。それを根拠に色々な可能性を考えてしまう。
もしかしたら自分が何かしてしまったのではないか。もしかしたら自分が止められたかもしれない。もしかしたら自分が離れれば治るのではないか。もしかしたら自分に何かできるのかもしれない。
それで確実に事態が快方に向かうなら、どんな事でも俺はそれをやり遂げる。
最近は罪悪感に苛まれながら、その確実な方法は何だろうとずっと考え続けていた。
突然右腕に冷やりとした空気が触れた。
涼子が一歩引いた場所で顔を赤らめていた。
正気に戻ったのだろうか。
先程の人格から変化があった様だが、元に戻ったのかどうかは分からない。違う人格から別の違う人格に変わっただけかもしれない。
「あー、また、ごめんね」
涼子の様だ。
戻ったと分かると、途端にその恥ずかしげな顔に見とれてしまう。
ああ、本当に自分は涼子の事が好きなんだと、毎度のごとく改めて確認させられる。
きっと顔が赤くなってるだろうな。
顔を見せない様に、後ろを向きたくなった。
「いや、別にいいよ。今回はすぐに戻ったし」
なるべく傷つけない様に言ったつもりだったが、涼子の顔は悲しげに歪んだ。
それはそうだ。この病が彼女に与えた傷は大きすぎる。
どれだけ言葉を柔らかくしようと、触れれば劇的な悲哀を与えてしまうのは当然だ。
「そっか。いやあ、でも、いつも悪いね。今度何か奢るよ」
涼子は明るく振る舞っているが、ぎこちなさが余計にかわいそうになる。
憐れむ事は失礼だと思っているが、憐れむ気持ちは収まらない。どうしても守ってあげたくなる。抱きしめたくなる。
それなのに、未だその関係まで進めない。そんな今の状況を殴りたくして仕方なかった。
「いいって。俺は好きで……」
自分が何を言おうとしているのかに気付いて、思わず口を止めてしまった。
例え意味は違くとも、言えない言葉がある。
「あ、いや、それより面白い店があるんだ。小さいけど雰囲気の良いレストランでさ。ちょっと離れた場所、あーほら、この前行った公園の近くなんだけど。どう? 今度行ってみない?」
「ん、良いよ。もうそろそろ夏休みだしね。時間は沢山あるし」
小さく拳を握りしめ、咄嗟に出てきた機転を褒め称えた。
喜びを噛みしめながら、隣のリョウを見ると、軽く俯き加減で何かを考えている様だった。
まさかあまり嬉しくないのだろうか。もしかして嫌々頷いたのだろうか。
ここ最近、二人で色々な所へ出かけた。乗り移られた涼子に振り回されて辿り着く事もあったが、二人で約束をして一緒に楽しんできたと思っていた。愛とはまでは行かなくても、好意は持っていてくれるのでは、と思っていた。
それは思い込みだったのか。
考えてみれば今相手はどん底にいる状態だ。そこに救いの手を差し伸べる者が居れば、例えいけ好かない人間でも、頼ってしまうのではないか。
足元が崩れた様な感覚の中で、必死に足へ力を込めて、今考えた嫌な想像を振り払う。
そんな事はない、とはっきり断定はできない。けれど涼子は今まで沢山の笑顔を俺に向けてくれた。あの笑顔が偽りだったとは思えない。
好意を持ってくれているかどうか。それは告白すれば分かるのだろう。それができないので、もどかしい。
断られるのが怖いわけじゃない。告白する事が恥ずかしいわけでもない。涼子に誰か相手がいるとも聞かないし、親同士に交際を止められている訳でもない。将来を心配してという訳でもないし、学生だからなんて言い訳をする気もない。涼子の病気や母親を刺した事件があるから嫌悪している訳でも当然ない。
告白ができなかった訳でもない。むしろタイミングなんて何処にでも幾らでもあったし、しようと決意した瞬間もあった。
それでも出来なかったのは、それで幸せになるのが自分だからだ。
涼子の事が好きだ。だから付き合えたら嬉しい。自分だけは。
俺が告白した所で涼子の病は治らない。
もしかしたら俺と付き合う事を喜んでくれるかもしれない。もしかしたら俺が支える事で楽になるかもしれない。もしかしたら俺と一緒にいる事で幸せを感じてくれるかもしれない。
もしかしたら俺が居た所で何も変わらず苦しいだけかもしれない。
その傍に、何の苦しみも感じず、ひたすら幸せを感じているだけの自分が居るかと思うと、反吐が出そうだ。
付き合いたくないわけじゃない。
例えば俺と付き合う事で涼子の病が治るなら、涼子の幸せを感じるなら、喜んで付き合うだろう。例え苦しむ涼子の隣で幸せを感じている自分が嫌で仕方がなくても、涼子が少しでも幸せになれる様に、全力を尽くすつもりだ。
だから付き合う事は出来ない。涼子を救う方法を見つけられない今はまだ。
と、ここまでは自分の中の良い訳、綺麗事だ。
そもそも俺は今、苦しむ涼子の隣で幸せを感じている。付き合っていなくとも、ただ一緒に居られるだけで、俺には十分幸せだから。
そんな自分に罪悪感を覚えて、涼子の病をどうしたら治せるのか日々考えている訳だけれど、それでも反吐が出るとまで言った行為を今平然としてしまっている。
だから、結局のところ、本当の理由は、涼子がどうだとか、状況がどうだとかではなく、ただ自分に自信がないからなのだろう。
涼子が抱えている難題を解決して、箔をつけたいだけなのかもしれない。
涼子の隣に居てもふさわしい人間だと認められたいだけなのかもしれない。
涼子と付き合う為の通過儀礼がないと、自分はそれに値する人間ではないと考えているだけなのだと思う。
何にせよ、どんな理由があれ、涼子の問題が解決するまでは告白する事は出来ない。
それがどれだけ幼稚な理由であろうと、自分が納得できないまま告白などしてしまっては、侮辱以外の何物でもないと思っている。
そんな訳で想いを確認する一番簡単な告白は使えない。
自ら涼子の気持ちを知る為の道を封じてしまった俺が、涼子の気持ちが分からず心の中で右往左往していると、突然涼子が空を見上げて言った。
「あ、星」
釣られて空を見上げると、白い太陽の光と水彩絵の具を滲ませた様な青い空が広がっていた。強い日差しから逃れていったのか、太陽と青空以外には雲一つ、星一つ見る事ができない。白昼月も太陽の輝きに隠れている。星とは太陽の事だろうか?
「黒い流れ星だ」
見えない。空を見上げても、黒い星どころか黒の欠片も見当たらない。
一体何を見ているのかと、隣に目を向けると涼子が居なくなっていた。
辺りを見回しても人の影はない。
しんとした住宅街から反響する靴音だけが聞こえてきた。