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私の思い出に出てくる私の尊敬する教授

「良くできた推論だけど、証明できるかしら?」


 それが亡くなった教授の口癖だった。


 徹底的な実証主義を標榜し、紙の上の理論だけでは、例えそれがどれだけ確からしい理論であろうと決して賛同する事は無かった。それどころか、「未証明で発表された理論は、その証明の為に他の『より画期的な発見』をしたかもしれない人的、物的資源を消費せねばならない為、身勝手な推論は害である」と考えて、常に憤っていた。


 自身の研究についても、多くの発見(教授に言わせれば推論)を生み出したにも関わらず、それが実験によって証明できる様になるまで、公に発表せず、証明できるまで温め続けていた。存命中に発表された論文はその中のごく一部だったが、教授の持って生まれた圧倒的な才覚は、そのごく一部だけでも科学の世界に対して文句のつけようの無い素晴らしい功績を打ち立てた。


 私はそんな教授の姿勢に憧れを抱いていた。どこまでも自分が正しいと信じ、誰に非難を受けようとそれを意に介さない力強さ。幾つもの功績を打ち立てて、自身の我儘を通す気高さ。才覚と意志によって前人未到の域へ踏み込み進んでいく美しさ。


 私は誰よりも教授に憧れていた。だから教授が教授職を辞した時も、私は教授について行った。教授は私の事を認めてくれて、ついていく事を許してくれた。


 私は教授を半ば妄信している。それはこの手記を読んでくれれば頷かれる事と思う。が、多少は間違っていたとも思っている。その一つとして、先の実証主義があげられる。それを貫く意志は美点だと思うが、考え自体は弊害も多い。例えば教授が死んでしまった事で、生み出した多くの理論が闇に葬られてしまう。


 その理論を引き継ぐのは、唯一人の助手だった私だけだ。しかし私には教授ほどの才能は無い。


 だから私は未証明のままパソコンに残されていた理論達を全て学会や科学雑誌に引き渡した。教授の志には背く事になっただろうが、私は自分のした事を正しい事だと確信している。


 教授の様に自分の信じた事を成している。と言ってしまっては、少し自分を美化しすぎだろうか。



 今でも教授が死んだとは信じられない。まさか、という思いが、心の中で荒れ狂っている。教授が死ぬはず無いと頭の中で叫んでいる。


 私は教授が死んだ場面に立ち会っていた。


 藪の生い茂った田舎道を今でもありありと思い出せる。私と教授は大きな機材を背負って山の中の村を目指して歩いていた。風が強く雨で道がぬかるんでいた。


 道の右手に崖があって、教授はそれを覘きながら、休もうかと言った。遥か後ろを息も絶え絶えに歩いていた私は最後の気力を振り絞って、教授の元まで登った。


 教授は相変わらず崖を覘き込みながら、すぐ後ろで疲れ果てている私に対して、まだ若いのにと呵々大笑した。


 今でも思い出せる。まったくこの人は殺しても死にそうにないなどと、今思えば不謹慎な失笑を覚えて、教授の背中を頼もしく思いながら見つめた時だ。


 教授が崖から飛んだ。


 崖を覘き込んだ私の視線の中で、教授は羽ばたく様に手足を振り回していた。そして突き出た岩に跳ね返って、動きを止めてから、水しぶきをあげて水の中に飛び込み、そのまま上がってこなかった。


 私は夢の様な心地でその場に座り込んで、崖下の川を見つめていた。もしかしたら元気に浮かんでくるかもしれない。そんな事を考えていた。


 私が正気に返ったのは、教授の死亡を言い渡された時だ。


 ぬかるみで足を滑らせて落ちたのだろう。遺体は上がっていないが、途中に当たった岩には大量の血と体がこびりついているから生きているはずがない。


 私はそんな警察の報告を聞いて、掴みかかりそうになった。そんなはずはない。ちゃんと探せ。教授はきっと生きている。


 けれどしなかった。私の理性が押しとどめた。


 そうして私は教授が生きていると心のどこかで思いながら、葬式を執り行い、論文を発表した。


 後は教授の遺品を整理するだけだ。それから先の事は考えていない。



 私は文章を保存して、ぐっと伸びをした。


 まだまだ書きたい事は沢山ある。教授という人がどういった人だったのか。それを沢山の人が知ってくれればなぁと思った。


 葬式での事が思い出される。弔問客は少なかった。それは教授が教授職を辞した後はずっと私と二人で没頭していて、交流が狭かったためだ。教授職についていた時の知人は多かったが、連絡してみるとそのほとんどが既に他界していた。


 僅かな弔問客が言った異口同音の言葉を覚えている。「あの彼女が」と誰もが言っていた。死んでしまった事だけでなく、研究内容や私生活の事を私が話す度に誰かの口から「あの彼女が」が漏れた。


 私以外の誰もが教授職についていた頃の教授しか知らないのだ。私だけが唯一、教授の事を最後まで見ていたのだ。


 だから私は教授像を作って、それを皆に知ってもらおう。そう考えた。


 教授の事を書き残そうとした経緯を思い出すと、胸の内に熱い血が流れこんでいった。


 新たにやる気を充填して、もう一度伸びをすると、再びパソコンへ向かう。


 文章の最後の部分、「少し自分を美化しすぎだろうか。」の後に改行を入れて、さてあの思い出深い研究所での事を綴ろうかと考えた。



 空港から数時間、最初は感動していた海沿いの街並みもいい加減飽きて何にも感じなくなっていた。


 陰気で無口なタクシーの運転手は乗車してから一度も喋らない。なんとなく目つきがいやらしく、油断すると殺されてしまいそうな雰囲気がある。


 後部座席で一緒に座っている教授は私の横でのんきに寝ている。「着いたら起こして」との事だが、私は今すぐにでも叩き起こして無理矢理にでも話し相手にしようか迷っていた。


 決心をつけて手を振り上げた瞬間、タクシーの前方から急に光がさした。


 私は振り上げていた手をそっと、教授の肩に置いた。


「教授、着きましたよ」


 料金を支払って、タクシーを降りると、太陽からの燦々とした光に照らされた大きな白い研究所が私達を迎えてくれた。


 とにかく大きな研究所だった。仰ぎ見ると、太陽が目に入って眩み、中々その全体像が把握できない。真っ白で真四角な建物には窓が一切なく、何階建ての建物なのか見当がつかず、それがより一層研究所に高さを与えていた。横幅は左右ともずっと先の方まで続いていて、遠くの方にぼんやりと切れ目が見える。


 私がきょろきょろと研究所を眺めまわしていると、教授は「みっともない真似はやめなさい」とだけ言って、入口に向かって歩いていた。


 私は顔を火照らせて教授の後を追った。


 入口の自動ドアを抜けると、高級ホテルの様なロビーが待っていた。壁や柱が全て真っ白で、豪華そうな調度品が浮き上がって見える。


 元来田舎者の私にとって、とかく大きく、豪華な物は憧れの対象であると同時に恐怖の対象でもあった。私というちっぽけな存在が拒絶されてしまう気がした。


 教授は私に構わず受付に向かっていた。


 私も恐る恐る教授の元に向かうと、教授は白衣の男と何か話をしていたが、ドイツ語だったため私には何を言っているのかさっぱり分からない。


 暇なので受付のドーベルマンの置物を見ていると、教授に腕を強く引っ張られた。教授に引っ張られながら、白衣の男に付いて行くと、実験室に着いた。


 案内された実験室はこの研究室の内外全てがそうである様に、真っ白い空間だった。真っ白い壁に囲まれた真っ白い機材を縫う様に、白衣を着た研究員達が歩き回っている。私達が入ってきた方角の反対側の壁は一面にモザイクがかっていた。


 ふとモザイクの壁模様が動いた様な気がして目を凝らすと、それはモザイクではなく、透明な壁の向こうに犇めいている物体だった。そう気がつくと私の視界に、私達のいる白く塗りたくられた幻惑的な空間の向こうに、眩惑的な不思議の国が広がった。


 その部屋には色々なモノが詰め込まれて、その全てが狂っていた。


 フライパンが空に羽ばたき、アイロンが歌を歌い、熊のぬいぐるみは背中でお湯を沸かし、おもちゃの兵隊はピアノと愛し合い、鉛筆が犬のお腹を開いてビールを取り出し、取り出されたビールはエンジン音を響かせて鉛筆の胴体を真っ二つに切り裂いていた。


 そんなのはまだ分かりやすい方で、もっと奇妙な光景が、部屋の中を踊っていた。


「面白いわね。あれは何かしら?」


 吐きそうになった私を現実へと連れ戻したのは教授の言葉だった。


 教授は男からドイツ語で何かを聞くと、感心した様に頷いた。


「真ん中に座っている女の子が見える?」


 突然教授に問われて、私は透明な壁の向こうに目を向けた。


 確かにいた。狂気の中をまるで何事もない様に、安っぽい人形を抱きしめて笑っている。


「あの子はね、モノの性質を感染させるそうよ。例えば電話の性質を冷蔵庫にうつせば、その冷蔵庫が電話として使える様になるし、チーターの性質を亀にうつせば、のろまの亀があっという間にスプリンター選手になるんですって。面白い話よね」


 私が何も言えないでいると、教授は男に何か言って、マイクとイヤホンを受け取った。


「ちょっと今からあの子に質問してみるわ」


 教授が何かをマイクに向かってしゃべると、少女は反応して顔を上げ、口を動かした。


 教授が次々と質問をして、少女がそれに応えて行く。


 それは全てドイツ語なので私には分からない。ただ二人の顔を見ていると、質問を重ねるごとに、教授は笑顔が、少女はきょとんとした不思議そうな顔が、強まっていった。


 やがて教授は質問を終えて、マイクとイヤホンを男に返すと、私の手を引いて、実験室を出た。


 慌てて追いついてきた男の案内で、研究所の外へ出ると、既に車が(しかもリムジンが)待っていた。


 私達はそれに乗り込み、当初の予定だった学会の会場へと急ぐ。



「全く教授がいきなり予定を変えるからギリギリじゃないですか」


「いいじゃない。面白いモノが見れたでしょ」


「……いえ、怖かったです」


「本当に憶病ね。あの子にお願いして、気の強い性質をうつしてもらったら?」


「結構です。私はそれなりに私が好きですので。ところで、さっきは何を質問していたんですか?」


「ん? そうねー。例えば分かりやすいのだと、『笑っている月が独りで寂しくボートに乗った。一緒に乗りたかった相手は誰?』とかかしら」


「いや、何言ってるのか分からないんですけど。答えは何ですか?」


「豚」


「どうしてです?」


「さあ?」


「さあって」


「ホント細かいところを気にするわねぇ。あの子にお願いして、おおらかな──」


「結構です!」

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