にんぎょうになるお店
夕暮れの光が街を一色に染め上げた。
影が濃く深く世界を沈めていく。
誰もいない横道。左にはコンクリートが右には木材が入り組んで、圧迫する様な境界が少女の前と後ろに続いている。
名前も知らない街の名前も知らない道をゆっくりと歩いていると、少しずつ影が浮かぶ様に、心に恐怖が灯っていく。
人気の無い道路、人気の無い建物に囲まれていると、無機質なビルの窓から誰かが覗いている様な、古い店の締め切られた扉から何かが飛び出してくる様な、そんなえも言えぬ空想が背筋を震わせる。
しんと静まり返った空間が恐怖をいや増していく。
もう行くのは止めて帰ってしまおうか。
そんな気持ちがもたげてくる頃にようやく目的の店が目に映った。アンティークな人形からただの使い古された人形まで、とにかく誰かが使っていた古い人形を売っている店だと聞いていた。話の通り、何も書かれていないボロボロの大きな木の板が、看板の様に屋根に掛かっている。
足早に店へと寄りつくと、黒く塗られた木製の扉に『17時~19時』とだけ書いてあった。
これは開店時間だろうか?
携帯を見ると、十七時には少し早い。
試しにノブを捻ると金属の軋む音が体に伝わった。鍵は開いている様だ。金属音の不快感に眉を顰めながら、扉を開く。
中に入ると夕闇よりも薄暗い。その向こうの無数の人形達は天井、壁面、棚の上、ありとあらゆる場所から入口とそこに立つ少女を見つめていた人形達が私を見つめていた。
あるものは無表情で、あるものは笑い、あるものは顔を隠しているが、どれもこれも生気を感じさせないのっぺりとした顔で彼女をじっと見つめていた。
能面の自分達と顔を合わせる事で、入ってきた客も自分達と同じ能面にしてしまおう。そんな悪意を感じる趣向だった。
この店の話はあらかじめ聞いていたが、いざその場を見ると、僅かな躊躇いが生まれた。
このまま帰ってしまおうか。
さっき湧き出た欲求が再び心の中に現れた。しかし、ここで帰れば友達に笑われるという恐れが、店の中へと足を進ませた。
店の中には人形しかなかった。壁一面、天井まで人形に覆われ、腰ほどの棚には人形が詰め込まれ、あるいは乗せられている。それ以外には何の家具もない。店と聞いていたが、カウンターやレジ台はなく、また入口以外の扉は無かった。
また店内には話に聞いていた年のとった気味の悪い店主はいなかった。代わりに自分と同じ年頃の少女が一人だけ品定めする様に壁にかかった人形の群れを見つめていた。
制服などは来ていない様だけど、お客だろうか? それともアルバイトだろうか?
店員に人形を選んでもらって買う。友達の間で決めた罰ゲームを行う為には、店員がいなければならない。そしてそれが気味の悪い店主でなければ、なんと運のいい事だろう。
怖がりな彼女はたった一人店にいた少女が店員であってほしいと、半ば祈りながら少女へ近付いて行った。
「あの、すいません。店員さんですか?」
はっと振り返った少女の驚いた顔を見て、店員であって欲しいという願いが叶わなかった事を知った。
それを証明する様に、胸にプラスチックでできた安っぽい西洋人形を抱いていた少女は顔を赤らめながら否定した。
「い、いえ、私は、店員じゃなくて」
がっかりするよりも恥ずかしさが先立った。
「ご、ごめんなさい」
謝罪の言葉を口にして、その場を離れ様と一歩後ろに下がろうとした。その時にしゃがれてぐちゃぐちゃになった声が前方から聞こえてきた。
「Gaahadeenn daaggu」
はっと目の前の少女を見ると、目を見開いて視線を胸に抱いた人形に落としていた。
目の前の少女が人形を強く抱きしめた。
再び耳の裏を逆撫でる様な声が響いた。
古くなって発声装置が壊れているのだろう。その気色の悪い声は誰かが作ろうと思っても作る事ができない、地獄の底から聞こえてくる様な響きに感じられた。
ゆっくりと視線を上に上げると、人形を抱いている少女と目があった。その一瞬後に慌てたように抱いていた人形を壁に掛け直した。
「すみません。あの、とにかく私は店員じゃないです。えっと……今店員の方はいないみたいで、私が来た時からいなかったみたいで……あの、それじゃあ、失礼します」
少女は曖昧な笑いをこちらへ向けた後、そそくさと出口へと足を向けた。
気恥ずかしさに居心地が悪くなったのだろう。取り残された彼女は自分が事の発端を作っただけに申し訳ない気持ちになりながら、少女を見送った。
と、少女がそのまま帰っていくのかと思っていると、突然横の棚に座る龍のぬいぐるみに顔を向けて数秒、考え込むようにじっとしていると思うと、突然爽やかな笑顔でこちらへ戻ってきた。
「いや、先程は失礼、お嬢さん。私は広瀬涼子。先のお詫びに、どうです、これから食事にでも行きませんか?」
「え、あの?」
突然なんだろうと思っていると、目の前の爽やかな笑顔が艶やかな笑顔に変わった。
「ごめんなさい。今のは何でもないわ。気にしないで。それじゃあ、さようなら。また何処かで会いましょう」
頭に浮かぶ疑問符を解消する事無く、少女は素早い身のこなしでドアを開けて出ていってしまった。
いきなり何だったんだろう。まるで人が変わった様に……。
人形のホラーで人形と人の心が入れ替わってしまうという物がある。ではあの少女も?
ぞくりと自分の想像に肌を粟立たせた。
嫌な想像がどんどんと膨らんでいって、薄暗い店の中で人形達が笑いだしそうな気配が満ちていく。
もう笑われてもいいから帰ろう。
バタンと扉が閉まる音が聞こえた。さっきの少女が開けた扉がたった今閉まっただけなのは分かっているが、一瞬閉じ込められた様な錯覚を感じる。
早く出よう。
扉へ向かおうとした瞬間、背後からしわがれた声がかかった。
「いらっしゃい」
全身に冷や汗がうっすらと滲み渡った。
振り向くと、よぼよぼとした老婆がカウンターにちょこんと座っていた。老婆の後ろには色あせた木製の扉が今丁度閉まるところだった。
ああ、店の人は奥にいたのか。
「いらっしゃい」
もう一度、優しげにしわがれた声がかかる。
仕方ない。こうなったら何か買って早く帰ろう。
覚悟を決めて、老婆へと歩み寄った。
店を出ようとした時に、視界に映った龍のぬいぐるみが龍に変わっていた。
人形が本物に変わっていた驚きで、思考が停止した。
しかし驚いている間にも体は勝手に龍の攻撃を避け、口は驚きを表す前に詠唱を完了させている。
ようやくここが、いつもの島だと分かった時にはすでに戦いは終わっていた。
「ふぅ、面倒な事になってきた」
いつもながら何のことやら分からない自分の言葉を聞きながら、私は目の前に倒れた龍を見ていた。
さっきの店での事を思い出して、身もだえしたい様な気持になった。
自分が鳴らした人形の声、それに驚いた自分、その後に目があった事、しどろもどろになりながら逃げ帰ろうとした事……そして何よりもこの島の夢を見ている──つまり現実の世界で別の誰かが私の体に乗り移って勝手に動いている事。
何か変な事を言っていないといいけど。
自分が変な事を口走り、あの店に入ってきた綺麗な少女に変な目で見られる事を想像して、恥ずかしさが更に高まった。
綺麗な少女だった。下がったまなじりが意志の弱そうな印象を出していたが、それを囲む白磁の肌と整った長い黒髪が何処か神秘的な雰囲気を出していた。あんな綺麗な女の子を始めてみたかもしれない。
しかし、その整った顔が私の言葉によって歪んでしまうのかと、すこぶる嫌な気分になる。
もう二度と会う事はないだろうけど。それでもやっぱり恥ずかしい。
心を落ちつけようと、別の事を考えてみる事にした。
私が身もだえている間にも、体は勝手に何処かへ向かい、口は勝手に動いている。
「知っているかい、昔……」
「そんな事どうでもいいよ。それより今日は……」
「目先の事ばかり考えるな。まずは……」
一人で議論を始めている自分を客観視しているとこれまた気恥ずかしい。幸い周りに人はいないが、一人で喧々諤々議論を続けていたらどんな目で見られるか。
最近、どんどんこの体に入っている意識が活発化している。昔は私の意識もはっきりしていなかったし、こんな風に他の意識同士でやり取りをする事もなかった。
これは何を意味するのだろう。
現実の私の体は幸いこんな騒ぎ立ててはいない様だが、いつこんな際立った異常さが見られるか分からない。
もしかしたらさっきの店で意識が飛んだ瞬間から、私の体が他人から見れば気違いじみた騒ぎをしているかもしれない。
恥ずかしさというより、不安や危惧が強くなっていくが、夢の中にいる自分ではどうしようもない。
不安が膨らんでいる間も、騒ぎが口から溢れていく。
人が悩んでいる気もしならないで。
そう思うと無性に腹が立って、怒鳴ってでもこの口ぜわしい意識達を止めてみたくなった。
よし、と決意を持って、大きく息を吸い込んだ瞬間、すっと頭を何かがよぎった。
夢の終わりだ。
身を起こすと、自分の部屋だ。頭上の電灯が煌々と私を照らしている。
窓はカーテンがかかっておらず、夜に染まった景色が見えた。隣家の電灯が明るく照っている。
空腹を感じて、ベッドから降りた。何か作らなければ、階下の台所へ向かう途中、また人形の店での事を思い出して恥ずかしくなった。
私の意識が無い間、あの意志の強そうな、まるでフランス人形の様な美しい少女に変な事を言っていなければいいのだけど。