幻灯機はくるくると回る
「いってらっしゃい! 気をつけてね! そうだ! ついでに洗剤買ってきてくれる?」
「う、うん。分かった。行ってきます」
不自然なほど明るく振る舞う母とぎこちなく返事を返す私。
私が母を傷つけ、その罪を母が隠した時に、私と母の関係は決定的に変わった。
私は母に対する罪悪感から、心の中で育っていた母と日常に対する不満が消えた。母は私の犯した凶行を勉強から来たストレスだと考えたのか、勉強や受験と言った言葉を使わなくなって、事あるごとに私の身の回りを心配するようになった。結果として、よそよそしいながらも、お互いが思いやりを持って接している。傍から見れば中の良い親子だ。
それは少なくとも私にとっては良い変化なのだと思う。かつて私が望んでいた生活がこれだった──はずだ。
そのはずなのに、私はどうもこの変化を歓迎できないでいる。あまりにも変化が決定的過ぎたせいだろうか。私は多分一生、母に対する罪悪感を抱きながら、よそよそしさを持ち続けると思うし、母もきっと私が嫌がる事を言えないだろう。
お互いがお互いの事を思いやって──接する事を恐れながら付き合っていく歪な親子。母に対する不満を育て続けていた昔とどちらがまともなのだろう。
「よう、涼子!」
どんよりとした思考を快活な声が打ち払った。
足元に下がっていた視線を上げると、そこに幼馴染のシュウがいた。
ついさっきまで頭の中に渦巻いていた思考を悟られない様に、努めて平静を装って挨拶を返す。
「あ、シュウ。おはよう。珍しいわね、こんな時間に」
ちなみに現在、朝五時。早朝も早朝だ。ただでさえゆっくりしたい日曜日な上に、冬休み中でやたらに寒いときている。用でもなければ外に出たいとは思わない。
「ああ……ちょっとな。涼子こそ、どうしたんだよ」
「私? 私は……宿題を取りに学校へ」
改めて自分の行動を確認すると恥ずかしい。言っていて顔が熱くなった。
「ん? 冬休みに課題なんてあったか?」
「部活の」
シュウが小馬鹿にした様な顔で溜息をついた。
「なんにせよ、ベタにも程があるだろ。いくらなんでも」
「うるさいなぁ。あんたこそどうなのよ!」
さっきの反応からして、あまり人には言いたくない事の様だ。なんとか反撃の糸口にならないだろうか。
「俺は……あー、別に……」
「……まさか、マジであんたも忘れ物?」
「いや、違うから! ただ……」
どうやら相当恥ずかしい事らしい。シュウの顔は真っ赤になっていた。これ以上追求するのも少しだけかわいそうだ。
「ま、いいや。じゃあ、私行くから」
「あ、ちょっと待て」
学校へ向かおうとした私を、なぜかシュウがひきとめた。かまってほしいのだろうか。
「何?」
「えっと……実は俺も学校に用があってさ。一緒に行くよ」
「別にいいけど……何しに行くの?」
「ほら行こうぜ!」
私の言葉を意図的に無視して、シュウは歩き出した。
まさか本当に宿題を忘れたのだろうか?
月に照らされた静かな夜。風の音しか聞こえない本当に静かな夜。
この夜はとても居心地がいい。ゆったりとした時の流れが私を優しく包みこんで、頭の天辺から足の先まで綿が詰め込まれた様な心地よさを感じた。
ついさっきまで通学路を歩いていたので、街と森の対比が余計に夜の静けさを煽る。
世界の急激な変化にも大分慣れてきた。最近では様々な世界を楽しむ余裕すら持ち始めていた。
この世界にはもう何度も来た事がある。他の世界は一度しか訪れる事ができないが、この世界だけは何度もやってきていた。その違いに何か理由があるとは思うのだが、今はまだ分からない。そもそも一つの世界にいる時間はとても短く、次々に別の世界へと移ろっていくので、世界の事を知るには時間がなさすぎる。
この世界についても知っている事はほとんどない。一つだけ分かっている事は、この世界では戦わなければならない事。定期的に何かに襲われてそれを殺し続ける世界だという事。それだけがこの世界に対して理解した唯一の事だった。
乱暴とすら取れるこの世界の決まり事に、私は何故か安らぎを感じていた。しんと静まり返った夜と同じ位、心地の良いルールに思える。
ふと月明かりに照らされてひらひらと飛びまわる虫がいた。敵だ。
私は力を込める事無く、腰かけていた体を起こす。この胸に大きな傷の入った体は、力では動かない。この大柄な男の体は意志によって勝手に動く。この土気色をした体は戦う為だけに動く。
私は誰だ。
私はただの会社員だ。どこにでもいるごく普通の。
ならば着こんでいる鎧は何だ。胸に抉る傷は何だ。今化物と戦っているのは何の冗談だ。
私は誰だ。
私は人間だ。それだけは確かなはずだ。
ならば胸を抉る傷を見ろ。人間であれば死んでいる。水面に映るお前の顔を見ろ。血の気の無い顔は死人のそれだ。
私は人間だ。
いいや、お前は死体だ。
ならば何故動いている。私は動ける。思考もしている。今頭を働かせている私が死んでいるはずがない。
そもそも死ぬような目に遭った事なんてなかったはずだ。私はついさっきまで部屋のソファに座っていた。手に入れた宝物を愛でながら、穏やかに過ごしていた。私が死んでいるはずがない。
すっと視界が明るくなった。思考を遮っていた霧が晴れ、心地よい感情が私の胸を内側から圧していた。天にも昇る様な素敵な気分だ。
今まで何に悩んでいたのか。それすらもすっと忘れてしまっていた。
ああ、私は馬鹿だ。これほどまでに素敵な世界にいて、何を悩んでいたというのだろう。
思い出す。宝物を手に入れた時の事を。
黒く艶やかな髪が思い出される。
黒の中に悠然と漂う緑は暗い泉の底に沈んだエメラルドの様だった。
長い年月をかけて育て上げられたその髪は、両手で伸ばしきれないほど長かった。
柔らかい手触りはシルクですら足元にも及ばない。
まさしく日本女性の美を極限まで突き詰めた至高の宝を私は抱いていた。
全世界の頂点に立ったような優越感。世界を我がものにした様な充足感。
あの時確かに私はこの世の全てを抱いていたのだ。
ざわめく様な喜びが私の胸を駆け抜けた。
世界は素晴らしい。何もかもがうまくいく。
視界の端でのそりと何かが身じろいだ。人だろうか。
私は胸を支配する喜びに任せて振り向いた。
そこに誰がいようと私は愛そう。駆け寄って抱きしめよう。
そこには何かがいた。
人型をした肉の塊だ。
頭頂部には──何もなかった。
できそこないだ。
一片の興味すら湧かないできそこないだ。
やはりこれは夢だ。
こんなくだらないモノが私の世界に在っていい筈が無いのだから。
大変だぁ! 大変だぁ!
私はじっとミミズさんとトカゲさんを見ていました。
逃げなくちゃ! 逃げなくちゃ!
大きくて長い体と大きくて赤い口を私はじっと見ていました。
危ないよ! 危ないよ!
きっと私は怖かったんだろうと思います。私もそこにいたら危ないと思います。
来ないで! 来ないで!
だから良かったです。私が無事で良かったです。
ヤメテ!
「嫌な夢見たわ」
起きるなり彼女はそう呟いた。
彼女のそばでは悪魔が本を読んでいた。
「おはよう。良かったじゃないか」
そっけない。彼女は悪魔を睨みつける。
「他人事だと思って」
「夢だったんだろう? 現実じゃなくて良かったじゃないか」
悪魔の応えを彼女は一瞬吟味する。
しかし納得はできなかった。
「……やっぱりやだよ。いくら夢だからって、あんなの」
「ふむ」
悪魔は本を畳むと彼女に顔を向けた。
小さな豚面に見つめられても、彼女は怯むことなく見つめ返す。
「何よ」
「いや……そうだなぁ、悪夢の内容はどんなだった?」
「えーと……あれ、何だったかな? 人が死んじゃう夢だったような」
彼女は首を傾げてみたが、答えは出てこない。
夢は分厚い水の彼方へ消えていた。
誰が死んだのかも、どうして死んだのかも分からない。誰かが誰かを殺していた様な気もするし、大きな事故があった気もする。近しい人が死んでしまった気がするし、全く知らない人が死んでしまったのかも知れない。もしかしたら自分自身が死んでしまったのかも。決めつけようとすれば固まっていくのに、それが本当にさっき見た夢かと問われれば、すぐさま霧散してしまう。
しばらく彼女が頭を悩ませていると、悪魔がそれを打ち切った。
「別に無理して思い出さなくていいよ、ちょっと気になっただけだから」
「そう? でも気になるなぁ。こういうのって、思い出せないとイライラするんだよねぇ」
「忘れてしまった物はしょうがない。苛立つのであれば甘い物でもいかがですか、お嬢様?」
「だーれが、お嬢様よ」
「言わずもがな。ついでに僕は意地悪なお嬢様にこき使われる召使って所だね」
「はいはい。そんな皮肉はいいから、さっさと甘い物を用意してちょうだいな。勿論お茶もつけてね」
「ほらね」
悪魔は肩をすくめると、虚空からトレイに乗ったお茶とお菓子を取りだした。
「さすが! 褒めてつかわす!」
彼女は悪魔からトレイを受け取って、少し遅い朝食を食べ始めた。
悪魔は美味しそうに食べる彼女に目を向けながら、じっと考えていた。
蛸だ。
窓から身を乗り出して夜空を見上げていると、目の前に蛸が現れた。
またいつもの幻覚だ。もう何が出てきても驚かない。
夜風が気持ちいい。嬉しさに満ち溢れ、暴れだしそうな心をしんと沈めてくれる。
幸せだ。今日をしっかりと噛みしめる。昨日をゆっくりと思いだす。
蛸が踊っている。
私は淡々とそれを燃やす。
「涼子」
横から声がかかる。
目を向けると、声の主が隣家の窓から身を乗り出していた。
「俺がついてるから、あまり思い詰めるなよ」
幸せだ。こんなにも自分の事を思ってくれている人がいる。
「おばさんの事はさ……その……俺も背負っていくよ」
母親を殺そうとした私を思ってくれる人がいる。
「だから……とにかく、思い詰めないで、俺を頼ってくれ」
私はゆっくりとうなずいた。
私はとても幸せだ。
蛸だ。焼きあがった蛸を私は食べた。
砂の味がした。
遺書を書いた。誰にも見られない様にこそこそと。
皆が寝静まった中で月の光を頼りにようやく書き終えた。
誰に向けたものでもない下らない遺書だけれど、やり遂げた達成感が冷たく私の心に沈んでいる。
それだけで書いてよかったと後悔できた。
「帰ったら美味しい物作ってあげるからね」
お母さんが笑いながら、そう言った。
お母さんの事を殺そうとした私を励まそうとしている。
気に病んではいけない。普段通り過ごしてほしい。
そんな気遣いが痛いほど伝わってくる。
「うん!」
私は力強く頷いて、嬉しそうに話す。
ほんの一日だけの検査入院。深刻になる必要は無い。だから本当なら自然体で居ればいいはずなのに、私はお母さんが少しでも安心できる様に努めて明るく振る舞い続ける。
嘘で塗り固められた自分の態度を客観視しながら、私は罪悪感で心が切り刻まれる。
私はその痛みから目を背けて、じっとお母さんに笑顔を向ける。
薄暗い病室で、時が静かに流れていく。私は身を切り刻まれながら、一瞬一瞬の幸せを噛みしめる。
「どうしたのかしら?」
私ははっと顔を上げた。どうやら要らない事に頭を使って、じっと俯いていた様だ。
今は唯自分を押し殺して、これ以上お母さんを悲しませない様にしなくては。
「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてたみたい」
私は慌てて笑顔を作った。
ところがお母さんは私ではなく、病室の外を見て呟いた。
「何か……あったみたいね」
お母さんと同じ方向に目を向けると、看護士の人達がバタバタと急ぎ足で廊下を往来していた。
ここは病院だ。何かがあってもおかしくない。一歩間違えればお母さんも……。
嫌な想像を振り払って、お母さんを見るとしきりに何かを気にしている様だった。
二人の間に暗い沈黙が降りて、薄暗い病室から更に光が減った。
暗い雰囲気に耐え切れなくなった私は、いつもの通りに明日迎えに来ると告げて、いつもの通り病室から逃げ帰った。
その日、病院で誰かが死んだ。
彷徨う炎を見た。
あれは一体何だったのだろう。もしかしたらあの世で迷う魂だったのかもしれない。
あそこは綺麗な森だった。希望も何もないけれど、鬱蒼としていて吸い込まれる様な森だった。
これからあそこに行くのだろうか。
今いる場所とどちらが良いだろう。
すっかり麻痺してしまった心では答えを出す事ができそうにない。
しかし今から行く所が綺麗な場所だと思うと、少しだけほっとした。錯覚かもしれないけれど、どこか体が軽くなった様な気がした。
私は遺書をベッドの上に置いた。
窓を開ける。冷たい風が吹き込んできたが、高鳴る鼓動の熱がそれをかき消した。
熱い体が心地よい。寒いのよりは暑い方が好きだ。
地獄は寒いのだろうか。寒いのは嫌だ。