婚約破棄の現場に巻き込まれたので、聖女様をもう一度幸せにすることにしました
お待たせして申し訳ありません。
エムロードとヴィオーラの五作目、最終話です。
今回も楽しんでいただければ幸いです。
※本作では執筆の補助としてAIを活用しています。AIの利用に抵抗のある方は、あらかじめご了承ください。
「ルベル殿との婚約が破棄された」
「納得できません」
私、エムロード・カーマインは即答する。
目の前には、苦笑いを浮かべたアズーロ・カーマイン――お父様がいる。
「まあ、そうだろうな」
お父様は困ったように笑うと、机の上に置かれた書類へ視線を落とした。
そこには、私にはまだ見せられていない何枚もの報告書が並んでいる。
「理由をお教えいただけませんか、お父様」
問いかけると、お父様は一度だけ深く息を吐いた。
「誤魔化したところでお前なら自力で調べてしまいそうだし、それはそれで余計な問題を起こしそうだ」
私を物騒な何かだと思っているのかしら。
……まあ、否定はできないけれど。
お父様は一枚の報告書を手に取り、しばらくその内容を眺めていた。
いつもの執務中とは違う、どこか慎重な表情。
それだけで、ただ事ではないのだと分かる。
「辺境で大海嘯の兆候が確認された」
「っ!!」
思わず息をのんだ。
先ほどまでの不満が、一瞬で吹き飛んだ。
「確かな情報なのですか?」
声が、わずかに上ずる。
「わからん」
お父様は報告書から目を上げた。
「ただ、辺境を行き来している交易隊のレグリス商会と、街道の運営を引き受けているブリック商会からの報告だ。情報の確度は高いと見ている」
お父様の言葉を聞きながら、私は机の上の報告書へ目を向ける。
スタンピードを「大海嘯」と呼ぶのは、ジブリ映画にハマっていた頃の私の設定のまま。
数年から数十年に一度、魔物の群れが何らかの異変によって生息域を離れ、一斉に移動を始める。
ファンタジー小説ではお馴染みの災害現象だ。
一度発生すれば、その進路にある村や街は、魔物の群れに呑み込まれる。
そして、数が多ければ多いほど、騎士団による討伐も困難になる。
五十九年前の大海嘯では、王国の三分の二が被害に遭った。
今の王国の繁栄は、このときの被害からようやく立ち直ってのものだと聞いている。
けれど、知っているからこそ、簡単には受け入れられなかった。
まだ兆候だ。
まだ、大海嘯が起こったと決まったわけではない。
それなのに。
どうして、ルベル様との婚約破棄に繋がるのだろう。
「……それが、今回の婚約破棄とどう関係するのですか?」
私が尋ねると、お父様は僅かに眉を寄せた。
「ルベル殿は偵察の任を受け、先日辺境へと赴いた。アガート家は魔物討伐に長けた一族だからな……」
そこで一度言葉を切る。
「と、ここまで聞けば……今回の婚約破棄の理由も、分かるだろう?」
私は黙ってお父様を見つめた。
分からない。
いや――。
分かりたくない、のかもしれない。
「生きて戻れない……と言うことでしょうか」
「そうではない」
お父様はすぐに否定した。
「大海嘯がどういうものかは、お前でも知っているだろう。仮に大海嘯が発生したとして、その終息まで何年かかると思っている? 前回の大海嘯で十年、古い歴史の中では五十年を下らないものもある。」
「……。もしかして、後継者問題……ですか?」
「そうだ」
その一言で、すべてが繋がった。
ルベル様はアガート家の嫡男。
けれど、私との婚姻後はカーマイン家に入り、私とともにこの家を継ぐことになっていた。
大海嘯が長期化すれば、ルベル様は辺境から戻れない。
つまり――私たちは、いつになったら夫婦になれるのか分からない。
そして、カーマイン家の後継者も決まらない。
そこまで考えて、私はようやく息を吐いた。
婚約破棄という言葉の裏にあったものが、ようやく見えた気がした。
「我が家は女性ばかりの上、セレストもアイオラも、既に他家へと嫁いでいるからな。女のお前に家を継がせることもできなくはない。だが、貴族社会でそれがどれほど難しいか、お前も知っているだろう」
「……。分かります」
私が頷くと、お父様は少しだけ表情を和らげた。
「全く、我が家の事情を知っているとはいえ、ルベル殿も気を使い過ぎだ。私としてもこの申し出は受け入れがたい。答えはいったん保留とさせてもらった」
「お父様……」
私は思わず、父の顔を見つめた。
きっとお父様だって、ルベル様との婚約を簡単に諦められたわけではない。
だからこそ、私の気持ちを無視して決めることはしなかったのだろう。
その優しさが、とてもありがたかった。
「彼ほどの傑物はなかなか居らんからな。偵察のための派遣だ、すぐとは言わんが報告のために王都に戻ることになるだろう」
お父様はそう言って、ふっと口元を緩めた。
「その気があるなら、エムロード。彼の首根っこをつかんで連れてこい。膝を突き合わせて、小一時間説教してやる」
そう言って、いたずらを思いついた子供のように、ニヤリと笑うお父様。
「そういうことでしたら、私もお付き合いいたしますわ」
私たちは顔を見合わせ、二人で笑い合った。
「そんなことがあったんですか」
「ヴィオーラに話すことでもなかったわね」
その日、私は屋敷の中庭で、ヴィオーラとささやかなお茶会を開いていた。
穏やかな午後の日差しが降り注ぎ、柔らかな風が花々を揺らしている。
テーブルには温かな紅茶と、ノワールが差し入れてくれた焼き菓子。
甘い香りが風に乗って、優しく鼻先をくすぐる。
「いえ、大事なことですよ!」
「えっ?」
「私も、膝を突き合わせて、小一時間説教してあげます」
「ルベル様は、お父様とヴィオーラに二時間説教されるわけね」
お父様とヴィオーラに説教され、困った顔をして助けを求めるルベル様を想像して、私はクスリと笑う。
けれど、そんな私とは対照的に、ヴィオーラはどこか浮かない顔をしていた。
「どうしたの?」
私が尋ねるより先に、ヴィオーラの指先が動く。
ふと気付くと、テーブルクロスにのの字を書いていた。
困ったことや悩み事があるときのヴィオーラの癖だと知ったのは、つい最近。
その指先を見つめていると、ヴィオーラが私の視線に気付いた。
少しだけ視線を泳がせてから、言いづらそうに口を開く。
「実は……。私も辺境に行くことになりまして」
「っ!! だ、大丈夫なのっ!?」
思わず立ち上がり身を乗り出す。
あまりの勢いにヴィオーラが引いているが、それどころの話じゃない。
万が一大海嘯が始まれば、辺境の街や村ではとても安全とは言えない。
そんなところに聖女を……。
ヴィオーラを送り出すなんて、聖女宮の連中は何を考えているの?
「辺境と言っても、前線のあるルーチェではありませんわ。そのはるか手前、ランティスだそうです。騎士団の拠点があるらしく、そこに怪我人が集められることになってるんですって」
「ヴィオーラに治療と回復のため、そこに赴け……と」
「……そういうことです」
ヴィオーラが手元のティーカップを見つめている。
私は椅子に座り直し、残った紅茶を飲み干すと、大きくため息をついた。
「大海嘯なんて予測がつかないもの。王都を一歩出ればどこも危険地帯みたいなものよ。そんなところに聖女を、ヴィオーラを派遣するなんて」
「大司教様も同じようなことをおっしゃってました。ナティエなんか、強硬に反対していて……。でも、私が行かないことは、それはそれで問題があって」
「とりあえずポーズだけでも……って感じ? 安全なところで聖女の奇跡を見せつけて、聖女宮の力を誇示し、影響力を高めようってやつ?」
ヴィオーラの目が大きく見開かれる。
「流石はエムロード。そのとおりです」
「まあ、あの損得勘定でしか動かない神官連中の考えそうなことよね」
そう言って、私はまた大きなため息をつく。
ヴィオーラは肩をすくめると、すっかり冷え切った紅茶に、そっと口を付けた。
「本当に気を付けてね。こんなことで怪我をしたり、ましてや命を失ったりなんかしたらバカらしいわ」
「ええ、心して行ってきます。ほんの数週間の話ですもの。月の終わりのお茶会には間に合わせます」
「……。ノワールの新作が目当てなんでしょう」
「その通り!!」
そう言って笑い合った翌日、ヴィオーラはランティスに向けて出立した。
それなりの人数の騎士と傭兵が、護衛として同行していた。
けれど、その顔ぶれを見たときから、私はどこか落ち着かなかった。
大海嘯を前にして、本当にこれだけで足りるのだろうか。
そんな疑問を感じなくはなかったが、無いよりましか……と、自分を納得させるしかなかった。
ナティエが止めるのも聞かず、馬車の窓から身を乗り出し、見えなくなるまで手を振るヴィオーラ。
その姿を見送った、五日後。
窯の底が抜けた。
押し込められていたものが一気に溢れ出すように、魔物の群れが暴走を始めた。
あっという間に辺境の村や街が飲み込まれ、被害は瞬く間に広がっていったという。
その規模は、王国史上最大。
王都にも厳戒態勢が敷かれ、国中が大海嘯への対応に追われることとなった。
そして、魔物の群れが当初の予想を遥かに上回る規模であることが判明したことで、急遽、調査団が編成された。
調査団が王都を出立したのは、一週間前。
そして、その調査結果を携えて王都へ戻ってきたのは、昨晩のことだった。
「……どうも、シャルトルーズ家が暗躍していたようだ」
お父様が、苦々しげに呟く。
「辺境へ追いやられたことを逆恨みして、王家に対する不満を隠そうともしていなかったらしい」
私は、思わず目を伏せた。
まただ。
またしても、あの日の出来事――私が婚約破棄に巻き込まれた、あの夜と結びついてしまった。
「本来であれば、魔物を定期的に間引きし、このような事態に陥るのを防ぐことも、辺境を治める貴族家の重要な役目だったのだが、シャルトルーズ家が王家に不満を持つ辺境の貴族たちをまとめ上げ、その責を放棄していたらしい」
「……そんな」
「さらには、管理下にあるダンジョンを意図的に開放し、魔物の数を増やしていた形跡まで見つかっている」
私は言葉を失った。
もし、それが事実なら。
今回の大海嘯は、ただの災害ではない。
人の手が、引き金になったのだ。
そのとき。
コンコン。
執務室の扉をノックする音が響いた。
「誰だ?」
「王城からの急報です」
家宰の一人が入室し、お父様へ親書を差し出す。
「ご苦労」
お父様は短く礼を言うと、封蝋を切った。
親書に目を通していたお父様の表情が、みるみるうちに変わっていく。
「……お父様?」
嫌な予感がした。
お父様はしばらく黙って親書を見つめていたが、やがて顔を上げる。
「ルベル殿が戻ったらしい」
「ルベル様がっ!」
思わず立ち上がる。
帰ってきた。
あれほど長く帰れなかったルベル様が、王都へ戻ってきた。
その事実だけで、胸がいっぱいになる。
けれど。
お父様の表情は、少しも喜んでいなかった。
「……ただ」
低く、苦しげな声が落ちる。
「酷い怪我を負って、王城へ運び込まれているそうだ」
「……え?」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「命に別状は?」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
お父様は、すぐには答えなかった。
その沈黙が。
何よりも怖かった。
「これは恥ずかしいところを見せたな。貴女には、いつだって騎士としての姿を見ていてほしかったのだけれど……」
駆け付けた病室のベッドの上で、力なく笑うルベル様の姿に、胸が締めつけられた。
両手と片足を失い、身体には魔物の毒が深く回っている。
魔物の群れに襲われた街から逃げ遅れた民衆を、そして仲間の騎士たちを守るため、ルベル様は最後まで前線に残ったのだという。
その結果、かろうじて命だけを繋ぎ、王都へ戻ってきた。
けれど。
医師の表情を見れば、分かってしまう。
残された時間は、長くない。
それでも私は、考えないようにしていた。
「何をおっしゃいます。国のため、民のために、その身を省みずに前線で剣を振るい続けた貴方こそ、真の騎士だと思いますわ」
「そう言ってもらえると嬉しいな。もう剣を振るうことはできなくなったが……」
肘から先を失った右腕を持ち上げ、自嘲するルベル様に、私は一瞬だけ唇を噛んだ。
ヴィオーラなら、あるいは。
奇跡の力を持つ彼女なら、この傷も、この毒も、どうにかできるのかもしれない。
けれど――。
今のヴィオーラは、王都から遠く離れた場所にいる。
そして、ルベル様の身体は、彼女を待っていられるほど穏やかな状態ではない。
だから私は、その言葉を口にしなかった。
「……私は、貴方にお伝えしたいことがございます」
「なんだい?」
「婚約を破棄したことですわ」
ルベル様が、少しだけ目を伏せた。
「……ああ」
「本当に、ひどい人ですわ」
「すまない」
「私に何も言わずに、勝手に決めてしまうなんて」
「……貴女を待たせたくなかったんだ」
その言葉に、胸が痛んだ。
「いつ帰れるか分からなかったから……でしょう?」
「ああ」
「それでも、私が待つかどうかくらい、聞いてくださってもよかったではありませんか」
「……そうだね」
「お父様なんか、膝を突き合わせて、小一時間説教すると言ってましたわよ」
「それは困ったなぁ……」
ルベル様は、申し訳なさそうに笑った。
「すまなかった、エムロード」
「……もう、よろしいですわ」
私は、彼の頬にそっと触れた。
「だって、帰ってきてくださいましたもの……」
その頬を、震える指先でゆっくりと撫でる。
「だから……。これからも、私の婚約者でいてくださいませ」
ルベル様は目を見開き、それから優しく微笑んだ。
「ああ。喜んで」
その笑顔を見て、私は泣きそうになる。
それでも、泣かなかった。
「……うっ」
突然、ルベル様が身体を折る。
「ごほっ……げほっ……!」
「ルベル様っ!」
次の瞬間、唇から赤い血が吐き出された。
私は慌てて身体を支える。
「……ああ、大丈夫だよ」
「大丈夫なわけがありませんわ……!」
私は立ち上がり、扉へ向かって声を上げた。
「誰か、先生を呼んでくださいませ!」
すぐに侍女が走り出していく。
けれど、私は知っていた。
医師を呼んだからといって、何かが変わるわけではない。
それでも、何もせずにはいられなかった。
「エムロード」
呼ばれて、私はルベル様のもとへ戻る。
「私の愛しいエムロード。私は最後まで、貴女の騎士であり続けたかった」
「何をおっしゃいます」
私は震える手で、彼の頬に触れた。
「これまでも、これからも、貴方は私の騎士様ですわ」
ルベル様が、かすかに笑う。
「……これからも、か」
「ええ」
私は頷いた。
「ずっとですわ」
それ以上、私は何も言わなかった。
口にすれば、きっと私は彼を待たせてしまう。
だから、もう言わない。
ただ――。
最後の瞬間まで、愛する人のそばにいる。
それだけでよかった。
「……エムロード」
「はい」
「今度、また……貴女とお茶を飲みたいな」
「もちろんですわ」
答えるのに、一瞬だけ時間がかかった。
「貴方の好きな紅茶を用意いたします」
「ああ……楽しみだ」
ルベル様はそう言って、目を閉じた。
「ルベル様?」
返事はない。
「……ルベル様?」
頬に触れた指先に、少しずつ温もりが失われていく。
「嫌ですわ……」
私は、その頬から手を離せなかった。
「まだ、お茶を飲んでおりませんもの……」
返事はない。
「約束したではありませんか……」
それでも、返事はなかった。
私はただ、冷たくなっていく彼の頬に触れ続けた。
ヴィオーラが戻ってくるのを待つためではない。
奇跡を願うためでもない。
ただ――。
最後の瞬間まで、愛する人のそばにいるために。
「聖女様の避難先の街が、魔物に飲まれただと……」
ルベル様をご家族の下へ送り出した後、私は一人屋敷に戻り、そこでヴィオーラについて最悪の知らせを聞くこととなった。
「どういうこと? ヴィオーラはランティスに、辺境から離れた街にいるはずじゃなかったの?」
「それが、あまりに平穏だったために、聖女宮の神官たちが目的地を辺境に近いベリーサに変更を……」
「なんてことを……」
私はその場で崩れ落ちた。
ベリーサはルーチェと並ぶ辺境の街だ。
その規模はルーチェよりも大きいとはいえ、王国史上最大規模と言われる大海嘯を前にして、安全であるはずがない。
「聖女様の安否は不明とのことだ……」
お父様の絞り出すような悲痛な声が、耳に届く。
目の前が真っ暗になる。
馬車の窓から身を乗り出して手を振るヴィオーラの笑顔が、脳裏に浮かぶ。
私の意識はそこで……途絶えた。
「聖女様のご遺体が見つかった……」
お父様の声が、ひどく遠くに聞こえた。
その知らせを、私はベッドの上で聞いた。
あの日から。
ルベル様を看取り、ヴィオーラの安否が分からないと知らされてから十日後。
私はベッドの上から動けずにいた。
「……聖女様に。……ヴィオーラに会うことはできますか?」
「気持ちは分かるが……」
お父様は、苦しそうに目を伏せる。
「ごく一部しか見つかっていないのだよ、エムロード……。それも、聖女様だと確認できる程度でしか――」
「構いません」
「エムロード……」
「ヴィオーラに会わせて、お父様」
声は、不思議なくらい静かだった。
泣くことも、取り乱すこともなかった。
ただ、会いたかった。
たとえ、どんな姿になっていたとしても。
最後に一度だけ、ヴィオーラに会いたかった。
お父様の手を借り、その部屋に入ると、ヴィオーラは、小さな、とても小さな白木の箱に入っていた。
棺と呼ぶには、あまりにも小さい。
そこに収められているものが、あのヴィオーラだなんて。
私には、どうしても信じられなかった。
「……ヴィオーラ」
名前を呼ぶ。
返事はない。
けれど、私は気にしなかった。
きっと眠っているだけ。
きっと、少し疲れているだけ。
いつものように目を覚まして、笑ってくれる。
そう思いたかった。
「月の終わりのお茶会に間に合ったわね、ヴィオーラ」
私は、できるだけいつも通りの声で話しかけた。
「今回は貴女の好きな焼き菓子を用意するつもりよ。ノワールも腕を振るうって言っていたわ」
返事はない。
「きっと楽しい茶会になるわ。私も話したいことがいっぱいあるのよ」
話したいことなら、いくらでもあった。
最近あったこと。
ノワールのこと。
くだらない出来事。
ヴィオーラが笑ってくれそうな話。
これから一緒にしたかったこと。
「ねえ……ヴィオーラ」
そっと白木の箱に触れる。
「起きてよ」
冷たい。
その冷たさに、指先が震えた。
「返事をしてよ……」
静寂だけが返ってくる。
「いつもみたいに……『エムロード』って、呼んでよ……」
もう、笑えなかった。
視界が滲む。
「約束したでしょう……?」
涙が一滴、白木の箱へ落ちた。
「これからも、ずっと一緒だって……」
返事はない。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
その瞬間、ようやく分かった。
本当に、もういないのだ。
ヴィオーラは、もう笑わない。
私の名前を呼ばない。
くだらない話を聞いてくれない。
――二度と、返事をしてくれない。
「……嫌」
小さく呟く。
「嫌よ……そんなの……」
白木の箱を抱きしめる。
あまりにも軽かった。
その軽さが、何よりも残酷だった。
「ルベル様も……」
名前を口にした途端、堪えていたものが崩れた。
「ルベル様も、ヴィオーラも……どうして……」
大切な人が、二人ともいなくなった。
私の大切な人が。
私の愛する人が。
「こんなの……望んでない……!」
白木の箱を抱きしめる腕に、力が入る。
「こんな結末、望んでない!」
声が震える。
「私は……こんな話、知らない……!」
自分で作った物語のはずだった。
知っているはずの世界だった。
だから、こんな未来になるはずがない。
「こんな設定、してない……!」
涙が止まらない。
「こんな未来……私は知らないっ!!!」
「ヴィオーラ!今日この瞬間をもって、お前との婚約は終わりだ!!」
私、エムロード・カーマインは、その瞬間をまた特等席で見ていた。
そう、婚約破棄を宣言した張本人――シャルトルーズ侯爵家嫡男、モルドレ様の真横で。
なぜそんな場所にいるのかって?
……私にも分からない。
本当に分からない。
誰か説明してほしい。
どうして私はここにいるの?
「わたくしには全く身に覚えがありませんけれど。どのようなことをされたのでしょう?」
ヴィオーラが、静かに尋ねる。
その姿を見た瞬間、胸が詰まった。
出会った頃のヴィオーラだ。
まだ何も知らない。
まだ、私たちの未来を知らない。
どうやって戻ってきたのか。
なぜこの日なのか。
そんなことはどうだっていい。
分かっているのは、やり直せるということ。
――なら。
今度こそ。
この未来を変えてみせる。
ルベル様も、ヴィオーラも。
誰一人、失わせない。
ガバガバな設定だって、乗り越えて、修正してやる。
できれば次こそは――なんて、もう言わない。
次は絶対。
絶対に、幸せな結末を迎えてやる。
彼女たち二人の物語は、これにて閉幕となります。
拙い作品ではありましたが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回作は未定ですが、また近いうちにお目にかかれればと思っています。
その時にはまた、お付き合いのほど、よろしくお願いします。




