日常
間違いだらけなのは分かっているつもりだ。しかし、これ以上の思考は意味を成さない。今以上を求めるならば、もっと勉強しとくべきであったであろう。相応の努力に相応の結果。何もおかしいことはない。一番後ろの席のやつが解答用紙を集めにきた。解答用紙を裏向きにして、そいつに渡す。これで、今回のテストの結果は何をしても変わらない。あとは採点ミスを願うぐらいか。
夜を徹してテスト勉強をしていたため、眠気が一気に襲ってきた。意識がはっきりしない中、挨拶もほどほどに教室から立ち去り、帰路についた。テストは午前中しかないので、今は昼前。さらに今日は平日だ。周りを歩くのは、ほとんどがうちの学生だと言って間違いないだろう。テストが終わった開放感ゆえか、過ぎ行く人も過ぎ去った人もどこか浮ついた表情をしている。自分も同じような表情をしているのだろうか。どこか他人事を考えるように、思考をかき混ぜていく。天気は良いため、すこし暑い。春が過ぎて夏が近づいてる事を実感する。
とぼとぼと力なく歩いていく。歩くにつれて人気がなくなっていく。帰り道は人それぞれで、それぞれの帰るべき家がある。いつものように学校に行って、いつものように家へと帰る。普段と変わらない日常。今日がすこし違うのは、テストがあったから。テストがなかったとしても、あまり変わらないのは確かだろう。いつまで、自分には帰るべき場所があるだろうか。日常は壊れない。過ごす日々が日常となるからだ。たとえ、帰る場所をなくしても日常は平然と営まれる。そこに個人の意識は介在しない。日常は壊れない。けれど、積み重なることがあれば崩れていくこともあるだろうと思う。今の日常をいつまで維持し続けられるだろうか。
帰り道にいつも通り過ぎる公園がある。普段からそこに公園があることすら、あまり意識していない。だから、公園の中に子犬がいるのを発見したのは偶然だった。首輪のない子犬は公園の端の方にうずくまっていた。ゆっくりと近づくと子犬はこちらを警戒し始めた。逃げない程度に近づいて、足を止める。これ以上前に進めない。
じっと見つめる。この子犬へ近づくべきか否か。手を差し伸べるのか否か。今の姿を見るとこの子犬に帰るべき家がないのは間違いないと思う。自分はこの子犬の日常に入り込むべきか否か。分からない。考えても答えが出ない。テストなら勉強すれば解答が分かる。ただ、勉強したからといって現状の答えは出ない。当たり前の事を恨めしく思う。勉強は自分の糧となる。しかし、それは自分の思考ではなくて、知識が増えるだけだ。自分がこの子犬をどうすればいいかは知識ではなくて、自分で考えて決めることだ。
長い思考時間を終えて、一歩を踏み出す事にする。この一歩で向こうが逃げたならば、自分とこの子犬の日常が交わらなかったというだけ。意を決して足を動かしたそのとき、子犬は回れ右をして走り去ってしまった。しばし呆然と立ち尽くす。結果は認めても感情は認めてくれないらしい。手を差し出す以前の問題だったということだ。
帰り道、今日の問題の解答を考える。昼の太陽はいつもと変わらずに輝いていた。