第9話 渡良瀬の〇手
うーん。
やっぱり謝ったほうがいいか?
朝方、昨日の出来事を思い出しそう思い至る。
冷静に考えたらあいつけっこう今、辛い時期なんだよな……。そこに俺の介入する余地は確かに無かったのだが、だからと言ってあいつが傷ついていないという道理はないわけで。なんなら深く傷ついていたからこそ俺に対して悲しみを共有させないという最大限の嫌がらせをして心の均衡を守っていた可能性だってあるんじゃないだろうか。
とは言え、それそれでいい迷惑という話ではあってだな……。十年以上散々な言葉を甘んじて受け入れ続けたのにその上、今回の件でも俺を頼ろうというのはあまりにも虫のいい話。頼るにしてもせめて頼り方くらいはこちらに指定させろと言いたくはある。
言いたくはあるのだが……やっぱり親同然の人でしかもちゃんと血も分けている人の死っていうのはかなり精神にくるだろう。こちらが譲歩すべきだった事とも言えるわけで……。
いやでもそうだよな、あいつの言動の良しあしはさておいても、分からせるにしても今じゃなかったのは間違いないよな。
よし、謝ろう。でもってそれをあいつの大義にすれば理不尽な俺への扱いは筋の通った扱いとなる。筋の通った扱いであればこちらも納得がいく。これぞ両者ウィンウィン。我ながら完璧な策だ。
そうと決まれば善は急げ。また早く出てあの場所で待つことにしよう。
ちゃっちゃと身支度を済ませ、家を出る。
歩く事数分、例のカーブミラーを視界の先に捉えた時に違和感に気づく。いつもは当然誰もいないはずのそこに、渡良瀬の姿があったのだ。
誰か待っている……のか? と言ってもあんなところであいつが待つような奴いたっけな。
「っ!」
考えを巡らせていると、一瞬渡良瀬の目がこちらの方を捉えたように見えるが、すぐに俯いてしまったため分からなくなった。
この感じ、まさか俺の事を待っていた……? いやでも流石に違うよな……俺一時間くらい早く出たんだぞ。
「どういう事だ……?」
そうこうしている間にも歩くのは止めていないため、渡良瀬との距離はどんどん縮まっていく。
とりあえずなんでここにいるのか聞くか? いやでもそれで本当に別の目的があったらそれはそれでなんか煽り散らされそうな気も……いやいや、いいんだ。それで。むしろそうであってくれた方がいい。ただそれよりも謝る方が先だったな。謝る、聞く、煽られる、これでいつも通り。きっとそうに違いない。
「ふう……」
歩いている間になんとか思考を整理し、遂に渡良瀬の傍に辿り着いた。
「山添……」
ぽつりと渡良瀬は呟くが相変わらず俯き加減で、こちらからその表情を読み取ることはできない。だが既に俺のやる事は決まっている。
あとは一思いに謝るだけだ。
「昨日は――」
「ご、ごめんなさい……」
突如、俺の言葉が弱々しい謝罪の声に遮られた。
この場所にいるのは渡良瀬と俺だけ、つまり俺の発していない声は必然的に渡良瀬の声となる。
「わ、私、その……ずっと、あれで、全然その、思ってなくて……」
かなり気負っているらしい。お世辞にも言葉は整理されているとは言えないが、それでも何かを強く訴えようとしている気配がある。
「昨日は、びっくりしちゃって、帰っちゃって……あ、感じ、悪かったよね?」
なおも言葉を紡ぎ続ける渡良瀬は大よそ俺の知る渡良瀬とはほど遠い。いつもの傲慢な態度を考えるとあまりにも殊勝だ。
昨日……って言ったらやっぱり分からせた時の事だよな。
「ほ、本当は、ここで待ってくれてたのも嬉しくて、だから、そのいつも通りになろうって思って」
その声音は震え気味で覚束ない。
俺が待ってた時って言ったらそれはおばちゃんの……え、今嬉しくてって言った? その上でいつも通りに振舞おうとした結果ああなったと、そう言ってるのか?
「でも、いけない事だったんだよね? 私にとってのいつもは山添にとってうざい事だったんだよね? ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……!」
強く言い放つと、渡良瀬は自らの制服のスカートの裾を強く握りしめる。
渡良瀬にとってのいつもが俺にとってうざい事だったと渡良瀬が言っただと?
それはつまり、なんだ……? ま、まさか、本当にあれで分からせてしまったというのか⁉
「これからはもっとちゃんと、するから……だからその、私の事、嫌いにならないで……? 見捨てないで……っ」
渡良瀬が顔を上げ、こちらに半歩踏み出してくる。
その瞳は今にも落ちてしまいそうな揺らめきを帯び、縋るような眼差しはいつもの憎たらしさなど微塵も感じさせない。その姿はさながら雨に打ち震える小動物のようも見える。
おーいおいおい、どうなってるんだこれは。こいつは本当に渡良瀬なのか? 顔を合わせれば雑魚だの弱いだのキモイだのダサいだの何かしらの暴言を確実に吐いてくる女だったんだぞ。それが今はなんだ。顔を合わせるやいなや全面的に自らの非を認める発言をするばかりか下から懇願してきている?
なんというか、それは……笑えるな。
ああ、笑止!
笑止千万! あまりに見え透いた策よ。分かっているぞ、どうせこれは俺をその気にさせて思い切り後で馬鹿にしてやろうという魂胆なんだろうさ。こいつの事だ、俺が昨日やった事の盛大な当てつけを画策しているに違いない! だって渡良瀬だもん、ありえないんだよこれは。
まぁね? 謝ろうとは思っている。思ってるさ。けど? どの道そういうメンタルって事は? そこまで昨日の俺の言葉は効いてないわけで? それはつまり謝る必要ないって事にもなるし。うん。
だからとりあえずその化けの皮は剥いでくれる! これでもし今が渡良瀬の本心から出る言葉なのだと判明したら謝るのはそれから考えればいいしな!
「渡良瀬、一ついいか」
「……?」
俺の言葉に、渡良瀬は不安げに瞳を揺らしながら小首を傾げる。
その姿は親からはぐれ迷子になった時に知らない人から声をかけられた瞬間の子供のような心もとない雰囲気があるが、俺は騙されない。
今こそ本性を現せッ!
「お手」
ニヤリと手のひらを渡良瀬の目の前で上に向ける。
さぁお前のような性悪女が素直にこの言葉を受け取るはずがッッ!
「おて」
俺の手にきめ細やかな肌の感触が重なると、じんわりと温もりが伝わってくる。
「……」
お、お手したァ! しかもノータイムでお手したァ! おてって言っておてしたァ!
だ、だがきっといい歳してメスガキしてた奴だ、きっとこの触れ合った瞬間の俺の動揺を嘲るための作戦かもしれない。
ならばこちらだって考えがある!
「できて偉いぞ~渡良瀬~よしよし」
俺は触れていない方の手で渡良瀬の頭に手を乗せる。
勘違い男子がやっちゃって世の一般女性をドンドン引きさせてきた究極奥義頭なでなでッ!
これは流石に……。
「えへへ……褒められた」
素直――⁉
う、嘘だろ……? しかも今回はアレンジしてお前は俺の愛玩動物だというメッセージを含ませたような言い方にまでしたんだぞ。それを見下していた相手にされた時にはもう怒り心頭奈良の大仏様もひっくり返って生駒山大噴火待った無しだ! あそこに見えるそびえ立つ県境の山がッ! 今爆発するはずだったんだよッ! なのに! 何故なにごともなく緑が生い茂っているというのだ!
「山添の手、けっこう大きいね」
なおも俺に頭を委ねる渡良瀬だったが、嬉しそう頬を染めながらそんな事を言いだす。
……よく分かったよ。原因は不明だが、少なくとも今こいつはたぶん本心から俺に謝ってきていた。俺の言葉がよほど効いたのか、それとも他に理由があるのか。
分からないが……これ、もうこのままでよくね?
さっきの言い方とか今の反応的に渡良瀬、俺の事悪いとは思って無さそうだし。
なら謝る必要だって、うん、無いよね。
むしろ変にこちらの引け目を見せたらまたあの性悪女に戻っちゃうかもだしぃ。何事も様子見っていうのはやっぱり大事と言いますかぁ。うん、大事。絶対大事。間違いない。
「……えーっと、じゃあとりえあず、どうする? このまま一緒に学校行くか? ちょっと早いけど」
思い切って尋ねてみる。完全に今の渡良瀬の状態を信じ切った言葉ではあるが果たして。
「え、一緒に行ってもいいの……?」
「うん。別に。渡良瀬が嫌じゃないなら」
「嫌じゃない! 行く!」
「ほーん、そっか。じゃあ、行くか」
言うと、渡良瀬が嬉しそうに顔を綻ばせた。なんていうか、邪気の無い笑みだと可愛い気がするな……。いや、元々面はいい奴だから、そりゃ当然か。
「そういや手、どうする?」
未だお手したまま重なり合っていたので聞くと、渡良瀬は頬を朱に染めもじもじしながら上目がちにこちらを見る。
「このまま繋いでもいい……?」
「……ほーん。分かった。いいよ。別に。でも学校の奴に見つかると流石に恥ずかしいから、電車までな」
「うん! やったっ」
渡良瀬が無邪気に喜んでいる。
そういう反応するんだ。ほーん、そっか。
でもま、これでとりあえず一件は落着でいいか。
ここまで色々あったが長かったような短かったような……ただ、これも全部月ヶ瀬のおかげなんだよな。月ヶ瀬の提案がなかったらたぶん俺は渡良瀬とほぼ縁を切ってただろうから、こういう事にならなかったわけだし。
あ、そういえば予想外の事起きたらまたって言ってたな。
もしかして月ヶ瀬、こうなる事を予見していたのか……? だとすれば食い気味に分からせようと言ってきたのも納得。あの子優しいからきっと放っておけなかったんだな。
なら、ここはお礼も兼ねてちゃんと報告しなきゃな!
なんか月ヶ瀬のおかげで渡良瀬と仲良くなれたかもしれないって。




